伊藤 三平
はじめに
刀身彫りを観ていくと、それが生ぶの彫りか、後世の後彫り(あとぼり)かという問題にも直面する。後彫りをうるさく言うと、刀身に彫られた樋についても、どうかとなる。また、刀身に傷があるのを後彫りで補った刀と、傷のままの刀のどちらが良いかという問題や、研ぎ減った彫りを浚って補修していることをどこまで認めるのかという問題もでる。
あくまでも私の意見だが、後彫りを施して、後彫りであることを隠すことで価格を高くするような行為は指弾されるべきであるが、後彫りを明記してあったり、研ぎ減った彫りの補修、刀身の傷隠しの樋などはいいのかなとも感じる。刀身は何度も研ぎで補修しているのだ。伝わった現存している美術品を美術的価値を保持して、できるだけ後世に残す意味でという立場である。
栗原信秀は、鏡師の出身で、彫りも高く評価されている。しかし、現代(存命かは知らない)の彫師が、信秀の彫りを写して彫ったら、まったくわからないとも聞いている。彫りの有無で価格が変わるから、これは問題だと思うが、区別がつかなければ、指摘もできないとなる。
以下に紹介するのは、畏友のH氏からいただいた資料から、まとめたものである。後彫りが裏付けられる資料が残っているから、書けるものである。
1.『鑑刀日々抄(続)』の祐定二振
『鑑刀日々抄(続)』(本間薫山著)の318〜320頁にかけて、差表に「草の倶利伽羅」と差裏に「八幡大菩薩 梵字(不動)」の彫りが施されている祐定が2振、並んで掲載されている。その「草の倶利伽羅」の彫りは、それぞれ下図の通りである。
「資料A彫り」は「(表銘)備前国住長船祐定:(裏銘)永正6年2月日:刃長2.26尺」に彫られており、私は「刀身彫り:草の倶利伽羅の研究」においても、資料として使用した。
「資料B彫り」は「(表銘)備前国住長船与三左衛門尉祐定:(裏銘)享禄3年8月吉日:刃長2.13尺」に彫られている。
資料A彫り | 資料B彫り |
祐定:刀 永正6年 『鑑刀日々 抄(続)』 318頁 |
祐定:刀 享禄3年 『鑑刀日々 抄(続)』 320頁 |
『鑑刀日々抄(続)』(本間薫山著)では318頁の資料Aの解説として「作者祐定に俗名を冠していないが、この念入りな作は決して数打ではない。にわかに個名を指摘し難いが、祐定一家の中でも上手の作であり、もちろん与三にも擬せられる。但し、ままみる与三の年紀にはこの作以後のものが多い。」と述べられている。
次に320頁で、「資料B」の解説として「表裏に前掲(筆者注:資料A)の祐定と全く同人の手と思われる同様の彫り(筆者注:草の倶利伽羅と八幡大菩薩と梵字)があって、これによっても、前者の与三説がつよい。生ぶ茎で、すべてが型のごとくである。」と記されている。
すなわち、本間薫山氏は資料Bの彫りを基本として、資料Aの俗名無しの祐定を与三左衛門尉祐定と推定しているわけだ。
2.彫りの無い同じ刀の存在(=後彫りの証拠)
畏友のH氏が『有銘古刀大鑑』(飯村嘉章氏)から取ったというコピー(資料C)を持参される。それは『鑑刀日々抄(続)』に掲載されていた資料Bと同じである(資料Bの茎穴の一つは埋められている)。
そして、資料Cには彫りが無く、資料Bには前掲の彫りがある。これには驚いた。(下図比較図参照。銘字の同一性は押形と押形で比較する方が判別しやすい。ただ押形の場合は、手で採択するものであり、彫があっても省略している可能性もあり、写真もアップしている)
資料B | 資料C | 資料C写真 |
『鑑刀日々抄(続)』 (本間薫山) 320頁 |
『有銘古刀大鑑』 (飯村嘉章) 302頁 |
同左 303頁 |
全く同じ作者が、全く同じ年月日に、全く同じように銘を切り、茎孔を明け、片方には彫りを入れたという可能性もゼロではないが、資料Bと資料Cは同一の刀で、資料Cの状態から、資料Aの彫りを参考にして、後彫りをして、資料Bとなったと考えるのが自然であろう。
3.生ぶの彫りと後彫りの違い
もっと疑って考えると、資料Aも資料Bと一緒に本間薫山氏の元にきたということは、資料Aも、資料Bと同じく後彫りという可能性もある。しかし、私は資料Aと資料Bの龍の口(顎)の違いから、資料Aは生ぶの彫りだと思う。龍の頭部を例に詳細に比較する。(参考資料として、勝光の彫りも掲示)
資料B龍の顔拡大 (与三左衛門尉 祐定の後彫り) |
@下顎が太く、三角形であり、他の末備前の彫りにない。
A上顎は、気持ち太め。長さが下顎と同じ程度で短め。 B目の上の頭部の輪郭(白い部分)が太すぎる。目が C頭部から首への線(中の黒く見えるところ)が、途中で |
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資料A龍の顔拡大 (永正祐定の彫り) |
@下顎が細く、先すぼまり。
