西垣勘四郎の本貫の地
伊藤三平

はじめに

肥後金工:西垣初代勘四郎は、「丹後国二俣村内外宮の神官某の弟で、慶長十八年生」と伝わる。地名は村名までわかり、神社の名称も明記されている。「西垣」という名字も多くはない。こういうことから、この伝承の裏付けを検証してみた。実証できたこともあれば、不明な点も残る。

1.西垣勘四郎家の出身地に関する伝承

西垣家については 『肥後金工録』(明治35年刊、昭和42年再版)に「初代勘四郎吉弘 丹波国内外宮の神官某の子なり(鏨工譜略には土州の産とあれど誤りなり)平田彦三の門人となり三斎公に仕ヘ肥後下国因て貳拾人扶持を給ひ八代に住す-中略-慶長十八年生元禄六年死行年八十一歳」とある。この根拠となった西垣五代勘左衛門の先祖附や八代目の四郎作翁の残された古文書などは井手無涯(井手藤九郎)氏に渡り、氏は「肥後西垣の研究」として「刀剣美術」の昭和三十八年(84号)から昭和三十九年(88号)にかけて4回に分けて一部を発表されているが、これら論文には古文書原文は出てないし、それほど詳しい論考ではない。

井手氏所蔵の文書は現在行方不明とのことだが、昭和39年の『肥後金工大鑑』発刊の際に参考とされている。『西垣』(伊藤満著)には大正8年の「鐔の会」誌に紹介されたものを引用されて次のように記している。

初代勘四郎
吉弘。丹後国二俣村内外宮の神官の弟。。その後、肥後八代に住むが、彦三が没した後、白金細工を相伝して熊本に移り、細川家から十二人扶持を支給されている。慶長十八年生まれ、元禄六年に八十一歳で没している。作品はすべて無銘。

すなわち、丹波ではなく丹後国二俣村で内外宮の神官の子ではなく弟ということになる。また二十人扶持ではなく十二人扶持である。

ちなみに初代勘四郎は慶長十八年生まれであり、細川家は 慶長七年から、豊前小倉三十九万九千石に移封されているから、丹後に生まれていれば、その後に豊前、あるいは肥後に移ったことになる。豊前小倉で生まれていれば、父の代に丹後で細川家に仕えていたと考えられる。

2.丹後国二俣村

丹後、丹波は京都府の北部であるが、元は丹波一国で、和銅六年(713)に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の五郡が「丹後国」として設置された。

簡単に述べると、 丹後はより北部(日本海より)の舞鶴、宮津である。丹波は福知山、篠山である。今は町村合併で市域も広がったりして、特に境界の町村はわかりにくい。後述するが細川家が領地としたのは丹波ではなく丹後であり、丹後国二俣村と思われる。

『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』によると、丹後国二俣村は、現在の福知山市大江町二俣と、京都府京丹後市久美浜町二俣にも存在する。
以下に考察する「内外宮の神官」も考えて大江町二俣であると考える。

大江町は加佐郡の自治体名で、加佐郡は丹後(旧豊岡県)に属し、大江町二俣は、「由良川左岸の支流宮川中流域に位置する。西方の山稜から幾筋もの谷川が流れ宮川に注いでいる。宮津街道が南北に通る。」とある。
そして、近世の「二俣村」は「江戸期~明治二十二年の村名。丹後国加佐郡のうち、天正八年細川藤孝・忠興領。慶長六年からは宮津藩領」とある。

地図右側に、福知山市、その上に大江町があり、さらにその上の元伊勢
外宮の所が二俣である。北近畿タンゴ鉄道「ふたまた」駅もある。
『現代日本分県地図』1991年刊より

3.内外宮の神官とは

「丹後国二俣村内外宮の神官の弟」とあるが、この内外宮という神社は見当たらないが、これは上記地図にも掲載されている「元伊勢内宮」と「元伊勢外宮」のことと考えられる。

(1)元伊勢内宮=皇大神社
「元伊勢内宮」とは「皇大神社」(京都府福知山市大江町内宮字宮山217)とも呼ばれている。主祭神は天照大神である。創建は崇神天皇三十九年と伝承されている。
現在伊勢神宮の祭神である天照大御神は、古くは宮中に祀られていたが、この状態を畏怖した天皇の命で、崇神天皇六年から鎮座地を求めて各地を転々とし、垂仁天皇二十五年に最終的に伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地は、各地で元伊勢として語り継がれた。

当社はそうした元伊勢伝承地の一つで、「但波(丹波)国乃吉佐宮」の旧跡にあたる。そのため「元伊勢」を冠して称され、また特に皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮であるとの伝承から、元伊勢皇大神宮または元伊勢内宮とも称される。

