『江戸の日本刀-新刀・新々刀の歴史的背景』の内容紹介


小笠原信夫先生から「一緒に江戸新刀・新々刀に関して本を出そう」とのご提案を受けて、資料集めを2010年から行いました。まとめた資料はA4で厚さ10センチほどにもなりました。
途中、先生が3冊上梓され、「新々刀を中心に伊藤さん一人で書けば」とのお勧めで、ここ1年4ヶ月ほど、執筆にとりかかりました。初稿を脱稿した後に、読み直すと不備が多く、大幅に加筆して1.5倍近くになったので新たに稿を組み直してもらい、その後、五校の校閲を重ねて、やっと出版に至りました。

新々刀を中心にまとめましたが、新々刀期は江戸時代の一部であり、その理解の為にも江戸新刀についても1章から8章にかけて論述しております。
従来に無い資料を発掘し、新説も散りばめております。従来の刀剣書では簡単に触れていた歴史的背景を歴史書から日本刀を軸にまとめております。
私の本のはじめての読者となった編集者は日本刀に知識が無い人ですが、「面白い。時代小説を書く人にも非常に参考になるのでは。」との感想もいただいております。
374頁(本文336頁)の大部な専門書ですが、章を細かく分けておりますので、ご興味がある章から読んでいただいても良いかと考えます。
ここでは章ごとに簡単に内容を紹介していきます。

出版社における本の紹介ページです。なお2017/2/8の朝日新聞朝刊一面下に広告、3/3の毎日新聞朝刊一面下に出版社の広告が掲載されました。アマゾンの書評欄で「そぼろ助廣」を名乗る方から的確な書評をいただき、感謝しております。4/19の「ALGOSJ」氏は私の高校時代の同期で、刀剣の趣味は無い男だが、購入し、頼みもしないのに書評を書いてくれてありがたい。4/27には「刀變墨」氏から過褒と思える書評をいただき、厚くお礼申し上げたい。また全国刀剣商業協同組合の新聞「刀剣界」の2017年5月号に、拙著を冥賀吉也氏が「”目から鱗が落ちる”研究書」として紹介していただいており、大変感謝しております。

刀剣柴田発行の「麗」の平成29年5月号・通巻617号と7月号・通巻619号に「『江戸の日本刀』を書いて-新刀・新々刀の歴史的背景」を書き、執筆の経緯や、一部の内容紹介、それに書き終えた後に感じている日本刀に関連する日本文化にも筆を走らせました。
前編は「1.出版の経緯」「2.執筆の流れの一例-大慶直胤を取り巻く歴史的背景-」「3.江戸時代における刀の位置づけ」「4.新たな歴史研究の成果-剣術は百姓・町人も学んで強い者もいた-」の章立てです。
7月号の後編には「5.武人が政治を司った国だからこそ生まれた日本刀」「6.「武」の価値観がもたらした人間行動と日本文化」「7.江戸時代後期における身分制の崩壊」「8.欧州の歴史との近似性」です。
章の名称
小笠原信夫先生推薦文 伊藤三平氏の著作を祝う
はじめに
1章 江戸時代における刀剣の位置づけ
2章 江戸時代の武士にとっての刀剣使用
3章 刀鍛冶は城下町に-刀剣の製産地-
4章 剣術諸流派の勃興と停滞-江戸時代前期~中期の剣術の流れ
5章 辻斬り横行の時代
6章 試刀家の出現
7章 江戸時代の人口推移
8章 江戸への刀鍛冶の流入
9章 寛文新刀の出現
10章 幕府・藩の財政状態と武士の困窮
11章 元禄から享保の刀剣界の衰退
12章 享保の改革と「享保鍛冶改め」、「享保名物帳」
13章 享保以降の治安の悪化
14章 寛政の改革と刀剣
15章 水心子正秀と新々刀-復古刀の提唱-
16章 花開く水心子正秀の弟子たち
17章 水心子正秀は江戸の産業ルネサンスを担った一人
18章 江戸の啓蒙主義・サロン文化-刀剣ジャーナリズムを生んだ背景-
19章 刀剣ジャーナリズムの拡大
20章 正秀弟子の巨星・大慶直胤-旅の時代を生きる-
21章 天保の改革と剣術の流行
22章 庶民への剣術の広がり
<参考> 江戸時代の剣術の歴史と砲術の歴史の相似性
23章 「身上がり願望」-武士身分への登用、刀工の受領、御抱え鍛冶-
24章 切れ味重視の動き-試刀家・山田浅右衛門と固山宗次-
25章 荒試し-松代藩・山浦真雄、水戸藩・勝村徳勝、松江藩・高橋長信-
26章 源清麿における切れ味追求-幕臣・窪田清音と兄・山浦真雄の影響-
27章 いつの時代にも大切な芸術の支援者-清麿の場合-
28章 武器講
29章 江戸時代の貨幣・収入単位と物価水準、新々刀の価格
30章 刀が実戦に使われた時代-万延・文久のテロリズム-
31章 幕末の動乱、戊辰戦争と刀鍛冶
32章 廃刀令後の刀鍛冶の転身
33章 帝室技芸員制度と日清戦争後の軍刀需要-近代刀期へ-
あとがき
<参考> 日本刀の用語解説
  おもな参考文献