A上顎は太さは頃合いで、下顎より長い。 B目の上の頭部の輪郭は頃合い。上部が研ぎ減りで C頭部から首への線(中の黒く見えるところ)が、キレ |
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参考:勝光の龍 (明応の勝光の 彫り) |
@下顎が細め。先すぼまり傾向。
A上顎は太さは頃合いで、下顎より長い。 B目の上の頭部の輪郭は頃合い。目ははっきり C頭部から首への線(中の黒く見えるところ)が、キレ
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4.苔口仙e氏の後彫りについての談
なお後彫りに関する議論については、苔口仙e氏も悩まれたようで、『技法と作品 研磨 彫刻編』(大野正著)における「刀身彫刻の技法」という章で、次のように述べられている。
「古作に鏨を使う場合に限って、彫り起こし(修整)とか後彫りとか言う。どうしてこんな言葉が必要なのかと思う。
偽銘を切ることなどは刀を傷つけていることでとんでもないが、彫刻はこれとは全く違う。
僕は彫るべくして古作に彫った場合、偽物に加担していると思わないし、むしろ刀の語りかけてくれるものを受け止めて僕なりの彫刻をしているつもりだ。
現代刀匠なら写し物と言い、ほとんどが古いところをねらっている。そして「写」とか「倣」という文字を切りつける。仮に僕が古い彫刻を写すとなると、それは入れられない。いつものように「仙e彫之」と銘を彫っても、埋め鉄でいつの間にか消されてしまう。ー中略ー
刀身彫刻にも一つの価値を認めるなら、その良しあしと、生ぶ彫りと後彫りをダブらせて論じるのは間違いだと思う。皮肉を言うなら、後彫りの方が案外うまいのかもしれない。下手なのが通常後彫りとされ、上手であれば生ぶ彫りで通る傾向もないではない。
焼刃の中にまで鏨が入っていると、彫ってから焼き入れをしたと解し、即座に生ぶ彫りとなる。しかし、実際には焼刃の中でも彫れないわけではない。」と記している。
現代に生きる刀身彫り作者としての自負や、後彫りとして低く見られることへの反発なども伺えて、興味深い。
おわりに
資料Bの享禄3年紀の与三左衛門尉祐定を現在御所蔵の方が、上記のことを承知されていなかった場合は、衝撃を受けられると思う。でも、後彫りでも、かの本間薫山氏も見損じるほどに、上手に末備前の彫りを写しているわけで、それを承知で大事にして欲しいと思う。
また私は本間薫山氏の鑑識眼を貶めるつもりは、まったくない。これは、まったくの想像だが、昭和50年5月10日にある人物が、資料Aの永正祐定と、資料Bの与三左衛門尉祐定を持参して、「この永正祐定と同じ彫りのある与三が見つかりました。ですから、この永正祐定は与三でいいのでしょうね」と質問したのではなかろうか。彫りの問題ではなく、俗名の無い永正祐定の個銘極めに本間氏の関心をそらしたのではなかろうか。このような問題のすり替えは一つの騙しのテクニックである。ちなみに『鑑刀日々抄(続)』には、それぞれの刀に「○○氏のために鞘書する」とあるが、資料Bと資料Aは別人のお名前になっている。
(注)永正6年(1509)の祐定であるが、永正6年以前には、彦兵衛祐定(文亀3年:1503)、与三左衛門尉祐定(永正2年:1505)と彦左衛門尉祐定(永正3年:1506)の俗名を見る。だから与三の可能性もあるが、本間薫山氏が述べられているように与三左衛門尉祐定の俗名が多くなるのは永正17年(1520)以降である(『長船町史』より)。与三は活躍期間が長い名工であり、昔は「与」の字で一与、四つ与などと区別していたものだ。いずれにしても、永正以前の末備前は、俗名の有無に関わらず良いものが多い。
苔口仙e氏の談ではないが、後彫りを承知で彫ることは、あっても良いのかなと私は思う。研ぎ減った彫り物の補修をすることも問題はないのかとも思う。重要刀剣にするためと何度も研ぎに出すことを何とも思わないのであれば、後彫りを批判はできないと思う。
しかし、後彫りが価格に大きく影響すると、愛好家を傷付けることになる。刀屋さんだって、後彫りを識別しにくいと思うが、適正価格で販売して欲しいと思う。
同時に、刀剣愛好者も、自分なりに勉強するしかない。この世界は、こういう世界なのだと認識して。
(注)刀剣界では、本間薫山氏や佐藤寒山氏は「先生」として尊敬する人が多い。残念ながら私は本間、佐藤の両先生に直接、教わったことがなく、御著書で教えられている人間である。そういう意味では本の著者は、全て先生なのだが、本の著者を誰彼構わず先生と呼ぶ人はいない。そういう意味で「先生」ではなく「氏」を敬称にしている。
藤代松雄先生や藤代興里氏などは、直接、教えてもらったこともあり、「先生」を使うこともある。ご了承いただきたい。