刀装具の楽しみ記


所蔵品の鑑賞のページ
今は鉄鐔の方が楽しいが、金工作品ばかり購入していた時期もある。金工品は寝床の中で鑑賞とはいかないが、ルーペも使って、ひねくり回して、拝見するのも面白い。
せっかく高い金出して、購入したのだ。楽しまないといけない。研究しなければいけない。図柄の意味もわかっていないものも多いのだ。
研究というと、ここでも鑑定大好きで、龍の額の八文字がどうのこうのと言う人もいるが、こんな見方は先生に任せて、自分の眼を活用することだ。
そう言うことで所蔵品を再観してみたい。もちろん、ここも独断であることをご承知いただきたい。


           
後藤徳乗 馬具図小柄 2017/9/6
西垣初代勘四郎 御紋図縁頭 2017/9/14
後藤光侶 枝菊小柄 2017/7/26
後藤廉乗 蝋燭図目貫 2017/9/17
一宮長常 筍図目貫 2017/9/21
大森英秀 張果老図縁頭 2017/10/10
岩本昆寛 大森彦七図縁頭 2017/8/8
岩本昆寛 群馬図縁頭 2017/9/4
浜野矩随 漢楚軍談-張良・樊噲図→(三国志:劉備・張飛) 2017/9/28
石黒政常 鵲(かささぎ)に秋草図 2017/10/23

後藤光侶(廉乗)小柄



 
上段:全体、下段:枝菊アップ
17/7/26
切ったばかりのみずみずしさだ。

17/7/1
この感覚は廉乗の一時代前の小堀遠州の「綺麗さび」という美意識を体現したものなのかもしれないとも思う。

17/6/27
この菊花にもあるが、花弁を金色から銀色へ移行させるべく、金の色を徐々に薄めていくように象嵌しているのは凄いと思う。詳しくは思い出せないのだが、筆を高彫りした栄乗か誰かの作品にも、このようなグラデーション象嵌を見たことがある。高く評価したい。

17/6/26
今の刀装具数寄者の中で、後藤物の大名品を御持ちで、後藤に特に詳しい方から「廉乗は馬鹿にできないですよ。自分が今まで拝見した廉乗作の中では光侶銘で『小柄百選』(長谷川赳夫・藤井正宣 著)の9頁にも掲載の佐藤嗣信最後図の小柄は凄かったです。夏雄が推賞したものですが」とのことであった。本でもわざわざカラー頁にしてあるが、この写真だけでは凄さはわからない。

また廉乗、後藤の銀について、別のこれまた有名な刀装具数寄者から「後藤家の銀に関する情報は聞いていないが、純度の高い銀の可能性はあるかもしれない。ただ別府の愛好家が御所持されている後藤作品における銀は真っ黒になっていた」とのことでした。別府は温泉=硫黄の地です。

17/6/24
(廉乗の後藤宗家の八代としての自負は、蝋燭図目貫の6/24のコメント参照)

17/6/21
(廉乗が”銀の名人”なのではとの論は、蝋燭図目貫の6/21のコメント参照)

17/6/19
私が感じた「ますらおぶりの品の良さ」と言うことは、江戸期の鑑定家野田敬明が著書『金工鑑定秘訣』の中で述べた「気格抜群にして面白く、見所ある作なり。ー中略ー上彫荒く、濶達(闊達に同じ)の気象見ゆる」と同様である。
”気格”とは広辞苑に「品格。気品」とある。”闊達”とは「度量がひろく、物事にこだわらぬこと。こせこせしないこと」とある。
私だけでなく、先人も、光侶廉乗の正作を観た人が感じる印象なのだ。

17/6/16
小柄の裏板と縁(小縁、棟方、戸尻、小口)は四分一である。この為に、枝菊の赤銅の黒が引き立つのだ。光侶はこういう効果も狙ったのに違いない。普通の後藤の小柄のように、周りも全部赤銅の真っ黒ならば枝菊の彫りは埋没し、全体が重たい感じとなる。

17/6/12
私は、日本刀柴田の「刀和」における「刀装具の鑑賞」欄で、この作品を紹介した時は「強さのある品の良さ」あるいは「ますらおぶりの品の良さ」と表した。この感想は変わらない。

後藤家の作品というと、上三代、上六代と遡る方がいいとか、祐光顕、あるいは祐光即、祐光通として、祐乗に光乗、それに顕乗、あるいは即乗、通乗というのが世評であるが、世評をなぞるだけではつまらない。自分の高いお金を出して購入したものだ。

私は”品の良さ”という視点では廉乗光侶が一番ではないかと思っている。私の論を納得していただくには、この作品を観てもらえばいいのだが。

ちなみに、これは『刀装金工 後藤家十七代』(島田貞良、福士繁雄、関戸健吾 著)に所載されている。

どう彫れば、このように品良くなるのかは、私のような品のレベルが低い人間にはわからないが、わからないなりに少し分析する。

周りは四分一である。四分一だから少し黒の色調が薄い。そして枝菊の彫物は後藤家特有の見事な漆黒の赤銅である。
これに金銀を使って、花と蕾と露を表現している。真ん中の菊花の花弁は金と銀を使い、金から銀へ移る様子を少し薄い金色絵で表現している。
また右上の蕾の金色も少しくすんだような金を使っている。逆に左に伸びた咲きかけた菊の蕾は鮮やかな金である。

