刀装具の楽しみ記
所蔵品の鑑賞のページ
今は鉄鐔の方が楽しいが、金工作品ばかり購入していた時期もある。金工品は寝床の中で鑑賞とはいかないが、ルーペも使って、ひねくり回して、拝見するのも面白い。
せっかく高い金出して、購入したのだ。楽しまないといけない。研究しなければいけない。図柄の意味もわかっていないものも多いのだ。
研究というと、ここでも鑑定大好きで、龍の額の八文字がどうのこうのと言う人もいるが、こんな見方は先生に任せて、自分の眼を活用することだ。
そう言うことで所蔵品を再観してみたい。もちろん、ここも独断であることをご承知いただきたい。
                     
後藤光乗 三疋獅子…国盗り…目貫 2018/1/26
後藤徳乗 馬具図小柄 2019/1/7
後藤栄乗 二疋獅子目貫 2019/1/15
西垣初代勘四郎 御紋図縁頭 2019/1/22
後藤光侶 枝菊小柄 2019/5/21
後藤廉乗 蝋燭図目貫 2017/9/17
後藤光寿 波泳ぎ龍(水龍)図小柄 2018/4/9
横谷宗珉 雨下竹虎図小柄 2018/12/27
横谷宗與 仁王図縁頭 2019/1/17
一宮長常 筍図目貫 2019/4/13
遅塚久則 玩具図目貫 2017/11/17
大森英秀 張果老図縁頭 2018/3/13
柳川直光 狗児図大小目貫 2018/12/29
鉄元堂尚茂 小人国図目貫 2017/11/30
浜野矩随 漢楚軍談-張良・樊噲図→(三国志:劉備・張飛) 2017/9/28
岩本昆寛 大森彦七図縁頭 2019/1/10
岩本昆寛 群馬図縁頭 2017/9/4
村上如竹 八駿馬図 2018/4/27
石黒政常 鵲(かささぎ)に秋草図 2019/2/19
大月光興 月下飢狼図目貫 2019/2/7
東龍斎清寿 鬼図鐔 2018/5/10
六世安親(昌親) 宝尽くし図大小縁頭2019/1/3
無銘(作者不明) 笹売り図目貫2019/7/16

肥後拵 御家拵写し2019/4/3
肥後拵 「の」の字拵2019/3/5

後藤光侶(廉乗)小柄



 
上段:全体、下段:枝菊アップ
19/5/21
枝に使用している赤銅(しゃくどう)は、素銅に5%ほどの金を加えたもの(他派では3%程度と言われている)で「烏の濡れ羽色」と称せられる色である。我々が常に思い浮かべる「赤」からは想像ができないから、この趣味以外の人は誤解している人も多い。
日本では赤色は白川静の『常用字解』によると「丹」「朱」(鉱物で染めた赤)と「紅」を使っていて、「赤」は(はだか、あるがまま)の意味だったようだ。『角川漢和中辞典』では「赤」は「大と火から成り、火がかがやくから火の色となる」と記されている。いずれにしても赤銅が真っ黒に輝く色になった理由はわからない。なお赤色には「緋」もある。

19/5/11
先日、静嘉堂に出向くと、後藤歴代と一乗の小道具が陳列されていた。この時、一乗のは”軽い”という感想を持った。もちろん一乗も名工で若い時の作品で後藤風に彫ったものもあり、そういうものと比較すれば違った感想を持つと思う。では後藤歴代の持つ相対的な”重さ”は何かと尋ねられると、それが”伝統”なのだろうか。具体的に言えないが、言えなくても感じるものは理解できるはずだ。

19/4/30
後藤本家は光侶(廉乗)の時代に江戸に出る。江戸に出なかった埋忠家は衰退し、吉岡家に替わられる。芸術的価値とは違うが、家業の発展に資した光侶の決断は大したものである。

19/4/24
枝菊を彫ったのだが、題材を彫る前に、この小柄を身に付ける貴人の御道具(持ち物)を後藤宗家を代表して彫り上げるという気構えがしっかり出来ていた人物だったのだと思う。後藤光侶という人は。

19/4/22
後藤家のお家芸である赤銅の漆黒の美しさを生かすために、地板と縁を四分一にしているのも工夫だろう。

19/4/19
色のセンスだけでなく、造形感覚も素晴らしい。菊の花を横長の画面に合うように、横長の花にしている。何でもないようなことだが、自信が無いと出来ないことだ。茎を船の形に据文して、船首(舳先)に菊花の蕾を前向きにし、船のやや後ろの蕾を持つ枝は帆柱のようだ。

19/4/18
金を各所に象嵌しているが、右側の蕾の金は少し黒みを感じる金、菊花の金は右側の濃い金色を上下ともに左に移るに連れて薄くしている。そして右側の銀は全体的に金色が残る。それにひき替え右側の菊花はより銀色らしい銀だ。銀は葉の露として8カ所置いているが大小があって、小さくなると葉の赤銅に紛れるようだ。そういう変化を付けている。一番左側の菊の蕾は少し開花が始まる。鮮やかな金色だ。
枝葉の赤銅は彫の変化で材質は変わらなくても、光が陰翳を附けてくれて表情に変化が出ている。

19/4/16
画家でも色遣いは天性のもので学んで到達できるものではないと聞いたことがある。彫金は限られた色しか使えないが、廉乗は天性のカラリストだと思う。金銀の使い方(配置、組合わせ、各色の各場所における面積など)の妙に感心する。

17/7/26
切ったばかりのみずみずしさだ。

17/7/1
この感覚は廉乗の一時代前の小堀遠州の「綺麗さび」という美意識を体現したものなのかもしれないとも思う。

17/6/27
この菊花にもあるが、花弁を金色から銀色へ移行させるべく、金の色を徐々に薄めていくように象嵌しているのは凄いと思う。詳しくは思い出せないのだが、筆を高彫りした栄乗か誰かの作品にも、このようなグラデーション象嵌を見たことがある。高く評価したい。

17/6/26
今の刀装具数寄者の中で、後藤物の大名品を御持ちで、後藤に特に詳しい方から「廉乗は馬鹿にできないですよ。自分が今まで拝見した廉乗作の中では光侶銘で『小柄百選』(長谷川赳夫・藤井正宣 著)の9頁にも掲載の佐藤嗣信最後図の小柄は凄かったです。夏雄が推賞したものですが」とのことであった。本でもわざわざカラー頁にしてあるが、この写真だけでは凄さはわからない。

また廉乗、後藤の銀について、別のこれまた有名な刀装具数寄者から「後藤家の銀に関する情報は聞いていないが、純度の高い銀の可能性はあるかもしれない。ただ別府の愛好家が御所持されている後藤作品における銀は真っ黒になっていた」とのことでした。別府は温泉=硫黄の地です。

17/6/24
(廉乗の後藤宗家の八代としての自負は、蝋燭図目貫の6/24のコメント参照)

17/6/21
(廉乗が”銀の名人”なのではとの論は、蝋燭図目貫の6/21のコメント参照)

17/6/19
私が感じた「ますらおぶりの品の良さ」と言うことは、江戸期の鑑定家野田敬明が著書『金工鑑定秘訣』の中で述べた「気格抜群にして面白く、見所ある作なり。ー中略ー上彫荒く、濶達(闊達に同じ)の気象見ゆる」と同様である。
”気格”とは広辞苑に「品格。気品」とある。”闊達”とは「度量がひろく、物事にこだわらぬこと。こせこせしないこと」とある。
私だけでなく、先人も、光侶廉乗の正作を観た人が感じる印象なのだ。

17/6/16
小柄の裏板と縁(小縁、棟方、戸尻、小口)は四分一である。この為に、枝菊の赤銅の黒が引き立つのだ。光侶はこういう効果も狙ったのに違いない。普通の後藤の小柄のように、周りも全部赤銅の真っ黒ならば枝菊の彫りは埋没し、全体が重たい感じとなる。

17/6/12
私は、日本刀柴田の「刀和」における「刀装具の鑑賞」欄で、この作品を紹介した時は「強さのある品の良さ」あるいは「ますらおぶりの品の良さ」と表した。この感想は変わらない。

後藤家の作品というと、上三代、上六代と遡る方がいいとか、祐光顕、あるいは祐光即、祐光通として、祐乗に光乗、それに顕乗、あるいは即乗、通乗というのが世評であるが、世評をなぞるだけではつまらない。自分の高いお金を出して購入したものだ。

私は”品の良さ”という視点では廉乗光侶が一番ではないかと思っている。私の論を納得していただくには、この作品を観てもらえばいいのだが。

ちなみに、これは『刀装金工 後藤家十七代』(島田貞良、福士繁雄、関戸健吾 著)に所載されている。

どう彫れば、このように品良くなるのかは、私のような品のレベルが低い人間にはわからないが、わからないなりに少し分析する。

周りは四分一である。四分一だから少し黒の色調が薄い。そして枝菊の彫物は後藤家特有の見事な漆黒の赤銅である。
これに金銀を使って、花と蕾と露を表現している。真ん中の菊花の花弁は金と銀を使い、金から銀へ移る様子を少し薄い金色絵で表現している。
また右上の蕾の金色も少しくすんだような金を使っている。逆に左に伸びた咲きかけた菊の蕾は鮮やかな金である。

「漆黒の赤銅の色自体に格調の高さ」は存在している。これが品の良さの一つの要因である。

もう一つは、「金銀、色絵の使い方に節度」があることだろう。金があまりに多いと成金趣味と言われることもある。ただ、金の多用も、使う人が使えば下品にならないと思うから、留意して欲しい。

彫物の形態把握にも品の良さは出ると思う。観ていただくとわかるように、「詰まった感じではないし、一方で拡散している感じでもない」。

こういう図柄は、花が主役になるが、ここでは枝葉もほどよく彫っている。だから枝菊図なのだ。その葉も広がっているものもあれば、縮まって丸まっているものもある。また虫喰い葉もあるが、「それぞれに過ぎたところは無い」。

露の置き方、これを程よいと言うのか、私には判断できない。

なお、「魚子も後藤家特有に細かく」、それも品の良さに関係していると感じる。

ともかく、この人が構図を決めて、描き、それを彫り上げると、自然に品が良くなるのだろう。「後藤家の伝統」であり、「京都の伝統」なのだろう。

”強さのある品の良さ”、”益荒男ぶりの品の良さ”と書いたが、”強さ”はどうして生み出せるのだろうか。

絵でわかりやすいのは、「枝菊の枝を切った先の切り口の潔(いさぎよ)さ」である。一方で「先端の蕾の伸びる力強さ」も大きい。
開花した花の右上の2つの蕾(一つはくすんだ金色を使った丸いもの、隣のは銀である)も、共に「上に向かっていく姿」で描いているのも関係があるのかもしれない。

そして、「江戸寛文新刀の最盛期、山野家の切断銘が隆盛の時代」に過ごしたことも、大きいのではなかろうか。廉乗光侶も時代の子だったのだ。

<益荒男ぶりで品の良い光侶廉乗の生涯>
”廉乗も時代の子”と書いたから、ここで廉乗の生涯を記しておく。

後藤家十代廉乗は、八代即乗の子(四男)として、寛永五年(1628)十一月二日に京都に生まれる。父の即乗が寛永八年(1631)の四歳の時に逝去した為に、その後、宗家を預かった理兵衛家の顕乗、程乗に技術を習い、生活の面倒をみてもらったと考えられる。
正保二年(1645)の十八歳時に四郎兵衛光侶を名乗る。そして承応元年(1652)の二十五歳時に宗家十代目を相続する。
明暦二年(1656)の二十九歳に江戸に呼ばれる。万治二年(1659)の三十二歳時に程乗とともに金分銅吹替の命を受ける。

そして寛文二年(1662)の三十五歳時に江戸定府を命じられ、本白銀町三丁目に住す。

そして寛文五年(1665)の三十八歳時に諸国分銅改を仰せ付けられ、天和三年(1683)五月(五十六歳)に法体となり廉乗となる。
元禄八年(1695)の68歳時に大判吹替を仰せ付けられ、大判三万枚(元禄大判)を製造したという。
そして元禄十年(七十歳)の七月二十八日に隠居する。そして宝永五年(1708)十二月二十三日に八十一歳で没する。

子の乗賢光嘉が天和三年(1683)に四郎兵衛となるが、貞享元年(1684)に二十五歳で没した為に、仙乗家光清の三男の光寿(通乗)を貞享元年(1687)に養子とし、元禄十年(1697)に家督を継がせる。なお光寿の最初の妻は廉乗の娘である。なお晩年に隠居後に実子光保を得ている。

栄乗、即乗も江戸でも仕事をしたが、江戸定府ではない。
製作年代は約45年の長期にわたるから作品も多い。

後藤光侶(廉乗)目貫

2017/9/17
一本、一本の蝋燭を縛ってある金の紐が、表は2箇所、裏は真ん中に一箇所と違う。これは何か意味があるのだろうか。それとも廉乗のセンスで、このように変化を付けたのであろうか。共に同じよりも感じはいい。

2017/6/28
後藤家の折紙における代付けは、人物の図柄(七夕、源平合戦など)が一番高く、次いで龍、獅子、それから植物、そして器物となっているようで、器物は鑑賞家から低く見られているが、今の芸術基準で見ると、むしろ独創的なものが多く、面白いと思う。人物、龍、獅子など同じような図柄ばかりだ。それに対してこの蝋燭は、この題材を、このような形で作品にしてしまうのは凄いと観るたびに感心する。

2017/6/26
(廉乗の最高傑作と後藤の銀についての、2名の数寄者からの意見は枝菊図小柄に掲載)

2017/6/24
この無銘の目貫、光孝が廉乗と極めた折紙を出しているから、それで問題は無いのだが、伊藤自身が廉乗と極められるのか?と投げかけられたら、私は後藤家各代の作品を精査していないから難しいとしか、答えようがない。感覚である。

では、その感覚とは何かというと、最近思うのは光侶廉乗の作品が醸し出す”自信”が一つの鍵ではないかと感じている。技術を習った後藤程乗とその父後藤顕乗は理兵衛家の人間で、宗家の四郎兵衛家の人間ではないのである。これに対して、光侶廉乗は歴とした宗家の八代(今は宗家を預かった顕乗、程乗を八代、九代として十代とされているが)なのである。その”自負”が”自信”に変わって、この作には出ている。「私が宗家の八代目です」これが感じられるかどうかだ。

2017/6/21
後藤家で銀を多く使いはじめたのは程乗とされているが、先人が光乗と極めている作品にも銀は使われており、この通説には疑問がある。それはさておき、廉乗は銀の良さを十分に発揮した”銀の名人”と思う。この作品は銀の地を彫り込んだ蝋燭に、金の結び目を付けている。また枝菊図における花では銀の方を多く使っている。
銀は通常、空気中にあると黒く変色するものだ。これは空気中の硫黄分(硫化水素)に反応する為だ。私が所有する志水初代の牛図における牛の斑も変色している。ところが、廉乗(後藤家)の銀は変色しない。政権の金銀貨幣の流通に携わった後藤家の秘伝が施されているのではなかろうか。

2017/6/20
こちらの廉乗も「刀装具の鑑賞」、「手元に置いての鑑賞」に鑑賞記を記しているが再掲する。無銘だが後藤光孝の明和四年十二月七日付けの折紙「銀金色絵蝋燭目貫 作廉乗 代金一枚五両」が付いている。また『刀装小道具講座2-後藤家-』(若山泡沫著)の口絵写真に掲載され、『趣味の目貫』(若山猛 竹之内博 著)にも所載されている。

後藤家の図柄は定型的なものが多いと言う人が多いが、これは独創的で変わった図柄で、意欲的である。
むしろ町彫り金工・流派創設者以外の門流の作品、例えば石黒派、菊岡派などの方が定型的である。(流派創設者の石黒政常や菊岡光行などは独創的なところがあり、流派の創設とは、そういうことだと改めて思うと同時に、これら創設者と門流はもっと差を付けて評価すべきなのだろう。芸術はそういうものだ。)

後藤徳乗小柄



2019/1/7
この馬具図は豪華で格調高いが、これをお手本にして彫技をふるうには、あまりにも複雑・巧緻であり、後代の後藤家当主も匙を投げたのではないか。だから乗真などの馬具図を写していったのであろう。

2019/1/5
乱雑に置かれている縄に対して、轡の円形、鞭の先端の紐は整った円形であり、これが絵を締めているような感じもする。もう一つ絵に締まり、まとまりを与えているのは鞭の柔らかな曲線だ。うまいと思う。

2019/1/4
この画題(馬具)を、このように絵にして彫れるとは。この画題を、このように豪華に彫れるのは。この画題を、このように格調高く彫れるのは。
後藤家は当時の狩野家(狩野永徳、狩野山楽、狩野探幽)に匹敵する家である。

2018/1/29
古田織部との交流を書いたが、狩野永徳(天文12年(1543)~天正18年(1590))が元亀2年(1571)に大友宗麟の招きで、久我晴通、怡雲宗悦、後藤徳乗、吉田牧庵らと共に土佐国を経由し豊後国に下向(『中江周琳宛宗固書状』)し、臼杵丹生島城の障壁画を描いた(『大友興廃記』)という史実があるとの情報を得る。徳乗が22歳で永徳が29歳である。
永徳は晩年には豪壮な巨樹の表現などが「怪々奇々」(かいかいきき)の作風と評されている。過労死したとも言われるが、あまりに膨大な仕事の為に粗く慌ただしい筆法で大画面を描いていったとも言われる。知己でもあった永徳の「怪々奇々」の一側面”豪壮”に影響を受けて刀装具に取り入れたのが後藤徳乗ではなかろうか。
獅子の彫物では、頭部が大きめで獰猛な感じを出して体躯は筋肉質に彫る。そういう作風を稲葉通龍は「むっくり(肉付きよく肥えたさま)」と評した。この馬具図でも思い切り馬具を画面に広げて、一見乱雑に見せながらも大胆、緻密に彫り上げた。

2018/1/28
徳乗は天文19年(1550)生まれで、寛永8年(1631)に死去している。古田織部は天文12年か13年の生まれであり、織部より7~6歳年下である。慶長6~9年頃(1601~1604)というと、徳乗が52~55歳ころとなる。

2018/1/23
古田織部』(諏訪勝則著)に、古田織部が慶長6~9年に行った茶会に、多くの武将の中に茶人や曲直瀬道三らと交じって後藤徳乗がいることが記載されている。当時の文化人の一人なのだ。

2018/1/21
栄乗の二疋獅子目貫に関して徳乗の獅子も比較した。そして徳乗の獅子は頭部が大きめで獰猛な感じを持ち、体躯は筋肉質と感じた。獰猛という言い方にマイナスイメージを感じるならば強く逞しいと言い換えても良い。
この徳乗馬具図小柄の「手元に置いての鑑賞」において「非常に細かく彫っているにもかかわらず、繊細な印象はせずに、むしろ逞しい印象を持つ」と書いているが、感想は今でも変わらない。
稲葉通龍は「むっくり(肉付きよく肥えたさま)」と評したが、器物の彫りに肉付きをよくしたら絵にならない。しかし器物においても”逞しい”感じ、”強さ”を感じさせるのが徳乗なのではなかろうか。比較研究の結果、少しわかってきた感じがする。

2017/12/24
徳乗の作風として古伝にある「むっくり」(肉付きよく肥えたさま)という特徴だが、有名な尾張徳川家伝来の能の猩々舞図における人物などは、まさに「むっくり」という感じである。牽牛織女図や布袋図もそうだ。ただ後藤の人物は全体に「むっくり」だから徳乗の特徴でいいのかはもう少し研究したい。
また徳乗桐として名高い桐紋も、すっきりはしておらず何か華やかで全体に「むっくり」している感じはする。だから古伝はそれなりに正しいと感じる。
この小柄に「むっくり」感を強いて探すと、縄(手綱、差縄、引綱かは不明だが)の盛り上げ方に感じる。

