刀装具の観賞(『刀和』2005年2月号)

清寿 「鬼、陰透かし」 鐔

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2月は節分。この図が節分の鬼かはわからないが、魅力的な鬼だ。

鬼の眼は好奇心に満ちて生き生きしており、鼻は全開して精気を吸い込み、口は力強いあごを持って何でも咀嚼しそうな勢いだ。角は鋭く、耳も文字通り聞き耳を立てている。五感をつかさどる器官が全開して働いているのだ。
鬼の姿態も蹲踞しているが、いつでも飛びかかれる体勢だ。だから、この鐔には生気が満ちている。

鐔の耳の打ち返しが細く、力強く、締まりがあるのも、この空気を高めている。でも、鬼の表情がいたずらっ子のようであり、張りつめた息苦しさはない。

名工は地金を疎かにしないが、煮染めたような鉄を槌目で叩くことでも、張りつめた空気を和らげている。緊張感の中でも飄逸を失わないような雰囲気は江戸後期の文化だと思う。

清寿の良さはこの鐔のような陰透かしにある。鬼の顔、手、胴、脚、足を分割して陰に透かして、ひざまずいている鬼を見事に表現している。しかし、よく観て欲しい。それぞれの部位の大きさや形はアンバランスだ。胴の大半は切羽台に隠れているが、顔の大きさに見合った胴の大きさだろうか。胴と脚の釣り合いはどうだ?

現代美術の中にモノを包むものがある。物体を包むことで、モノの形を浮かび上がらせた。清寿は一部を隠して、陰透かしにすることで、観る人の想像力を逆に膨らませて、アンバランスな部分を補ったのである。

観る人の想像力と書くと買いかぶりかもしれない。「鬼はこういうものだ」という観る人の固定観念を逆手に取ったと言った方が良い。
「我一格」銘は禅の影響が指摘されている。「とらわれる」ことの弊害を清寿は悟っていたに違いない。鬼の固定観念に「とらわれながら」この鐔を観賞している私を清寿はニヤニヤしながら見ているのではなかろうか。

現代美術が気付いたことを江戸時代に成し遂げている、この畏るべき芸術家を、刀剣界はもちろん日本の美術界も高く評価すべきである。

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