「漆黒の赤銅の色自体に格調の高さ」は存在している。これが品の良さの一つの要因である。

もう一つは、「金銀、色絵の使い方に節度」があることだろう。金があまりに多いと成金趣味と言われることもある。ただ、金の多用も、使う人が使えば下品にならないと思うから、留意して欲しい。

彫物の形態把握にも品の良さは出ると思う。観ていただくとわかるように、「詰まった感じではないし、一方で拡散している感じでもない」。

こういう図柄は、花が主役になるが、ここでは枝葉もほどよく彫っている。だから枝菊図なのだ。その葉も広がっているものもあれば、縮まって丸まっているものもある。また虫喰い葉もあるが、「それぞれに過ぎたところは無い」。

露の置き方、これを程よいと言うのか、私には判断できない。

なお、「魚子も後藤家特有に細かく」、それも品の良さに関係していると感じる。

ともかく、この人が構図を決めて、描き、それを彫り上げると、自然に品が良くなるのだろう。「後藤家の伝統」であり、「京都の伝統」なのだろう。

”強さのある品の良さ”、”益荒男ぶりの品の良さ”と書いたが、”強さ”はどうして生み出せるのだろうか。

絵でわかりやすいのは、「枝菊の枝を切った先の切り口の潔(いさぎよ)さ」である。一方で「先端の蕾の伸びる力強さ」も大きい。
開花した花の右上の2つの蕾(一つはくすんだ金色を使った丸いもの、隣のは銀である)も、共に「上に向かっていく姿」で描いているのも関係があるのかもしれない。

そして、「江戸寛文新刀の最盛期、山野家の切断銘が隆盛の時代」に過ごしたことも、大きいのではなかろうか。廉乗光侶も時代の子だったのだ。

<益荒男ぶりで品の良い光侶廉乗の生涯>
”廉乗も時代の子”と書いたから、ここで廉乗の生涯を記しておく。

後藤家十代廉乗は、八代即乗の子(四男)として、寛永五年(1628)十一月二日に京都に生まれる。父の即乗が寛永八年(1631)の四歳の時に逝去した為に、その後、宗家を預かった理兵衛家の顕乗、程乗に技術を習い、生活の面倒をみてもらったと考えられる。
正保二年(1645)の十八歳時に四郎兵衛光侶を名乗る。そして承応元年(1652)の二十五歳時に宗家十代目を相続する。
明暦二年(1656)の二十九歳に江戸に呼ばれる。万治二年(1659)の三十二歳時に程乗とともに金分銅吹替の命を受ける。

そして寛文二年(1662)の三十五歳時に江戸定府を命じられ、本白銀町三丁目に住す。

そして寛文五年(1665)の三十八歳時に諸国分銅改を仰せ付けられ、天和三年(1683)五月(五十六歳)に法体となり廉乗となる。
元禄八年(1695)の68歳時に大判吹替を仰せ付けられ、大判三万枚(元禄大判)を製造したという。
そして元禄十年(七十歳)の七月二十八日に隠居する。そして宝永五年(1708)十二月二十三日に八十一歳で没する。

子の乗賢光嘉が天和三年(1683)に四郎兵衛となるが、貞享元年(1684)に二十五歳で没した為に、仙乗家光清の三男の光寿(通乗)を貞享元年(1687)に養子とし、元禄十年(1697)に家督を継がせる。なお光寿の最初の妻は廉乗の娘である。なお晩年に隠居後に実子光保を得ている。

栄乗、即乗も江戸でも仕事をしたが、江戸定府ではない。
製作年代は約45年の長期にわたるから作品も多い。

後藤光侶(廉乗)目貫

2017/9/17
一本、一本の蝋燭を縛ってある金の紐が、表は2箇所、裏は真ん中に一箇所と違う。これは何か意味があるのだろうか。それとも廉乗のセンスで、このように変化を付けたのであろうか。共に同じよりも感じはいい。

2017/6/28
後藤家の折紙における代付けは、人物の図柄(七夕、源平合戦など)が一番高く、次いで龍、獅子、それから植物、そして器物となっているようで、器物は鑑賞家から低く見られているが、今の芸術基準で見ると、むしろ独創的なものが多く、面白いと思う。人物、龍、獅子など同じような図柄ばかりだ。それに対してこの蝋燭は、この題材を、このような形で作品にしてしまうのは凄いと観るたびに感心する。

2017/6/26
(廉乗の最高傑作と後藤の銀についての、2名の数寄者からの意見は枝菊図小柄に掲載)

2017/6/24
この無銘の目貫、光孝が廉乗と極めた折紙を出しているから、それで問題は無いのだが、伊藤自身が廉乗と極められるのか?と投げかけられたら、私は後藤家各代の作品を精査していないから難しいとしか、答えようがない。感覚である。

では、その感覚とは何かというと、最近思うのは光侶廉乗の作品が醸し出す”自信”が一つの鍵ではないかと感じている。技術を習った後藤程乗とその父後藤顕乗は理兵衛家の人間で、宗家の四郎兵衛家の人間ではないのである。これに対して、光侶廉乗は歴とした宗家の八代(今は宗家を預かった顕乗、程乗を八代、九代として十代とされているが)なのである。その”自負”が”自信”に変わって、この作には出ている。「私が宗家の八代目です」これが感じられるかどうかだ。