2017/12/23
後藤栄乗の二疋獅子目貫に絡んで、栄乗の作風として本に書かれていることを記したが、それでは徳乗の作風はどう書かれているかを改めて確認する。
徳乗の人柄を褒めた言葉(①容直にして威あり、②豊かにして人に誇らず、③彫物細工に妙、④勇にして虚談を言わず。この4つの徳から四郎兵衛と名乗り、徳乗になった)があるが、作風への言及は光乗と同様で穏やかで金象嵌の名人という感じで、明確ではない。
『日本装剣金工史』(桑原羊次郎著)から抜き出すと、「むっくりという彫りで、光乗の作に見紛う」(稲葉通龍の言を現代語訳)、「光乗をよく守りて位ある作なり、光乗作の少し紋低くなる方に見ゆるものなり、(中略)細き金象嵌の名人なり。」(野田敬明の言を現代語訳)、「穏和なる風、模様高からず低からず良い加減、肉合豊満にして痩せず、味わうべき彫刻風なり。金象嵌の名人なり。」(夏雄の言を現代語訳)である。
この小柄においては鞭にわずかに金象嵌があるが、技量を云々するほどのものではない。金色絵と銀、赤銅の使い分けは見事であるが。
また光乗と同様とか、穏やか、穏和という感じはしない。光美が何をもって徳乗と極めたかは、上記の作風解説からは理解できない。
ただ、人柄から滲み出る「威」「豊か」「細工に妙」「勇」という印象は、この小柄から感じられる。

2017/9/6
命の無い器物を彫ると当然に変化の無いものになる。変化は配置、構成で付けるが、その中でも縄は自由度が高い。それを徳乗は最大限に使う。馬櫛の上方の縄の置き方など面白い。

2017/7/13
命の無い器物だが、それを生あるがごとくに、生き生きと躍動感のある彫物にする。凄いことだと思う。

2017/7/12
中央の銀の轡(くつわ)は、赤銅の上に銀を焼き付けたものだ。また金色の部分も赤銅地の上に金を焼き付けたものだ。この小柄における金銀の色絵を取り除いたら、全部真っ黒な赤銅ということだ。
その赤銅の各種彫り物で生み出す立体感(縄の重なり、左側では鞭の上に縄、その縄が別の鞭の下を通るなど複雑)はどうして彫っていくのだろうか。

2017/7/3
この乱雑な配置を絵にした徳乗は怖ろしい。私であれば縄の下絵を描いている段階で混乱するに違いない。それを立体的に彫り上げるのだ。何が何だかわからなくなる。それを徳乗はまとめ上げている。

2017/6/30
中央の銀は轡(くつわ)である。轡の中に菊花の模様があるのが鏡(かがみ:別名が杏葉(ぎょうよう)で、2つの菊花模様の鏡を結んで繋がっているのが喰(はみ)で、それぞれの鏡から出て先端が丸いのが立聞(たちぎき)、少し長く出ている棒状のが八寸(みずつき:別名が引手(ひきて)と言うことだ。
縄は長くて細いから手綱(たづな)ではなく、差縄(さしなわ)というものだろうか。それとも引き綱だろうか。それに金の馬櫛、赤銅で彫られた鞭(むち)のようなものが3つなのか、2つなのかわからない。
何で、こんな図柄を彫ったのだろうか。どうして、こんな構図にしたのであろうか。誰が注文したのであろうか。どんな人物が購入したのであろうか。想像を絶する。

2017/6/29
後藤家の器物の彫りを廉乗の蝋燭図目貫の鑑賞で褒めたから、この小柄が登場することを予想された人もいるだろう。後藤家において、器物を彫った小柄の中でも屈指のものと思っている。
これまでも「手元に置いての鑑賞」や刀和の鑑賞記で紹介しているが、観るたびに「ワォー」と驚きを感じるものだ。
この頁で廉乗の作品を改めて鑑賞し、”銀の名人”と書いたが、この徳乗の作品も銀を主役にしているのを改めて認識する。ただこの作品は金の役割も大きい。

一宮長常

表目貫と裏目貫のそれぞれの写真の縮尺は異なる。
2019/4/13
裏目貫は写真が鮮明で無いので、わかりにくいが、四分一に毛彫をした中程の皮の上に、素赤を薄く象嵌し、そこに微少な金象嵌、そしてわずかに毛彫を乱れさせている。生写しであり、筍皮の傷を表現したのであろうか。

2019/4/10
対象物の材質感・質感までの表現を鏨と象嵌技法で表現できるんだ。

2019/4/8
筍の美味しい季節だ。それにしても、長常の筍の彫技には感嘆する。皮が剥けそうだぞ。そして中から白くみずみずしい、美味しそうなタケノコの身が出てくることまで想像ができてしまう。

2019/4/6
長常は、晩年は越前大掾を受領したり、名声に安住したのではなかろうか。正真とされている作品にも、感動するような作品は少ない。

2019/1/26
生々しいのだ。だから稲葉通龍が『装剣奇賞』の中で”生写”の言葉を使ったのだ。この2017/7/4において、生写の意味を”生きているように写す”と「写生」で「写実」と違うと書いたが、何か生々しいのだ。だから称賛されても需要には結びつかないから、作風を穏やかなものに変えていったのであろうか。

2018/12/11
彫技も恐ろしいほどの冴えである。筍の皮に描く筋、根元では膨らみをつけた毛彫で筋を入れる。皮の先端の尖った所などピンと上向いているから鮮度を感じるのだ。全体の肉置きを整える技、凄いものである。

2018/12/3
長常の作品は刀屋さんの店頭に出てくるが、このような写実の作品は見ない。片切彫に平象嵌、あるいは簡単な高彫程度のものであり、私はあまり魅力を感じない。この筍のような写実の粋を極め”生写”とも称される彫物は少ない。手間が非常にかかるのだろう。だけど、このような作品を造り出したことによって”東の宗珉、西の長常”という言葉が生まれ、喧伝されたのだ。

2018/4/1
上の筍の茎には泥まで表現している。こういうことが許されると言うかできる時代になったわけだ。

2017/9/21
近代の啓蒙主義思想ー「旧弊打破、ものを自分の眼で正しく見る経験主義、科学的合理主義」の思潮が日本の江戸時代後期にも生まれていたが、それが芸術分野にも出ていたことが、この作品からわかる。

2017/7/11
長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)であり、円山応挙は享保18年(1733)~寛政7年(1795)、伊藤若冲は正徳6年(1716)~寛政12年(1800)、与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)である。池大雅は享保8年(1723)~安永5年(1776)である。長常、応挙、若冲は写実。蕪村、大雅は文人画・南画という作風であるが、蕪村は俳句でもそうだが写実という面でも素晴らしい。「夜色楼台図」など出色である。安永頃(1772~1780)の京都に出向いてみたいものだ。
ちなみに京都では天明8年(1788)に天明の大火がある。

2017/7/9
材質感まで生写したと書いたが、その為の技法も凄い。私ごときでは明確に説明できないのだが、上部写真の筍、素銅でも皮部分と根元の方では色合いが違う。それに根元の方では泥のような汚れを赤銅(烏銅)でぼやーんと象嵌しているのか色付けしているのかわからない。そこに質の良い赤銅(烏銅)で突起(これから根が出てくる所か)を象嵌している。根元は切り取った白い根を金を象嵌している。上方の皮の部分も少しくすんだ素銅(これも色付けしているのかもしれない)に細かいが緻密な毛彫(葉脈)を施す。そうだ毛彫をする前に、赤銅(烏銅)で適当に斑点を象嵌しているのだ。そして各皮の先端は銀の含有量が高い四分一(この材質も正確かは不明)を芋継ぎして突起をつけている。その突起も勢いがある。実際の筍もこうなのだ。
長い方の下の筍も四分一に細かい金象嵌(赤銅象嵌もあるのか)などをした上で細かい毛彫りだ。ここの根元に花押を彫っているが、ここは厚い金で巻いて遊んでいるというか、技を誇っている感じだ。
筍の皮に施した毛彫を観ているだけでクラクラしてくる。

2017/7/4
今回、再観して世に喧伝される長常の写生の意味がわかった気がした。単にモノの姿を写実的に彫ったのならば、他の刀装金工と同じである。これまでは絵における円山応挙が粉本(ふんぽん=お手本)を写すだけでなく、自ら対称を写生して絵にしたように、従来は画題とされなかった(=粉本が無い)タケノコ(筍)、カエル(蛙)、カタツムリ(蝸牛)などを生き生きと彫り上げたから高く評価されたからと考えていた。もちろん、これも正しい。
今回、気が付いたのは、長常の真価は、そのモノの材質感まで写したことなのだということだ。この目貫で言うと、タケノコの皮の質感だ。そしてタケノコの根元部分の質感だ。ここまで写したから「写生」なのだ。このタケノコ、皮が一枚ずつ剥けそうだ。(雑誌「刀和」に掲載した「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」では、このような意味づけは出来ていないが、この目貫における皮の質感、触感の素晴らしさは鑑賞している)
カタツムリを彫った目貫の正作では、カタツムリのネバネバの体とカタツムリの殻の質感を彫り分けているのだ。
稲葉通龍が評した「生写」の意味は”生きているように写す”「写生」だからであろうか。「写実」とも違うのだ。

岩本昆寛(大森彦七図縁頭)

2019/1/10
この縁頭の彫物は、頭の彦七と鬼がメインの画題である。しかし昆寛は縁の鞍置き馬、老松の大樹というサブの画題の彫物も並みの金工では彫れないほどに巧みなものばかりである。老松の樹皮、洞(うろ)、松の葉や樹全体の立体感など頭が下がる。馬にしても、鬣(たてがみ)だけでも凄いが、馬具の立体感・質感の写実も見事だし、馬の身体の皮はコードバンの質感だ。

2019/1/9
町彫で名工とされている人は皆上手だが、昆寛のこの作品を観ると、鏨の線の綺麗なこと、潔いこと、丁寧なこと、勢いがあることに驚く。

2019/1/8
この写真でも地金の色は黄色味を帯びているが、四分一地に何か黄銅に近いものを入れているのではなかろうか。そして、この地に槌目を打ち込んで変化を出している。写真でも槌目の状況がわかると思う。鬼の顔、着物、彦七の着物、馬体は四分一であるが、地の四分一とは違って見えるが、槌目だけの違いで変化させているのだろう。同様に松の樹皮、松の葉、馬体、たてがみ、尾も同じ四分一だが、彫り方で素材感を異なるように見せている。

2017/8/8
川を渡れずに困った若い娘を、背負った彦七には慈悲の心のほかに、助平心もあったのだろう。その心が恐怖の瞬間に変わる一瞬だ。まだ鬼女の腕の力に変化がない。気が付いたのは川面に映った娘の顔貌の変化だ。修羅場はこれからだ。

2017/8/6
重要文化財の利寿鐔の鬼女は、鬼の面を写したようだが、昆寛の鬼女は野性的でダイナミックかつ鋭い。

2017/8/5
7/23に馬のたてがみの彫りについて記したが、鬼女の髪の毛の彫りも見事だ。この写真ではわからないと思うが、柔らかなカーブでフワッとさせるだけでなく、額にかかる髪の毛などは剛毛のように見えるように強く彫っている。馬の尻尾の毛で彫った方法を応用したのだろう。

2017/8/2
鬼女の姿全体は猫のような姿態を感じる。可愛らしく背中にしだれかかっていた若い女性だ。彦七の肩に手をかけている腕はまだ若い女性の面影が残っている。肩も撫で肩で、そこから薄肉彫で着物の袖の襞(ひだ)を柔らかく彫っている。重要文化財の奈良利寿の鐔では、袖に象嵌を入れているが、腕が横になり過ぎて不自然であり、私は昆寛の方が上手いと思う。

2017/7/31
さてメインの頭の彫りだ。有名で重要文化財の利寿鐔の図では鬼女も彦七の顔も同じ赤銅一色だが、昆寛は彦七の顔を素銅を使って彫り上げるという変化をつけており、一層興趣を高めている。加えて烏帽子を赤銅で、これも効果的だ。金で象嵌した烏帽子の紐は確実に固く、烏帽子を顔に縛り付けている紐だ。
色金の使い方はこれだけではない。彦七の眼に金を入れ、そこに赤銅の目玉として注目が集まるようにしている。そして、その眼は驚いて大きく見開き、目玉は背中の異変を把握しようと思って緊張感に満ちている。

色金の使い方が巧いだけではない。彦七の顔は額、鼻、頬、顎と平面に微妙な変化を付けて、実に立体感に満ちている。そこに口、鼻、眼、耳の輪郭を力強く彫り込む。眉毛の毛彫も柔らかく、先の方はまたタガネの向きを変えている。

2017/7/29
岩本昆寛は明和7年(1770)に27歳、安永9年(1780)に37歳、そして享和元年(1801)に58歳で作品がある。延享元年(1744)の生まれである。
長常の項で記したが、長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)、円山応挙は享保18年(1733)~寛政7年(1795)、伊藤若冲は正徳6年(1716)~寛政12年(1800)、与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)、池大雅は享保8年(1723)~安永5年(1776)であるから、京都写実より約20年遅れの江戸写実だ。

2017/7/27
そして、この馬の顔だ。特に眼は、主人の異変に気づいた一瞬だ。また前脚を突然に上げたような動き。こうして精密に彫った馬に生気を宿すことに成功した。ここに大森彦七の馬を出現させた。

2017/7/25
鞍の腹帯や手綱は金で象嵌している。馬の尻の方の帯は素銅の象嵌だ。「凄いな」と思うのは、尻の帯や鞍の腹帯は強く締まっているが、手綱は柔らかく、たわんでいるように象嵌している。そのよじれ具合も、どうしてここまで上手に手をかけて仕事が出来るものかと感嘆する。

2017/7/24
馬の身体を形取る線は柔らかく強い。鞍の部分は平滑に彫っているが、馬の皮膚の部分は平滑に見えるが、細かく浅い線を引っ掻くように彫っている。顔は立体的に彫り、鼻の穴は力強い。
鞍の前輪と後輪は赤銅(烏銅)を用い、丸く柔らかく遠近感を出して彫る。前輪と後輪の縁を線で形取るように彫り、その線の内側には細かいタガネを打ち込んでいる。馬の立体感と、各馬具の材質感が出ていて見事である。

2017/7/23
今度は脇役の馬の彫りを観よう。まず、馬のたてがみの彫りだ。地を柔らかく薄肉彫りで仕上げ、そこに非常に細かい毛彫だ。毛の一本、一本を彫り上げているように柔らかく、細かい彫りだ。フワッとした毛が見事に表現されている。首筋の線も何とも言えないカーブだ。たてがみの中から耳が緊張感を持って突き出ている。
馬の尻尾の方は薄肉彫のタガネを入れて、そこから毛彫で同様な彫りをしている。毛彫はたてがみよりも深く入れており、それは尻尾の毛がたてがみの毛より固いからだろうか。


2017/7/22
この松、全体を御覧いただきたい。「大」の字に手を広げた化け物みたいだ。洞(うろ)は一つ目だ。背負った美女が鬼に変身した異様な空間だが、松の大樹まで化け物に変化したのだ。

2017/7/21
地金は、脇役どころか舞台そのものだが、その処理もさすがである。銅に銀の四分一だと思うが、亜鉛も入っているのだろうか、真鍮的な色だ。何度も言うが実際はもう少し黒い。その地を軽く叩いて凸凹を出したのであろうか。あるいは粗い石目地に造ってから、その上を擦って滑らかにしているのだろうか。よくわからないが地にも気を使っている。その結果、陰翳(より真鍮的色と黒い四分一的色)が出来て、この場面・空間に漂う異様さを表現している。

2017/7/20
松の幹の右側は片切りタガネ的に右際は地に垂直近くにタガネを入れ、そこからなだらか・幅広く彫り、大樹の陰翳部を表現して、立体感を出している。なだらか部分は平滑で、上部の枝が入った部分の上にだけ三角タガネで幹の傷を表現している。影の部分だから樹皮の模様などなくてもいいのだ。

2017/7/19
縁の松葉の彫は、毛彫ではなく、松葉の上部が少し広がるように深くタガネを入れる。それを松葉らしく扇状に正しく細かく彫る。重なって交叉するところもあるが、その場合は片方を浅く彫る。ともかく力強い松葉だ。
枝の金象嵌部分は真ん中を少し高くしている。正面だけでなく幹を挟んで右側にも金象嵌の枝があるが、こちらの金色は少し赤みがあるぞ。褪色というより色を変えているのかもしれない。
幹には浅く細かい毛彫で樹皮の皺を彫り、上部の窪みは三角タガネを力強く打ち付けている。
幹が下部で右に流れている部分も同様な打ち込みタガネがあるが、ここは幹を彫り上げてから三角タガネを入れている。幹の彫り上げと書いたが、幹そのものも薄肉彫(表面より低く彫る過程で高低の立体的彫りをする)で立体感のある大樹を表現している。
洞(うろ)を彫る時は深く彫ると同時に際を柔らかく彫り上げているような感じで、より立体感を強めている。洞の中は汚れかもしれないが、黒っぽく色上げをし、深さを強調している。

2017/7/18
この写真の色は違う。全体に黄色が強くなり真鍮地のように見えるが、実際は四分一だから黒っぽいのである。彦七の烏帽子、馬の鞍の両端(前輪と後輪)は真っ黒な赤銅であり、その色を想像してもらえれば色調のズレは理解されよう。ただし明るく撮っているから彫技はよくわかる。たところなどヤンヤヤンヤである。枝を金で象嵌し、その上の松葉は不思議なタガネ線だ。このタガネの勢いと精密さだけでただ者では無いことがわかる。

浜野矩随(漢楚軍談-張良・樊噲図)→(三国志:劉備・張飛図)

2017/9/28
この8/16の記に、この画題は「漢楚軍談 張良・樊噲」としてきたが、違うのではないかとの疑問を呈した。その検討過程を「図は「張良・樊噲」か、それとも三国志か-所蔵の矩随作品の画題-」とまとめた。十分に検討はできていないが、現時点では三国志の劉備・張飛の図だと思う。
こうなると、これまで以下の日記に樊噲として書いてきたことは張飛であり、張良として書いたのは劉備のこととなる。

2017/8/30
生き生きとした人物表現、各人物の性格までわかるような表現、細部にも行き届いた彫りの技法、そして小柄を手に取って使用した時に邪魔にならず掌(たなごころ)に収まる人物像の位置、小柄を抑える親指の位置には彫りは入れない。そして間延びした空間を生かして上部に毛彫を施して絵にする。これが矩随初代だ。

2017/8/29
樊噲の顎髭の彫りは、顎の下が前面に見え、頬・耳の下に行くに連れて、後ろに見え、顎髭全体の立体感も出ている。また顎の下から胸にかけて、奥にいくような立体感もある。こういう彫りも見事だと思う。

2017/8/26
初代浜野矩随は天明7年(1787)に52歳で没したから、生年は元文元年(1736)である。だから岩本昆寛の延享元年(1744)よりも8年前である。長常の享保6年(1721)より、15年遅い。円山応挙の享保18年(1733)と同じくらいである。京都写実と同時代の江戸写実ということになる。大事な位置づけの金工だ。後藤では宗家13代の光孝が享保6年(1721)生まれである。柳川直光の享保18年(1732)生まれとほぼ同時代である。

2017/8/23
上部の松の木と雲の毛彫だが、タガネの太さを細かく替えて彫っている。タガネの種類を替えているのか、あるいはタガネを入れる深さを調節しているのか、私にはわからない。その中でも強く彫っている松の葉だが、この中心には深く点を打っている。
今回再観して、樊噲の目玉は赤銅を入れているのではなく、タガネを深く打ち込んでいることに気づいた。また張良の目玉も深い打ち込みであり、矩随のタガネ使いの特色の一つが、深い打ち込みタガネではないかとも思いはじめている。

