六世安親(土屋昌親)「宝尽くし図」大小縁頭
-甦ったお宝-

所蔵品の鑑賞のページ

1.この縁頭の出どころ

この縁頭(ふちがしら)は、栃木県佐野市の16代続いている旧家(江戸時代末期は名主、酒造業、もちろん苗字帯刀)のお蔵にしまわれていたものである。鉄地に金銀赤銅で高彫り象嵌をしている作品であり、私が拝見した時は、次図のように赤錆びに覆われていた。

六世安親(花押) 赤錆だらけの可哀想な状態

鉄地のものは手入れがされていないと、どうしても赤錆びが浮く。かわいそうになって鉄地のこの大小の縁頭と、やはり裏が鉄地で赤錆がこびりついている小柄などをいただいてきた。

2.赤錆落とし

私のような鉄鐔愛好家にとっては、鉄鐔、鉄地の小道具の赤錆び落としは実に楽しい。人によって方法は違うかもしれないが、私が使用するのは角(牛の角)である。角といっても私は裁縫の篦(へら)と麻雀の点棒を用いている。長年に渡る使用で、母の裁縫の篦は、このような形に変形している。これでゴシゴシと落とすわけである。細かい所をどうしても落としたければ先を削って使用する。そして落とした錆を木綿の布で拭き取り、こする。そして、また角でゴシゴシ、木綿で拭き取り、こする。これのくり返しである。時の経つのを忘れる。

(注)赤錆落としの方法は色々あると思うが、最近ではカーボンファイバーの棒を使う人もいる。化学製品だから純度も違いがあるようであり、中にはあまり強くこすると黒錆びまで落ちるのがあるようだから注意して使って欲しい。なおグラスファイバーは堅すぎて鉄地の黒錆も落とすから絶対に使わないこと。もちろん麻雀の点棒もプラスチックのものではダメで、昔の角素材のものである。

長年の使用で摩耗

赤錆びだけが綺麗に落ちて、当初の黒錆を錆付けした地鉄に見事に戻ることもあるし、赤錆びが深く食い込んでいて、鉄地が朽ちていて、元には戻らないものもある。また当初の黒錆びが薄いと、角でこすって黒錆びまで落ちて、光ってしまうこともある。

3.甦生した六世安親の大小縁頭

今回は、ご覧のように、甦生できた。刀装具愛好家として嬉しく思っている。 もっとも、この写真を撮った以降も錆び落としを続けている。(左が脇差用、右が刀用)

4.六世安親の出身地から出た大小縁頭

銘は「六世 安親(花押)」と、大小それぞれの縁頭に切ってある。五世安親(土屋國親)の長男で、初銘は昌親と称した作者である。銘に偽臭はないし、銘鑑所載の銘と同様であり、作も真面目なもので、技術レベルは高く、正真と考える。

作者の「六世 安親(昌親)」は、『金工事典』(若山泡沫著)によると、次のように説明されている。

「昌親」
土屋氏。政太郎という。國親の長男として下野国(栃木県)下館郊外で生まれた。諸国を遊学の後に江戸新橋附近に来り、同地で開業をした。三十三歳で入道して剃髪した。水戸の萩谷勝平や江戸の東竜斎清寿のもとでも修業をしたと伝えている。秋田藩にも出入りを許されて藩工として扶持米を受けた。良工である。後年に法眼の位に叙されている。父國親(五代安親)の没後に、安親の名跡を継承している。名流安親家の六代目にあたるので、世に六世安親と呼ばれた。弟に昌寿・常親がいる。晩年は雅良・一夢・東遷・恭翁などと号し、また伯言と字した。万延二年(=文久元年・一八六一)十一月九日に没し、戒名は東仙院法山恭翁居士という。江戸麹町ならびに本所住。(以下に使用した号銘が続くが略)

(注)土屋昌親、國親については、若山泡沫氏が「刀装金工シリーズ(壱)六代安親(土屋昌親)の研究」(「刀剣美術」 315~318号)、福士繁雄氏が「刀装・刀装具初学講座(78)」(「刀剣美術」527号)と、中野秀哉氏が「「金工 國親・昌親研究」拾遺」(「刀剣美術」589号)で論じられている。以下においても研究成果を適宜引用したい。