第1章 江戸時代における刀剣の位置づけ

日本刀は、戦国時代から集団戦の武器ではなくなる。毛利家の軍忠状で、鉄砲伝来前の備後滝山城を攻撃した時では、矢傷61%、槍傷19%、礫(石)傷17%で刀剣傷3%である。要は日本刀は集団戦の武器ではなく、個人戦の武器。(戦国時代の合戦ドラマで刀を抜いて突撃や斬り合いをしてますがウソです)

その個人戦の武器である日本刀が実用に供されたのは第30章に記した万延から文久のわずか4年間のテロ(暴力で自分達の政治的主張を実現しようとすること)の時代。新撰組も、テロへの対抗として、この4年間が日本刀が武器として使われた時代。

江戸時代の刀剣の位置づけは、①武器(個人戦)、②身分上の容儀(大小2本指せたのは武士階級だけ)、③日本人として刀剣愛好(外国人から見た日本人の特性)、④贈答需要、⑤趣味として刀剣愛好である。

第2章 江戸時代の武士にとっての刀剣使用

刀剣の使用は、古来からの武士の慣用法(ex喧嘩両成敗、仇討ち)があるが、江戸時代になると公法との関係で制限されてきて、抜いて自身の行動の妥当性が第三者にも証明されないと、切腹や改易などにつながり、抜かないで済ます方法(見て見ぬふり)が意識される。

鉄砲の使用は、それ以上に厳しく制限される。(鉄砲は害獣駆除で農村にも多く存在した)

第3章 刀鍛冶は城下町に-刀剣の製産地-


城下町が整備され、そこにおいて国役御用(藩の御用での製産)を務めるべく、鍛冶町などができる。だから各藩に刀鍛冶は抱えられる。慶長新刀の名工が各藩抱え鍛冶の始祖となる。江戸でも武具製造者が集められる。
江戸のような大都市では幕府御用でなくとも民需で成り立つようになり、市中に散在するようになる。

第4章 剣術諸流派の勃興と停滞-江戸時代前期~中期の剣術の流れ

江戸時代の初期は剣術が盛んになる。家光将軍は自ら剣術を好む。尾張藩初二代藩主、肥後三代藩主、肥前鹿島藩主なども好む。
初期の剣術の特徴は①介者剣法から素肌剣法、②戦闘術の剣術に礼の概念も入る、③柳生宗矩は禅の思想も取り入れる。

五代綱吉将軍は武家諸法度を文治主義に変える。他流試合を禁じる。そこに服忌令で血への穢れ意識が生まれる。この結果、江戸時代中期にかけて剣術は①流祖の神格化、技・術の剣術用語の難解化、②儀式や形式にこだわり、秘密主義や神秘主義となる、③流祖の技を守るだけの伝統芸能化する、④文字通り「型通り」の対応しかできず、剣の腕は上達しない。

正徳年間に直心影流の長沼国徳が防具の素材を改良して竹刀稽古をはじめる。八代吉宗は武芸を奨励するが、その時だけとなる。宝暦に中西派一刀流が現代の胴につながる胸当てを発明して竹刀稽古が広まる。(注)本文では和年号には西暦を併記している。

寛政の改革の松平定信も武道を奨励。各藩で藩校も広まり、武術稽古も行われる。

そして決定的に大事なのは、天保七年に水野忠邦が「他流試合の解禁」をしたことである。「21章 天保の改革と剣術の流行」、「22章 庶民への剣術の広がり」に続く。

第5章 辻斬り横行の時代

江戸時代前半は辻斬りがたびたび流行する。1期は慶長期で、2期は寛永初年頃、3期は慶安・承応の頃である。かぶき者の風潮とも密接に関連している。かぶき者は五代綱吉が検挙をすすめ、一掃していく。

この間、幕府は大刀の所持、その長さの制限、脇差の長さの制限、町人所持の禁止などの法令を出していく。

第6章 試刀家の出現

辻斬りの目的の一つが刀の利鈍の確認とも思われる。この為に山野加右衛門などの専門の試刀家が出現し、その切断結果を切断銘として刀の茎に象嵌するようになる。江戸新刀の和泉守兼重、上総介兼重、大和守安定、虎徹、法城寺正弘、千手院盛国などに切断銘は多い。