2017/6/21
後藤家で銀を多く使いはじめたのは程乗とされているが、先人が光乗と極めている作品にも銀は使われており、この通説には疑問がある。それはさておき、廉乗は銀の良さを十分に発揮した”銀の名人”と思う。この作品は銀の地を彫り込んだ蝋燭に、金の結び目を付けている。また枝菊図における花では銀の方を多く使っている。
銀は通常、空気中にあると黒く変色するものだ。これは空気中の硫黄分(硫化水素)に反応する為だ。私が所有する志水初代の牛図における牛の斑も変色している。ところが、廉乗(後藤家)の銀は変色しない。政権の金銀貨幣の流通に携わった後藤家の秘伝が施されているのではなかろうか。

2017/6/20
こちらの廉乗も「刀装具の鑑賞」、「手元に置いての鑑賞」に鑑賞記を記しているが再掲する。無銘だが後藤光孝の明和四年十二月七日付けの折紙「銀金色絵蝋燭目貫 作廉乗 代金一枚五両」が付いている。また『刀装小道具講座2-後藤家-』(若山泡沫著)の口絵写真に掲載され、『趣味の目貫』(若山猛 竹之内博 著)にも所載されている。

後藤家の図柄は定型的なものが多いと言う人が多いが、これは独創的で変わった図柄で、意欲的である。
むしろ町彫り金工・流派創設者以外の門流の作品、例えば石黒派、菊岡派などの方が定型的である。(流派創設者の石黒政常や菊岡光行などは独創的なところがあり、流派の創設とは、そういうことだと改めて思うと同時に、これら創設者と門流はもっと差を付けて評価すべきなのだろう。芸術はそういうものだ。)

後藤徳乗小柄



2017/9/6
命の無い器物を彫ると当然に変化の無いものになる。変化は配置、構成で付けるが、その中でも縄は自由度が高い。それを徳乗は最大限に使う。馬櫛の上方の縄の置き方など面白い。

2017/7/13
命の無い器物だが、それを生あるがごとくに、生き生きと躍動感のある彫物にする。凄いことだと思う。

2017/7/12
中央の銀の轡(くつわ)は、赤銅の上に銀を焼き付けたものだ。また金色の部分も赤銅地の上に金を焼き付けたものだ。この小柄における金銀の色絵を取り除いたら、全部真っ黒な赤銅ということだ。
その赤銅の各種彫り物で生み出す立体感(縄の重なり、左側では鞭の上に縄、その縄が別の鞭の下を通るなど複雑)はどうして彫っていくのだろうか。

2017/7/3
この乱雑な配置を絵にした徳乗は怖ろしい。私であれば縄の下絵を描いている段階で混乱するに違いない。それを立体的に彫り上げるのだ。何が何だかわからなくなる。それを徳乗はまとめ上げている。

2017/6/30
中央の銀は轡(くつわ)である。轡の中に菊花の模様があるのが鏡(かがみ:別名が杏葉(ぎょうよう)で、2つの菊花模様の鏡を結んで繋がっているのが喰(はみ)で、それぞれの鏡から出て先端が丸いのが立聞(たちぎき)、少し長く出ている棒状のが八寸(みずつき:別名が引手(ひきて)と言うことだ。
縄は長くて細いから手綱(たづな)ではなく、差縄(さしなわ)というものだろうか。それとも引き綱だろうか。それに金の馬櫛、赤銅で彫られた鞭(むち)のようなものが3つなのか、2つなのかわからない。
何で、こんな図柄を彫ったのだろうか。どうして、こんな構図にしたのであろうか。誰が注文したのであろうか。どんな人物が購入したのであろうか。想像を絶する。

2017/6/29
後藤家の器物の彫りを廉乗の蝋燭図目貫の鑑賞で褒めたから、この小柄が登場することを予想された人もいるだろう。後藤家において、器物を彫った小柄の中でも屈指のものと思っている。
これまでも「手元に置いての鑑賞」や刀和の鑑賞記で紹介しているが、観るたびに「ワォー」と驚きを感じるものだ。
この頁で廉乗の作品を改めて鑑賞し、”銀の名人”と書いたが、この徳乗の作品も銀を主役にしているのを改めて認識する。ただこの作品は金の役割も大きい。

一宮長常



2017/9/21
近代の啓蒙主義思想ー「旧弊打破、ものを自分の眼で正しく見る経験主義、科学的合理主義」の思潮が日本の江戸時代後期にも生まれていたが、それが芸術分野にも出ていたことが、この作品からわかる。

2017/7/11
長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)であり、円山応挙は享保18年(1733)~寛政7年(1795)、伊藤若冲は正徳6年(1716)~寛政12年(1800)、与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)である。池大雅は享保8年(1723)~安永5年(1776)である。長常、応挙、若冲は写実。蕪村、大雅は文人画・南画という作風であるが、蕪村は俳句でもそうだが写実という面でも素晴らしい。夜色楼台図など出色である。安永頃(1772~1780)の京都に出向いてみたいものだ。
ちなみに京都では天明8年(1788)に天明の大火がある。

2017/7/9
材質感まで生写したと書いたが、その為の技法も凄い。私ごときでは明確に説明できないのだが、上部写真の筍、素銅でも皮部分と根元の方では色合いが違う。それに根元の方では泥のような汚れを赤銅(烏銅)でぼやーんと象嵌しているのか色付けしているのかわからない。そこに質の良い赤銅(烏銅)で突起(これから根が出てくる所か)を象嵌している。根元は切り取った白い根を金を象嵌している。上方の皮の部分も少しくすんだ素銅(これも色付けしているのかもしれない)に細かいが緻密な毛彫(葉脈)を施す。そうだ毛彫をする前に、赤銅(烏銅)で適当に斑点を象嵌しているのだ。そして各皮の先端は銀の含有量が高い四分一(この材質も正確かは不明)を芋継ぎして突起をつけている。その突起も勢いがある。実際の筍もこうなのだ。
長い方の下の筍も四分一に細かい金象嵌(赤銅象嵌もあるのか)などをした上で細かい毛彫りだ。ここの根元に花押を彫っているが、ここは厚い金で巻いて遊んでいるというか、技を誇っている感じだ。
筍の皮に施した毛彫を観ているだけでクラクラしてくる。