2017/8/19
張良の顔の彫りは、各部位ごとに細かく、キチンと彫る、耳をこれほどリアルに彫った作品は他にも少ないだろう。目は深く彫り込み、眼球だけは彫り残し、形を整えている。鼻の立体感も出て、小鼻を形取るタガネも力強い。人相学に私は疎いが、それに詳しい人なら、以上の各部位の形から性格・運勢を占えるのではなかろうか。
全体の印象は理知的であることに加えて、胆力もある感じである。

2017/8/17
画題への疑問はひとまず置いておきたい。さて張良の彫りである。画面の左下に展開する肩から腕の彫りは自然である。肩から肘(上腕=二の腕)が手前に出ているように見え、その先の腕(前腕)は、奥側にいって手指に至り、文書(手紙)を前で持つ体型が自然である。衣服の皺の彫りが上腕部ではやや右上から左下に入れ、前腕部は上部から下への彫りを少しずつ変化させることで腕の膨らみを表現する。
以前の 「鑑賞記」において樊噲の手指の彫りとともに、張良の手指の彫りも褒めたが、改めて観ると、張良の手指は不自然である。軽い文書(手紙)類だから力が入っていないのかもしれないが、今一つである。ともかく手指の表現は難しいのだ。

2017/8/16
鑑賞記」においては、「漢祖劉邦の危機を救った鴻門の会における相談の場面か」と書いたが、鴻門の会の時は、もっと緊急を要する事態だったようで、こんな文書で相談というような状況ではなかったようだ。
この図は保存の証書では「三国志」の図としてあったが、私が戦前の本から漢楚軍談の張良・樊噲図と平成6年9月の「刀和」誌上に発表した。その後出版された『刀装具鑑賞画題事典』(福士繁雄著)でも76頁に「張良・樊噲」として同図の説明がされている。
今回、改めて「違うのでは?」との疑問も湧いてきた。江戸時代に流布した『漢楚軍談』や『三国志』の物語を精読する必要がある。

2017/8/15
改めて観ると、豪傑樊噲の視線と、指し示す左手の人差し指の方向が少しずれている。人差し指は張良の持つ文書を差しているが、目は右下の方向を見ている。
一方、張良の視線も、自分が広げた文書ではなく、横目でこちらの方(それは樊噲の見ている方向)に泳がせている。
2人が文書を読んだ後に、右手前に控えている者(座って待機している者)に指示を出しているように見える。「これ(文書)には、○○が書いてあるが、どういうことか?」と尋ねているような様子だ。『漢楚軍談』を読んでいれば、その場面が具体的にわかるのだが。
ともかく、当初は張良が読んでいる文書を、樊噲が指さして「何が書いてある?」と聞いたか、「ここに書いてある通りにやるか?」とでも打ち合わせていると思ったが、ちょっと違うのかもしれない。

2017/8/13
この小柄の「鑑賞記」は、よく書けた文章であり、付け加える点はないのだが、桐箱の中から、改めて観ろと言っているので手に取る。
薄肉彫と高彫を組み合わせた矩随ワールドである。そこに的確な色金を施す。豪傑樊噲は素銅だが、眉、口ひげを毛彫で表し、鼻、口、唇、眉間のしわなどは彫りで高低をつけて立体的に彫る。毛彫や眉間などの凹んだところは黒くなっているが、これは汚れではなく、何か色を入れているようだ。そして眼は金を入れ、眼球は深く彫り込んで赤銅を入れたように見せている。どのくらい深く彫っているのだろうか。
長い顎ひげは、地板の四分一をタガネを深く、細く入れることで表現しているのだろうか。自然である。顎ひげの彫りは顔の素銅の上から彫りは始まっているのだが、下の四分一部分と同じような色合いだ。どうなっているのだろうか。

岩本昆寛(群馬図縁頭)

2017/9/4
縁(ふち)の2頭は頭(かしら)とは反対に、それぞれの馬が顔を寄せ合って、お互いの親近感を醸し出している。連銭葦毛の馬は仔馬かもしれない。ここでも馬の重なり具合をやや上方の視点で彫ってうまく表現している。後ろの金色の馬が首を大きく曲げているところも遠近感の強調だ。
そして縁の裏側の仔馬(表の仔馬よりも幼い仔馬か)は母馬の方に駆け寄ってくるところだ。裏の真ん中ではなく、やや前側に彫物の位置を持ってきている。湾曲部であり、自ずと前(表側)の母馬の方に駆け寄る感情が表現できている。

2017/9/3
この縁頭作成に当たって、昆寛の彫金のテーマは「遠近感の表現」だ。そして画題のテーマは「馬を通した家族愛」だ。そして町彫りの偉大な先駆者の宗珉の馬の彫りを意識して、自分なりの彫りを実現しようとした。成功していると230年後の鑑賞者である伊藤は認めるし、他の方も同様に思われるだろう。
頭(かしら)の2頭は反対向きに彫り、それぞれの馬体の長さを、手前の馬を下部に彫ることで視点を上にして、それぞれの馬の姿態を上下に据えて、奥行きすなわち遠近感を出した。
尻を突き合わせているようだが、向こうを向いている馬は顔を少し後ろに傾けて、その目は金色の馬を気遣うように彫り挙げている。遠近感と家族愛だ。

2017/9/2
いずれの馬の目は、馬の目らしく澄んで美しい。そして姿態の観察も的確で、昆寛は自分で下絵も画いてから彫り上げたに違いない。姿態を絵でなく、彫金で表現するが、その肉置きは素晴らしい。

2017/9/1
この縁頭の「鑑賞記」も、よく書けているが、作品そのものも傑作である。昆寛は宗珉の馬(縁頭は「鑑賞記」の中に写真を掲載したが、他にも頭に正面を向いた馬の縁頭や、小柄の縦図で向き合う二匹馬の図もある)の彫りを意識したと思うが、写真で見る限りだが、優るとも劣らない出来である。宗珉の向き合う構図を、互いに尻を付き合わせるような構図に替えて、より立体感、遠近感を出すのに成功している。

西垣初代勘四郎(御紋図縁頭)

2019/1/22
桐紋のデフォルメは勘四郎が嚆矢と考えていたが、鐔書に掲載されている後藤徳乗(無銘)とされている金地の大小透かし鐔(秀吉の拵に付いていたのか)の桐がやはりこのようにデフォルメされているのに気が付いた。

2018/11/13
縁の地鉄も見事なのだが、初代勘四郎「巴桐透かし」の地鉄と比較すると違う。鐔の方は表面を磨き(平らにして)、錆付けを施していると思う。一方、この縁は鍛鉄の表面をそれほど磨かず、焼き手をかけての錆付けなのだろうか。

2018/6/24
ゆったり、のんびりしている。頭の九曜紋はなるめてあるが大胆な感じもする。もちろんなるめてあることで、その印象はやわらいでいるが底に緊張感を持つ。縁も表の桐と桜はゆったり、のんびり感が強いが、裏の二引き両の緊張感を忘れていけない。

2017/9/14
この縁における桐文は、鐔のデザインにされて大きく透かされると、「投げ桐」と言われる。この言葉も慣用的に使用しているが、何なのだろう。今回、この縁における桐文を観ていると、これは旗指物の旗に描かれた桐文が、旗がたなびくに応じて姿を変じているのを写したのかなとも感じるようになった。

2017/9/13
頭の九曜紋について、昨日はあのように書いたが、頭は擦れたりしやすい場所であり、頭の真ん中に高彫を入れるようなことは、当時は慣習として存在しなかった可能性もある。そこで『西垣』で他の勘四郎の縁頭を調べると波山道のように模様を彫っているものが多く、高く彫り挙げているものは糸巻きを真鍮象眼にして少し下部に据えている頭と、桜を銀で高彫りして据えているものがある程度である。皆無では無いから、上記のように言い切れないが、実用を意識した中での頭(かしら)として考えることが、この時代には必要だろう。(他国の金工作品でも縁(ふち)だけで、頭(かしら)は角というものもよく見かける)

2017/9/12
頭は黒四分一の地金である。九曜紋を上下に彫り、それをなるめるようにして九曜紋を目立たないようにしている。頭と縁は材質も違い、彫りの調子も異なるから、「取り合わせ」とも思えるが、”細川家の紋尽くし”と考えると一作金具となる。
当初は縁の作風の調子と異なるから別人の作かと思ったこともあるが、なるめた九曜紋を真ん中ではなく、上下に据えた趣向は、初代勘四郎の作品と感じさせる。他の作者ならば、もう少し九曜紋を目立たせて、自分の技術をアピールするのではなかろうか。そして、じっと観ていると、この塊は力強さを発していることに気が付く。

2017/9/11
桜も桐紋と同様の調子で、花弁の一枚ごとの面積の大小などには頓着していない。真鍮地の上の毛彫の深浅も花弁によって違う。一方で、縁の裏の引き両の据え紋はきちんとした直線である。直線で無いと絵にならないからだ。ただ二引き両の幅に広狭をつけて変化を付けているの勘四郎だ。
何とも言えない作者勘四郎の自信を感じる。作者の自信は観る人に安心感を与え、余裕というか安らぎを感じさせる。ゆとりとも言える。

2017/9/10
この縁における桐紋、いかにも勘四郎らしく、柔らかく、かすかに湾曲していて、感じがいい。縁は江戸時代後期以降は高さが出るが、江戸時代の前期は奈良三作、宗珉にしても低い。だから縁の面積は狭く、そこにおける文様は小さい。上記写真は拡大しているだけだが、その小さな桐紋だけで勘四郎の魅力が全て出ている。

2017/9/8
華やかな金工作品ばかりだと、このような勘四郎の縁頭も観たくなる。「鑑賞記」も参照していただきたいが、写真でもわかると思うが、”勘四郎の縁”と騒がれるのも納得できる。頭は黒四分一の地金だが、縁は鉄地である。この鉄色はねっとりとした黒色で槌目地というより自然地とでも称する肌だ。桜の象嵌の横には窪みもある。自然な地造りだ。でも、このような肌にも関わらず、鉄味は物凄くよく、輝きも強い。かせた初代の黒楽茶碗の肌ではないが、照りのある黒楽茶碗の肌と同様だ。勘四郎の縁でも、ここまで鉄味がいいのはほとんどない。

大森英秀(張果老図縁頭)

2019/3/13
この鑑賞記はよく書けている。人物、馬など丸味を帯びて豊かな立体感があり、躍動感がある。ゴテゴテしているようだが、嫌みはない。

2019/3/12
こういう作品を拝見すると、後藤の彫りで代付けが高いのは人物の彫りと言うことが理解できる。獅子、龍は象嵌することなく、鏨で表現できる。人物は衣服の表現で細かい象嵌が必要となる。顔の表情まで彫りで表現するのも難しい。また絵でもそうだと聞くが手指の表現は一段と難しい。これらを、この縁頭ではクリア-できており、大したものと思う。

2019/3/10
頭(かしら)の張果老が変身して縁(ふち)の老婆のようになる(仙人だから頭の人物も変身している可能性もある)。縁では後ろ姿にして顔貌を見せないようにしたのだろう。そして瓢箪からの水(酒)を頭では金の平象嵌を梨子地のように表現したが、縁では細かく浅い毛彫りで表現し、馬(白驢…はくろ)は六角形の紙から実物と同じ姿態に変身させるという場面の工夫にも凝った作品である。力を入れて作成したものだろう。

2019/3/9
頭の人物はそれぞれの部位(目、鼻、口、髭、頭部、毛髪、右手、左手とそれぞれの手指)も遠近感を持って巧みに表現されている。着物の襞は身体の形態、動きにあっているし、瓢箪はきちんと肩の後ろにぶら下がり、その重さは瓢箪の紐をピーンと張ることで表現できている。
立体感から外れているのは、瓢箪から呑んだ水(酒)を口からプーと吐き出し畳んだ白驢の六角形の薄い紙を出した平象嵌のところだけだ。だけど、これこそ英秀の新味である。目立たないような六角形を平象嵌し、その上に他の地と同様に水滴の平象嵌をしていく工夫は見事である。

2019/3/8
この時代、中国の八仙人の物語が日本で紹介されて人気になったのだろう。明の呉元泰が『八仙東遊記』と言う本が出版されている。これが新しい画題となったことで生まれた作品ではなかろうか。

2017/10/10
創意を心がけた芸術家志向のあった職人だったのであろう。曲線、丸みの表現は「大森波」と呼ばれる作品にも繋がっている。金梨地象嵌は、これを地一面に施した華麗な作品につながっている。

2017/10/8
この彫りを観ていると、曲線、丸みの表現が優れていると思う。あるいは作者自身が曲線表現・丸み表現が好きなのだと感じる。その分、頭の彫りにある瓢箪の肩にかけた紐の直線や、頭髪の先の鋭い線が生きている。

2017/10/6
この縁頭を自身の差料に付けた人は、どのような理由、気持ちで注文・購入したのだろう。酒が好きな人だろう。あるいは「瓢箪から馬」の故事から意外の幸運を願ったのではなかろうか。あるいは1日に白驢で数千里行く張果老の故事から旅の安全を祈願したのだろうか。
芸術品は作者の狙い・意図の解明に力を注がれるが、需要側の要望(芸術とは今の我々が言うことで、当時は実用品であり、作者は需要側の要望も無視できない)にも目を向けることも大事だろう。

2017/10/4
縁の張果老の顔は後ろ向きでわずかに上を向いているだけだから表情はわからないが、頭の張果老の顔、髪の毛、髭は特異であり、魅力的である。ただ者ではない風貌である。畳んだ白驢の六角形の薄い紙を気に掛けているのだろう。ご苦労さんとでも労っているのだろうか。

2017/10/1
松の幹は手をかけて樹皮の様子、そこに生える草(苔)類を金で象嵌したり、洞(うろ)を彫ったりして老大木として彫っている。一方、松の枝葉は丸く彫って模様的に済ませている。いずれにしても背景のアクセントだ。
縁の張果老は白髪の老人か老婆のようだ。後ろから上を向いているところを彫る構図は、大黒様が大きな袋を背にして上を向いている図でも見たことがあるが、それを応用したのであろう。衣服の模様の象嵌は英秀らしい。また瓢箪は頭のと違って、表面に細かい凹凸を付けたものだ。瓢箪まで変身させているのだ。

2017/9/30
独特の技法としては、頭における六角形の平象嵌に、その上に毛彫をしたり、金梨地象嵌をしていることだ。張果老の方術をいかに見せるかを工夫したに違いない。意欲的な作である。

2017/9/27
縁の馬(白驢)の肉置きは大したものである。胴体はコロッとして太り気味の肉置きだが、手足が短い。これは瓢箪から出てきたばかりで変身の途中だからであろうか。「瓢箪から駒」の語源だが、「意外なものから、意表をつくものが出て実現してしまう」という意味に解釈すれば、持ち主に想定外の幸運が来ることを祈ったのであろうか。

2017/9/25
この縁頭の鑑賞記も参照していただきたい。大森英秀は享保15年(1730)生まれであり、長常の享保6年(1721)より後だが、矩随の元文元年(1736)、昆寛の延享元年(1744)よりも前である。先代の大森英昌は宝永2年(1705)である。英秀の時代になると、縁の高さがこのように高くなる。
画題は唐の玄宗皇帝時に脚光を浴びた仙人の張果である。通常、親愛の敬称の「老」を付けて張果老と賞されている。方術(霊妙な術)を使い、愛馬の白驢(はくろ)に乗って1日に数千里を行くこともあり、休む時は白驢を六角形の紙にたたみ、乗る時は水を吹きかけて元に戻したという。酒を愛し、自分自身も自在に変装したと伝わる。

頭(かしら)では白驢をたたみ込んだ六角形の薄い紙を少し黒い四分一で平象嵌し、そこに得意の”金梨子地象嵌”と毛彫りで水滴のようなものを表現している。こういうところが大森英秀らしい。
縁(ふち)では、この写真では目立たないが毛彫りで瓢箪から水を彫っているのである。そして、その先に白驢を元気よく出現している。
白驢は白いロバとされているが、この縁の馬は赤銅で黒い。白驢とは、これで馬の愛称ではなかろうか。

石黒政常(鵲(かささぎ)に秋草図小柄)

2019/2/19
この小柄の年紀銘だが「文政六癸未」と「みずのと」までは明らかだが、次ぎの字を佐藤寒山氏の箱書は「夏」としているが、この字がわからない。「夏」の異体字、旧字と考えて調べても、現時点の調査では存在を確認できていない。では別の字として、同様な漢字を探してもピタリと合う漢字も無いのである。特別貴重の証書では小柄の銘と同じ形の漢字を書いているだけである。なお「夏日」(かじつ)という熟語は存在し、文字通り「①夏の日。夏。②転じて、恐ろしい人物。」と『角川漢和中辞典』にある。

2019/2/18
写実の彫りだが、カササギを実際に観て彫ったのかは疑問である。江戸にカササギはいなかったと思う。生きた鳥を扱う業者がいて、そこから購入して写生した可能性もあるが、沈南蘋(しんなんぴん)などの中国の花鳥画にカササギが画かれていて、それを写した可能性が高い。
カササギは中国の伝説に七夕の時にカササギが列なって天の川に橋を架けるという伝説があり、中国絵画が取り上げるのはおかしくない。日本では、この伝説を踏まえて『新古今和歌集』で大伴家持が「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」が採られ、それを本歌とした寂蓮法師の「かささぎの雲のかけはし秋暮れて夜半には霜やさえわたるらむ」が詠まれている。寂蓮法師の歌の意を受けて秋野の絵として日本人画家が構成して描いた絵があったのではなかろうか。

2019/2/17
江戸琳派より少し前の時代(享保16年(1731)~享保18年(1733))に長崎に来た沈南蘋(しんなんぴん)の写実的な花鳥画が紹介されている。そしてこの画風も広く受け入れられていた。熊斐(ゆうひ)、宋紫石(そうしせき)(いずれも日本人)などが政常より前の時代に活躍していた。私の感想だが、これらは少しアクの強い写実花鳥画であり、むしろ政常の弟子筋の作風に近い。

2019/2/16
弟子筋は花鳥を彫る面積が鐔の全面になるとか、多くなりがちである。だから絢爛・華美の感じがするのだと思う。顧客へのサービスが多くなるのだ。後から世に出る者の一つの生き方である。それに対して政常は絵をコンパクトにまとめて、対象物を生気あふれるように彫りあげる。

2019/2/14
石黒派は絢爛、華美と称されるが、総帥の初代政常は絢爛、華美という感じよりも、鳥類はお家芸の鷹の彫りもそうだが、生気ある彫りで、生物らしい鋭いところと言うか厳しい感じをいだく。

2019/2/13
図は江戸琳派風な絵を彫っているが、地が四分一だから豪華ではない。しかし江戸っ子らしく、裏板は絢爛豪華な石黒派の総帥らしく金である。しかも金の板を張っているように見える。
”裏地に凝る”という江戸人の精神が現れている。

2019/2/11
文政六年に64歳だと、江戸琳派の酒井抱一より一つ上、浮世絵師の葛飾北斎と同年齢である。酒井抱一には四季花鳥図がいくつかあり、その内の1枚(京都国立博物館蔵の二曲屏風)にオミナエシと桔梗が描かれており、共通の時代背景の元に描かれ、彫られたことを認識する。
酒井抱一は尾形光琳の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案した江戸琳派の祖とされるが、この政常の作品も雅なところ、詩情を感じられるところはある。酒井抱一がまとめた『光琳百図』はヨーロッパに渡り、ジャポニズムに影響を与えたと伝わる。近年、石黒派の作品が欧米で評価されているのも当然だ。

2019/2/10
この図は秋草にカササギだが、冬になると野鳥が目につく。拙宅には椿が多いからヒヨドリ、メジロがよく来る。先日は神社でハクセキレイを観る。妻はジョウビタキを観たそうだ。水辺の地ではもっと多くの鳥が観察されるのだろう。今から約200年前の文政年間である。当時の江戸では鶴(名所江戸百景「蓑輪金杉三河しま」をリンク)もやってきていたのだ。