私も認識を新たにしたのだが、六世安親は、この縁頭が発見された栃木県佐野市の近くで生まれたのである。父の五世安親=國親は水戸の出身で、後年に常陸国下館で過ごし、嘉永五年(一八五二)に没している。天台宗極楽寺(下館市金井町)に葬られたと『金工事典』(若山泡沫著)にある。(中野秀哉氏は上述した論文において、父の國親が、昌親が生まれた文化頃には下館出身の妻(小島氏)の元には帰って暮らした形跡は無く、昌親が下館郊外で生まれたというのは見直されるべきと論じられているが、昌親は長男(初産)だけに妻女が里帰りして生むこともあったと考えられる。私は古伝の通りと考える。)

中野秀哉氏の論では、昌親が六世安親を襲名したのは嘉永三年(1850)で、父である五世安親の逝去(1852)前とされているので、そこから昌親自身が逝去(1861)するまでの間に製作されたものとなる。中野氏の論文においては昌親の花押の変遷を図示して大別して8種類に分けている。
「六世」を組み合わせた花押は晩年だが、この大小縁頭の花押は、最晩年(安政七年=万延元年=1860)に比定できる。
(右)嘉永6年(1853)の年紀のある家紋図二所にある。
(左)安政七年(1860)の年紀のある達磨図小柄にある。
出典:中野秀哉氏「「金工 國親・昌親研究」拾遺」
(「刀剣美術」589号)より

ちなみに、栃木県佐野市の旧家も、現在の当主の先代は常陸下館の、これまた旧家から養子として入られた方であった。江戸末期から常陸下館とは交流が密な地域だったのではなかろうか。

すなわち、この大小の縁頭は、幕末の栃木佐野の旧家の主が、当時の地元有名金工に注文した大小の縁頭だったと考えられる。次章で詳述するが、図柄は「宝尽くし」であり、苗字帯刀を許された名主で、酒造業を営んでいた家にふさわしい縁起の良い図柄を注文したものと思考される。お祝い差し用に誂えたのかもしれない。旧家には、まだ解読されていない文書も多く残っており、いつの日か、この大小縁頭を注文したいきさつがわかる資料が出てくる可能性もある。

私がいただいた大小縁頭として、「所蔵品の鑑賞」欄に、こうしてアップしているが、伝来した旧家と、作者の誕生の地が同じということを考えると、伝来した地で、きちんと伝来も明記して保存しておくのが良いのではと考え、色々と話合ったが、地元の美術館、博物館には、それぞれの展観の分野、テーマがあり、また学芸員の専門が異なると保管・保存の視点で責任も持てないとのことになり、私がいただき、例えば「佐野市の職人」とかの関連する展示テーマがあった時に里帰りさせるのも一案かと考えている。

この旧家には、もちろん刀剣もあり、その中に細川義規(『日本刀銘鑑』には年紀銘が嘉永六年(1853)~明治3年(1870)まであり、逝去は明治11年)の短刀が含まれており、これも同時代の幕末の郷土刀である。

(注)この旧家の御蔵は一度盗難に遭ったことがあり、例えば鐔などは赤錆だらけの南蛮鐔が1枚残っていただけであった。刀は大量にあったようだが、一度、日本刀剣保存協会に持ち込んで観てもらうと偽物が大半であり、それらは処分されたと聞いている。

5.「宝尽くし」の図の説明

図は「宝尽くし」とよばれる文様で、着物などの模様にもなっている。金、銀、赤銅を使用して丁寧に彫り上げている。今では、それぞれの図の名前や、「宝尽くし」として取り上げられた理由も認知されていないので、説明すると次の通りである。(写真の倍率は、それぞれ異なっている。あくまで図柄の説明用である)

<大刀用の頭(かしら)の図>
「隠れ蓑」…蓑(みの)であり、女性の文様とされている。 危険な事物から姿を隠し守ってくれることで宝となる。
<大刀用の頭(かしら)の図>
「宝珠」…「如意宝珠」と呼ばれ、密教の法具で、丸くて先がとがっており、その先端と両側から火焔が燃え上がっている。何でも意のままに願いを叶える宝とされる。 
<大刀用の縁(ふち)の表側の図>
「金嚢・宝袋」…財宝を入れる袋・巾着袋。富みの象徴である。
<大刀用の縁(ふち)の表側の図>
「丁字」…南洋の果物の実を図案化している。薬・香料・染料として使われ、夫婦円満・健康・長寿を表す。
<大刀用の縁(ふち)の裏側の図>
「宝鍵(ほうやく)」…宝の倉庫の鍵である。これも富の象徴である。
<脇差用の頭(かしら)の図>
「隠れ笠」…笠であり、男性の文様とされる。「隠れ蓑」と同様に危険な事物から姿を隠し守ってくれることで宝となる。
<脇差用の頭(かしら)の図>
「七宝」…仏教用語であり、この世の7つの宝を言う。具体的に無量寿経では「金」「銀」「瑪瑙(めのう)」「瑠璃(るり)」「玻璃(はり)」「硨磲(しゃこ)」「珊瑚(さんご)」を言う。(7種の中身には異説もある)
<脇差用の縁(ふち)の表側の図>
「打出の小槌」…願いを叶えてくれる。また敵を討つという意味もある。
<脇差用の縁(ふち)の表側の図>
「分銅」…秤で金の重さを量るのに使うおもり。富の象徴。
<脇差用の縁(ふち)の裏側の図>
「巻物」…知恵・知識の象徴である。