2017/7/4
今回、再観して世に喧伝される長常の写生の意味がわかった気がした。単にモノの姿を写実的に彫ったのならば、他の刀装金工と同じである。これまでは絵における円山応挙が粉本(ふんぽん=お手本)を写すだけでなく、自ら対称を写生して絵にしたように、従来は画題とされなかった(=粉本が無い)タケノコ(筍)、カエル(蛙)、カタツムリ(蝸牛)などを生き生きと彫り上げたから高く評価されたからと考えていた。もちろん、これも正しい。
今回、気が付いたのは、長常の真価は、そのモノの材質感まで写したことなのだということだ。この目貫で言うと、タケノコの皮の質感だ。そしてタケノコの根元部分の質感だ。ここまで写したから「写生」なのだ。このタケノコ、皮が一枚ずつ剥けそうだ。(雑誌「刀和」に掲載した「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」では、このような意味づけは出来ていないが、この目貫における皮の質感、触感の素晴らしさは鑑賞している)
カタツムリを彫った目貫の正作では、カタツムリのネバネバの体とカタツムリの殻の質感を彫り分けているのだ。
稲葉通龍が評した「生写」の意味は”生きているように写す”「写生」だからであろうか。「写実」とも違うのだ。

岩本昆寛(大森彦七図縁頭)

2017/8/8
川を渡れずに困った若い娘を、背負った彦七には慈悲の心のほかに、助平心もあったのだろう。その心が恐怖の瞬間に変わる一瞬だ。まだ鬼女の腕の力に変化がない。気が付いたのは川面に映った娘の顔貌の変化だ。修羅場はこれからだ。

2017/8/6
重要文化財の利寿鐔の鬼女は、鬼の面を写したようだが、昆寛の鬼女は野性的でダイナミックかつ鋭い。

2017/8/5
7/23に馬のたてがみの彫りについて記したが、鬼女の髪の毛の彫りも見事だ。この写真ではわからないと思うが、柔らかなカーブでフワッとさせるだけでなく、額にかかる髪の毛などは剛毛のように見えるように強く彫っている。馬の尻尾の毛で彫った方法を応用したのだろう。

2017/8/2
鬼女の姿全体は猫のような姿態を感じる。可愛らしく背中にしだれかかっていた若い女性だ。彦七の肩に手をかけている腕はまだ若い女性の面影が残っている。肩も撫で肩で、そこから薄肉彫で着物の袖の襞(ひだ)を柔らかく彫っている。重要文化財の奈良利寿の鐔では、袖に象嵌を入れているが、腕が横になり過ぎて不自然であり、私は昆寛の方が上手いと思う。

2017/7/31
さてメインの頭の彫りだ。有名で重要文化財の利寿鐔の図では鬼女も彦七の顔も同じ赤銅一色だが、昆寛は彦七の顔を素銅を使って彫り上げるという変化をつけており、一層興趣を高めている。加えて烏帽子を赤銅で、これも効果的だ。金で象嵌した烏帽子の紐は確実に固く、烏帽子を顔に縛り付けている紐だ。
色金の使い方はこれだけではない。彦七の眼に金を入れ、そこに赤銅の目玉として注目が集まるようにしている。そして、その眼は驚いて大きく見開き、目玉は背中の異変を把握しようと思って緊張感に満ちている。

色金の使い方が巧いだけではない。彦七の顔は額、鼻、頬、顎と平面に微妙な変化を付けて、実に立体感に満ちている。そこに口、鼻、眼、耳の輪郭を力強く彫り込む。眉毛の毛彫も柔らかく、先の方はまたタガネの向きを変えている。

2017/7/29
岩本昆寛は明和7年(1770)に27歳、安永9年(1780)に37歳、そして享和元年(1801)に58歳で作品がある。延享元年(1744)の生まれである。
長常の項で記したが、長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)、円山応挙は享保18年(1733)~寛政7年(1795)、伊藤若冲は正徳6年(1716)~寛政12年(1800)、与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)、池大雅は享保8年(1723)~安永5年(1776)であるから、京都写実より約20年遅れの江戸写実だ。

2017/7/27
そして、この馬の顔だ。特に眼は、主人の異変に気づいた一瞬だ。また前脚を突然に上げたような動き。こうして精密に彫った馬に生気を宿すことに成功した。ここに大森彦七の馬を出現させた。

2017/7/25
鞍の腹帯や手綱は金で象嵌している。馬の尻の方の帯は素銅の象嵌だ。「凄いな」と思うのは、尻の帯や鞍の腹帯は強く締まっているが、手綱は柔らかく、たわんでいるように象嵌している。そのよじれ具合も、どうしてここまで上手に手をかけて仕事が出来るものかと感嘆する。

2017/7/24
馬の身体を形取る線は柔らかく強い。鞍の部分は平滑に彫っているが、馬の皮膚の部分は平滑に見えるが、細かく浅い線を引っ掻くように彫っている。顔は立体的に彫り、鼻の穴は力強い。
鞍の前輪と後輪は赤銅(烏銅)を用い、丸く柔らかく遠近感を出して彫る。前輪と後輪の縁を線で形取るように彫り、その線の内側には細かいタガネを打ち込んでいる。馬の立体感と、各馬具の材質感が出ていて見事である。