切断銘がほとんどみないのは江戸石堂派だが、この派は柳生流と関係が深い。

第7章 江戸時代の人口推移

本文では年代別に記しているが、簡単に言うと、大坂は宝暦から天明までは40万人台、京都は正徳5年に35万人余。江戸は宝暦以降は約110万人。町方人口が約54万人、武家は約52万人、それに無宿者4万人。
全国の人口は慶長年間は1600万人程度、享保では約3000万人~3200万人。

第8章 江戸への刀鍛冶の流入

江戸が発展するにつれて、刀鍛冶が集まってくる。和泉守兼重(後継者が上総介兼重)、大和守安定、長曽祢虎徹興里、千手院盛国、法城寺正弘、貞国、日置光平、常光、石堂是一の出身地に関するこれまでの説を簡単にまとめるに留めている。

第9章 寛文新刀の出現

寛文新刀という輝かしい時代を到来させた要因を整理している。私がこれまで唱えた明暦の大火要因説に補強できるデータを提示し、他に次のような要因を整理した。

  1. 介者剣法(鎧武者相手)から素肌剣法への転換の過程で、刀剣の造り込みに変化が必要になり、対応した。(突き技の為に反りを少なく)
  2. 辻斬りや試刀家の章で記したように刀の切れ味に関心が高まり、切断銘で証明済みの刀への関心が高まる。
  3. 人口も増え、幕府、各藩の藩政運営の為に、人材の入れ替え・補充も必要になる。町人も経済力がつき、脇差への需要も高まる。(町人の礼装は脇差を差すことだった)
  4. 幕府は辻斬り、かぶき者を取り締まる中で、刀の寸尺の制限を強めていく。脇差は一尺八寸と制限されると、これまでの刀剣では、応永備前は一尺三寸程度の平造り、末備前は二尺前後、慶長新刀は一尺四、五寸が多いなど、理想(脇差でも長い方が有利)のものがない。この脇差需要は大きいと考える。
  5. 明暦の大火での刀剣の被災。江戸城も西の丸を除いて焼失、江戸の大名屋敷も75%が焼失、旗本屋敷も焼ける。武士は郎党の武器も用意しておかなくてはならないから、新作刀への需要は大きい。そしてこの頃は幕府、各藩、各武士にも経済的余裕があり、刀剣新調にも十分に金を使えた。(新たに堺の鉄砲注文数の年別データを提示。明暦3年は群を抜いて多い)

第10章 幕府・藩の財政状態と武士の困窮

大名・旗本の困窮は寛文期以降にはじまり、幕府が拝借金を与え始めている。世界に影響を与えた石見銀山の採掘量も四代家綱の頃には減っていく。そして五代綱吉の時代に、幕府の経常収支は赤字になる。綱吉の寺院建立、館林時代の藩士の幕臣団への登用などが原因である。ここで貨幣の改鋳を行う。宝永4年には富士山が噴火し、全国に諸国高役金を掛け、その一部は幕府の財政補填に転用された。六代、八代将軍も養子が続き、家臣団を幕臣に登用している。享保時代に赤字となる。そこで上米の制がとられる。

各藩の財政は、参勤交代の費用と江戸藩邸の費用が大きく赤字になっていく。各藩は①倹約、②知行・俸禄の整理削減、③農政の刷新と小物成の収奪強化で立て直す。
藩士は半知(知行半分)、借知(藩が借り上げるが実質は削減)で苦しくなる。

第11章 元禄から享保の刀剣界の衰退

虎徹の後継者興正は元禄五年まで年紀作が見られ、助広の後継者助直は元禄六年に没する。この後、大坂のめぼしい刀鍛冶は小林国輝と一竿子忠綱である。忠綱は華やかな刀身彫の方が名高い。
刀剣界が衰退した理由を改めて整理すると次のとおり。

  1. 五代将軍の武家諸法度から、文言が文治主義にかわる。
  2. 天和2年に綱吉が他流試合を禁止し、剣道が衰退していく。
  3. 貞享元年に服忌令が出て、血への穢れ意識が生まれる。
  4. 刀は武士身分の象徴で使用は許されているが、刀を抜いて斬る事態に至ると、その理由の妥当性を証明できないと本人は切腹、浪人になり、自家断絶する可能性が高く、自制が強くなる。
  5. 諸藩では藩財政が厳しくなり、武士も俸禄米の削減で、不要の刀剣の購入を控えるようになる。

この刀工の冬の時代では、大藩(30万石以上)で慶長期の初代以下襲名してきた鍛冶の後代が存続しているだけとなる。
刃文において「菊水」、「吉野」、「富士見西行」などの装飾的刃文が生まれる。

第12章 享保の改革と「享保鍛冶改め」、「享保名物帳」

八代吉宗は身の丈六尺で抜きんでた体格。武芸全般を好み、殿様芸ではなかった。享保の改革とは財政再建が眼目。その為に倹約令、上米の制、足高の制(役人の任期中に役職にふさわしい禄を支給。言い換えれば役を降りたら元に戻す倹約策)、そして増収策は新田開発、それから年貢増微策。この結果、幕府の年貢高は享保七年の140万石が、享保14年に160万石、延享元年には180万石となる。これはイコール農民にとっての酷税。