(2)元伊勢外宮=皇大神社奥宮
「元伊勢外宮」とは「皇大神社奥宮」(京都府福知山市大江町天田内字東平178-2)とも呼ばれている。主祭神は豊受姫命で、伊勢の豊受大神宮(外宮)祭神と同じである。 延暦二十三年(804)の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇が天照坐皇太神の夢託を蒙り、御饌都神(みけつかみ)として等由気太神(豊受大神)を丹波国から伊勢に迎えたのが外宮であると記す。それに基づいて当神社は雄略天皇二十二年に伊勢へ遷座したその故地であるという(『丹後風土記』)。

あるいは、元鎮座地は比沼麻奈為神社(現京丹後市峰山町久次に鎮座)であるが、雄略天皇二十二年に伊勢へ遷座する途中で当神社の地にしばらく鎮座し、その跡地に建立したものであるともいう(『加佐郡誌』)。また、それとは別に、用明天皇の第三皇子である麻呂子親王が当地の鬼を退治するに際して、内宮(現皇大神社)とともに勧請したものであるとの異伝もある(宝暦十一年(1761)の『丹後州宮津府志』)。

末社が合計三十七社があり、 本殿を囲む形でコの字形に配置されている。当神社には御師的な役割をはたす三十七軒の社家があり、三十七社の末社はそれぞれの社家が一社ずつ祀っていたという。

周辺には宮川 という川が流れているが、伊勢神宮(外宮)近くの宮川と同名である。

(3)勘四郎の家
外宮には合計三十七軒の社家があって、御師(おし、伊勢神宮の場合はおんし)の役割を果たしていたことに注目したい。御師とは、特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。

西垣勘四郎の家は、この御師の家(末社の社家=神官)だった可能性もある。

4.西垣の名字

『姓氏家系大辞典』(太田亮著)の「 西垣」の説明は以下の通りである。丹波に多いことが理解される。

  1. 酒井氏族、丹波国多紀郡の名族にして平井貞重の孫、又次郎の子・西垣又次郎と称す。その男亀丸は、天文二年十一月二十六日、西福寺よりの田地売巻に、油井西垣と見ゆ。酒井、平井、油井等の條を見よ。
    又氷上郡の名族にもありて、丹波志に「西垣氏、子孫槇山谷五ケ野村。子孫・庄屋彦次郎、代々太郎大夫、墓所に先祖を新古権現と祭る、石碑あり」と。
  2. 因幡の西垣氏 (略)

また 『全国名字大辞典』(森岡浩著)の 「西垣」の説明は以下の通りである。京都府北部に多いと明記されている。

京都府北部から鳥取県東部にかけて多い名字。京都府福知山市夜久野町や兵庫県美方郡新温泉町に集中している。 また岐阜市にも多い。」

夜久野は、前掲した地図の左側の真ん中よりやや下に天田郡があり、その下に夜久野町(山陰本線沿い)とあるところである。

5.細川家との縁、平田彦三との縁

(1)細川幽斎(藤孝)、三斎(忠興)の事績
『戦国人名辞典』から細川幽斎こと細川藤孝を調べると、次の通りである。

細川藤孝(天文三~慶長十五)
永禄八年(1565)山城青竜城主
天正元年(1573)山城長岡を与えられ長岡と改姓。
天正十年(1582)本能寺の変後に剃髪し家督を忠興に譲る。秀吉に応じ、一色義有を宮津城に誘殺し、丹後を平定
天正十四年(1586)秀吉から在京料として三千石を与えられる
天正十七年(1589)忠興とは別に丹後四万石を与えられ宮津城に在住。
文禄四年(1595)大隅に三千石加禄 のちにこの飛び領は越前府中に移封。秀吉の没後に徳川家康に属し、慶長五年(1600)石田方に攻囲された。家康から忠功の賞として但馬一国を加禄される。
晩年は主として京都吉田に住む。

また、その子細川三斎こと細川忠興の略歴は次の通りである。

細川忠興(永禄六~正保二)
天正七年(1579)光秀の娘玉子を娶ったが、本能寺の変(天正十年)では秀吉に属す。この時、藤孝から家督を譲られ、丹後宮津城主となる。
慶長五年(1600)豊後杵築六万石を加禄。関ヶ原合戦の戦功で豊前中津三十九万六千石を与えられる。
慶長七年(1602)豊前小倉三十九万九千石に移封。
元和六年(1620)に忠利に家督を譲る。
正保二年(1645)八代で死去。

細川幽斎・三斎が丹後に入国したのは、天正八年(1580)のことであり、丹後を平定したのは天正十年(1582)である。丹後二俣村は天正八年に細川藤孝・忠興領になっており、これ以降に西垣家は細川家と関係が出来たと考えらえる。