2017/7/23
今度は脇役の馬の彫りを観よう。まず、馬のたてがみの彫りだ。地を柔らかく薄肉彫りで仕上げ、そこに非常に細かい毛彫だ。毛の一本、一本を彫り上げているように柔らかく、細かい彫りだ。フワッとした毛が見事に表現されている。首筋の線も何とも言えないカーブだ。たてがみの中から耳が緊張感を持って突き出ている。
馬の尻尾の方は薄肉彫のタガネを入れて、そこから毛彫で同様な彫りをしている。毛彫はたてがみよりも深く入れており、それは尻尾の毛がたてがみの毛より固いからだろうか。


2017/7/22
この松、全体を御覧いただきたい。「大」の字に手を広げた化け物みたいだ。洞(うろ)は一つ目だ。背負った美女が鬼に変身した異様な空間だが、松の大樹まで化け物に変化したのだ。

2017/7/21
地金は、脇役どころか舞台そのものだが、その処理もさすがである。銅に銀の四分一だと思うが、亜鉛も入っているのだろうか、真鍮的な色だ。何度も言うが実際はもう少し黒い。その地を軽く叩いて凸凹を出したのであろうか。あるいは粗い石目地に造ってから、その上を擦って滑らかにしているのだろうか。よくわからないが地にも気を使っている。その結果、陰翳(より真鍮的色と黒い四分一的色)が出来て、この場面・空間に漂う異様さを表現している。

2017/7/20
松の幹の右側は片切りタガネ的に右際は地に垂直近くにタガネを入れ、そこからなだらか・幅広く彫り、大樹の陰翳部を表現して、立体感を出している。なだらか部分は平滑で、上部の枝が入った部分の上にだけ三角タガネで幹の傷を表現している。影の部分だから樹皮の模様などなくてもいいのだ。

2017/7/19
縁の松葉の彫は、毛彫ではなく、松葉の上部が少し広がるように深くタガネを入れる。それを松葉らしく扇状に正しく細かく彫る。重なって交叉するところもあるが、その場合は片方を浅く彫る。ともかく力強い松葉だ。
枝の金象嵌部分は真ん中を少し高くしている。正面だけでなく幹を挟んで右側にも金象嵌の枝があるが、こちらの金色は少し赤みがあるぞ。褪色というより色を変えているのかもしれない。
幹には浅く細かい毛彫で樹皮の皺を彫り、上部の窪みは三角タガネを力強く打ち付けている。
幹が下部で右に流れている部分も同様な打ち込みタガネがあるが、ここは幹を彫り上げてから三角タガネを入れている。幹の彫り上げと書いたが、幹そのものも薄肉彫(表面より低く彫る過程で高低の立体的彫りをする)で立体感のある大樹を表現している。
洞(うろ)を彫る時は深く彫ると同時に際を柔らかく彫り上げているような感じで、より立体感を強めている。洞の中は汚れかもしれないが、黒っぽく色上げをし、深さを強調している。

2017/7/18
この写真の色は違う。全体に黄色が強くなり真鍮地のように見えるが、実際は四分一だから黒っぽいのである。彦七の烏帽子、馬の鞍の両端(前輪と後輪)は真っ黒な赤銅であり、その色を想像してもらえれば色調のズレは理解されよう。ただし明るく撮っているから彫技はよくわかる。たところなどヤンヤヤンヤである。枝を金で象嵌し、その上の松葉は不思議なタガネ線だ。このタガネの勢いと精密さだけでただ者では無いことがわかる。

浜野矩随(漢楚軍談-張良・樊噲図)→(三国志:劉備・張飛図)

2017/9/28
この8/16の記に、この画題は「漢楚軍談 張良・樊噲」としてきたが、違うのではないかとの疑問を呈した。その検討過程を「図は「張良・樊噲」か、それとも三国志か-所蔵の矩随作品の画題-」とまとめた。十分に検討はできていないが、現時点では三国志の劉備・張飛の図だと思う。
こうなると、これまで以下の日記に樊噲として書いてきたことは張飛であり、張良として書いたのは劉備のこととなる。

2017/8/30
生き生きとした人物表現、各人物の性格までわかるような表現、細部にも行き届いた彫りの技法、そして小柄を手に取って使用した時に邪魔にならず掌(たなごころ)に収まる人物像の位置、小柄を抑える親指の位置には彫りは入れない。そして間延びした空間を生かして上部に毛彫を施して絵にする。これが矩随初代だ。

2017/8/29
樊噲の顎髭の彫りは、顎の下が前面に見え、頬・耳の下に行くに連れて、後ろに見え、顎髭全体の立体感も出ている。また顎の下から胸にかけて、奥にいくような立体感もある。こういう彫りも見事だと思う。

2017/8/26
初代浜野矩随は天明7年(1787)に52歳で没したから、生年は元文元年(1736)である。だから岩本昆寛の延享元年(1744)よりも8年前である。長常の享保6年(1721)より、15年遅い。円山応挙の享保18年(1733)と同じくらいである。京都写実と同時代の江戸写実ということになる。大事な位置づけの金工だ。後藤では宗家13代の光孝が享保6年(1721)生まれである。柳川直光の享保18年(1732)生まれとほぼ同時代である。