2017/10/23
政常が彫る鳥は、動物として生きている鳥という感じがする。生気あふれると表現すべきか。

2017/10/21
カササギがオミナエシの枝に止まり、その枝がたわむ。止まった瞬間にカササギは顔を上げ、仲間でも識別したのだろうか、大きく鳴く。そしてオミナエシの枝のたわみが戻る反動を利用するかのように、カササギは再度、飛び立たんとする一瞬だ。
秋の野原の植物、鳥の生命力溢れる情景だ。
こんなのを見せられた当時の画家たちは、金工に嫉妬したことだろう。画面の制約無しに、大きく描けること。色を金工作品よりも多く使えることで活路を見出すしかないと思ったに違いない。

2017/10/20
この写真は不鮮明でわかりにくいが、地板は四分一で非常に細かい石目地(縮緬地と言うべきか)である。そして裏は金の薄い地板(薄いと言っても、この銘を切っても地の四分一が出ない厚さ)を貼っている。裏の金板は相当の金額になると思う。
地板が四分一の色だから、鵲の赤銅がよく映える。

2017/10/19
この写真ではわからないが、羽の付け根と首にかけてメリハリのある段差(一度身体側に凹んでから首に向かうような感じ)をつけているのを今回、再観して気が付いた。実際の鳥(鵲)もこのようになっているのだと思うが、これも立体感強調に資する工夫だと思う。

2017/10/18
鵲の肉置きが豊かで、より立体感を強調している。このあたりも石黒政常は違うような感じである。

2017/10/16
刀友が石黒派の作品を購入されたので、この作品を取り出す。この作品には当たりがあり、保存の状態は良くないが、銘が貴重であり、求めたものである。文政六年(1823)に64歳と明記されており、宝暦十年(1760)年に誕生(数えで一歳)したことがわかる。
石黒派は大森派とよく比較されるが、大森英秀は享保15年(1730)生まれであり、一世代前である。このページでは金工の年代を明確にしようと心がけているので、長常:享保6年(1721)、矩随:元文元年(1736)、昆寛:延享元年(1744)よりも後に生まれた金工であることを明記しておきたい。
すなわち石黒政常は文化・文政に江戸で花開いた”化政文化”を代表する金工なのである。門流は幕末・明治に続く。

銘だけが貴重なのではなく、作品もさすがに初代政常というものだ。鵲がオミナエシの枝にとまって、枝が一瞬にたわんだところを生き生きと彫っている。動の一瞬を静に転化させた写真のような芸術だ。

遅塚久則(玩具図目貫

2017/11/17
津軽家伝来で、その特集をした尚友会図録にも掲載されている。津軽家は五代信寿が宝永7年(1710)に藩主になる。小野派一刀流の達人で、書と画もよくし、漆芸家の小川破笠を援助したとされる。『”超絶技巧”の源流 刀装具』にも後藤通乗の作品の解説に津軽信寿は登場する。しかし、この久則は後の時代である。そして津軽家は信寿の晩年から財政が厳しくなる。そういう点で疑問もある。
そして津軽家は次代になると凶作、噴火などの自然災害も追い打ちをかける。さらに次の代だが天明の飢饉(1781~)で壊滅的となる。だから津軽家から早い段階で出たと思う。それをどこかの家(商人の家の可能性もある)にまとめて出したから、今も伝来が伝わるのだろうか。

2017/11/14
他(鉄鐔の愛鐔日記か?)でも書いた記憶があるが、このような再観をして良かったと思う。久則は色彩のセンスも素晴らしく、これに注意を向けなくては片手落ちだと気づく。全体の色の中で、柄の金梨地象嵌を観ると趣きが違う。画家において、マティスや梅原龍三郎などは色彩感覚が優れ、カラリストとも称されているが、金属という限られた色彩素材の中で、このような作品を生み出している久則に拍手を贈りたい。

2017/11/13
各素材の色の組み合わせ、配置なども美しい。10/30、11/2に記したように、同じ素銅でも、また同じ銀でも、やはり色合いを変化させているのだろうか。ダルマの顔の銀など、江戸のトトロの腹の銀とは違う。銀四分一という素材で少し黒めのものを使用しているのであろうか。

2017/11/12
今回、改めて精観したが、象嵌、肉置きの技術的な素晴らしさ、丁寧さばかりでなく、ポッペン、でんでん太鼓の直線的な柄と、ダルマ、江戸のトトロの丸まった造形との対比、加えてポッペンの尖端の広がり、でんでん太鼓そのものの円の対比も面白く、いい目貫だなぁと再認識している。

2017/11/11
江戸のトトロには白い和紙を貼って腹部を表現しているのだと思うが、この作品では白い和紙を銀象嵌で施し、和紙だから周囲がほつれるような様を、銀象嵌においても接点をキチンとしないことで表現しているような感じもする。
手の爪は赤銅で3本の指を象嵌しているが、手の素銅、腹の銀の上から象嵌している。ここでも素銅の上に銀、その上に赤銅の象嵌と重ねた象嵌技法だ。

2017/11/9
銘は「久則」とダルマのポッペンの柄の上部にダルマ側を上にして際端にあり、江戸のトトロのでんでん太鼓の柄の上部に「花押」だけが際端にある。
象嵌技術だけでなく、肉置きの上手さ、手間の掛け方も記しておく必要がある。裏からの叩きだしは深い。叩きだした後のタガネの跡はあまり見えないできれいである。丸く空洞になっている感じだ。驚くのはダルマとポッペン、江戸のトトロとでんでん太鼓は共に同じ素銅を一緒に叩きだしていることだ。江戸のトトロとでんでん太鼓、ダルマとポッペン、共にこれほどの高低差があるのに同じ素銅からの叩きだして一体として整形しているのだ。ポッペン部分、太鼓部分はそれぞれをダルマ、トトロに芋継ぎをしていると思っていたが、その痕跡は見えない。
加えて、ダルマ自体も脇が凹んで、顔の部分も凹んでいるが、これらの肉置きも作り上げている。トトロの腹の膨らみ、首は凹ませ、顔も立体的に彫っている。
ポッペン、でんでん太鼓の柄は赤銅を芋継ぎしている。

2017/11/8
久則に赤銅魚子地に玩具を高彫りした小柄が、どこかの本に掲載されていたように記憶している。揃いだったのかもしれない。これは津軽家伝来だが、津軽藩主の子息あるいは守山藩主の子息の為に命じられて製作したのかもしれない。

2017/11/6
久則を抱えた守山藩三代頼寛も優れた藩主で、藩財政の改革に取り組み、後には本藩水戸藩の改革にも起用される。また家康の伝記を編纂したり、書に優れ、絵も描き、菊栽培も愛好した藩主である。パトロンとなった藩主頼寛のセンスも久則の作品の背景にあるのだろう。

2017/11/5
遅塚久則の属した守山藩は水戸藩と同様に江戸定府(国元ではなく江戸で勤務)である。当然に藩士の大半も江戸暮らしである。そして守山藩二代頼貞(家督は元禄6年~寛保3年まで50年)は土屋安親を抱え、大学形(頼貞は大学頭)という造形を生み出した藩主である。久則はこの時代に生まれ、次の三代頼寛の時代に謁見して彫技を命じられたことになる。三代頼寛は父の好み・父からの伝統を受け継いで久則に期待したのではなかろうか。
久則も江戸暮らしであり、当然に彫技も江戸金工に習ったのであろうが、後世の水戸彫りに評される”やり過ぎ”感は感じられる。

2017/11/4
象嵌などが丁寧である。ポッペンやでんでん太鼓の柄は金梨地象嵌が細かく、ポッペンは金の色絵の上に赤銅で花に細かい蔓を象嵌している。江戸のトトロの腹も銀で象嵌し、その上に手の爪が赤銅で象嵌している。またでんでん太鼓は素銅に金と赤銅を象嵌し、その上に紐と叩く為のおもりを象嵌している。

2017/11/2
素銅の色で、特にポッペンの内部などは、汚れと区別もしにくいから確としたことは言えないが、ダルマの顔と、江戸のトトロの腹は銀だと思うが、ダルマの顔の方は四分一のように黒ずんでいる。一方、江戸のトトロの腹は銀色が強い。これも銀の黒ずみ具合の差とも考えられるが。

2017/10/30
鳥獣草花の彫りであれば、そのものに似ている、あるは生きるが如くという評も可能である。人物の彫りならば、特徴をとらえ、生気溢れるなどお評も出てくるが、これは玩具という器物の彫りである。しかも江戸時代のものであり、似ているかどうかもわからない。だから、この手の評はし難い。
どうしても象嵌技法などへのコメントになるから、鑑賞記に記したような内容となる。
再見して気が付いたのは、ダルマと組み合わせたポッペンの広がった内部だが、素材は素銅なのだが、何か色が濃く、黒い感じである。汚れとも思ったが、色を付けているのか、素銅に何かを入れて黒っぽくしているような気もしている。もちろん凹んだ内部だから暗いのだ。

2017/10/28
津軽家伝来の遅塚久則の目貫である。「刀和」に書いた鑑賞記では、右の玩具を「江戸のトトロ」としたが、いまだに何という玩具かわからない。
久則は享保10年(1725)に水戸藩支藩の守山藩士の子として生まれる。以降の経歴は諸書によって異なるが、宝暦6年(1756)の32歳時に藩主に謁見して彫技を命じられている。いったん装剣具の製作を中止し、40歳から再び鏨をとると伝わる。一書には彫技は38歳からはじめ、大森英秀に師事したとある。安永5年(1776)に52歳で隠居し、61歳で彫刻を廃し、隠居となり、寛政7年(1795)に71歳で逝去する。
今回、生年を明示しているので、師事したという大森英秀が享保15年(1730)と、久則より5年遅いことに気が付く。久則が38歳で師事したのであれば大森英秀は33歳であり、年下と言っても師事するにおかしくはない。32歳から師事だと、英秀が27歳となる。
英秀の師の大森英昌は明和9年(1772)に68歳で逝去とあり、久則が彫技を宝暦12年(1762)の38歳からはじめた年において、英昌は58歳とまだ存命中だったことになる。

鉄元堂尚茂(小人国目貫)

2017/11/30
『和漢三才図会』は大坂の医師寺島良安が正徳2年(1712)に刊行した百科事典のような書物である。尚茂が突然に逝去したのが1780年だから、刊行されて50年後あたりに、尚茂がこれを見て、画題にしたのであろうか。同書に所載されている手長、足長を彫った作品を尚茂は制作している。もちろん、この書に興味を持った人の注文の可能性もある。

その巻十四「外夷人物」という章に「小人」は所載されていて、今回、確認すると、その図も鶴に下に小人が5人いる図である。解説に「三才図会に言う。東方に小人国あり、名を□(私には判読できない難しい漢字)という。長(たけ)九寸。海鶴遇うて之を呑む。故に出る時は群行す」とある。
だから連なっているように彫っているのだ。そして視線の方向が様々なのは、実際に鶴に遭遇したからでなく、皆で警戒しているのだろうか。

2017/11/28
小人の着物の柄を書いておこう。①は小さな四角(色紙状)を菱形にして4つを更に四つめ結紋のようにした模様を散らす。②は小さな線(棒状)を4つ組合わせて花のようにした模様が散らばる。③は縦縞を3本ずつの柄だ。④は後方にいて識別しにくいが線を曲線にした波模様のようなものが見える。⑤も後方であり、太い縞が襟に入っているのだけわかる。⑥は後ろ向きだが、②と同様なのだが4つの組合わせでなく、5つを桜のようにしたものを散らしている。⑦は③が縦縞なのに対して横縞を断続的に入れている。
そして鍔のある帽子を被っているのが①と後ろ向きの⑥、鍔の無い丸い帽子が③である。他は後ろ上に束髪している。⑦だけが束髪に金を巻いている。

2017/11/27
小人の顔は、この写真ではわかりにくいと思うが、ルーペで観ると実に丁寧に彫ってあって感心する。①の小人の眼などは、裏に突き抜けるのではないかと思えるほどに深く窪みを入れている。①、③、⑥、⑦は鉄の顔、②、④、⑤は銀象嵌で顔を彫っている。ちなみに銀象嵌した顔を持つ小人は、手も銀象嵌をしている。

2017/11/26
京はともかくとして、当時の江戸は寛政の改革前の田沼時代であり、鉄の小道具などは喜ばれなかったと思う。ただ田沼時代に蝦夷地の開発気運が生まれるなど異国への関心が芽生えはじめた時代である。芸術は時代を先取りする面もあるが、鉄で質素倹約の時代を、小人国で異国船対応に追われる時代の魁(さきがけ)をつとめたのであろうか、不思議である。

2017/11/25
さて小人の方だ。7人いるから”七人の小人”だ。左端から番号をつけて観ていきたい。①は先頭に立って逃げており、後ろを振り返って後続を誘導している。②は先頭にしがみつき逃げている。③は②にしがみつきつつ上の鶴を見て怯えている。視線は右上だ。④は後方の小人とする。左上に視線を向けている。手は③ではなく、その右の小人⑤に向かってしがみついている。⑤も後方の人物だが④と同様に上を向いて、視線は左上だ。その下に⑥だが、後ろ向きに彫られ、首を上にあげ、帽子が見え、顔面は上向きだ。手は③と後ろの⑦に結んでいる。⑦は右端の小人だ。顔を上に上げ、後ろ上空(右上)を見ている。片手は⑥に添えている。

上記のように、左から順に顔の位置に従って①~⑦の番号を振ったが、手を見ていくと、①→②→③→⑥→⑦→⑤→④と見える。すなわち釣り針を横に置いたように①を先端に⑦が下の屈曲部、それから⑤、⑥と上方に曲がるようだ。円弧が崩れて、①を先頭に逃げ出しはじめているのだが、連なりは崩れていない。紐で電車ごっこをしている感じだ。

見上げる先が一方向ではなく、③は右上、④は左上、⑤は左上、⑥は真上からやや右、⑦は右上と不自然である。巨大な鶴を見ての困惑・混乱を表現している可能性もあるし、鶴は一羽ではなく、数羽がいて、それぞれを見ながら怯えているとも考えられる。③、⑥、⑦は間近に迫った右上の鶴に怯え、⑤、④は左から来襲する鶴を警戒しているのだろう。あるいは尚茂が絵として、このようにするのが効果的と考えただけのことかもしれない。

2017/11/24
昨日、後藤後代在銘の高彫金据紋の同様な姿態の鶴が縁頭の頭に彫られているものの写真を観たが、この尚茂の鉄の鶴の方が肉置きはいいし、生気がある。鉄で作ったから評価されているのではなく、彫技そのものが当時の後藤家当主よりも上手いから評価されているのだ。羽の尖端を大きく曲げているのも尚茂の工夫か。

2017/11/23
鉄でシャープに彫ると、手に危ないし、付けた錆が、その部分では落ちやすくなる。だからナルく彫らざるをえないと思うが、それでも、この鶴など見事なものである。肉置きにおける高低も、①羽の先から、②その上部の羽、③それら羽の付け根、④胴体下部、⑤胴体、⑥鶴の首、⑦鶴の頭部、⑧鶴の頭の金象嵌まで、付けている。羽の間とか脚の間まで含めるともっと多い。
そこに過不足の無い毛彫と象嵌。何より見事なのは、小人国を飛ぶ鶴の堂々とした姿の雰囲気そのものを表現していることだ。

2017/11/22
京都仏光寺通室町で鉄屋を屋号とする治国(あるいは国治)の門人と伝わる。先代がどういう鉄製品を製作していたかは不明だが、屋号・家職の鉄に強いこだわりを持っていたから、鉄での製作に向かったのであろうか。鉄で鐔は普通だが、鉄で目貫は普通ではない。
ちなみに、鉄の目貫では黒川古文化研究所に所蔵されている「鈍太郎図目貫」が優れている。

2017/11/21
赤銅地で作ったものは、出来に感心するが、あくが強い感じがする。尚茂の個性なのだろう。この鉄の目貫などは、鏨の彫り口がなるくなる為か、それが和らいでいるように感じる。本人も、このような自分の欠点を自覚して、鉄での製作に向かったのであろうか。

2017/11/20
先日、根津美術館の「鏨の華」展で光村利藻のコレクションにおける尚茂の赤銅魚子地高彫りの縁頭を2組拝見した。頭に三国志の人物、もう一つは頭に舞楽を舞う人物を彫ったものだ。あくの強い人物の顔(舞楽はお面だが)だが、力のある彫りで、感心する。
そこで所蔵の作品を再見する。細部を観るために写真を明るくしているので、良い写真ではない。
この図は『和漢三才図会』に「東方に小人国有り」と書かれている小人国の図で、普通の大きさんの鶴に対して、人物は小人ということだ。彼等が鶴を見て驚き逃げ惑うところだ。
安永九年(1780)ににわかに没すると伝わる。鑑賞記と昔、「刀和」に書いた「刀装具の鑑賞」も参考にして欲しい。
鉄という素材を細かい細工に用いるのは不利だと思うが、よく彫っている。でも何故、鉄を使ったのだろう。

後藤光乗目貫(三疋獅子…国盗り)

2018/1/26
ライオン研究会(獅子目貫を持ち寄っての勉強会)でも、この目貫の出来の良さには感嘆の声が上がる。小ぶりだが、それぞれの獅子の姿態の自然さ、伸びやかさと、それぞれの獅子の表情を違えながらも、いずれも見事な顔つきの目貫は外にない。芸術的価値だけで言えば重要文化財級だと私は思っている。

2017/12/25
栄乗、徳乗の作風に関する先人の言を紹介したから、光乗についても記しておこう。『日本装剣金工史』(桑原羊次郎著)から適宜現代語に直して引用する。笄の棹の特徴などは除いて、主として目貫や作風に関してである。
「彫物の手際はいずれも乗真の手際より細かにみえ、七子も粒揃い、いかにも見事なり」(後藤光信の談)
「元祖の心持ちにて上品に位ある彫なり。強からず弱からず」(稲葉通龍の「装剣奇賞」より)
「すぐれたる上工。彫刻のさま祐乗の掟を守り、元祖と見紛う物多し。(中略)すべて祐乗の風ありて、元祖よりとりしまりたる(?)丁寧綿密なる彫りかたなり」(野田敬明の「金工鑑定秘訣」より)
「目貫の紋柄格好ともに宗乗・乗真時代より小ぶりなり、目貫の格好少し横長なり。金目貫は薄金にて色絵目貫は厚金なり。(中略)陰陽根もあり、しからざるもあり、一体に大きくなし、目貫の山谷の肉合い頃合いなり。」
「技術もっとも優絶にして、その鏨行き祐乗に似て、肉強く、綿密周到なる仕方なり。細かく締まりて品格あり。後藤累代中屈指の技量家にして祐乗、即乗と並び称されて三作と仰がれたり」(加納夏雄の談)
ともかく褒めているが、似ているとされる祐乗の作風も12/17に書いたように幅があり、具体的にはわからないのが実態である。
ともかく上手で、小ぶりなのが光乗であれば、この目貫など、最たるものだ。

2017/12/19
購入した二疋獅子(栄乗)についてアップした。そこで、いずれも先人の極めであるが四代光乗、六代栄乗(一疋獅子)、七代顕乗(2組)、八代即乗、十代廉乗に覚乗の二疋獅子目貫の写真を掲示した。詳細に観ると、それぞれの違いがあって興味深い。

2017/12/17
後藤の古いところは在銘品が無いから、極めも感覚的である。祐乗作品について夏雄は「鏨数がいたって少なく、荒くおおらか」と評し、確かにそれにあてはまるような作品(信長所持という金の鞍置馬目貫や、銀と赤銅の狗児目貫など)があるが、もっと精密な作品もある。それは初代信仰(初代が一番偉い=だから初代が一番上手い)からの極めではなかろうか。古折紙も記述内容は簡単であり、合わせ折紙が存在することも否定できない。陰陽根と切り欠きなどの形式を言う人もいるが、根は代えられていると言う主張もある。価値=金額に関係するから所有者も黙っていない。東京芸大の後藤家文書の解明や、削ることなく材質分析ができるようになるなどの新しい鑑定技法などに期待したい。

