日本刀の研究ノート

このページは伊藤が、日本刀の研究に関して、思いついたことを記しています。
中には、もう少しきちんとまとめてみようと思うものもありますが。

 
銘字の変遷・研究(2016年6月27日)

長光や兼光などの二代説などは昔の説だと思っていたが、未だにこのような説を唱える人がいると聞く。
昔のシティバンク、今はSMBC信託銀行に買収されてプレスティアという名称になっている銀行が発行している資料「ヘッドラインズ 2016年6月」に次のような一文がある。欧米の銀行は、印鑑制度が無く、本人のサイン(署名)での取引が行われていることを前提としている。

「サインは年数が経つと同じサインを記入することが難しくなることもございますので、サインをご登録されているお客様は一定期間での新しいサインへの変更等、ご登録内容を見直しいただくことをお勧めいたします。」

あなたの字体もそうだが、字体は歳月で変化するのだ。現存する作品が多く、年紀も切られている作品が多い長曽祢虎徹などは、年代別に銘字の研究が進み、二代説などは生まれないのだが。

銘字の研究は難しいと思う。作品が少ない刀工であれば、10振に同じ偽銘を切れば、後世には、こちらが正真とされる可能性もある。新藤五国光のように昔から子の国広が国光を名乗るなどと伝えられている刀工は許容されている銘字の幅が広い。景光には近景による代銘もあり、これは偽銘ではない。室町時代の後半になると関の鍛冶も後代が同銘を名乗り、備前の祐定も工房化してわかりにくい。一方で、嫌に厳密になって、年代による差などは認められない御刀もある。

筆跡鑑定学なども勉強する必要があるのだろう。

刀剣も刀装具も同様だが、銘字の差異だけでなく、①銘切りタガネの入り方、②銘字の位置なども大事な見所だと思う。筆順というか、運筆の方向、順序などは歳をとっても変化しないものだ。元の茎孔の位置に対して、しっくりこない孫六や信家を観たことがある。こういうのは偽銘なのだろう。

後鳥羽上皇にとっての刀-御番鍛冶、菊御作の背景-(2014年12月28日)

後鳥羽上皇が刀鍛冶を召して、月番で刀を造らせ、上皇自ら焼き刃を渡されたというのが「御番鍛冶」であり、鎌倉時代の史書『承久記』に記述があるという。ここでは次家、次延の名が挙げられているようだが、後世になると粟田口久国や福岡一文字信房、則宗や古青江貞次、次家などが御番鍛冶の名として挙がってくる。

上皇が鍛えた刀は「菊御作」(きくのぎょさく)と呼ばれ、菊紋だけを茎に切った御刀が現存する。「菊作」、「御所焼き」あるいは「御所作り」とも呼ばれている。

後鳥羽上皇は、安徳天皇が平家とともに都落ちして入水された為に、三種の神器無しで寿永2年(1183)に4歳で即位され、19歳で譲位されて上皇となる。そして承久3年(1221)に鎌倉幕府執権:北条義時追討を発するが、幕府方に敗れる(承久の乱)。そして隠岐に配流となる。上皇は自ら『新古今和歌集』を勅撰するなど和歌にも堪能であった。同じく和歌の名手源実朝とも親しかったが、実朝が暗殺された後に鎌倉幕府とうまくいかなくなり、承久の乱に至ったとも推測されている。

和歌と同時に刀剣にも関心が高かったのは上述した通りであり、なかなか才がある天皇(上皇)だったようだ。

後鳥羽上皇は82代の天皇だが、はじめて三種の神器を継承しない天皇であった。三種の神器は天皇家の先祖が天孫降臨の際に天照大神から授かった鏡、玉、剣をさし、この保持が正統な皇位継承の証である。壇ノ浦から鏡と玉は回収されたが剣だけは回収できなかった。

上皇は、このことに悩み、文治3年(1187)に佐伯景弘が探索させる。建暦2年(1212)にも藤原秀能に探索させている。丸谷才一は宝剣無しの即位が後鳥羽上皇の心の傷=コンプレックスとなっての屈辱感や自己嫌悪から強権的な政治を行ったのではと論じているようだ。承久の乱も、三種の神器無しの即位だったから、政権が朝廷から武家に移ってしまったというような陰口に反応して幕府追討を命じた可能性もあるのではなかろうか。