吉宗は養子だけに先例を大事にした。古いもの、伝統に関心が高く、諸家の名刀を実見。古来の武器、書籍の捜査も行う。新しいものに冷淡だが、オランダの実用の学には興味を持つ。
また養子のせいか、調査好みの政権で、実態をきちんと調査して政策をというスタンス。目安箱、御庭番の設置と、有名な全国人口調査や各地の産物調査を行う。
この流れの一つが「享保鍛冶改め」。詳細は本文に譲りたい。個別の藩の対応として薩摩藩と加賀藩の実態を各書から紹介。
もう一つが「享保名物帳」の編纂。また継平に将軍家の蔵刀の絵図も画かせ「継平押形」という転写本が現存する。

第13章 享保以降の治安の悪化

享保の改革での年貢増微策と、江戸3大飢饉(享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉)の影響で、百姓一揆、村方騒動、都市騒擾などが多くなる。享保の大飢饉の時は幕府の救済策も出たが、以降は財政も厳しく、施政者側の対策が十分にはできなくなる。

この以前は代表越訴型一揆だったが、この頃から強訴もおきるようになる。天保の大飢饉の時は飢饉と物価高騰から「天保の大一揆」と言われるように各地で大きな一揆が頻発する。

関東でも養蚕が盛んになると、女性が働くかわりに男が遊び人となり博打が横行して、そこに用心棒の浪人と、治安が悪化。関東代官とでも言うべき伊奈家が寛政期に改易となり、関八州取締出役が設置される。以降、その増員と村にも協力させる意味で組合村の制度などが生まれてくる。(庶民剣術の時代につながる)

享保以降は外国船も増えてくる。この理由を年代別に本書では整理しているが、警備上の対抗策を幕府は行う。文政8年に異国船打払令を出すが、天保11年にアヘン戦争で清が負けたことが聞こえ、薪水給与令に改める。そして江戸湾警備を強化する。(注)本では和年号には西暦を併記してわかりやすく記載していいる。
砲術ではフェートン号事件後に西洋流砲術が意識され、個人の射撃術から集団での銃陣や、新兵器に関心が向く。天保13年に武州徳丸原で高島秋帆が演習する。

尊王攘夷思想は水戸藩で生まれる。光圀以来、国史編纂事業を行っており、歴史の研究=正統の追求になりやすく、尊皇が生まれる。また儒学思想における中華思想の中華が日本になり、外国が夷狄となる攘夷思想となる。
他方、歌学から国学が生まれ、平田篤胤が国学を元に復古神道を作り、それは日本精神の強調=排外思想になりやすかった。

第14章 寛政の改革と刀剣

この章では、(1)で「寛政の改革の前奏」として田沼意次の時代を書いている。田沼折紙と称せられるものが出た背景である。それから松平定信の白河藩時代に「信友」として付き合い、寛政の改革のお手本にした細川重賢のことを書いている。また細川藩と並ぶ藩政改革のお手本となる上杉鷹山の改革にも触れている。

(2)「寛政の改革と刀剣界」では寛政の改革に触れ、この改革も享保の改革と精神は同じであるが、それに天明の飢饉対策、田沼時代の見直しが含まれることを記す。武道の奨励も行い、刀鍛冶では手柄山正繁を抱え鍛冶にし、浜部寿格に幕府所蔵の刀剣鍛法の書を貸し出している。

定信も吉宗と同様に伝統を大事にし、古いものを大事にする復古主義を政策に採用する。『集古十種』は古書画や兵器などを描かせたものであり、甲冑にも復古調のものが作られた。これは水心子正秀の復古刀の考えにつながっている。

(3)では藩校の設立ブームを書いている。幕府の学問所では寛政異学の禁として朱子学以外を教えないようにしたが、林家の私塾の学問所を幕府直轄にし、他藩士、郷士、浪人などの聴講を許している。
幕府老中の松平定信が、「信友」の細川重賢が効果を上げた藩校制度を参考にしたから、各藩も藩校を充実させる。武芸は各藩において、他流との交流無しで教えられてきたが、藩校でも取り入れられるようになる。(ただし、自流のみで他流批判は厳禁)
そして藩によっては、成績優秀者の江戸遊学制度を作る。

町人の教育においても寛政頃から寺子屋が盛んとなり、19世紀になると「教育爆発」と呼ばれるような状況となる。幕末に来日した外国人は驚きを込めて庶民の教育水準の高さに触れている。これが、刀剣ジャーナリズムの隆盛につながる。