2017/12/13
新たに購入した目貫が二疋獅子なので、各種本から、後藤家代々の写真を拝見する。その中で『刀装金工 後藤家十七代』にカラーで所載されている祐乗と極めの名物「薩摩守」と同「山の手」と名付けられている二疋獅子の顔に、この目貫の獅子の表情が似ていることに気が付き、なるほどと思う。

2017/12/12
日本刀柴田の「刀和」において鑑賞記を連載していた時、原稿と同時に現品を持参して掲載用の写真を撮る。これを持参した時、柴田和夫氏がしみじみと拝見された後に、ご子息に箱を渡されて「和光、よく拝見しておきなさい」と言われたのが印象に残っている。

2017/12/11
この目貫は銀座の盛光堂の先代斎藤光興氏から求めたものだ。平成12年4月に、お店に出向くと、この目貫を見せられる。感激するものの重要刀装だから非常に高い。そしたら「ともかく買っておきなさいよ」と強引に勧められる。それまで盛光堂さんからは通乗の波游ぎ龍の小柄を求めただけだ。その強引さによって、その場で決断したが、何であんなに強力に勧められたのだろう。
今ではこのご縁に感謝している。箱に付属の紐がボロボロになっていたから、その場で今の紐に替えてくれたのも覚えている。

2017/12/9
目貫は刀を佩用した時に目立つから、「目貫(目抜き)通り」という言葉が生まれたとの説もあるが、目貫は人に見せるものではなく、佩刀している自分が観て楽しむものだと気が付いた。合口拵だけを佩用して、城中に座している時に、楽しめるのは自分の目貫だけなのだ。

2017/12/7
絵の狩野家は永徳は信長から300石を賜るというが、狩野宗家の中橋家は江戸時代は時代によって小異があるが山城国戸寺村で120石程度である。幕府御用の狩野探幽(鍛冶橋狩野家)は河内國客坊村で200石余(後に分家し百石)である。この点、後藤本家は栄乗は250石で、江戸詰め料として20人扶持(百石相当)である。当時の評価が推し量れる。
最近読んだ日本美術史の本における桃山美術に後藤光乗が取り上げられていたが、こういうのはもっと刀剣・刀装具界の方からアピールすべきと思う。ただ前代の祐乗も含めて無銘というのは弱い点である。

2017/12/6
金無垢目貫は、主として合口拵で鮫皮を着せただけで柄糸を巻かない柄(出し鮫柄)において使用されたのであろう。常に腰間にあって眼にした小道具である。三所物の中でも一番大きく、また出来も良いのが普通である。そして目立つだけに、使用出来たのは大名や、大藩の高級武士だけだろう。風紀の取締が弱い時期には豪商が吉原通い時に使用したかもしれないが。
江戸中期以降になると、出し目貫(柄糸の上につけて太い糸で2箇所ほど縛る)として使用した武士もいるかもしれないが、糸が切れやすく、怖い使用方法だ。
私などは、こういう目貫を拝見していると、身分は高くないが合口拵の目貫にして常時帯用したいと思う。勇気が湧いてくるではないか。

2017/12/5
この目貫はもちろん無銘であるが、重要刀装具として光乗と極められている。「刀装具の鑑賞」、「手元に置いての鑑賞」に鑑賞記を記しているから参考にして欲しい。「国盗り」の異銘は、覇気横溢した獅子たちの表情・姿態から私が付けたものである。司馬遼太郎の『国盗り物語』のイメージである。

この目貫を拝見すると、後藤の獅子の極め所として伝わっている箇所の違いなどはどうでもいいと思えるが、ここで説明しておきたい。
写真ではわからないが、獅子の「耳のこべり」に入っている鏨が無い。伝書には、これは祐乗だけの特色としている。
斑はどちらかと言えば木瓜である。伝書に上六代は洲浜とあるが、他の目貫を観ても、これは誤りであり、上六代に木瓜斑も多い。
額の八文字は表目貫の一番左側の獅子と裏目貫の中央の獅子のように横向きが強い獅子には不明確である。また表目貫中央の獅子の下部の八文字はつながって「へ」の字になっている。他の三疋には八文字が存在する。このように全部が揃っていないところも古い時代的である。
そして、まさに「山高く、谷深し」の彫りである。
裏の目貫の根は陰陽根である。光乗までに多いとされている。

この雰囲気は安土桃山時代だ。画で言えば狩野永徳の「唐獅子図屏風」である。その絵より躍動感があると思っている。

柳川直光(狗児(くじ)図大小目貫)


2018/12/29
かわいい こわい おもしろい 長沢蘆雪』という本を読んだら、蘆雪(1754~1799)も師の応挙も犬(狗児)を一時期多く描いていたことを知る。この本には蘆雪が応挙門下の天明年間(1781~1788)に画かれた狗児の絵が3幅掲載されていたから、この頃に流行したのであろう。柳川直光は享保18年(1732)年に生まれ、文化5年(1808)に76歳で逝去しているから同時代に全国的に流行した中での製作とも考えられる。蘆雪の絵の1枚には「趙州の犬」という禅宗の公案に関係する賛が画かれているとのことだ。

2018/1/8
犬の表情も何度も観ていると、次のような感じも持つ。もっともこのような感じは、こちら側の思い込みだし、その思い込みも、観た時の心境、気持ちで変化するものだ。所有者の戯れ言に過ぎないが、このように観るのも楽しみの一つだからメモしておく。
大の表目貫(上段左写真)の後ろの犬の表情は思慮深く、気遣いができるような感じだ。その前の犬は上を向いているがやんちゃな感じだ。大の裏目貫(上段右写真)の後ろの犬は身体を大きく曲げて下に顔を向けているが賢そうで慎重そうだ。その前の犬は元気そうだ。
小の表目貫(下段左写真)は、上の大・表目貫後ろの犬と同じような顔だが、強そうな感じも持つ。小の裏目貫(下段右写真)は太り気味だが、忠実そうだ。

2018/1/7
昨日、写実のおかしな点を指摘したが、これを言えば、後藤の二疋獅子でも、後ろ脚の表現などで写実という面からはおかしいところも存在する。だから新たに姿態を工夫した意欲を買うべきだ。
それにしても可愛い狗児(小犬)たちだ。

2018/1/6
一宮長常のような写実はまだ江戸に普及していなかったから、後藤家の二疋獅子の姿態を参考にして犬を彫る。顔は熊にも似ているが何とか犬らしくなるが、手足の太さも指も犬ではなく、獅子のままだ。姿態では裏目貫(右側)の後ろの犬を、身体ごと正面に向くように工夫した。この意欲は買うが、結果として肩の盛り上がりが不自然になって、犬の頭の後ろに大きなコブのような形が出来てしまった。

2018/1/5
犬の身体に金象嵌、銀象嵌で斑(ぶち)を入れているが、大の目貫の方では前面の犬にあって、後ろの犬にはない。また小の目貫には施されている。
斑の象嵌が施されている犬は小犬で、大人の犬になると斑が無くなることを表現したのかとも思うが、2疋の犬の双方に斑があると、見た目に煩わしいと判断したのかもしれない。あるいは後藤家の獅子における斑以来の伝統を意識したのであろうか。
金象嵌、銀象嵌を施した上から、体毛を表す細かい毛彫りをするのは神経を使う作業だと思う。
なお象嵌は目玉にも施され、効果を上げている。

2018/1/4
思い出したが、体毛として身体全体に細かい線のような彫りを入れたものに、私が所持している「月下飢狼」図目貫(大月光興)のオオカミがある。ただし、彫りの調子は違う。
太ってコロコロした犬と、痩せてあばら骨も感じられるようなオオカミとの違いだ。

2018/1/3
趣味の目貫』を再読したが、画題別にグループ分けして掲載されているが<龍・虎・獅子>と<動物>には柳川派の金工作品が多く掲載されていた。柳川直政以来の得意な図柄であったことがわかる。なお犬の掲載は宗乗と貞中(一宮派)の作品2点だけである。祐乗にも犬の目貫があるから、室町時代には犬という言葉を嫌う文化は無かったのかもしれない。

2018/1/2
手足、全体の姿態は後藤家の獅子の目貫と同様だが、次のような工夫を加えている。まず材質は赤銅であり、本来の赤銅の色は手足の爪部分に残っている。そのほかについては、細かい毛彫りを全面に加えている。ルーペで拡大しても、全面にわたって施されていて、どこに終点があるのかわからない具合に極めて細く、長い毛彫りである。毛彫りと書いたが、毛根よりも細い線彫りが施されている。櫛のような特殊な工具をまず造り、それで全面を撫でたようにも見えるが、カーブに沿ったところなどを観たり、凹んでいるところなど観ると、全部一本ずつ手で彫っていったように見える。はじめに赤銅の板に、この毛彫を施してから、ヤニ台に載せて叩き出したのかとも考えたが、象嵌の上からの毛彫であり、やはり姿態を彫った上での細工だろう。
犬の体毛を表現しようとしたのだろうが、獅子でも、虎でも、馬でも動物は犬に限らず体毛があり、この工夫は直光の工夫だろうか。怖ろしい手間である。

2018/1/1
戌年の新年おめでとうございます。今はワンちゃん愛好家が多い。安産のお守りもイヌだが、武士にとって犬という言葉は忌み言葉だった。犬侍など言われたら刀を抜くほどの侮辱だ。犬死は無駄な死、他にも負け犬、権力の犬など負のイメージの言葉が多い。植物などで食用に役立たないものにイヌを付けてイヌタデなどと呼ぶ。だから、この目貫も犬を使わず狗児と呼んでいる。
お犬様を大事にした生類憐れみの令は綱吉の死後の宝永6年(1709)に廃されている。江戸時代後期になると、大奥や吉原の遊女による狆(ちん)の大ブームがくる。当時は狆とと犬は別物だった。
そういうことであり、この目貫は戌歳の武士(大小だから町人でも苗字帯刀を許された者)が注文し、愛玩したのであろう。これは虎徹の大小入りの大小拵(ボロボロになっていた)から刀剣柴田の故青山氏がばらして、当時の柴田光男社長から譲ってもらったものだ。

2017/12/30
師父の柳川直政は師匠の横谷宗珉創出の横谷獅子の彫法を受け継ぎ、柳川獅子で名をなす。その獅子の彫りが生かされている。肉付きがいい。より狩野家風になり、額が広くなり、巻き毛や眉が渦巻きになったり、上から見た獅子、縦図の獅子、丸く収めたりなどの構図も工夫した。直政は鏨行が鮮麗で目の瞳を彫る時に眉の部分を鏨で一度上に上げて瞳を彫り、その後、眉を戻すという。
この犬の目貫の目も、上瞼(うわまぶた)が上がり気味になっていることが観てとれる。

2017/12/29
来年は戌年だ。刀和の「鑑賞記」も12年前の戌年正月に書いた。柳川直光は享保18年(1732)年に生まれ、寛延3年(1750)の18歳で柳川直政の門に入る。兄弟子の2代直故が寛延4年(1751)に亡くなり、師の直政によって養嗣子として取り立てられるが、師とも宝暦7年(1757)25歳時に死別した。その後、柳川三代を継ぎ、師の孫直春を育て、寛政年間に四代を譲り、自分は隠居し、娘婿の直時の為に柳川分家を創設する。そして文化5年(1808)に76歳で逝去する。出身地の相馬家と会津の保科家に出入りを許されていたと伝わる。遠州流の茶道も嗜む。直春、直時の外に、菊岡光行を育成している。一宮長常の享保6年(1721)、大森英秀の享保15年(1730)より後だが、矩随の元文元年(1736)、昆寛の延享元年(1744)よりも前である。
芸術作品に生き様は関係無く、放蕩無頼でもいいものを残す人はいるが、直光は見事な人生を送った金工である。

後藤栄乗目貫(二疋獅子)

2019/1/15
後ろの獅子の前脚の開き加減と伸びている様子、その前脚の長さ、それに前脚に付いている手指の彫りなどが溌剌さのポイントと感じる。

2019/1/13
会話の内容だが、表目貫(写真左)では口を開いている(阿形)後ろの獅子が「これから○○に行こうか?」と話しかけ、前の獅子(口を閉じている吽形)が快諾しているような会話だろうか。裏目貫では前の獅子が、後ろの獅子に呼びかける。「そっちではなく△△の方が面白くないですか?」とでも話かけているのだろうか。いずれも狩りなどの生死に関することではなく娯楽のような感じの会話と感じるのが時代なのであろうか。
二疋の獅子間の上下関係も前の獅子の方が可愛らしい感じで後ろの獅子より若い感じを持つが、それだけの関係ではなかろうか。

2019/1/12
同じようなことを書いているが、この獅子は元気が良く、楽しく、溌剌という感がする。視線のことを書いたが、二疋同士が楽しげに会話をしている。

2018/7/19
光乗の三匹獅子は畏れ多い感じがするが、この栄乗の獅子目貫は愛玩できる。出し目貫の合口短刀拵に付けていれば、殿中の退屈な評定(江戸時代の会議)の時でも楽しめる。四匹を観ていると、伸びやかで溌剌だし、ぼっとり(初々しく愛嬌のある)しているし、気品もあるし、お互いに信頼している様子に安心感も、愛情も感じる。
上役が「伊藤、お主の意見は?」と聴いてきた。

2018/6/4
佐渡に旅行に行き、佐渡金山を見学した。江戸時代初期は1トンの鉱石に金が100グラムも含有される優れた鉱山だったようだ。この目貫の重さは量っていないが、片側8グラム、両方で16グラム(純金ではないからもう少し少ない)と推定すると、160㎏程度の岩石から取り出したことになる。金鉱石は固く、鏨で砕くだけでも大変な作業だったのだ。こんなことを考えた。

2018/3/20
この二疋獅子は各代に類品があり、それが昔の後藤家の折紙等で極められており、しかも市販の本等に写真が掲載されているから比較の上、極めることもできるが、変わった図柄、珍しい図柄となると、私ごときには明確には比較できない。「乗真だ」「いや栄乗だ」とか印象では言えるが、難しいものである。「良いもの」「魅力のあるもの」「上手なもの」ということはわかるが。

2018/2/1
各代の写真比較をすると、特に裏目貫の前側の獅子の姿態が屈曲が少なく、伸びやかであることに気づく。この結果、この獅子の視線は、後ろ側の振り向いた獅子の視線の上に行っている。後藤の獅子は互いに視線を交わしているのが良いとされているが、この目貫は、その掟を破っている。
同時代より、少し後の狩野探幽の弟子(子どもたちの不祥事で破門されたとも伝わる)の久隅守景の有名な絵「納涼図屏風」(田舎家で百姓の家族が夕涼みをしているる絵)において、家族互いの視線が一致しない様子を着目する批評家がいる。近代では印象派のマネが、このような視線の絵を描き、近代人の意識(家族といえども疎外感を抱えて自立している)を描いたと評価されている。
後ろの獅子は心配しているが、前の獅子は構わずに駆け出す。これが溌剌さを感じさせるのだろう。
芸術家も伝統に囚われているだけではダメだ。同時に鑑賞者も伝統的な見方に固執してはダメだ。良さを素直に観なければ。

2018/1/20
栄乗の作風を評した『装剣奇賞』にある「少しぼっとり」だが、「ぼっとり」を広辞苑でひくと「女のふっくらとして愛敬のあるさま。また、ういういしく愛敬のあるさま」とある。「後藤栄乗「二疋獅子」」で実施した写真比較では”ふっくら”は息子の即乗の方がふさわしい感じだが、”ういういしく愛敬のあるさま”という感じは、私が感じる溌剌とか、伸び伸びと楽しく彫っているという感想に通じる。また表、裏それぞれの目貫における前側の獅子の表情はういういしく愛嬌があると感じる。
徳乗の作風を評した「むっくり」は「肉付きよく肥えたさま」であり、徳乗の獅子の頭が大きく堂々として獰猛にして筋肉質である様と通じる。

2018/1/18
栄乗、顕乗の兄弟は守成の時代と述べたが、守成と言っても安定した穏やかな時代ではない。内部の足場固めの時代である。各地の大名家でも御家騒動(長男相続を確立し、藩内を統一し、初代の功臣…軍臣を組織…官僚として動くようにする軋轢)もある。
光乗の獅子は所蔵の三疋獅子を「国盗り」と称しているように覇気横溢したもの、徳乗は頭が大きく堂々として獰猛にして筋肉質、作風で「むっくり」と称される。それに対して栄乗は、この目貫のように伸び伸びと彫って、溌剌として互いに信頼している様子を彫っている。穏やかな感じもするから、作風を「ぼっとり」と表現したのであろうか。

2018/1/17
昨日にかけて、「後藤栄乗「二疋獅子」」に新たに徳乗、栄乗の折紙付き同種獅子の写真を5点アップして比較検討を加えたが、この目貫には勉強させてもらっている。勉強と同時に楽しませていただいているのだからありがたい。
光乗、徳乗の戦国創業初代の時代から、栄乗、弟顕乗の徳川2代秀忠を中心とする守成の時代に入ったことが何となく理解できた。

2018/1/16
後藤の獅子には、この表目貫後方の獅子のように、舌を出しているものも多い。阿吽(あうん)の表現として、口を開けた形状と閉じた形状の対が基本だが、口を開け、舌まで出しているのは人間の仏像ではありえない。舌を出しても下卑た感じにならないのは凄いと思う。この目貫、堂々と舌をだしているではないか。

2018/1/14
昨日、昔の大刀剣市のカタログを見ていたら、2010年のカタログ144頁に刀剣王野という店に、光理折紙・栄乗極めの這龍図三所物の写真が掲載されていた。金無垢の龍だが目貫の裏の写真まで掲載されており、この根の曲げ方が私の二疋獅子によく似ている。薄さも薄い。叩きだしの状況は写真であり、明確にはわからないが、わざわざ目貫の裏まで掲載しているのは、この裏行きに感じるところがあったのではなかろうか。

2018/1/12
「山高く、谷低く」と言われるが、この目貫は裏を見てもわかるように高低差も十分である。ここまで薄い地金を、叩いて叩いて伸ばして立体化していくわけだ。金という金属の展性を理解している豊臣家の大判・小判を製造した後藤家だから出来たことであろう。
また、特に裏目貫で認識できると思うが、獅子のたてがみが後ろに流れているところの彫りはキレがあり、上五代を写すだけの彫技ではない。

2018/1/11
手元に置いての鑑賞」で弟の顕乗、息子の即乗などの二疋獅子を紹介しているが、それらに比較しても伝統に素直な、伸び伸びとした姿態で楽しく彫っている感じがして好もしい。

2018/1/10
この目貫については、栄乗と極めた経緯を「手元に置いての鑑賞」で詳しく書いたばかりだが、鑑賞的なことはそれほど書いていないので、ここに記しておきたい。
祐乗以来、五代の先祖が同じ二疋獅子を彫っている中で、この題材で彫るのは重荷だと思うが、この目貫は、そういう重さは感じさせずに、慣れた鏨使いで伸び伸び彫っている感じがする。獅子が得意だったのではないかと先の鑑賞記に書いたのは、そういうことである。

大月光興(月下飢狼図目貫)

2019/2/7
大きな更待月で空気が乾いている状況を、そして根から吹き飛ばされる枯れた葦で強い風を、あばら骨も見える怯えた狼で獲物が少ない冬を表現している。
この厳しい風景を詩情を漂わせて彫りあげている。これが大月光興の芸術だ。

2019/2/5
表目貫の狼の写実に対して、裏は写実したものを組合わせて、現実にはありえない一瞬を表現している。対象物の大きさも光興は変えている。こうして光興の心象風景を表現した。

2019/2/4
狼の姿態を忠実に写実するだけでなく、狼の感情(怯え)も表現し、その感情を観る人に共感できる叙情(冬野の厳しさ)の風景に昇華させたような目貫である。