2017/8/23
上部の松の木と雲の毛彫だが、タガネの太さを細かく替えて彫っている。タガネの種類を替えているのか、あるいはタガネを入れる深さを調節しているのか、私にはわからない。その中でも強く彫っている松の葉だが、この中心には深く点を打っている。
今回再観して、樊噲の目玉は赤銅を入れているのではなく、タガネを深く打ち込んでいることに気づいた。また張良の目玉も深い打ち込みであり、矩随のタガネ使いの特色の一つが、深い打ち込みタガネではないかとも思いはじめている。

2017/8/19
張良の顔の彫りは、各部位ごとに細かく、キチンと彫る、耳をこれほどリアルに彫った作品は他にも少ないだろう。目は深く彫り込み、眼球だけは彫り残し、形を整えている。鼻の立体感も出て、小鼻を形取るタガネも力強い。人相学に私は疎いが、それに詳しい人なら、以上の各部位の形から性格・運勢を占えるのではなかろうか。
全体の印象は理知的であることに加えて、胆力もある感じである。

2017/8/17
画題への疑問はひとまず置いておきたい。さて張良の彫りである。画面の左下に展開する肩から腕の彫りは自然である。肩から肘(上腕=二の腕)が手前に出ているように見え、その先の腕(前腕)は、奥側にいって手指に至り、文書(手紙)を前で持つ体型が自然である。衣服の皺の彫りが上腕部ではやや右上から左下に入れ、前腕部は上部から下への彫りを少しずつ変化させることで腕の膨らみを表現する。
以前の 「鑑賞記」において樊噲の手指の彫りとともに、張良の手指の彫りも褒めたが、改めて観ると、張良の手指は不自然である。軽い文書(手紙)類だから力が入っていないのかもしれないが、今一つである。ともかく手指の表現は難しいのだ。

2017/8/16
鑑賞記」においては、「漢祖劉邦の危機を救った鴻門の会における相談の場面か」と書いたが、鴻門の会の時は、もっと緊急を要する事態だったようで、こんな文書で相談というような状況ではなかったようだ。
この図は保存の証書では「三国志」の図としてあったが、私が戦前の本から漢楚軍談の張良・樊噲図と平成6年9月の「刀和」誌上に発表した。その後出版された『刀装具鑑賞画題事典』(福士繁雄著)でも76頁に「張良・樊噲」として同図の説明がされている。
今回、改めて「違うのでは?」との疑問も湧いてきた。江戸時代に流布した『漢楚軍談』や『三国志』の物語を精読する必要がある。

2017/8/15
改めて観ると、豪傑樊噲の視線と、指し示す左手の人差し指の方向が少しずれている。人差し指は張良の持つ文書を差しているが、目は右下の方向を見ている。
一方、張良の視線も、自分が広げた文書ではなく、横目でこちらの方(それは樊噲の見ている方向)に泳がせている。
2人が文書を読んだ後に、右手前に控えている者(座って待機している者)に指示を出しているように見える。「これ(文書)には、○○が書いてあるが、どういうことか?」と尋ねているような様子だ。『漢楚軍談』を読んでいれば、その場面が具体的にわかるのだが。
ともかく、当初は張良が読んでいる文書を、樊噲が指さして「何が書いてある?」と聞いたか、「ここに書いてある通りにやるか?」とでも打ち合わせていると思ったが、ちょっと違うのかもしれない。

2017/8/13
この小柄の「鑑賞記」は、よく書けた文章であり、付け加える点はないのだが、桐箱の中から、改めて観ろと言っているので手に取る。
薄肉彫と高彫を組み合わせた矩随ワールドである。そこに的確な色金を施す。豪傑樊噲は素銅だが、眉、口ひげを毛彫で表し、鼻、口、唇、眉間のしわなどは彫りで高低をつけて立体的に彫る。毛彫や眉間などの凹んだところは黒くなっているが、これは汚れではなく、何か色を入れているようだ。そして眼は金を入れ、眼球は深く彫り込んで赤銅を入れたように見せている。どのくらい深く彫っているのだろうか。
長い顎ひげは、地板の四分一をタガネを深く、細く入れることで表現しているのだろうか。自然である。顎ひげの彫りは顔の素銅の上から彫りは始まっているのだが、下の四分一部分と同じような色合いだ。どうなっているのだろうか。

岩本昆寛(群馬図縁頭)

2017/9/4
縁(ふち)の2頭は頭(かしら)とは反対に、それぞれの馬が顔を寄せ合って、お互いの親近感を醸し出している。連銭葦毛の馬は仔馬かもしれない。ここでも馬の重なり具合をやや上方の視点で彫ってうまく表現している。後ろの金色の馬が首を大きく曲げているところも遠近感の強調だ。
そして縁の裏側の仔馬(表の仔馬よりも幼い仔馬か)は母馬の方に駆け寄ってくるところだ。裏の真ん中ではなく、やや前側に彫物の位置を持ってきている。湾曲部であり、自ずと前(表側)の母馬の方に駆け寄る感情が表現できている。

2017/9/3
この縁頭作成に当たって、昆寛の彫金のテーマは「遠近感の表現」だ。そして画題のテーマは「馬を通した家族愛」だ。そして町彫りの偉大な先駆者の宗珉の馬の彫りを意識して、自分なりの彫りを実現しようとした。成功していると230年後の鑑賞者である伊藤は認めるし、他の方も同様に思われるだろう。
頭(かしら)の2頭は反対向きに彫り、それぞれの馬体の長さを、手前の馬を下部に彫ることで視点を上にして、それぞれの馬の姿態を上下に据えて、奥行きすなわち遠近感を出した。
尻を突き合わせているようだが、向こうを向いている馬は顔を少し後ろに傾けて、その目は金色の馬を気遣うように彫り挙げている。遠近感と家族愛だ。

