刀装具の観賞(『刀和』2005年1月号)

信家 「題目、生者必滅」 鐔

刀装具の鑑賞のページ

新年おめでとうございます。

刀装具を他の美術品の鑑賞と同じような視点で、個人の感性で楽しく観てみたいと思います。
正月に信家の「題目・生者必滅」鐔を紹介することに違和感を持つ方もいるかと思いますが、「門松は冥土の里の一里塚」の歌は、一つの現実を詠んでいるから長く伝わっているわけです。この現実があるからこそ、「今を生きる」ことの大切さが認識できます。

さて、鑑賞に入りたい。彫り慣れた「ひげ題目」だ。信家は日蓮宗の信者に違いない。自分が日頃唱えているお題目の声の大小・リズムを、そのまま素直に彫り込んでいる。別に気合いを籠めて彫っているわけでもない。小鐔だから大切なお題目の文字が全部入らなくなったが気にしていない。信家は確信している。自分の作った鐔がお題目の力と、自慢の鉄鍛えによって持ち主の拳を守ることを。

早い遅いの差はあっても「生、滅せるは(者)必なり」=「生者必滅」なのだ。恐れることはない、「舞い降りる太刀の下こそ地獄なれ、たんだ踏み込め、あとは極楽」と言うではないか。

この鐔は、切羽台の外側が微かに低くなって、そこから縁にかけて今度はわずかに盛り上がってきている。この盛り上がってくる力を耳を打ち返すことで、中に籠めて、力は静かに充満している。

得意の木瓜形に迷いはない。造るたびに、少しずつ変えるのが信家の楽しみだ。バランスに狂いはなく、力強さに華を添える。

ひげ題目は「法」以外の六字の端を長く髭のように伸ばすことで「法」の光に照らされて万物がことごとく真理を体得して活動することを表したものという。拭えば拭うほど底の方から沸いてくる紫錆も光明の一つだ。

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