2019/2/3
枯れ草を表現した摺りへがし象嵌も見事で、感じがよく出ている。枯れ草でも月光によって色が変化しているのであろうか。荒(すさ)んだ寂しい光景だが、更待月が明るさを出している。

2019/1/31
そのような迫真の写実を身に付けた光興が、裏目貫を彫ったのだ。ススキでの穂ではない。また、それが穂であれば、例え枯れ葉といえども、穂に対して下向きの方向というのはありえない。
やはり枯れ草の根を描いたのだと思う。枯れ草が吹き飛ばされているのだ。

2019/1/29
光興の絵の師匠岸駒(がんく)は「虎の岸駒」と称され、虎の絵を高く評価されている。岸駒は虎の頭蓋骨を中国商人からもらい、それに虎皮をかぶせて実際の虎のようにして写生したと伝わる。光興も犬の動作を研究して下記のような狼の感情まで画くようにしたに違いない。

2019/1/28
狼は尻尾を巻いているから脅えているのだろう。また耳を後ろに寝かせているのも怯えがあり、自分を守ろうとしているのだろう。ただ耳を後ろに倒し、頭を低くしているが顔を上げ、首を伸ばして対象に近づけて、見詰めている。また手脚も後ずさりではなく、前に進んでいる。目は好奇心を持ったような目だ。だから恐怖を感じる対象に対して、おそるおそる近づいていく様子だろうか。
確かに身体からあばら骨が見えて、痩せている。

2018/2/24
裏目貫、これも不思議な図だ。月はわかるが、手前の植物が不思議である。私は強い風に根ごと吹き飛んだ枯れた芦と見ているが、いくつかの見方があると思う。戦前の刀装金工の大家:桑原羊次郎氏は薄である。『刀剣金工名作集』も薄を踏襲しているし、証書もそうなっていると思う。
これを水面に映った月として、根ごとに流されている薄と見た目利きの刀屋さんの見解も面白く、豊かな審美眼の人だったと思う。
枯れた葉をスリへがし象嵌という技法で表現しているが、観ていると、その複雑さに驚く。

2018/2/22
尻尾を巻いて、耳を後ろにして怯えているが、首を下からグイッと伸ばして見ている様子は、怯えながらも好奇心旺盛(好奇心は違うのか、ただ警戒心という感じでもない)な姿は魅力がある。

2018/2/20
狼に施された細かい毛彫り。身体の部位、そして姿勢に併せて、その方向が実に細かく彫られている。直線は無く、細かく曲げられた線である。一本、一本の彫りに僅かな深浅はある。体毛のことを書いたが、狼の形態把握というか、その前の骨格把握が的確にされ、その骨格に合わせた肉を付けている感もする。
体毛は夜露に濡れて、身体に付いている感じもするし、やはり痩せた狼だ。もっとも野生の動物には、この辺で見かける犬・猫と違ってコロコロしているのはいないだろうが。

2018/2/17
この絵に因んでの発想として、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』がある。もちろん萩原朔太郎は近代に生きた人物である。江戸時代にも「月に吠える」という言葉はあるのかと調べたが、無いようである。
犬が吠えるということに関しては「一犬虚に吠え、万犬これに和す」ということわざがある。誰かがいい加減なことを言うと、追随者が真偽を確かめずに周りに広めてしまうことを戒めたものである。だけど、この図は吠えてはおらずに当てはまらない。
人間ならば、強い風に身をすくめるが、この風情を楽しむこともあろう。狼に託して人間の気持ちを表現したのであろうか。

2018/2/14
観るたびに感じ方が異なると書いたが、これまでの私の鑑賞の言葉も列挙しておきたい。画題も迷うところである。
  • 「画題:月下餓狼(げっかがろう)」…よく使われる言葉
    狼の獲物がなくなり、芦も枯れてくる季節だ。狼は餓えた姿だが、顔は獲物を狙うと言うより、この境遇を受け止め、荒野をさまよう中で、ふと月に気がついたような雰囲気に彫っている。月は十五日の満月を過ぎて十九日頃の寝待月か、あるいはもう少しあとの更待月ではなかろうか。狼が元気であった時期が過ぎたことを、満月を過ぎた月でも表現している。煌々としている月と、不自然な芦(葉や穂の形状から薄ではなく芦と判断)の構図が、塵芥も吹き飛ばすような野分の風が吹き荒れる澄んだ肌寒い夜空を表現している。(「刀和」の「刀装具の鑑賞」)

  • 「画題:月下餓狼→月下飢狼(げっかきろう)→月下豺狼(げっかさいろう)→枯野皎々(かれのこうこう)」と悩む。
    時は晩秋、風が強い。秋から初冬に吹く、強く冷たい風、すなわち木枯らしが吹き荒れている。その強い風のせいで、空気は澄んでいる。澄んだ空気の中に更待月(ふけまちづき)が昇ってきた。風は相変わらず強い。枯れ草をも吹き飛ばしている。飛ばされた枯れ草の根が、まるで薄(すすき)のように見える。晩秋の更待月(ふけまちづき)にふさわしい月見である。獲物が少なくなる冬を間近にした狼までもが月見を楽しんでいるようだ。(このHPにおける「手元に置いての鑑賞」)

  • この狼は飢えてはいるだろうが、獲物を求めているのではない。尾を巻いて、背骨を丸めて、姿勢を低くして、耳を倒しているのは怯えている状況だ。
    では何に怯えたのか。それは裏目貫の光景だ。強い風が吹き荒れて、葦の枯れ草が根ごとに吹き飛んでいる。その強風で雲が吹き飛んだのであろうか、夜遅く昇ってきた更待月(ふけまちつき)が急に姿を現した。その光景に狼は一瞬怯えたのである。(今回)

  • <参考>桑原羊次郞箱書「画題:月薄狼図」…植物をススキとしている。即物的画題。証書も同様。
    「大月光興の独壇場にして、荒涼たる風色真に満点のものなり」

  • <参考>ある目利きの刀屋さん「これは川か池の水面に映った月である。静かな水面である。そこに根ごと流されている薄が流れてきている。月の上に根がある薄があるのはこの為である」
2018/2/12
これまで刀和の「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」で書いてきたが、この目貫は観る側の心理状態、審美眼の変化などで印象が変化するものだ。今の私の解釈は次の通りだ。
この狼は飢えてはいるだろうが、獲物を求めているのではない。尾を巻いて、背骨を丸めて、姿勢を低くして、耳を倒しているのは怯えている状況だ。
では何に怯えたのか。それは裏目貫の光景だ。強い風が吹き荒れて、葦の枯れ草が根ごとに吹き飛んでいる。その強風で雲が吹き飛んだのであろうか、夜遅く昇ってきた更待月(ふけまちつき)が急に姿を現した。その光景に狼は一瞬怯えたのである。

2018/2/10
こういう図は注文なのであろうか。私は光興が自分で作りたいものとして製作したように感じる。その結果、これを観た人の心の琴線に触れて購入されたものなのであろう。今のTVは、笑いや明るさ、希望などの側面ばかりだが、人間の心根には今の言葉で言うところのクライ側面もある。もっともこの目貫からは諦観的な気持ちだけでなく、一種の逞しさも感じる。食物を探そうとする生命力の原点のようなものだ。
当時の京都画壇には伊藤若冲(寛政12年(1800)没)、与謝蕪村(天明3年(1784)没)と個性的な画家が先行していた。そういう画家の絵を受け入れる土壌の中で誕生した金工だったと思う。(若冲は昔は評価が低く、近年再評価された画家と思う人もいるが、当時は当時で評価されていた)

2018/2/8
動物を真に迫るほど=動物図鑑的に彫ることではなく、動物の置かれた状況を、それも動物らしい行動が出ている時ではなく、この目貫のように、狼が飢えて、あばら骨が目立ち、尻尾を巻いている様子をほる。長常から約半世紀後に出現した金工なのであろう。同時代の江戸の石黒政常は鷹の雄壮な飛翔の瞬間を彫る。鷹らしい行動が出ている時だ。政常よりも光興の方が近代に近いのかなと思う。

2018/2/6
京の三名工の一人と称される大月光興の目貫だ。これまでも刀和の「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」で触れてきたので参考にして欲しい。光興は明和3年(1766)に金工大月光林(日本彫物元祖市川彦助流)→光恒→光芳と続く家に生まれ、天保5年(1834)に69歳で死去する。
長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)であり、45年(約半世紀)の年齢差がある。光興は30余歳で江戸に下り、寛政~享和にかけて修業したと伝わる。矩随は元文元年(1736)生、昆寛は延享元年(1744)生であり、光興が江戸に出た時の大家である。石黒政常が宝暦十年(1760)年生であり、ほぼ同時代である。
絵画を岸駒に習うと伝わる。岸駒には宝暦6年(1756)生まれと、寛延2年(1749)生まれの2説があるが、現在は前者の方が有力と言う。岸駒は応挙に習ったとされ、天明2年(1782)から『平安人物誌』に掲載され、以降は京都の一流画家と認められている。「岸駒の虎」と称されるほど、虎図が得意であった。

横谷宗與:縁頭(仁王)

2019/1/17
縁の松の木の樹皮なども工夫している。上記の写真では松の木は1本しかわからないが、縁の横側(写真では左側)にも同様の松があり、反対側の横側(屋根のある側では左側)にもやや低い松がある。ただ葉や枝の調子は同じようなものだ。

2019/1/16
宗珉との比較で、劣る点を書いてきたが比較する相手が天下の宗珉だから仕方がない。しかし宗與の片切彫も生き生きと表現が出来て上手だと感心する。同じことは下欄の18/3/6で記したが、仁王の顔は宗珉下絵帳に比較しても威があって見事である。

2018/3/11
縁の図で、仁王の見上げるほどの大きさを表現したのかと、「刀和」での鑑賞記に書いたが、仁王のことはともかくとして、屋根の上にまで枝葉を伸ばす松の木の表現で、松の大きさは表現できている。では、仁王と松の組合わせに何か意味があるのであろうか。絵画の方も探索する必要がある。

2018/3/8
縁の図だが、上記写真で屋根の上部の線が右肩下がりになる方に、松の枝が屋根の上に彫られている。だから上から俯瞰している図であることは間違いがない。仁王が安置されている門の屋根を、本堂の上から観たところなのだろうか。もう少し図柄、表現に工夫があった方が良い。

2018/3/6
  宗珉の鑑賞記に私の妻が観た比較結果を記した(3/5記)。妻も技術的には宗珉の方に軍配を上げているが、宗與の仁王の顔はなかなかのものだ。

左図は「宗珉作品控帳」にある図である。この原本は、昔の刀屋さんで有名な網屋の番頭さんだった野田喜与重氏が所蔵されていて、私はある人からコピーをいただいたものである。この控帳は、人物図関係だけであったが、他に動物などの作品控帳もあると聞く。ただ私は詳細を知らない。あれば拝見したいものである。

私は刀和の鑑賞記を書いた時に、宗珉の高彫の仁王に対して、宗與が片切彫で対抗して仁王を彫ったと思っていたが、この作品控帳にあるように片切彫においても宗珉が既に彫り上げていたことがわかる。認識の誤りを正さなくてはいけない。

さて仁王の顔だが、宗與のこの縁頭の顔は宗珉作品控帳と同じようだが、下絵帳の顔が若々しい強さ・活力を感じるのに対して、私には宗與の顔の方に威厳を感じる。こういう顔を彫れる宗與は高評価に値する金工だと思う。
2018/3/4
頭(かしら)の仁王の図はいいのだが、縁(ふち)の表側の斜めの屋根、裏側の松は、どういう意図で彫ったのだろうか。刀和に掲載した時の鑑賞記では、山門の屋根、松の木の梢として、地上部を彫らずに空の方だけを画いたのは、見上げるほどの仁王の大きさを表現する為と書いたが、どうだろうか。
松の枝葉は縁の裏だけでなく、縁の横側のそれぞれに彫られている。いかにも覆い繁っている松の木だ。
屋根を斜めに描いたのがよくわからない。描く視点は上方からと思える。

2018/3/3
横谷宗珉の小柄の鑑賞記を書くにあたって、宗與の縁頭と対比した。そこでは宗珉の方が線の力強さが上とした。この通りなのだが、宗與の曲線は柔らかく、なかなかのものである。力強さにおいても、この仁王の目の力、鼻の力強さは大したもので、仁王の特質をうまく表現している。
宗與の他の片切彫の作品を写真で拝見しても、「布袋と唐子」や、「狩人と狐」などの曲線の彫りは名人である。
宗與は横谷宗寿の次男として元禄13年(1700)に生まれ、安永8年(1779)に没する。宗珉の養子となって、享保18年(1733)の宗珉没後に34歳で家督を継ぎ、明和3年(1766)に隠居する。英精の弟である。

後藤光寿:波泳ぎ龍(水龍)図小柄

2018/4/9
龍の身体の金色絵は頭部から尻尾に到るまでに徐々に色を薄くしていると感じる。これは光寿なりの遠近感ではないかと思う。

2018/4/4
龍の顔はともかくとして、波間に見え隠れする身体の方は連続性が感じられない。これは欠点である。

2018/4/3
この龍は少し変わっている。まず角が1本である。普通は2本角である。それから眉の上には額(ひたい)があり、そこに八文字の皺が2つあるが、それから頭部にかけて毛で覆われている。
龍の顔面は威厳よりも溌剌感が強いが生気が溢れていてうまいと思う。

2018/3/30
通乗光寿は寛文3年(1663)~享保6年(1721)の生涯である。横谷宗珉(寛文10年(1670)~享保18年(1733))にやや先んずるが同時代である。後藤仙乗の三男で、貞享二年(1685)に宗家の養嗣子となり、元禄10年(1697)に家督を継ぐ。仙乗は顕乗の四男で程乗の弟であるから、通乗は顕乗の孫、程乗は伯父である。
通乗は視点を下(横)にして彫ることで、波の水しぶきを空中に上げるようにしている。同じ趣向の作品として「決河流水図小柄」がある。波の暴れ方がダイナミックである。

2018/3/28
銀の波は、かなり凝った彫りであり、力を入れて制作したことが理解できる。龍に立ち向かうような波頭、龍の動きに合わせるような山形の波。巧みで美しい。

2018/3/26
この龍は後藤家歴代の作とされる龍とは、上唇がそれほど上方にまくれ上がって見えないこと、額から毛のような流れが頭部の形に添って流れているところ、何となく表情が明るいことなどが違う。角は一本である。
龍の顔も、栄乗の二疋獅子を極める時に実施したように、歴代と比較するといいのだが、あれも手間のかかる作業であり、まだ行う気にはならない。

2018/3/25
玉を獲て、急いで泳いでいるのだろうが、龍が泳ぐ姿のイメージが掴まえられなかったのだろう。動いているのは波の方で、龍の方は浮かんでいる感じがしてしまう。

2018/3/24
この小柄の図を観ると、通乗光寿は龍を題材に”絵”にすることに苦心したのだと思う。それまでは龍単体=龍という想像上の動物を彫ることに注力し、そこにおいて威厳とか勢いなどを表現していたと思う。背景に波紋(定型的だが)を彫って、そこに龍を据えた小柄も程乗に観たが、それも波紋の上に這龍を据えただけに終わっている。
通乗光寿は、波の中を泳いでいく龍を描こうとしたのだ。3/22で紹介した三所物の「水龍」の龍は、まだ波に浮かんでいるような感があるが、これは波の中を泳がしている。ただ、不自然なところはある。それは時代というものだろう。

2018/3/22
この小柄の画題に「水龍」と括弧書きを入れたのは、本棚から1992年の日本刀剣の販売カタログ「サムライ美術」が出てきて、そこに通乗の同様な図で三所物が第24回重要小道具として「水龍図」として掲載されていたからである。そちらは波が赤銅であり、龍がもう少し波の上に現れている図である。通乗の図なのだろうか。
なお、この小柄も刀和の「鑑賞記」や、手元に置いての鑑賞において触れているので、参考にして欲しい。

村上如竹(八駿馬図鐔

2018/4/27
両方の櫃孔を赤銅で埋めているが、これなどは後で埋めたというよりは、如竹自身が縮緬地との対比を出す為に、自分自身で嵌入して鐔を納品したのではなかろうか。地の変化というか、縮緬地というものを意識させられる。

2018/4/24
この鐔で不思議なのは高彫も、彫りが簡素なことである。如竹の高彫では大胆な構図の恵比寿留守模様(鯛と釣り竿)や勝虫などが思い浮かぶが、小柄に白魚や蟹などを精緻に高彫した作品、縁頭で関羽などを大胆精密に高彫した作品など、細かい彫も見事である。
この鐔における高彫は細かくは彫っていない。これは、平象嵌、片切彫でのデッサンのような馬に合わせた為と考える。

2018/4/23
この地金が縮緬地(ちりめんじ)、縮緬石目地と呼ばれるもので、村上如竹の独創ではなかろうか、現時点では、先駆した者を私は知らない。赤銅は磨地のままだと手の脂などの跡が残りやすい。この為、魚子(ななこ)地を開発したのが後藤家である。地の技法は、他にも石目地、槌目地、腐らしなどがある。素材(金、赤銅、山銅、鉄、四分一、黄銅=真鍮、鉄など)との組合わせで工夫していることが多い。金では霰地(あられじ)などもある。
緋色銅の独創にも触れたが、縮緬地と言い、村上如竹はもっと高く評価されるべき金工と思う。

2018/4/22
片切彫と毛彫で、表に1頭、裏に1頭を彫っているが、平象嵌と同様に上手なデッサンである。「刀装具の鑑賞」において記したが、鏨の深い片切彫である。平象嵌をする為の工作では、このくらいの深さが必要なのではなかろうかと思わせる。如竹の片切彫だ。馬の背中の線の肥痩は平象嵌の2頭と同様である。最小限の線での表現に拘ったのであろう。

2018/4/21
高彫りの静的な姿態の馬は画題として魅力に欠ける。しかも表の馬は、顔も後ろに向けている。そういう意味でも、大の鐔に躍動的な馬が彫られていたと思う。
裏の平象嵌の馬は、鬣(たてがみ)と尾が金で象嵌し、他の胴体は金ではなく黄銅ではないかと思う。しかし普通の黄銅(真鍮)ならば空気に触れている内に変色する。それが無いから、緋色銅と同様に、如竹独特の合金なのかもしれないと感じる。金の純度を低くしたのであろうか。
材質はともかくとして、上手な平象嵌である。絵で言うとデッサンのような線画だが、最小限の線で上手に表現できている。

2018/4/20
この鐔で不思議なのは、馬の姿態が静的なものが大半であることだ。表などは静的というより、座っている馬が6頭の内4頭もいる。裏にも1頭が座っている。疾駆しているのは裏の平象嵌の1頭だけだ。
私が考えている理由は、この鐔が小鐔(脇差用)であることから、本来は大小鐔の大の鐔には動的な姿態の馬を多く彫り、こちらは静的に彫ったのではなかろうかということだ。

2018/4/19
この図を「八駿馬」としたのは、現代は私が言い出したことである。「刀和」の平成18年(2006年)5月号の「刀装具の鑑賞」で発表している。神谷紋洋氏の箱書は「癸卯」(みずのとう)だから昭和38年(1963年)で「群馬之図」と記されている。平成5年(1993)3月の特別保存の証書でも「群馬図」である。近年では「八駿馬」という画題は認められ、平成24年(2012年)に発刊された『刀装具画題鑑賞事典』(福士繁雄著)では「八龍駿馬」として掲載されている。
画題は、福士氏の著作の前は『鐔・小道具画題事典』(沼田鎌次著)に詳しいが、全ては解明されておらず、難しいものである。