第15章 水心子正秀と新々刀-復古刀の提唱-

水心子正秀が出現したから、日本刀に新々刀という時代区分が生まれる。当初は鎌田魚妙が推奨する大坂新刀の名工の作風。これはこれで上手。時代の復古主義「昔のもの、祖法にも良いものがあり、それを大切にし、過去を踏まえ、現在・未来を考える」に立脚して作刀技術を古刀の時代に学び、折れず、曲がらす、よく切れるの刀剣を目指す。

略歴を記すが、寛政12年頃(51歳頃)に復古刀を完成させたと本人は述べている。時代を画する刀工になった理由は下記の通り。

  1. 初期作品(大坂新刀の名工写し)も、それなりに見事。加えて、その実績を捨てて、復古刀を探求する姿勢を保持。
  2. 職人気質ではなく、自分が会得した方法を秘匿せずに弟子にわかりやすく教え、公開し、書物にもして広めたので入門者が全国的になる。
  3. 弟子の育成も手腕を発揮し、大慶直胤、細川正義などの名工を生み、彼等がまた弟子をとり、門流はさらに広がる。
  4. 各地で伝統を守る鍛冶を訪れ、謙虚に教えを乞う姿勢で熱心な研究態度で尊敬を集める。
  5. 武家浪人、あるいは農民の出身だが、教育も受けており、彼の書簡を元に数冊の著者が編まれる。権門からの入門も不思議でない人格・識見を備えていた。
  6. 山形藩主の秋元永朝は他分野の名人も御抱えにするような藩主で、この人の影響力も大きいと思われる。

第16章 花開く水心子正秀の弟子たち

水心子正秀の弟子を黒江氏の著作を元に、国別に整理して表にまとめている。101人の弟子となる。やはり東北地方からの弟子が多い。

この中で大慶直胤、細川正義、それに加藤国秀の弟子について言及している。加藤国秀は本人の作品は少ないが、その子綱英、長運齋綱俊や孫の二代綱俊や運寿是一を輩出している。彼等の弟子に固山宗次や高橋長信などがおり、大事な分派である。

第17章 水心子正秀は江戸の産業ルネサンスを担った一人

異色の歴史家福本和夫氏は『日本ルネッサンス史論』を著して、西洋の中世に君臨した神学に対して、自由で人間らしい古代の復興がルネサンス(近年はこの表記)であるが、日本でも儒学=漢学=朱子学への批判として、復古儒学や古文辞学がおき、国学も生まれる。書でも御家流の青蓮院流に対して書道復古派(唐様)が起こり、御用医学の後世方に対して古方家が輩出してくると書く。この本には書かれていないが、彫物で後藤家の家彫に対して横谷宗珉の町彫が生まれるのも同じ動きである。

小島慶三氏の『江戸の産業ルネッサンス』は平和な江戸期が近代化の為の諸条件を醸成していたと書き、江戸のテクノロジーの分野の革新者を取り上げている。

「決まりごとの束縛から離れて自由に」「古いものの再発見」の動きの中に水心子正秀を位置づけている。古刀の製作技術を研究し、秘伝を公開した人物として、取り上げている。刀剣界として誇るべき人物なのである。

第18章 江戸の啓蒙主義・サロン文化-刀剣ジャーナリズムを生んだ背景-

ヨーロッパの啓蒙主義のような動きは日本でも生まれる。キリスト教の絶対的権威に反対し、科学的合理主義、自分の眼で見る経験主義を大事にする。日本でも、これまでの歌の名所を巡る紀行文学から、旅でものごとを正しく見るような日記が書かれる。貝原益軒、高山彦九郎、菅江真澄などがそのような日記を残している。
その高山彦九郎の日記に、水心子正秀との密な交流が書かれており、この本で紹介している。彦九郎は前野良沢の家なども訪れている。

啓蒙主義の母体となったのはフランスではサロン文化、イギリスではカフェ文化であり、こういう場所での交流の中で各人の思想を深めている。日本では江戸、大坂、京都で文人サロンのような集まりが生まれる。教育の普及が背景にある。大坂では漢詩を楽しむ詩社が生まれ、江戸では旗本・御家人が俳諧サロン、狂歌のサロン(○○連と称する)が流行する。そして蘭学のサロンも生まれ、ここでは蘭語の実力で番付が生まれる。サロンで学芸情報が集まると、その情報を整理するジャーナリズムが生まれる。

刀剣も身分の高い武士が水心子正秀の弟子になって自ら刀を打つようなことも出る。これは絵でも同様で身分の高い酒井抱一、佐竹曙山などが画筆を楽しんだ。

第19章 刀剣ジャーナリズムの拡大

藩校の充実、寺子屋教育の普及で識字率が高まる。世襲的な身分制度下で生活にも時間にも余裕がある階層は自分の興味の赴くままに知識を学ぶ。この人達は新しい知識の習得に貪欲で、時に自らが書き手となる。情報が多くなると、その整理の為に出版となる。番付なども多くの分野で生まれる。