2017/9/2
いずれの馬の目は、馬の目らしく澄んで美しい。そして姿態の観察も的確で、昆寛は自分で下絵も画いてから彫り上げたに違いない。姿態を絵でなく、彫金で表現するが、その肉置きは素晴らしい。

2017/9/1
この縁頭の「鑑賞記」も、よく書けているが、作品そのものも傑作である。昆寛は宗珉の馬(縁頭は「鑑賞記」の中に写真を掲載したが、他にも頭に正面を向いた馬の縁頭や、小柄の縦図で向き合う二匹馬の図もある)の彫りを意識したと思うが、写真で見る限りだが、優るとも劣らない出来である。宗珉の向き合う構図を、互いに尻を付き合わせるような構図に替えて、より立体感、遠近感を出すのに成功している。

西垣初代勘四郎(御紋図縁頭)

2017/9/14
この縁における桐文は、鐔のデザインにされて大きく透かされると、「投げ桐」と言われる。この言葉も慣用的に使用しているが、何なのだろう。今回、この縁における桐文を観ていると、これは旗指物の旗に描かれた桐文が、旗がたなびくに応じて姿を変じているのを写したのかなとも感じるようになった。

2017/9/13
頭の九曜紋について、昨日はあのように書いたが、頭は擦れたりしやすい場所であり、頭の真ん中に高彫を入れるようなことは、当時は慣習として存在しなかった可能性もある。そこで『西垣』で他の勘四郎の縁頭を調べると波山道のように模様を彫っているものが多く、高く彫り挙げているものは糸巻きを真鍮象眼にして少し下部に据えている頭と、桜を銀で高彫りして据えているものがある程度である。皆無では無いから、上記のように言い切れないが、実用を意識した中での頭(かしら)として考えることが、この時代には必要だろう。(他国の金工作品でも縁(ふち)だけで、頭(かしら)は角というものもよく見かける)

2017/9/12
頭は黒四分一の地金である。九曜紋を上下に彫り、それをなるめるようにして九曜紋を目立たないようにしている。頭と縁は材質も違い、彫りの調子も異なるから、「取り合わせ」とも思えるが、”細川家の紋尽くし”と考えると一作金具となる。
当初は縁の作風の調子と異なるから別人の作かと思ったこともあるが、なるめた九曜紋を真ん中ではなく、上下に据えた趣向は、初代勘四郎の作品と感じさせる。他の作者ならば、もう少し九曜紋を目立たせて、自分の技術をアピールするのではなかろうか。そして、じっと観ていると、この塊は力強さを発していることに気が付く。

2017/9/11
桜も桐紋と同様の調子で、花弁の一枚ごとの面積の大小などには頓着していない。真鍮地の上の毛彫の深浅も花弁によって違う。一方で、縁の裏の引き両の据え紋はきちんとした直線である。直線で無いと絵にならないからだ。ただ二引き両の幅に広狭をつけて変化を付けているの勘四郎だ。
何とも言えない作者勘四郎の自信を感じる。作者の自信は観る人に安心感を与え、余裕というか安らぎを感じさせる。ゆとりとも言える。

2017/9/10
この縁における桐紋、いかにも勘四郎らしく、柔らかく、かすかに湾曲していて、感じがいい。縁は江戸時代後期以降は高さが出るが、江戸時代の前期は奈良三作、宗珉にしても低い。だから縁の面積は狭く、そこにおける文様は小さい。上記写真は拡大しているだけだが、その小さな桐紋だけで勘四郎の魅力が全て出ている。

2017/9/8
華やかな金工作品ばかりだと、このような勘四郎の縁頭も観たくなる。「鑑賞記」も参照していただきたいが、写真でもわかると思うが、”勘四郎の縁”と騒がれるのも納得できる。頭は黒四分一の地金だが、縁は鉄地である。この鉄色はねっとりとした黒色で槌目地というより自然地とでも称する肌だ。桜の象嵌の横には窪みもある。自然な地造りだ。でも、このような肌にも関わらず、鉄味は物凄くよく、輝きも強い。かせた初代の黒楽茶碗の肌ではないが、照りのある黒楽茶碗の肌と同様だ。勘四郎の縁でも、ここまで鉄味がいいのはほとんどない。

大森英秀(張果老図縁頭)

2017/10/10
創意を心がけた芸術家志向のあった職人だったのであろう。曲線、丸みの表現は「大森波」と呼ばれる作品にも繋がっている。金梨地象嵌は、これを地一面に施した華麗な作品につながっている。

2017/10/8
この彫りを観ていると、曲線、丸みの表現が優れていると思う。あるいは作者自身が曲線表現・丸み表現が好きなのだと感じる。その分、頭の彫りにある瓢箪の肩にかけた紐の直線や、頭髪の先の鋭い線が生きている。

2017/10/6
この縁頭を自身の差料に付けた人は、どのような理由、気持ちで注文・購入したのだろう。酒が好きな人だろう。あるいは「瓢箪から馬」の故事から意外の幸運を願ったのではなかろうか。あるいは1日に白驢で数千里行く張果老の故事から旅の安全を祈願したのだろうか。
芸術品は作者の狙い・意図の解明に力を注がれるが、需要側の要望(芸術とは今の我々が言うことで、当時は実用品であり、作者は需要側の要望も無視できない)にも目を向けることも大事だろう。