2018/4/18
もっとも目立つだけなら、鐔表右下の金高彫象嵌の馬だ。金に優るものはない。金で目を惹き、如竹とわかる緋色銅を見せるのだ。

2018/4/17
緋色銅は火色銅とも書く。馬の描写の為に、この色を使ったのではない。緋色で表現する必要のある馬はいないだろう。如竹は自分の得意とする緋色象嵌の為に用いている。鐔表の右上が一番目立つ場所だが、そこに自分の”売り”である火色銅・平象嵌を持ってきたのだ。

2018/4/16
この写真では、”如竹の緋色銅”がよくわかる。光の関係で上のように見える。普通の銅のように空気中でも色が変化することはない。緋色銅を刀装具ではじめて使用したのが如竹かは、私は確認できていないが、この人は独創的な人である。

2018/4/15
村上如竹は初期は仲矩と名乗る。はじめは父とともに鐙(あぶみ)の象嵌師だったと伝える。鐙の作品の中に「村上」姓、あるいは「仲」「矩」「如」などの通字(とうりじ)を持つ工匠がいれば面白いのだが。これまでも「手元に置いての鑑賞」や「刀装具の鑑賞」にアップしているので参考にして欲しい。
ここでは金工の生没年を書くようにしているが、如竹については明確ではない。ただ福士繁雄氏は「刀装・刀装具初学講座(194)」において天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』に所載があり、当時、弟子が7人いたことから、この時点を36歳と仮定すれば、生年は延享3年(1746)生まれと推測されている。この年は寅年であり、如竹に虎の図が多いことも推定根拠とされている。昆寛が延享元年(1744)生であり、ほぼ同年代である。60歳を過ぎても活躍したことは銘の行年銘から明らかである。

東龍斎清寿(鬼図鐔)

2018/5/10
この人は、一般的なよくある高彫りなどの金工作品も実に見事である。そういう仕事ができる人が、こういうデザイン重視の簡素な作品を制作しているのである。近代になるとピカソにしても、画風の変遷を行う画家は多い。この鐔は今から150年以上前の極東(これも西洋から見た言葉だが)の日本だぞ。夏雄や一乗の品格ある精密な写実やその技巧を進化させて超絶技巧に向かうのは技術の錬磨で可能だが、このような感性、センスを表現するのは出来るものではない。独りよがりになるだけなのだ。本当に凄い金工なのだ。今はわかりやすくワォ-となる超絶技巧作品ばかりもて囃すが、退化した時代なのだ。

2018/5/6
東龍斎清寿の鐔を「寝床での鉄鐔愛玩日記」から、こちらに移した。ここでは金工の活躍年代をわかる範囲で記しているので「刀装・刀装具初学教室(99)~(104)」(福士繁雄著)から引用する。清寿は文化元年(1804)に武州鐔工田中東龍斎房二郎(江戸南蛮鐔の系統)の子として生まれ、明治9年(1876)に享年73歳で逝去する。文政末年=12年(1829)に26歳であり、以降天保(末年で40歳)、弘化(末年で44歳)、嘉永(末年で50歳)、安政(末年で56歳)、万延、文久、元治、慶応(末年で64歳)と幕末に活躍した金工である。この間、弘化2年(42歳)に法橋、弘化3年(43歳)に法眼に叙任している。

2017/1/5
この鬼の顔の表情に、私のこの本に対する思いも出ている。そしてまさに「我一格」なのだ。

2017/1/3
下記の日記に書いたが、この鐔を私の本『江戸の日本刀-新刀・新々刀の歴史的背景』のブックカバーのデザインにしたのだ。装幀デザイナーは、このデザイン以外に刀の写真も取り入れたデザインなど5点ほど作成してくれたが、このデザインが私のイメージにも合致して採用したのだ。
『江戸の日本刀』は主に新々刀の歴史的背景に詳しいが、江戸時代後期の”江戸”を、これほど端的に表している鐔はないだろう。

2016/11/5
昨日、本の装幀デザイナーだが、刀装具などは初見という友人に、この鐔を見せた。「いいねぇ」と感心していた。この鐔の感覚は今の世でも斬新である。

2016/5/17
この鬼の顔には何とも言えない色気がある。そして鬼の顔と姿態は必要最低限の陰彫り透かしで表現し、目の周りだけの最小限の金象嵌、頭の耳の上に簡素な毛彫だけを施している。
こういうのを江戸の美意識-「いき」と言うのだろう。辞書に「気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること」とある。赤坂鐔を「いき」という人もいるが、「いき」は18世紀後半から江戸で生まれた美意識で、そこに色気は不可欠なのだ。
大尽と呼ばれた金持ちで、吉原通いの通(つう)の町人が求めた鐔だろう。櫃孔の責金は、金の板だぞ。

2016/5/16
「我一格」とはどうのような意味があるのだろうか。禅の影響かと思っていたが、本人は日蓮宗の寺に埋葬されているようだ。他に「自流」「一格」「唯一格」「一家式」などがあると言うが”自分で独自に工夫した”というような自負を現した言葉であろうか。

2016/5/15
清寿のこの手の作風には飄逸というか、ユーモアを感じる。これは江戸の町の文化だ。狂歌や浮世絵の国芳に見るような文化だ。これを取り入れながら俗に落ちないのは武家文化の支えなのか、あるいは傾倒したという禅の影響か。奥の深い名工だ。
夏雄は、今の日本画の源流である円山派、その弟子呉春の四条派の流れでわかりやすい。わかりやすいと言っても夏雄の作品は、別の意味の格調の高さを持つ。

2016/5/14
この「我一格」「竜叟法眼(花押)」の清寿の鐔は、鉄鐔だが透かし鐔ではなく、金工鐔だ。寝床に持ち込むが、寝る前にはふとんの脇に置くが、寝入ってしまえば仕方が無い。今、この鐔の図をあることに使おうと思っているが、名鐔である。

ちょっと赤味がある光沢の強い地鉄だ。古鐔に遜色がない。そこに工夫したタガネに強弱をつけて打ち込んだのであろうか、地にムラをつけて変化を出している。耳の打ち返しは細く自然で、締まりを与えているが柔らかい。形も、やや撫角形、少し長丸で、わずかに下脹れの感じの良い姿だ。
陰透かしの鬼の表情、姿態も抜群だ。東竜斎の弟子筋が造った同図の鐔と比較したことがあるが、作位が全然違うことがわかるだろう。作位が違う分、価格もずば抜けて高かったが買った。日本刀柴田からだ。
鬼の表情は生気に溢れている。切羽台をうまく利用した構図は独創的だ。江戸時代後期に近代に広まったデフォルメを自家薬籠中のものにしており、もっと高く評価されてしかるべき金工である。
金工鐔は据えた文様の彫りの精緻さだけのモノが多い。目貫だろうが小柄だろうが同じだ。しかし、この作品は鐔の地、鐔の形、鐔全体の中で生きる図だ。加えて図柄に独創性があって、作位が高い。金家、安親、夏雄の良いものに匹敵すると思っている。

横谷宗珉(雨下竹虎図小柄)

 
2018/12/28
この画題の「雨下竹虎図」は描いている対象を並べただけだが、画のポイントは「踏み出し」の表現にあるのではなかろうか。ゆっくりと踏み出した虎は、睡りから醒めて起き上がり、これから水を飲みに行くところだろうか、あるいは餌を獲りに行くところだろうか。一歩の「踏み出し」が、前脚の鋭い輪郭線で表現されている。そして前脚の手指の盛り上がりの力強さも素晴らしい。顔はことさら獰猛な感じを出してはいないが、威厳があり王者の風格がある。王者の「踏み出し=出発」、いかにも四十歳前後の自信に溢れた宗珉の彫技だ。

2018/12/27
雨の線など何気ないものだが、風情がある。広重の雨の表現も、黒だけでなく銀の線を入れたり、降り始めたばかりの雨は広い間隔で画いたり、篠突くような雨は密に、そして、その時の風の勢いもわかるように画くが、日本人の感性は誇りに思う。

2018/12/25
本で宗與や菊地序克の虎や獅子の片切彫を見ると、メインの虎や獅子の顔はそれなりに出来ているが、細部の脚や竹幹の彫りが行き届いていないと感じる。工芸に限らず絵でも師匠のを写すのが基本だし、弟子も名を刻めるようになれば技術もそれなりだから、大きな差は生まれない。そこにおいて差があるのは絵=線を写した弟子に対して、絵=線を意図を持って創りあげ、構成していった人間との差なのかもしれない。メインの対象物は丁寧に写すが、他の箇所は流してしまうのだろう。また写す線と、創りあげる線では勢いが違ってくる。しかし見分けるのは難しいものだ。

2018/12/23
南禅寺の方丈か小方丈の襖絵に狩野探幽の虎が書かれていたが、自分の贔屓目かもしれないが、宗珉のこの虎の方が堂々としていると思う。

2018/12/22
線の彫りが美しく、勢いがあり、見事である。虎の前脚の輪郭線、虎の髭、竹のしなる幹、雨も線に強弱がある。虎の鼻の輪郭線も横が見える左側は太め、見えない右側は細くして立体感を出している。

2018/12/18
竹の葉の広く彫る片切彫も不思議な彫技である。天才は色々な表現技術を編み出し、自分なりの表現を追求していったのであろう。雨に打たれている感じが出ている。

2018/12/17
虎の鼻に彫っている毛彫は、体毛の毛彫より、もう一段細かい。狂いのない線、崩れのない輪郭で彫っており、腕だけでなく目が良い時代でなければ出来ない細工だ。宗珉といえども、この小柄を彫って銘を入れるまでの間は、何本もの小柄で失敗しているのだと思う。

2018/12/16
片切彫も見事だが、毛彫も巧みで感心する。虎の髭は弾力のある堅さで張り詰めて、触覚の一つを担っていることが理解できる。雨は、それほど強い雨ではないが弱くもない程度で降っている。虎の毛は短い剛毛だが、虎の生命力を現している。

2018/12/14
虎の縞を表現した太い片切彫は、虎の縞と同時に、虎の筋肉が盛り上がって躍動感も表現していて、私は好きである。

2018/12/12

宗珉は初代宗與の子とされていたが福士繁雄氏は初代宗與→宗知と続き、宗知の子との説を立てられている。2代宗與に「祖父 宗与」の極め銘があるが、これについては2代宗與は宗珉の養子であるが、2代宗與の実母が初代宗與晩年の娘で娘であると仮定すると説明できるとしている。
宗珉は寛文10年(1670)に江戸で生まれ、元禄7、8年頃(1694,1695)に宗珉と改名し、享保18年(1733)8月6日に64歳で没した。後藤通乗(光寿)は寛文3年(1663)~享保6年(1721)であり、ほぼ同時代である。
この小柄は鑑賞記にも書いたが、片切彫・毛彫の線の表情が対象物の描写に適して様々に使い分けられており、加えて線の勢いがあって感動する。

六世安親(昌親):宝尽くし・大小縁頭


 
2019/1/3
紐の彫りに神経を使っている。「隠れ笠」の紐の一本はくるりと輪を描いている。「隠れ蓑」は身体に縛る紐の先は蓑の中に入れている。「打ち出の小槌」の紐は意外に複雑に持ち手を通った紐は持ち手の後ろに回り、もう一つの紐は回転させて、二つの先端を揃えている。「宝袋」の口を締める紐は堅く結び、刀袋の紐のように縛り、房を分けて垂らしている。「宝鍵(ほうやく)」の紐は持ち手孔に通して上部に房を投げている。「巻物」は堅く縛り、縛り目を見せていない。

2019/1/2
宝の中で、手が混んだ彫は「隠れ蓑」と「隠れ笠」、次いで「宝袋」と「打出の小槌」くらいだが、立体感(遠近感)、それにそれぞれを構成している素材感が出ていて巧みである。
「隠れ蓑」と「隠れ笠」は危険から身を守ってくれるという意味で宝物とされているが、封建制度の元、「金持ちは目立たずに生きろ」というような自戒を籠めた紋様ではなかろうか。

2019/1/1
土屋昌親は鑑賞記に記したように、土屋国親(五代安親)の長男として下野国下館で生まれ、諸国を遊学して江戸新橋付近で開業し、三十三歳で剃髪した。六世安親を襲名したのは嘉永三年(1850)で、父である五世安親の逝去(1852)前である。そして万延二年=文久元年(1861)に逝去する。逝去時の年齢を仮に六十歳程度とすれば享和年間(1801~1803)の生まれである。清寿は文化元年(1804)から明治9年(1876)の73年の生涯であり、ほぼ同年代である。だから清寿のもとで修業したという伝承(金工事典)は違うと思う。
なお、この作品は花押から最晩年(安政七年=万延元年=1860)の作品と考えられる。秋田藩工にもなり、法眼にも叙されていて、生前から評価が高かった金工である。因みに法眼は清寿が嘉永年間(1848~1853)、一乗が文久3年(1863)に叙されている。

無銘(作者不明):笹売り目貫


 
2019/7/16
持っている笹竹が弓なりにしなっている。高所掃除用の笹竹ならば、真っ直ぐの方が使いやすい。実際は真っ直ぐなのだが、絵において笹竹の重さを表現するために撓って表現した可能性もある。また目貫としての機能から、横幅をあまり広げないことに留意したのであろうか。

2019/7/5
表目貫も裏目貫も、笹を持った人物の腰の落とし具合が的確であることに昨夜に気が付く。これが持った笹竹の重さやバランス、それに人物の動きの動作を自然なものにしている。日本人の腰の座りだ。

2019/7/2
首の後ろの突起物は、手ぬぐいを頭に被り、顎に廻し、さらに首に廻して、結び目を首の後ろに持ってきている様子を表現しているのだろうか。通常ならば頭に被り、顎に廻して結ぶのだが。
突起物の先端部から元(首側)にかけて縦の線が4本ほど入っており、結び目の表現でいいかは確信できないが。

2019/6/25
首の後ろから出ている突起は何だろう。竹の枝葉ではない。首に巻いた手ぬぐいのようにも見えるが、首の前側には何もない。縦に鑢が入っていて藁束のようにも見える。竹竿の重みが肩に食い込むのを避ける為の緩衝材とも思ったが、裏の目貫を見ると、肩と竹竿の間に入っているものではなく、首の襟から出ているようだ。

2019/6/22
手、手指、足、足指も動作・動きを的確に把握して彫っている。顔に比して手は大きいが、後藤物もそうである。手指は笹竹をきちんと握っているし、足の動きは歩く速度がわかるような感じだ。
顔の目、鼻、口の表現もキチンと出来ている。後藤風であるが、この当時は後藤の彫り物の顔が規範にあるわけだから、そうなるのであろう。庶民的ではない。

2019/6/21
表裏ともに肩に笹竹を担いでいるが、笹竹の重み、長い笹竹のバランスの取り方、担いだ笹竹が首、肩にうまく食い込んでいる表現など、うまいものだと思う。

2019/6/17
ある本で、江戸時代には7月7日の七夕の時に、青竹売りから笹竹を購入して飾るが、それは育ちの早い笹や竹は不思議な力が宿っているとされていたからとの説明を読む。
七夕時の青竹売りという画題も考えられる。

2019/6/14
大掃除用に高所の煤を払う為に使う笹竹を売る人物=笹売りとの『鐔・小道具画題事典』の解説に対して、鑑賞記では、笹竹売りならば、販売用に数本を持っているのではないか、表裏ともに1本しか持っていないから、すす払いの作業をして、あるいはすす払いの作業後の人物を彫ったものではないかと疑問を呈した。
6/12に書いたように、笹の葉が異常に大きく、しかも1枝だけしか彫っていないことを考えると、販売用の笹竹の本数も敢えて1本にしているのかもしれないと思うようになる。

2019/6/13
人物の姿態は細かくは表現していないが、笹竹をバランス良く持って、歩いている感じがよく表現されている。裏目貫の姿態が寸詰まりで、腕から肩の膨らみと、背中の膨らみが同じ平面なのが不自然なのだが、裏目貫の人物は背中が丸くなってきた人物なのかもしれない。

2019/6/12
人物が持っているものが笹(竹)としても、葉を誇張して大きくし、本来は数十枚の葉があるのに1枚だけを象徴的に彫っている。表目貫は首の後ろに竹を肩掛けにし、裏目貫は前側に持ってきている。表目貫は人物は前向きで右腕の後ろに身体を凹に彫り、裏目貫は横向きで身体は背中を凸のように膨らせて彫る。面白い表現だ。

2019/6/10
この無銘金無垢目貫は鑑賞記においては作者は山﨑一賀あたりではないかと消去法的な推論で記したが、未だによくわからない。「日刀保の審査に出せばいいではないか」と大半の人は言うだろうが、売るのであればそれも一つだが、自分の勉強の為に、何度も観て、観て、考えている。こういうのも楽しみである。『鐔・小道具画題事典』(沼田鎌二著)所載の同図目貫が在銘品であれば氷解するのだが。
一見すると古金工なのだが、裏を見ると、そんなに古くはないと思う。もっとも古金工の極めも幅が広いが。後藤(京後藤も含めて)の範疇のものではと考えると、金性が後藤の本歌に比べると劣っているし、彫りにおける特徴からも違うと思う。推定している山﨑一賀は後藤風なのだが。
また江戸時代後期には下がらないと感じる。
相変わらずわからないのだが、今は、古奈良派(利寿の師匠筋、弟子筋、一門筋)もありうるかと思っている。

肥後拵:御家拵写し



 
2019/4/3
2年前に地元の神社の三十三年に一度の式年大祭があり、地元の自治会長とのことで、裃・袴を着用されて祭に参加。その折、自宅で肥後拵の大小を差す。この時感じたのは一人の武士の必要面積の大きさだ。左右は肩幅+裃の長さが必要となり、前後は大刀を斜めにした長さが必要となるのだ。加えて、すれ違う人とぶつかって鞘当てでもしたら大変だ。
また、佩刀してみると、いざという時に刀を抜く必要がある。だから手荷物は持てない。当然に武士は小者を連れて荷物を持ってもらわないと外出ができない。小禄でも武士であれば、外出には小者が必要なのだ。時代劇の映画で、このあたりのことをしっかりと踏まえているのは私の記憶の範囲では『たそがれ清兵衛』だ。

2019/3/30
「黒の魅力」も、この拵の特徴だ。一番鮮やかで濃い黒は鯉口、栗形、返り角と、裏の一文字の黒漆だ。それから鮫鞘の白を浮きだたせる様々な色調の黒の模様、柄巻きの下の黒く染めた鮫皮は渋い黒だ。それに目貫の羽箒の黒、そして縁頭の黒、これらは黒四分一という材質なのか、少しグレー調だ。それから鉄錆の黒だ。茶色がかった黒錆で鐔、鐺が締める。

2019/3/26
昔は下げ緒に重きを置かなかったが、この拵を入手して、下げ緒の大切さを改めて認識した。この薄紫で、少し柔らかめの下げ緒が、拵に実に似合っていると感じる。もちろん他の下げ緒を装着したわけでもなく、見慣れてしまったからとも言えないことはないのだが。
旧幕時代は身分によって下げ緒の色が決められていた(全ての藩で同じように決まっていたかは知らない)と聞くから、似合うとか好みに合うからと言った理由では選択できなかったのだろう。

2019/3/25
この拵の鑑賞記の「2.少ない拵の愛好家」の6で記したが、打刀拵の鞘の多くは黒呂色鞘であり、違いが金具(鐔・刀装小道具)中心になる。金具中心であれば、金具だけで見る方が見やすいから拵から外される。拵をあつらえた人の取り合わせの妙などは失われてしまう。

2019/3/24
御家拵(信長拵)の本歌は現在行方不明である。戦前あるいは江戸時代からの数寄者が苦心して写した作品が残っているだけである。この拵も、その一つであるが、本歌と違って笄、小柄が無いから、厳密には御家拵を写したものとは言えない。ただし、江戸時代の大小では脇差に小柄、笄が付いていて、刀の方には付いていないのが多いから、これで良いと感じる。より実戦的な雰囲気が出ている。鮫鞘、柄の皮巻き、柄下の鮫を黒くしていること、縁頭の形状、それに鐔などが本歌に似ている。

