刀装具の観賞(『刀和』2005年6月号)

神吉深信 「投げ桐」透かし 鐔

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花札の桐は十二月だが、「桐の花」は夏の季語。私は広重作『名所江戸百景』の「赤坂桐畑」の浮世絵を所有している。その絵は赤坂溜池を背景にして青々とした葉を茂らせ、花を付けた桐樹を近景において、今にも雨が降りそうな一瞬の空を見事に描いている。

この深信の桐も、まるで雨に打たれたようにみずみずしい。見事な錆び色である。表面だけでなく芯まで深く錆び付けされて、底光りしている。磨地で、加えて保存が良いために、真っ黒に輝いている。しかし人間の眼とは因果なもので、ここまで完璧な磨地、錆び色だと「綺麗だけど味がない」と感じてしまう。これは何故なのか?

神吉派は、肥後春日派の伝統が衰微するのを憂いた肥後藩の命で林派から技術を受け継いだ。神吉二代深信は真面目な性格だったようで、この鐔でもわかるように、残っている作品に手を抜いたものはない。錆び付け技術など完璧に受け継いだと思うが、時代が新しいだけに鉄そのものが違ってきているのではなかろうか。

このように桐の葉を崩した格好で彫ったものを、古来「投げ桐」と称している。西垣勘四郎はこの図柄を得意として、「崩し」を「雅趣」の境地に高めている。深信は、「謹直」「品格」を特色とした肥後春日派の伝統を受け継ぎ、彼自身も真面目である。勘四郎だと穏和な柔らかみが加わる耳の波形のデザイン(菊花文ともいわれている)も、深信がほどこすと規則的になり、落ち着かず、うるさい感じになってしまった。作者の個性が出るのが芸術である。真面目な性格と技術を持って、伝統を墨守するだけでなく、世の嗜好に合わせるように努力した跡が感じられるのが深信の個性なのだ。

次代の神吉楽寿は名工の誉れが高い。楽寿は明治維新に遭遇して、不遇の時代もあったと思う。しかし身分制度のくびきや、肥後藩というしがらみから離れて、肥後金工録の著者、長屋重名などの刀装具鑑賞界の重鎮とも親交を深めた。これらの人からの助言もあったと思う。また旧幕時代には観ることの出来なかった肥後鐔の名品を観る機会も多くなったに違いない。これが深信と楽寿の作品の作位の差と思う。技術の差ではない。 

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