(2)平田彦三の細川家随身と初代勘四郎の入門

初代勘四郎の師匠と伝える平田彦三については、『肥後金工録』や志水家の「先祖附」や西垣八代目四郎作翁の「肥後国鐔工人名調」や「神吉文書」などや、細川家の公式文書「綿考輯録」にも小異はあるが掲載されており、『平田・志水』(伊藤満著)に紹介がある。

豊前小倉において父の家とは別に知行百石を賜り、金銀改役や、金銀が山から出た時の吹方御用(精錬)や金銀細工や茶道具や銅鐔などの細工に携わり、肥後移封時に随身している。

西垣勘四郎が「細川家の豊前時代に平田彦三の門人になる」とあるが、三斎忠興が豊前の中津城に移ったのが、慶長五年十二月廿六日(1600)であり、更に忠利が熊本に入城したのが寛永九年(1632)である。初代勘四郎は慶長十八年(1613)生まれであり、細川家が肥後に移封された寛永九年は数えで20歳の時となる。勘四郎の彦三入門時期は不明だが、
下記の志水家の例のように15歳前には入門していたと考えられる。

志水家の「先祖附」の資料が『平田・志水』(伊藤満著)に掲載されている。この実質二代目の項に「拾五歳ニ罷成候節 如先例重ね扇子之御鐔細工仕 差上申候処」と、15歳で初代仁兵衛と同様に、重ね扇子の鐔を献上して、お目見えを賜る様子が記されている。これは次の三代、四代も同様に記されている。すなわち、修業は15歳前から行い、15歳で主君に作品を献上していることが理解できる。

すなわち初代勘四郎は、慶長十八年(1613)に丹後か豊前小倉で生まれ、丹後に生まれていれば豊前に移住し、15歳前に平田彦三に入門し、師とともに寛永九年(1632)ー勘四郎20歳の時ーに細川家肥後移封に随身したと考えらえる。(2015.3.10追記)

6.丹後と砂鉄

今回、丹後のことを調べたが、丹後は古代においては、製鉄で重要な地域であったようだ。

弥栄町(現京丹後市)に遠所(えんじょ)遺跡という大規模な製鉄、鍛冶遺跡が発見されている。発掘調査によって、古いもので5世紀末から6世紀初頭の製鉄の跡があることが判明している。本格的な製鉄(大規模な製鉄)としては日本最古の遺跡である。

遠所遺跡は製鉄から鉄製品の完成まで全ての作業ができるコンビナートであり、工人の住居や生活の跡、古墳まで揃った遺跡のようだ。

ちなみに、丹後はこのような大製鉄遺跡があったり、伊勢神宮の前身があったように、古代では重要な地域だった。天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社には、代々極秘で伝えられていた系図があり、国宝の指定を受けている。この系図には、邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されている。卑弥呼の墓の最有力候補:奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳の被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところにある。「日女命(ひめのみこと)」と出てきて、この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されているそうである。「神大市姫命」の「大市」は、『日本書紀』のなかで「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」との記述に完全に一致するというわけだ。

舞鶴市にある弥加宜神社(みかげじんじゃ、大森神社とも言う)も鉄、金属加工集団に縁のある神社らしい。

西垣勘四郎と、これらの製鉄、鉄加工集団との関係は不明だが、鉄の処理に優れた伝統があった地域と思われる。

おわりに

西垣家は、家の伝承通りに、「丹後国二俣」を本貫の地(本籍地という意味)とすることで良いと考えられる。「内外宮の神官の弟」に関して、元伊勢内宮と元伊勢外宮との関連を推察したが、現地で御師、神官の家系を調べれば更に明確になる可能性もある。今後の調査課題としておきたい。
もちろん、内外宮が別の神社である可能性もある。

丹後の製鉄は、古代だけでなく近世にも続いていたようであり、これらの製鉄業者と西垣家との関連も興味深い。色々と知らないこともたくさんあることを改めて知る。

西垣勘四郎は慶長十八年の生まれだが、①丹後で生まれ、旧領主、及び師の平田彦三を頼って肥後に来たのか、あるいは②西垣勘四郎の親の代から細川家あるいは平田家に随身していて、豊前で生まれたのかは不明である。

①だと考えると、勘四郎は丹後で生まれ、家が豊前方面担当の御師(御師は地域的縄張りがあった)の為に、兄と一緒に先の領主の細川家が治める豊前に参拝客の誘致等に来て、勘四郎だけは平田彦三に入門して残った可能性もある。勘四郎は製鉄に縁のある丹後で、地元の者に金属細工を習っていた可能性もある。

②だと考えると、勘四郎の親、兄が豊前で暮らしていることが前提となる。しかし、神官はその土地の神社に仕えるものであり、丹後から豊前小倉に随身してくるのは理解できない。この時点で、勘四郎の親、兄が金属加工の業に携わっていたとも考えられる。

ホームに戻る