2018/8/5
この拵は実用を感じさせながらも美しい。それが肥後拵の魅力だと言われれば「そうですか」とうなずくしかない。鹿皮の柄巻きにある汚れの使用感まで愛着を感じる。巻き込んでいる鮫は黒漆で染めているが研ぎ出していないから漆の光沢はない。それが汚れの使用感を落ち着かせているようだ。目貫は大きく長めの羽箒である。羽部分は黒四分一なのか、あるいは赤銅の質が劣るのかわからないが、落ち着いた黒で、下の黒く染めた鮫とも違う色で存在感を出している。羽箒の持ち手の金象嵌も映える。

柄の形も中程がわずかに狭まる形で握り易さを感じさせる。縁は黒四分一のくすんだ黒で真ん中を凹ませて、ナナメの直線だけの鑢だ。頭は波に山道文でこちらは曲線の彫り込みだ。巻き込まれて一体となって、存在を消している。

鐔は武用に適した大きなものだが、大きな透かしを入れて重厚感を和らげている。真っ黒ではなく、やや赤茶に輝く鉄地に綺麗な線の雷文。華やかさ、緻密さを感じさせるが、派手さや、緻密な彫りによる堅苦しさを感じさせない。装飾よりも実用感が出ている。
下げ緒の色が実に良い。薄紫でふっくらと織り上げている。褪色しているのかわからないが華やかさを出している。

鞘の鯉口、栗形と返り角は拵全体の中にあって、真っ黒な漆塗りで締めている。黒の中で、この黒だけが研ぎ出した漆黒の輝きで拵全体を締めている。この色の面積割合も調度いい。

鞘に張った鮫皮は自然の紋様として細かい○文が一面を覆っているが、その大きさ、形状、色合いが微妙に変化している。白が濃くなったところ、逆に黒が濃いところと変化してが調和している。時代を経て鮫の色も落ち着きが出ている。
もちろん、鞘は日本刀の反りに合わせてた形状であり、曲線も美しい。
鐺(こじり)は羊羹色に輝く鉄の鐺である。黒漆ではないから堅苦しさはない。

2018/4/10
慶長、江戸時代前期に鮫皮(実際はエイの一種)は南蛮船や朱印船で多く輸入された。そして高価なものであった。こういう鞘を観ていると、当時の武将が愛好したのも理解できる。堅牢という実用もあるのに加えて、黒と白の斑点の織りなす模様の美しさ、しかも自然の模様であり、色目であり、同じものが一つと無く、他の武将の鞘とも差別化もできるのである。

2018/4/7
桃山時代のこの手の拵が一番良い。肥後拵の信長拵、歌仙拵ももちろん、江雪左文字が入っている拵も、同様である。柄は黒塗鮫に燻皮で巻き、鞘は研出鮫である。
桃山時代の拵には、この手のもの以外にも次のような拵があるが、気が引けるところもある。山鳥毛一文字の合口スタイルの拵もいいが、鐔が無く特異過ぎる。黒田如水の安宅切りや圧し切り長谷部の拵のように、金霰鮫青漆打刀は豪華だが、金を張っており、豪華過ぎる。前田利家の犬千代拵ともいわれる雲龍蒔絵朱漆大小拵は朱塗りであるので恥ずかしい。太閤秀吉→溝口家の朱塗金蛭巻大小拵も同様に派手過ぎる。
この点、革巻きの柄に、研出鮫は実用性と適度なオシャレ感がいい。

2018/4/6
私の拵は格好が良くて好きなものだ。色の調和もいい。時代を経て白が増した鮫鞘の色だが、黒地に小さく不規則な斑が一面だ。自然の鮫皮だから適度に色ムラがある。鐺(こじり)は見事な錆色(羊羹色)の鉄地だ。栗形と返り角に鯉口は黒漆で締めている。
下げ緒は感じの良い薄紫色である。目立たない派手さのある色だ。
鐔は中根平八郎の輝きの強い鉄で、耳には銀雷文象嵌だ。
縁は黒四分一に斜めの鑢、間に一巻き抉(えぐ)っている。シンプルなものだ。
柄巻きは鹿皮に手垢が所々に付いていい味だ。
その中の鮫は黒く染められているが埃がたまっているのか、艶は少ない。柄巻きの皮の間から覗く。
目貫は大きめの赤銅と思っていたが、今日、明るい昼の光で見ると黒四分一と思える。羽箒の図で、箒の柄の部分は金色絵だ。
頭も四分一だが、縁よりも光が強い。

2017/11/11
根津美術館で光村利藻氏が作らせた拵の名品を拝見する。鞘の蒔絵、拵の金具は確かに素晴らしいが、装飾面が強く出過ぎていると感じる。最近、いくつかの刀屋さんで某大名家伝来という拵や、新作の天正拵、時代は下がるが肥後拵の良いものを拝見。やはり肥後拵が好みに合う。
所蔵の御家拵(写し)は、鞘の鮫が古く、焼けて白っぽくなっていて感じがいいと改めて思う。

2017/10/12
先日、『戦国武将の合戦図』という本で福島正則の旗が山道文であることを知る。古い時代の関ヶ原合戦屏風には、縦棒がクネクネとなる山道文の旗が描かれており、時代が新しい関ヶ原合戦屏風には、横にギザギザの山道文の旗である。縦棒がクネクネの方が正しいようだ。
縁頭の頭の山道文とは違う形だが、この時代に山道文は旗印に使うほど、流行していたことがわかる。

2017/9/10
波山道紋が伊達政宗の好みという細川護貞氏の文に関して、伊藤満氏に確認すると、長岡恒喜氏の『仙臺金工之研究』(1935年刊)にも同様の記事があると教えていただく。長岡氏は熊本で生まれ、熊本五高で夏目漱石に学び、東大でも漱石が移った哲学科・美学を一期生として習った人物である。以降は教育者として福島、広島、山形で旧制中学の校長を勤め、刀剣、刀装具に詳しく、『荘内金工之研究』(1933年刊)も上梓された。細川護立氏にも講釈されているので、細川護貞氏の文の根拠は、ここにあろうとのことであった。
長岡姓であり、細川家の一門の生まれとも推測できる。

2017/9/9
細川護貞氏が永青文庫の季刊誌NO17(昭和61年発行)の中で寄稿された「肥後の金工」から、これまで「王者又七の2017/9/8」や「小道具の楽しみ記」の「彦三・二引き両透かし2017/9/2」などで引用・紹介したが、ここには、この御家拵(写し)にも付けられている波山道紋の頭について、次のような興味深い内容を紹介したい。
「(千利休と)更に三斎は仙台の伊達政宗公とも交渉があった。ー中略ー刀装の金具に於いて、肥後と仙台に区別しがたい程にかよったものがあるのは二人の友情がしからしめたものと云ってよいのではなかろうか。特に縁頭に於て然りで、一例を挙げれば、三斎の佩刀として有名な信長拵の波に山道の頭は、伊達政宗考案のデザインであり、三斎によってその形が肥後に定着したものである。つまり利休の「わび・さび」と仙台物の小粋な華やかさ、いわゆる「伊達さ」とが三斎を通じて、渾然と一体化したもの、それが肥後物の良さである。」
この拵の鑑賞記における「6.慶長期の拵と肥後拵えの共通性(波山道紋の不思議)」で、私はこの模様の起源について疑問を呈しておいたが、「伊達好み」という伝承もあるのですね。でも何で波に山道なのだろう?

2016/10/2
拵の話になっているから書くが、昔は識者が語るところの「肥後拵には関物があう」とかの話を信じていたが、この歳になって思うと、中身の刀と拵は関係しないと言うことだ。
要は本歌の歌仙拵の中身が之定、信長拵の中身が加州信長の末古刀だから言っているだけだ。もちろん、中心が極端に長い幕末の刀を歌仙拵や、信長拵にすると、柄を長くし、その結果、ふずべ皮の巻きを多くするかで対処せざるをえずに、全体のバランスが崩れるだけだが、別に寛文新刀を入れようが、大磨上げの古刀を入れようが関係はない。
伯耆流居合術に適した刀はあるかもしれないが、居合は短めの刀を抜くだけではない。むしろ長い刀を抜くことに習練の結果も出る。
宮本武蔵の武蔵拵も肥後拵だ。
昔の識者の話には傾聴すべきものもあるが、適当な話も多い。

2016/10/1
自分は拵は好きだが、拵のパーツの中で一番魅力的なのは鞘だと思う。鮫鞘は鮫の模様が自然のものであるだけに千変万化して、魅力的である。あと自分の好みの明智拵は春慶塗が古びたような色の鞘が魅力だ。結城秀康の拵の鞘は朱鞘だが、色が少し淡くなっているのが感じがいい。黒田如水のは金板をあられ状に打ち込み、それを下部に貼って豪華である。秀吉の朱鞘にナナメに金を太いのと細いのを蛭巻きにしているのも華やかである。鳥居元忠の朱鞘に銀で藤の花穂を大きく入れているのも凄いと思う。遠山友政のは青漆で濃い緑色だ。それに銀を水流のように貼っていて、見事な色彩感覚だと思う。

全部、天正・桃山時代に本歌があり、容易なことでは入手できない。現代の写しもあるが、それは写しものらしく、しかも意外と高価である。

糸巻太刀拵は儀式用だから古いのが残っているが、儀式用だけに形状は同じで、金具も紋が多い。特に欲しいと思わない。黒呂塗の鞘は、その塗りを鑑賞できる素養もないから金具の魅力になるが、それだけなら拵など無い方が鑑賞しやすいとなる。もちろん変わり塗りの鞘もあり、それはそれで技術に感心する。

こういう中で、気に入った拵えが入手できたのは幸運であった。

2016/9/30
拵というものは、総合の芸術だから美術品としての鑑賞も全体を観て判断する必要がある。もっとも昔の人も、全体のバランスを考えて拵に組んでいるから、ある金具だけが拵全体の中で群を抜いて良いと言うことは少ない。
廉乗の良い三所物が付いている短刀の出し目貫の合口拵を拝見した時、柄の鮫皮も親粒が見事なもので、鞘の塗りも美しいもので「なるほど」と思ったことがある。
後藤の品物を拝見すると、三所物では目貫が一番見事である。その目貫を短刀用の出し目貫にして使うのは理解できるが、柄糸の下に巻き込んでしまうのは普通の感覚だったのであろうか。柄糸の下から所々に見えるところに、奥床しい美があるのだと唱えることもできる。繁華街を”目貫通り”と言う言葉は、巻き込んでも目立つから出来た言葉なのだろうか。

私は、出し目貫の拵ならばともかくとして、柄糸で巻き込んでしまう目貫に、それほどのものを使わなくてもいいのではと、思ってしまう。
貧しい感覚なのであろうか。
所蔵の御家拵の目貫(羽箒)、「の」の字拵の目貫(牛)は、赤銅地に金象嵌があり、後藤風だが赤銅の色はそれほどでもない。しかし巻き込んでいるために汚れているとも言える。いずれにしても、どこの誰の作かがわからないのが正直なところである。

2016/9/28
今、拵と鐔の相性を考えはじめている。御家拵に、この中根平八郎の鐔が実にマッチしていると思うからだ。もっとも中根は本歌の信長拵についた同様な古正阿弥の鐔を写したわけであり、合うのも当然なのだが。
よく「信家はどんな拵にもかかる」と言うが、この御家拵には「戦争と平和」の太字銘信家よりも、中根の方がいい。

2016/9/26
この鐔の大透かしの内側の切り立て部分は、左右、表裏ともに面を取っている。その面の取り方は上下の方はあまり面取りをせずに、左右の一番横に広がった部分を広め-と言ってもわずかに広い程度だが-に取っている。柄を握った時の拳の上部と鐔面との当たりを和らげているのだろうか。美的には、このことで光の反射も微妙に変化しているような感じがする。ただし、これが中根平八郎だけの工夫かはわからない。
また、中根の鐔は銀象嵌の雷文が、線が細く、一定で見事である。耳は銀象嵌が落ちているところもあるが、表裏の面の銀象嵌は落ちておらず、美観を損なってはいない。

鮫鞘は面白い。自然の生き物の皮だから、全面が同じ調子の文様だが、その模様は規則的ではない。細かく観ていくと、円の大きさなど微妙に違っていて飽きない。もちろん円の色合いも変化している。エイの皮を鞘に貼って、それに漆をかけて研ぎ出しているが、昔の日本人の発想は素晴らしい。

2016/9/24
中根の鐔は肥後御家拵に付いている。大きさを感じさせる鐔である。物理的にも82ミリ×80ミリと大きい方だが、それ以上にスケールの大きさを感じさせる。これはやはり作者の力なのかと思う。
この鐔が付いた御家拵は実に感じがいい。時代を経た鮫鞘も一因である。そこの薄めの紫の下げ緒も色の調和がいい。そして締まった小ぶりの柄はふすべ皮の手摺れも良い感じである。柄に巻いた鮫は黒く染めてあるが、それも時代を経て照りも少なくなり渋い。
そこに、この中根の鐔だ。私が好きな拵だ。
 

肥後拵:「の」の字拵



 
2019/3/5
笄櫃に肥後特有の馬針もどうかと思ったが、鉄地に金象嵌のようなものは似合わないような気がしている。今、仮に入っている銀地でシンプルな割笄も悪くはない。あるいは小柄と同様の赤銅魚子地に質の良い赤銅で密に彫った後藤物でもいいのかと思うようになる。

2019/3/3
鐔と笄は後補と聞く。目貫は牛で赤銅色絵のものだが、巻き込まれていて詳しくはわからない。巻き込む目貫はどうしても目立たない。所蔵の柳川直光の狗児大小目貫は虎徹の大小が入っていた拵がボロボロになっており、故青山氏が柴田光男氏に断って柄から外して作者銘が判明したものだ。青山氏は「巻き込まれていた時に”ただもの”ではないと思った」と言っていたが、基本的に巻き込まれている目貫の鑑定は無理である。巻き込まれていると汚れも付着しているし。(また目貫の鑑定に裏の状態の確認は不可欠である)
だから、良い目貫=自慢したい目貫は柄糸で巻き込まない出鮫の拵に使用したことが多いのだと思う。もちろん、見えにくい所に良い物を使うのが本当のオシャレと言う説も否定はしないが。

2019/3/1
小柄を廉乗ではないかと書いているが、確信があるわけではない。顕乗、程乗、即乗、廉乗の時代の後藤物。そして御覧のように上手(じょうて)のもの、加えて乗真の廉乗極めの同図があることから廉乗としているだけだ。両脇の蔓状の彫物と同じ形態はどこかで見た記憶もある。
また菱の図などを好む需要層がいたことも不思議である。菱紋の一族であろうか。菱は繁殖力が強く子孫繁栄、また生命力の強さから無病息災(実際に血圧を下げる効能があるとも聞く)を願ったのであろうか。もうすぐ桃の節句。菱餅も食される。

2019/2/27
小柄をよく見ると、真ん中左上に菱の実、真ん中の右上と左下に水に浮く為の空気が入った葉柄、そして真ん中右下が菱の花だと気が付いた。ただしネット上で検索すると出てくる菱の花とは違う。
また真ん中の左右にある葉も丸かハート形で6~7枚が輪生しているが、ネット上では葉は菱形として、そのような葉の絵もある。
上部と左右に彫られた水中に伸びる茎が装飾化された図になっているように、全体に装飾化しているのだろうか。

2019/2/26
小柄は菱図である。『刀装金工後藤家十七代』の乗真の廉乗極めの菱図小柄が掲載されているが、廉乗が乗真の作品にヒントを得て、後に自身でも彫った作品と想像している。
菱の実も菱も、今では見かけない植物になっているが、「まるごと青森」のサイトで小川原湖に菱があったとの記事が掲載されている。水草であり、浮きのようなもの(小柄では真ん中に位置し、先が丸く柄が付いたようなもの(栗形に似ている))があり、葉は小柄には小さく6~7枚が星形に生えて彫られている。そして菱の実は真ん中に浮き輪の上に一つだけキノコのように彫られている。一辺が欠けた菱形である。小柄の絵の両脇は別種の蔓ではなく、菱の水中の茎なのだろう。

2019/2/24
『日本刀大百科事典』の「肥後拵え」の項に「鮫皮は長いものがないため、鞘も長くは作れない。当然、刀身も長いものは入っていない。」との記述がある。本当であろうか。

2019/2/23
頭(かしら)の形状は深丸形、縁(ふち)の形状は太鼓形と言えなくはないが、肥後らしさは薄れ、一般の形状である。押し合い菊の図によく似た作品は『林・神吉』の「坪井諸工その他」所載の小原久方の「波に菊」図鐔がある。土手耳に波が毛彫されていて、中の地には押し合い菊である。解説に江戸肥後の熊谷義次にこれとよく似た縁頭の作品があると記されている。そして『刀装小道具講座3江戸金工編(上)』の269頁に熊谷義次の押し合い菊の縁頭が所載されている。この写真での比較だが、釘谷洞石の方が丁寧・上品と感じる(義次のは鉄地とあり、素材の違いでもあるが)。幕末に肥後拵が江戸でも流行したが、時流に合致した金工が熊谷一派である。

2019/2/21
鮫皮という自然の産物に出た表現を生かす工夫は日本人的だと思う。柄糸で巻き込まれた鮫では親粒と称される大きな粒を柄表上部の柄糸の間から見せている。そして鞘の方では「の」の字に黒く浮き出た模様を表側の”さぐり”の下の目立つ所に持ってくる。そして黒い縞が表れている部分を栗形と鐔・鯉口の間の笄櫃のところに持ってきて刻鞘のイメージを出している。

2019/2/20
今まで、御家拵と一緒にしてきたが、別に分けて記述していく。この拵には無銘であるが釘谷洞石の縁頭が付いている。この拵の元の所有者が釘谷洞石の息子の聴石から父の作だと直接に聞いたと伝わる。幕末の肥後金工の作品らしいものである。「押し合い菊」という画題で、赤銅の色も良い。
釘谷洞石は肥後金工らしく無銘の作品が多く、当初の銘は「東肥親信」銘だが、明治14年から釘谷洞石と銘を切り、飾り置き物や装身具、文房具を製作し、明治26年にシカゴで開催されたコロンブス世界博覧会で銅賞を受賞している。
「押し合い菊」の図柄は緻密な彫であり、幕末金工らしい超絶技巧を施した作品である。こういう緻密な細工・模様が好まれた時代なのだろう。

2018/7/1
「の」の字拵の方だが、これは鐔と笄が後補である。鐔については2016/9/28に金象嵌がある華やかな方がいいのかなと書いたが、肥後の小ぶりな色金鐔でもいいかなとも感じる。また笄は肥後象嵌のある馬針のものがいいだろう。

2018/4/6
「の」の字拵は、新しい分、鮫鞘の鮫が黒っぽい。笄と鐔は後補であるが、現在の四分一樋定規の割笄を、金象嵌の馬針(楽寿がいい)にしてみたい。縁頭も細かい彫りの釘谷洞石の押し菊だから、鐔は肥後の色金鐔の小鐔に替えて、松井家が造ったものらしくにしてみたい。

2016/9/30
私は、出し目貫の拵ならばともかくとして、柄糸で巻き込んでしまう目貫に、それほどのものを使わなくてもいいのではと、思ってしまう。貧しい感覚なのであろうか。
所蔵の御家拵の目貫(羽箒)、「の」の字拵の目貫(牛)は、赤銅地に金象嵌があり、後藤風だが赤銅の色はそれほどでもない。しかし巻き込んでいるために汚れているとも言える。いずれにしても、どこの誰の作かがわからないのが正直なところである。

2016/9/28
「の」の字拵も引っ張りだして見ているが、縁頭が釘谷洞石の「押し合い菊」の緻密なものだけに、派手な鐔(金象嵌をしているような)がいいのかなとも思う。
もっとも、拵に合う、合わないを感じるセンスが、万人と一致するかも大事であり、私のセンスに自信を持っているわけではない。




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