なお「宝尽くし」には、この大小の縁頭の図としては取り上げられていないが、他に「軍配」(勝負の采配を決定づけるもの)の図がある。鐔か目貫に軍配が合わされていた可能性もあるが、私は、「軍配」は武家には必要だが、苗字帯刀を許されていても、武で仕えた家ではなく、この当時は酒造業という商売をしていた家であり、あえて省いて注文したものと考えている。

6.当時の大小縁頭の形状

昔の武士は大小揃いの刀を差していたわけであり、大小の縁頭も多いと思われるが、バラバラにされたりして、あまり残っていないものである。また大小で残っていても格式ばった紋所のような図柄が多い。

所蔵品の一つとして大小揃いの柳川直光の目貫の鑑賞において述べたが、大小揃いであるが故にわかることもあるのだ(ただし、金工の流派や、注文主の好み、時代の流行、大小の仕立て方などによって変わるとも考えられるから、この事例は一つの事例として、今後ともに資料を集めて研究が必要である)。

この大小の縁頭における縁と頭の大きさを比較すると次の通りである。大刀用も、脇差用も大きさ的には大差がないことが理解できる。

頭(かしら) 縁(ふち) その他の違い
縦(長さ) 横(幅) 縦(長さ) 横(幅) 高さ
大(刀) 図柄 隠れ蓑と宝珠 (表)宝袋と丁字(裏)宝鍵
(ミリ) 37.5 19.5 40.6 23.2 12.3
小(脇差) 図柄 隠れ笠と七宝 (表)小槌と分銅(裏)巻物 縁の裏側下部に小柄の出し入れ用に窪み
(ミリ) 36.2 18.2 39.9 21.9 12.0

(注)頭と縁の縦・横は、いずれも下部で計測している。上部は若干短くなる。

また、縁の縁を少し凹ませて、鞘における小柄櫃から小柄のスムーズな出し入れを助けている縁は脇差用であることが理解できる。

前章で「宝尽くし」の図の説明をしたが、大刀用の縁頭の頭に「隠れ蓑」という女性の文様が彫られ、小刀用の頭に「隠れ笠」という男性用の文様が彫られている。「宝尽くし」の説明ではこの通りかもしれないが、彫られた図を観ると、この隠れ笠は女性用の笠のように見える。また隠れ蓑の方が男性用のように観られる。当時の男尊女卑の風潮を考えると、私が観た感じで、作者六世安親は彫ったのではなかろうか。

7.作品の鑑賞

5章で一つ一つの宝を彫った写真を掲示しているが、それを観ても技量は非常に上手なことが理解できる。以下に複雑な図柄の写真を再掲するが、御覧のように、細部まで細かく彫り上げ、立体感に加えて、それぞれの材質感(藁、紐、布など)まで彫れている。隠れ蓑や、隠れ笠などは、ちょっと前まで、これを身につけた人の体温まで感じられる彫りである。宝袋には確かに小判や一分金、二朱銀などが入っている感じで重たい。

技術的には一流だと思う。金工として法眼の位(当時は金銭で位のやりとりもあったのだが、作品が売れていないと、当然にそのお金も調達はできず、昌親作品は注文が多かったと思う)を得ていたわけで、当時の評価が理解できる。また秋田藩にも出入りを許されていたわけであり、当時の人気金工の一人だったことは間違いがない。