私は、宝剣の喪失が、宝剣=刀剣に関心を持った一因ではないかとも考えている。

本三枚鍛えと清麿の刃文(2014年4月1日、15日追記)

根津美術館の「清麿展」で藤代興里氏から、清麿刃文の中に見られる断層的刃紋について、本三枚鍛えの為に皮金と心金の接点部分で断層的刃文が生まれ、その下部(心金部分)で小模様の刃紋、その上部(皮金部分)で大模様の刃紋になっていることを教わる。
(注)日本刀をよく知らない人は、心金と書くと鍛えていない鉄と思うようだが、そうではない。皮金用も、心金用も共に鍛えた鉄であるが、そこに包含される炭素量が異なるだけである。炭素量が多い鉄は堅く、それが皮金となる。炭素量が多く、堅いと「折れやすい」ので、心金に炭素量が少ない鉄を組み合わせる。更に焼き入れをすることで、「折れず」「曲がらず」「よく斬れる」日本刀となる。
畏友のH氏から『新版 日本刀講座 5 新々刀鑑定編』の中で、関連する説明があると教わる。具体的には、志津風の刃文の説明で「本三枚鍛のために地刃の境に二段の互の目乱れができる」(109頁)と記されており、清麿の刃文の説明で「板目肌流れて地に地景現われ、刃文は互の目足入り、刃中に互の目乱の二段刃となる」(111頁)とある。また186頁に本三枚鍛について説明し、「このようにすると、相州伝にみられるように、焼き深く、あばれた刃文を焼いても、比較的安全でもある」と記されている。この部分の執筆者は池田末松氏と想定される。

『技法と作品 刀工編』(大野正著 昭和53年刊)には、刀の製作方法・技法の解説や、当時の現代刀工が自身の作刀について語っている文章などが収められている。皮金と芯金が出来た後の鍛えの種類は「無垢鍛え(丸鍛え)」、「甲伏せ鍛え」、「本三枚鍛え」、「折返し三枚鍛え」、「四方詰め鍛え」などの方法が111頁に図解されている。そして、戦前の刀剣解説書からの引用として、各伝と鍛え方の関係表が掲示されている(90頁)。これによると、各伝通じて丸鍛えはあるが、関伝(甲伏せ)、備前伝(甲伏せ、まくり造り)以外では次のように本三枚鍛が使われている。京伝(本三枚、折返し三枚、甲伏せ)、粟田口伝(本三枚、折返し三枚)、大和伝(本三枚、折返し三枚、甲伏せ)、相州伝(甲伏せ、本三枚、折返し三枚)、奥州月山伝(本三枚、折返し三枚)である。

別に清麿だけが本三枚鍛えをやっているわけではないことが理解できる。それなのに、清麿に顕著に断層的刃文が生まれるのはどうしてだろうか。

同書に、清麿を目標に作刀に励んでいる宮入清平刀匠の言が掲載されている。談話の中では断層的刃文を金筋ととらえている。「清麿は卸し鉄をかなり研究し、金筋を出すことに成功しています。銑を入れたか、包丁鉄であったかは不明ですが、いずれにしても卸し鉄が巧みで、二、三種類の卸し鉄と良質の玉鋼を合わせて上手に鍛えた結果が、あの地鉄と刃の働きになって現れたのだと思います。すごみのある金筋の光というものは、おそらく新刀期以降随一でしょう」(53頁)。
また清平刀匠は「相州伝に限っては、本三枚か四方詰めでなければいけません。コバを出す方法を採っていなければ、あれだけの刃の働きを出すことは不可能です。」(115頁)と述べている。