刀剣の本は鎌倉時代の末からあり、江戸時代前期には『古今銘盡』など読まれる。享保になると新刀にも関心が高まり、神田白竜子の『新刃銘盡』、そして安永6年に鎌田魚妙が『新刀辨疑』。この影響力が強く、助広、真改の作風が目標になる。

以降も古刀、新刀に関する多くの本が出版されるようになる。山田浅右衛門の『古今鍛冶備考』、水心子正秀の著作なども生まれる。『刀剣性教録』に関与した篠山景徳は清麿の刀に注文銘を残している幕府高官である。清麿の支援者窪田清音も刀剣関係の本も5冊著している。

研ぎの本、刀装具の本も出版され、剣相の本も多く出されている。

「武家目利き四天王」なる言葉ができたのも刀剣ジャーナリズム隆盛を物語っている。

第20章 正秀弟子の巨星・大慶直胤-旅の時代を生きる-

大慶直胤は、正秀の一番弟子で技量も優れ、また人脈にも恵まれ、師匠思いでもある。

江戸時代の後半は旅の時代でもある。宝永の伊勢参り流行時には50日間に362万人が参拝する。当時の日本の人口は約3000万人であり、驚異的である。これをきっかけに庶民が旅を楽しみ、当時の外国人も日本人の旅行好きに驚嘆している。これに応じて『東海道中膝栗毛』が人気となり、広重の「東海道五十三次」の浮世絵も人気を博す。絵画でも池大雅や谷文晁なども旅に出て絵を描いている。
刀工では大慶直胤が50歳を過ぎてから旅をしている。駐鍛地の刻印も集めてみた。諸芸の士の遊歴の時代で、金工では河野春明だ。

大慶直胤の旅での出会いが、幕府高官川路聖謨の『寧府(奈良)紀事』に書かれている。川路聖謨はロシアのプチャーチンと日露交渉を行い、プチャーチンは川路を高く評価して「ヨーロッパでも珍しいほどウィットと知性を備えた人物」と激賞しているほどの人物である。(これは本には書いていないが吉村昭の小説も素晴らしい)

弘化三年十月(直胤68歳)、十一月、弘化四年十二月、嘉永元年八月の川路の日記(当時、奈良奉行)に登場する。この中で川路は大慶直胤を高く評価している。この中で直胤の知られていないエピソードや師の経歴にも言及している。また直胤の裕福な様子も書かれている。

大慶直胤は江川太郎左衛門との交流や、按腹の療治、白川神道、禊教との関連や、歓喜天信仰なども見られ、幅広く生きた巨星である。

第21章 天保の改革と剣術の流行

松平定信が退いた後は、寛政の遺老と呼ばれる老中が政務をとり、その後、徳川家斉の大御所時代と呼ばれる放漫財政の時代となる。天保12年に大御所が亡くなり、天保5年から老中に任じられていた水野忠邦が天保の改革を進める。この改革も幕府財政立て直しと天保の大飢饉の事後対策である。質素倹約風紀是正に行き過ぎがあり、庶民に評判は悪い。
この時に清麿のパトロンの窪田清音が役職を退けられるが、これは27章で詳述する。

天保7年に剣道などの他流試合解禁に踏み切る(この原典を探すのも苦労しました)。各藩もこの方針にならい、これで剣術は大きく発展する。①流儀の伝統より実力が重視、②スポーツ選手に身分が関係無いが実力の上下となり、下層武士、農民、町人で剣術稽古する人が増える。③多くの実力者が集まる江戸での修業が大切となり、江戸の大道場が栄える。

ここで江戸の大道場(士学館、玄武館、練兵館、練武館、講武所)を紹介している。

第22章 庶民への剣術の広がり

剣術は武士身分だけでなく、農民、町人にも流行する。千葉周作は馬医の息子、斎藤弥九郎は農民の出身。万延元年に出版された『武術英名録』は関八州の剣士名と流派、居住地が記されているガイドブックだが、記載の632人の内、593人(94%)は驚くべきことに農民の出身(公式文書ではない本では名字は名乗れる)。

関東でこれだけ農民層に剣術が流行したのは、養蚕を中心として豊になった農村、それが故に博打流行し、ならず者が多くなった為の治安対策もあると考えられる。
幕府は農村、町人に剣術稽古の禁令を出すが、禁令を出すほど流行していたということだ。

新撰組の前身の上京浪士組も、素性を確認できる220名では武士身分(浪人も含め)が35%、武士以外が65%である。これは関東以外の生野の変でも同様で武士身分が38%である。

第23章 「身上がり願望」-武士身分への登用、刀工の受領、御抱え鍛冶-

江戸時代は窮屈な身分社会であり、武士の中でも上士と下士などが厳然と分けられていた。この中で自身の才覚で身分の上昇(人間としての尊厳の回復)をはかる動きがある(中には出世願望、虚栄心満足もある)。

