刀装具の観賞(『刀和』2005年3月号) |
3月の週末になると京都西山の筍(たけのこ)料理の有名店は予約で一杯だ。
この目貫の筍も実に旨そうだ。長常の時代、絵画の世界では伊藤若沖、円山応挙が出現して、お手本をなぞる粉本
(ふんぽん)主義を捨て去った。長常は刀装具の世界に写生を取り込んだ。絵画と違って使える色は限られている。彫るものも小さい。だから使える色金に似た色を持つ、形の小さい筍、土筆(つくし)、蛙(かえる)、蝸牛(かたつむり)などを彫ったものに真価が発揮されている。特に対象物だけに焦点が当たる目貫に名品がある。長常は剥き身の筍も写生したことがあると思う。それが全体の肉置きの基礎になっている。そこに皮一枚ごとに精妙な肉置きをつけて重ねていった。皮の重なるところの処理が要点だ。これで皮の厚みが表現できる。筍の皮らしく細かい赤銅の斑点を象嵌している。そして、その上から細かい毛彫りの線を彫り込むことで影が生まれ素銅の色合いも黒っぽく、より真に近い質感と色になった。それぞれの皮の先端は四分一を差して、少し浮かせて、皮のめくれを表して、簡単に剥けそうな感じを出している。筍の根元は段差をつけて彫って、そこに赤銅を点象嵌している。土の汚れも見える。当初は、この目貫の汚れかと思ったが地を荒らして素銅を変色させて表現しているようだ。金で彫った根は今まで地を掴んでいた根だ。こうして、たくましく新鮮な朝掘りの筍が出来上がった。
筍は成長の速度が速い。もう一方の目貫の筍は、少し大きくなった筍を彫った。細長くカーブをさせて長さのバランスを取っている。成長した分、皮が黒くなっているのを四分一を使うことで彫りすすめた。毛彫りが強い感じになっているのも大きくなった筍を表すためだ。このような工夫で長常は筍の成長力も表現した。
本物そっくりに彫ったから価値があるのではない。写生に撤することで、美味しそうな味覚や、新鮮さ、成長力まで彫ったことに価値がある。だから観る人の心に響く芸術になるのだ。
写生で制作した作品はわかりやすく、長常は「東の宗a
西の長常」ともてはやされる。しかし名声獲得後の作品には驚きを感ずるのは意外に少ない。これはいつの時代にも当てはまる人間の性(さが)なのだ。