ちなみに当時の金工で同様に法眼の位を授かっていたのは名工として評価の高い東龍斎清寿や後藤一乗や、河野春明など錚々たる金工である。

ただし、この作品は「宝尽くし」という図であり、図の制約上から仕方がない面もあるが、様々な模様を、てんでに彫って、配置しただけとなり、あまり作品からは感動は伝わってこない。また古来からの模様であり、六世安親が独自に文様を工夫したという独創性もない。

厳しく言うと、芸術的な感興はもたらさない。水戸金工の作品と同様に上手な職人技で終わっている感じであり、これが同じ法眼位を持っている東龍斎清寿や後藤一乗などに比較して、現代の評価では差が生じている理由と思われる。(現代では、こんな細工はできないから、本当に上手なのだが)

もっとも芸術的感興をもたらす作家の方が僅少なのだ。職人仕事が上手で手綺麗な作品の中でも、石黒派後代の作品などは花鳥という万人受けする図柄で人気がある。浜野派後代は、図柄として日本故事や中国故事の人物像を彫り上げておもしろみがある。一乗一派は、すっきり、洗練した花鳥、風物で好まれている。

土屋昌親にも、特色のある図柄で、それが一般受けするものがあれば、もっと人気が出る金工と思うが、私は勉強不足で、そのようなものがあるとは残念ながら知らない。加えて「六世安親」という名跡が、かえって真価を損なっている面もある。土屋安親の家は、江戸中期の名工土屋安親を初代としているが、名人の初代から六代も経ていると、その分、技量が落ちていると思われがちである。刀にしても代々続いた肥前忠吉、仙台国包なども、そのように見られる傾向はあり、後代の名跡継承者は損をしていると思う。

(注)幕末~明治の名工加納夏雄は、亡くなる数日前に、海野勝珉に「幸い回復してさらに鏨をとることができるようになったら、安親の雅趣を学びたい」と言ったと伝えられているが、安親を尊敬していただけに、昌親が六世安親と名乗ったことには不快感を持ったようで、『彫金談』において「昌親は国親の男、晩年安親と銘して、六世安親と銘せしものあり。不届なり。世に八丁堀の安親と称す。彫方は器用なれども風韻に乏し」と書き残している。
このような評価が、昌親(六世安親)の技量を不当に貶めている面がある。このことは鑑定家の桑原羊次郎氏(戦前の大御所で『日本装剣金工史』で記述)、若山泡沫氏(六代安親をそれなりに評価して、上述した論文の中で初代安親の作品を六代安親ではないかと書いて物議を醸したこともある)も認めているところである。

8.技量の比較ー隠れ笠を例にー

昌親の職人的技量の高さを述べてきたが、同じような図柄で、他の作者の作品を見つけたから比較してみたい。(2013年1月8日追記)

★下の父・國親の作品と感じが似
 ている。現代金工の美寿とは技
 量の違いが明確である。
鬘(かずら)物図鐔

「刀鞠因鑽工作之」裏に「嘉永
三庚戌年皐月 行年六十六」
裏の地に「國親」と「東雨」の
印銘

★嘉永3年は、前述したように
 昌親が六世を襲名した年であ
 る。作風の感じがよく似てお
 り、昌親が代作かとも思う。
 これは「刀剣美術」527号
 の福士繁雄氏の論より採った
 が、中野秀哉氏の論文にも紹
 介されており、國親の代表作
 の一つとされている。

「芳萌子美寿刻」(麗563号)
昭和33年に逝去された向後美寿
の小柄。萩谷勝平門の水戸の
滑川氏に学ぶ

おわりに-六世安親(=昌親)との縁もー

この「所蔵品の鑑賞」においては、まだアップしていないが、私は無銘だが土屋昌親一派の作品と鑑定できる素銅地に赤銅象嵌の蜂の目貫を所有している。
これは私が大学生の頃に購入したものである。
無銘の目貫であり、価格は安いが、それでも当時の家庭教師のアルバイト代の一カ月分はあったと思う。当時からオタクであったのだ。かわいらしい目貫であり、いつかバッジに造り替えるのもいいかなと思っていたのだが、この歳になると、このまま大切に後世に伝えておくべきと考えるようになっている。後日、改めて紹介したい。

いずれにしても、この甦生した大小の縁頭は、幕末に作られてから今に至るまで約160年間を、作者の出生地近辺の旧家にそのまま伝わったという伝来は明確だし、大小揃いのものであり、貴重なものである。
「宝尽くし」を彫った鉄地で赤錆びだらけの大小縁頭が甦ったわけであり、”甦ったお宝”として副題をつけておく。おめでたいものである。

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