(1)「武士身分への登用」として、江戸時代後期になると金の力で武士身分を買う制度も藩の制度として生まれてくる。元の藩士は、このような侍を金上侍と軽蔑するが金の力である。幕府も御家人の身分の中には実質は金で売買できるものもある。
これとは別に、剣の道、学問の道、あるいは専門知識の道などで武士になることも行われた(千葉周作は水戸藩で百石の馬廻役になる)。

(2)「刀鍛冶の受領銘」では天下一の称号のことや、伊賀守などの任官銘のことを書いている。

(3)「御抱え鍛冶への道」では、刀工が各藩の御抱え鍛冶(下級武士待遇)になることも身上がりであり、この実態を書いている。御抱え鍛冶の中で家格を上げた鍛冶もいる。

(4)「左行秀の身上がり」として、左行秀が出自、鍛冶の系譜、銘も変えていった状況を書いている。

第24章 切れ味重視の動き-試刀家・山田浅右衛門と固山宗次-

ここでは、山田浅右衛門家とその影響力、そして山田家の切断銘が多い固山宗次についてまとめている。山田家は家康側室とも縁戚だが、代々浪人で初代貞時が山野家に学び、二世吉時が享保5年から幕府御様(おためし)御用を務める。罪人斬首の手当や人間の肝(薬として使用)を扱う許可を得て、財をなし、実質の実入りは1万石の大名に匹敵した。

山田家代々の事績を紹介する。その一つとして『古今鍛冶備考』を門下とまとめ、最上大業物、大業物、良業物、業物との斬れ味ランクを発表して、影響力を持つ。江戸時代前期の山野家の切断結果とは少し違いがあることに言及。

固山宗次が山田家と密接であり、山田家が固山の刀を斡旋した時の礼金もわかる。そして宗次の略歴を紹介する。

第25章 荒試し-松代藩・山浦真雄、水戸藩・勝村徳勝、松江藩・高橋長信-

この時代に、荒試しとして刀の切れ味というよりは耐久性(折れず、曲がらず)の試験も行われる。有名な真田藩の荒試し(真雄の刀で実施)、水戸藩の荒試し(勝村徳勝の事例)、松江藩の事例(高橋長信)を紹介している。
そして対象となった山浦真雄、勝村徳勝、高橋長信の略歴を紹介する。

荒試しが実作に及ぼした影響は柾目鍛えがあると考えられる。

第26章 源清麿における切れ味追求-幕臣・窪田清音と兄・山浦真雄の影響-

清麿の略歴をまず記し、大きな影響を与えたのは兄の真雄と幕臣窪田清音。真雄の略歴は前章で記したので、窪田清音の略歴を紹介する。兵法、武術などに多くの免許を持ち、門人は兵学で3000人、剣術で600人、著述も兵書50、剣法書38、水軍書2、砲術書3、武家故実関係書13、刀剣書5書という大家である。

清麿は斬れ味にも優れ、それは窪田や真雄の考え方に基づいていると考えられる。
清麿の鍛錬方法として、清麿に私淑した宮入行平氏の文章を紹介し、四方鍛え(宮入氏は本三枚鍛えと述べていたが、清麿自身は四方鍛えと述べている)であると推測する。
そして斬れ味(最上大業物)と作位(最上作)は相反するものではないことを述べて、新々刀の名工はいずれも斬れ味に留意して工夫していることを述べる。

第27章 いつの時代にも大切な芸術の支援者-清麿の場合-

この章では、清麿の江戸出府における窪田清音との経緯、清麿の長州行きと、その一つのきっかけとなった天保の改革による窪田清音の失脚の理由(歴史書に記述がある)を明らかにし、一方で長州藩側の事情(村田清風による長州藩天保の改革と武器職人に関する政策動向)を紹介している。

村田清風は愛刀家(直胤、清麿に作刀註文)であると同時に、砲術にも造詣が深く、窪田清音や幕臣篠山景徳(清麿の注文銘があり、刀剣書も著述、荻野流砲術の大家)との関連の可能性を書く。

幕臣では篠山景徳(佐渡奉行、御先手鉄砲頭、大目付、槍奉行)、牧義珍(京都の東町奉行)が清麿の刀に注文銘を遺している。岡田善伯、戸田忠道(講武所剣術師範)、鳥居正意も清麿に作刀を依頼した幕臣と考えられ、この幕府人脈が弟子の栗原信秀、源正雄における幕府の仕事につながっている。

