刀装具の観賞(『刀和』2005年12月号)

志水甚五 「梟(ふくろう)図」鐔

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梟は冬の季語。夜間の食物連鎖の頂点にいる梟も冬は苦労しているだろうが、この梟の眼は獲物を狙っている眼ではない。生存に関わる行動とは離れて、世の中に生じることを淡々と見つめ、現実を全て受け入れるような眼だ。真の賢者は現実を踏まえて考える。西洋で知恵・学問の神様ミネルヴァのお使いとされている梟の言い伝えが、江戸時代に伝わったとは想像しにくいが、頭部の形は宇宙人のようでもあり、何か賢さが感じられる梟である。

中心穴(なかごあな)、櫃穴(ひつあな)を無視した大胆な構図だ。止まり木とのバランスなどは無頓着に梟をクローズアップしている。羽、身体の羽毛は部位ごとに違った形で毛彫りを入れているが、頭や姿態は平気でデフォルメして、鐔の形まで少し歪めている。松の枝は簡略化して、松葉は枝から飛び離れているが気にしない。これが肥後の甚五だ。

鉄鐔は地鉄がよくないと持っていられないが、柔らかみのある鉄に見事な黒錆だ。拭い込まれて艶が出過ぎているきらいもあるが、浮き彫りにした梟、松の枝などは更に浮かび上がって見える。どこからか差してくる月光が照らしているのだ。拭われない凹んだ部分との対比で、この鐔の奥行きを更に高めると同時に毛彫りの眼などが生きている。ほとんど剥落しているが、松の葉には細かい銀の布目象嵌が施してあり、にぶい銀の光が闇夜のアクセントになって効果を高めている。光が少ないから反射光も少ない夜の情景だ。

梟が留まっている老枝の樹皮は彫るというより無造作に削り込むように表現しているが、改めて観ると自然な感じを活かして巧みである。先端は折れているが、若枝を下から向こう側へ直線的にグイッと伸ばしている。この枝の描き方は非常に印象的だ。伝統を踏まえて生まれてくる革新の力を控えめに表現しているようだ。

私は、この鐔を観るたびに、梟の眼によって「もっと観ろ、まだ見方が浅い」と言われている気がする。甚五は暗闇の中でも本質を見極めるような眼を描きたかったから、クロ−ズアップやデフォルメ、簡略化を駆使したのではなかろうか。江戸時代を超えた近代的芸術表現だ。畢竟(ひっきょう)、芸術は個性の発露。才能は時代を超える。

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