刀装具の観賞(『刀和』2006年11月号) |
刀和の写真は白黒だから別のを掲載、拡大(これもいい写真ではないが)
秋の七草の桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)、尾花(薄)にカササギを配した石黒政常の小柄である。先師の箱書が「秋草に小禽」であり、この鳥名が購入以来わからなかったが、腹や羽に銀で入れた白の模様、尾羽の形、全体の形状からカササギと思う。
カササギは天の川に翼を連ねて橋を架けたとの伝説があるが、秋の霜と一緒に「鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」(中納言家持)などと歌われている。草花でも、鳥名でも、固有名詞までわかると、花鳥に関して先人が愛でてきた文化も背景として見えてくる。鑑賞を深める意味でも画題の追求は疎かにできない。
日本画家上村淳之は、西洋では花、鳥を写実的に描くと、どうしても生態画になってしまい、花鳥画にならないと言う。では花鳥画とは何か。それを、この小柄に即して説明したい。
カササギが飛んで来て女郎花の茎に留まった。鳥の重さで女郎花がたわんだが、元に戻ろうとする弾力を使って、鳥はまた虫を求めて飛び立つ。鳥の顔や体勢は次の飛翔に備えている。桔梗も尾花も一緒に揺れている。自分の隣で生じている秋野の情景と感じられないだろうか。このように画面の中に観ている自分自身が入り込み、隣で生じている出来事としての雰囲気が醸し出されるのが、日本の花鳥画と言うことだ。
刀装具に花鳥を彫ったものは多いが、「竹に雀」「梅に鶯」「鷹に松」のような掟としての模様・装飾に留まるものが大半である。その世界に、真の花鳥画を持ち込んで喝采を博したのが石黒政常だ。石黒派の後代になると、花鳥が華美に過ぎて、観ている自分が入り込めない別世界の装飾画になってくる。豪華さに眼を奪われて芸術的な格を見失うような鑑賞ではいけないと自戒したい。
私は政常の彫る直線的な線が好きだ。大森英秀は曲線が良いが、政常はすっきりした線が美しい。この作品は彫物に当たり傷があり、本来の線が損なわれているところがあるのが残念だが、政常が作品の醸し出す空気について会心作と感じた証は、裏に貼り付けた分厚い金板と、そこに切られた丁寧な年紀銘と行年銘が物語っている。