町人では斎藤昌麿、晋勝伊十郎という安政の大獄に連座した有力町人が支援者である。

第28章 武器講

勝小吉(海舟の父)の『夢酔独言』の文政12年に、秀世、細川正義、大慶直胤、神田の道賀、梅山弥曾吉などに刀剣講を設けたことが書かれており、清麿だけのことではない。また同時代に伊勢講、富士講もあり、頼母子講もあるとして、これらの仕組みを説明。
アメリカのシアーズ・ローバックの創業者もクラブ計画という同様な仕組みを作っている。

そして、武器講中断の理由を①窪田清音の納戸頭の罷免による活動の自粛、②同じく罷免による役高の減、③天保期の物価・刀価上昇との乖離、④長州藩側の武器製作技術向上のニーズなどではないかと推測。

第29章 江戸時代の貨幣・収入単位と物価水準、新々刀の価格

この章は4節に分けている。
(1)に江戸時代の貨幣制度を詳述して、金1両=4分=16朱=銀60匁=銀600分=銭6貫文=5760文、白銀=銀43匁で以降は換算する。
(2)は江戸時代の知行制度を説明し、知行100石=蔵米100俵=20人扶持=玄米35石を説明し、知行取りの武士と、蔵米取りの武士の違いを説明する。
(3)は江戸時代の米価(物価)の変動と現在価値として、江戸初期からの米価のグラフを提示する。基本は米価1石=1両である。貨幣改鋳と飢饉などで変動する。天保期あたりから物価は上昇し幕末には大きく上昇する。
そして、日銀の資料から1両=40万円で換算するのが妥当と考え、まず主な商品のかけそば、浮世絵などの価格、辻駕籠、飛脚、宿賃などの価格、人件費の相場、すもう、吉原の相場などを現代の価格に換算している。

そして(4)に江戸時代の刀価の資料を17例ほど探しだし、それぞれに現在の価格に換算している。興味深いから、御覧ください。

第30章 刀が実戦に使われた時代-万延・文久のテロリズム-

江戸時代で、刀が使われたのはテロリズム(暴力で自分たちの政治主張を実現しようとする動き)が吹き荒れた万延元年(桜田門外の変、イギリス公使館通訳、オランダ商館長、米国公使通訳ヒュースケンの殺害)から文久4年のわずか4、5年間である。暗殺しやすい武器は日常佩刀する刀である為だ。後述するが集団戦になると日本刀は役割を終えることを土方歳三自身が語っている。

文久2年には京都で天誅騒動で60人以上が殺害される。外国人襲撃も多い。各藩内でも、佐幕派と勤皇派の争いで刀による暗殺事件が起きたというテロの時代である。

この刀によるテロに対して、刀には刀として対抗手段をとる。外国人警固の外国御用出役(後に1500人に増員される)、京都では文久2年に新撰組である。江戸では庄内藩預かりの新徴組である。

この時代に長剣(2尺4寸以上)が作られる。実戦では自分でコントロールできる範囲で長い方が有利である。

第31章 幕末の動乱、戊辰戦争と刀鍛冶

文久3年になると、下関での外国との戦い、薩英戦争が起きる。翌元治元年になると、天狗党の乱、禁門の変、第一次長州征伐、翌年は第二次長州征伐と幕末の動乱になり、各藩の刀鍛冶も巻き込まれていく。高橋長信は松江に呼び戻され、左行秀は藩内抗争の影響を受ける。
清麿の弟子の栗原信秀は長州征伐時に大坂で、源正雄は箱館で製作するなど、幕府に重用された鍛冶である。

第32章 廃刀令後の刀鍛冶の転身

ウィーンの万国博覧会出品作を、栗原信秀、固山宗次、運寿是一は受注・鍛刀したが、明治維新後は脱刀令、廃刀令が出される世の中である。需要は全く無くなる。
栗原信秀は後の靖国神社の御霊代の鏡を納めるが、これを浮世絵師の河鍋暁斎が面白く取り上げ、鏡師としての仕事は増える。

慶心斎直正は失意のあまり自殺した。清人は温泉旅館の経営に戻っている。鍛冶平こと直光は偽物を作って糊口をしのぐ。

こうした中で、千代鶴是秀は大工道具の鍛冶として名を残している。宗寛は植木鋏で今に続く工場を作っている。栗原信親は高村光雲、光太郎に高く評価される彫刻刀を作る。このような転進も人間としては立派だと思う。

剣術も衰退し、一時撃剣興行で糊口をしのぐ。天覧冑割で榊原鍵吉が名を残している。そして剣士は警視庁に奉職していく。首斬り役の山田家も役目を解かれることになる。

第33章 帝室技芸員制度と日清戦争後の軍刀需要-近代刀期へ-

明治23年に帝室技芸員制度が設けられる。日露戦争後の明治39年に月山貞一と宮本包則が認定される。認定理由を提示しているが、現存する長老だからという側面が強い。これが今の人間国宝(重要無形文化財)につながる。そして日清・日露の戦争から昭和にかけて軍刀需要が生まれ、近代刀期に入る。