2017/10/4
縁の張果老の顔は後ろ向きでわずかに上を向いているだけだから表情はわからないが、頭の張果老の顔、髪の毛、髭は特異であり、魅力的である。ただ者ではない風貌である。畳んだ白驢の六角形の薄い紙を気に掛けているのだろう。ご苦労さんとでも労っているのだろうか。

2017/10/1
松の幹は手をかけて樹皮の様子、そこに生える草(苔)類を金で象嵌したり、洞(うろ)を彫ったりして老大木として彫っている。一方、松の枝葉は丸く彫って模様的に済ませている。いずれにしても背景のアクセントだ。
縁の張果老は白髪の老人か老婆のようだ。後ろから上を向いているところを彫る構図は、大黒様が大きな袋を背にして上を向いている図でも見たことがあるが、それを応用したのであろう。衣服の模様の象嵌は英秀らしい。また瓢箪は頭のと違って、表面に細かい凹凸を付けたものだ。瓢箪まで変身させているのだ。

2017/9/30
独特の技法としては、頭における六角形の平象嵌に、その上に毛彫をしたり、金梨地象嵌をしていることだ。張果老の方術をいかに見せるかを工夫したに違いない。意欲的な作である。

2017/9/27
縁の馬(白驢)の肉置きは大したものである。胴体はコロッとして太り気味の肉置きだが、手足が短い。これは瓢箪から出てきたばかりで変身の途中だからであろうか。「瓢箪から駒」の語源だが、「意外なものから、意表をつくものが出て実現してしまう」という意味に解釈すれば、持ち主に想定外の幸運が来ることを祈ったのであろうか。

2017/9/25
この縁頭の鑑賞記も参照していただきたい。大森英秀は享保15年(1730)生まれであり、長常の享保6年(1721)より後だが、矩随の元文元年(1736)、昆寛の延享元年(1744)よりも前である。先代の大森英昌は宝永2年(1705)である。英秀の時代になると、縁の高さがこのように高くなる。
画題は唐の玄宗皇帝時に脚光を浴びた仙人の張果である。通常、親愛の敬称の「老」を付けて張果老と賞されている。方術(霊妙な術)を使い、愛馬の白驢(はくろ)に乗って1日に数千里を行くこともあり、休む時は白驢を六角形の紙にたたみ、乗る時は水を吹きかけて元に戻したという。酒を愛し、自分自身も自在に変装したと伝わる。

頭(かしら)では白驢をたたみ込んだ六角形の薄い紙を少し黒い四分一で平象嵌し、そこに得意の”金梨子地象嵌”と毛彫りで水滴のようなものを表現している。こういうところが大森英秀らしい。
縁(ふち)では、この写真では目立たないが毛彫りで瓢箪から水を彫っているのである。そして、その先に白驢を元気よく出現している。
白驢は白いロバとされているが、この縁の馬は赤銅で黒い。白驢とは、これで馬の愛称ではなかろうか。

石黒政常(鵲(かささぎ)に秋草図小柄)

2017/10/23
政常が彫る鳥は、動物として生きている鳥という感じがする。生気あふれると表現すべきか。

2017/10/21
カササギがオミナエシの枝に止まり、その枝がたわむ。止まった瞬間にカササギは顔を上げ、仲間でも識別したのだろうか、大きく鳴く。そしてオミナエシの枝のたわみが戻る反動を利用するかのように、カササギは再度、飛び立たんとする一瞬だ。
秋の野原の植物、鳥の生命力溢れる情景だ。
こんなのを見せられた当時の画家たちは、金工に嫉妬したことだろう。画面の制約無しに、大きく描けること。色を金工作品よりも多く使えることで活路を見出すしかないと思ったに違いない。

2017/10/20
この写真は不鮮明でわかりにくいが、地板は四分一で非常に細かい石目地(縮緬地と言うべきか)である。そして裏は金の薄い地板(薄いと言っても、この銘を切っても地の四分一が出ない厚さ)を貼っている。裏の金板は相当の金額になると思う。
地板が四分一の色だから、鵲の赤銅がよく映える。

2017/10/19
この写真ではわからないが、羽の付け根と首にかけてメリハリのある段差(一度身体側に凹んでから首に向かうような感じ)をつけているのを今回、再観して気が付いた。実際の鳥(鵲)もこのようになっているのだと思うが、これも立体感強調に資する工夫だと思う。

2017/10/18
鵲の肉置きが豊かで、より立体感を強調している。このあたりも石黒政常は違うような感じである。

2017/10/16
刀友が石黒派の作品を購入されたので、この作品を取り出す。この作品には当たりがあり、保存の状態は良くないが、銘が貴重であり、求めたものである。文政六年(1823)に64歳と明記されており、宝暦十年(1760)年に誕生(数えで一歳)したことがわかる。
石黒派は大森派とよく比較されるが、大森英秀は享保15年(1730)生まれであり、一世代前である。このページでは金工の年代を明確にしようと心がけているので、長常:享保6年(1721)、矩随:元文元年(1736)、昆寛:延享元年(1744)よりも後に生まれた金工であることを明記しておきたい。
すなわち石黒政常は文化・文政に江戸で花開いた”化政文化”を代表する金工なのである。門流は幕末・明治に続く。

銘だけが貴重なのではなく、作品もさすがに初代政常というものだ。鵲がオミナエシの枝にとまって、枝が一瞬にたわんだところを生き生きと彫っている。動の一瞬を静に転化させた写真のような芸術だ。



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