宮入行平刀匠は「山浦一門は明らかに卸し鉄を使った鍛法を行っています。それに鍛錬の回数を変え、硬度の異なる鉄を組み合わせて意識的に金筋や砂流しを出しています。鍛えも抜群に上手です。金筋は一回の鍛え、一回の沸かしの微妙な狂いでも、跡形もなく飛んでしまいます。(ー中略ー)相州上工の金筋は細く短くキラリと光るのに対して、清麿の金筋はやや長めで太いものですが、独特の光があり、力強いものです。(ー中略ー)清麿も最初から意識してそういうものを作ったのではないと思います。たまたまそういう結果になったものを、地鉄なり刃文の見せどころとしてとらえ作風に取り入れていった」(99頁)。
行平刀匠も「刀は本三枚で作り込むのが最も良いと思います。鍛冶押しをしてみても、まくりや甲伏せなどの作り込みの刀とはまるで腰が違います。金筋や砂流しなどの働きが出るのも、皮鉄のコバが刃鉄に鍛接される部分で変化するからです。」(117頁)

この当時の宮入一門は、清麿ような刀の再現を、本三枚鍛えは大前提として、そこに卸し鉄の組み合わせ方、鍛えの技術向上にあると考えて、精進していたことがわかる。

後に、清麿に肉薄する作品を造る宗勉刀匠も「刀は本三枚で造るのが一番いいと思います。刃が軟らかくて研ぎやすいし、切れ味もいいようです。なにより皮鉄と刃鉄の鍛接面に働きが出て、刃文に変化が出せるということが魅力です」(121頁)と述べている。

この当時の現代刀は志津写しが全盛の時代であった。いずれにしても、本三枚鍛えをやれば、清麿のような作刀ができるのではなく、それに加えての地鉄の工夫、さらには鍛えの腕が大きいということだと思う。刀剣はまだまだわからないことが多いのだ。いずれにしても、刀剣も造り方などにも関心を持って鑑賞することも必要かと思う。

室町後期の両刃造り短刀(2014年2月16日、2016.7.28追記)

先日、ある刀屋さんで両刃造りの次郎左衛門勝光(永正10年紀)の良い短刀を拝見。考えてみると、両刃造り短刀の出現時期と片手打ちのスタイルの2尺前後の刀が出現した時期は同じ頃である。一方、終了の時期は、両刃造り短刀は、刀の尺寸が長くなってくる天正頃もあり、もう少し後の時期まで製作されているようだ。出現、終焉の時期などは詳細に調べる必要があるから、以下は一つの仮説である。

両刃造り短刀は刺突きに優れた武器である。この時期、重ねの厚い鎧通しと呼ばれる短刀もあるが、これよりも刺突き能力は高い。

応仁の乱以降の戦いにおいて、少し軽めの甲冑を着て、手に手槍、腰に片手打ちスタイルの刀と両刃の短刀。こういうスタイルになったのではなかろうか。お互いに槍の戦いを行い、その中で、相手の槍をはねのけて、飛び込んだ時に片手打ちの刀で、鎧に覆われていない箇所を狙う。さらに接近し、組み討ちになった時に、両刃造りの短刀で鎧の隙間から刺し殺すと言う戦いだ。

昔の兵法とは総合武術である。『國史大辞典』の「剣道」の項目に「(室町時代の)応仁・文明の乱の前後になると、新当流兵法の祖飯篠長威が出、引き続き影流・新影流・富田流など、このころから各地に剣術を中心とする兵法の流儀が続出する。なお戦国時代前後の兵法諸流は多くは剣術のほかに槍術・長刀術・棒術・小具足(短刀)・捕手などを含む規模の大きいもの(後略)」とある。

富田勢源で有名な中条流は2尺前後の刀で渡り合うことで有名だが、同時に、槍術や長刀の術を伝えている。刀剣は素晴らしいのだが、武器としてはワン・ノブ・ゼムで、どういう組み合わせで戦場に行くかは、慎重に考えたはずである。

戦国時代後期に鉄砲が出ると、、集団戦の段階の鉄砲や槍ので致命傷を与えることができる。関ヶ原の時、伊勢の津城を攻めた吉川広家の軍勢の戦傷者262人における傷の内訳は、鉄砲傷143人(55%)、槍傷82人(31%)、矢傷36人(14%)、刀剣傷1人、礫傷0人である。
こうなると、接近戦・個人戦は限定的な戦いになり、手傷を負った敵に対しては、恩賞の元になる首を掻き切る短刀の方が役に立つことになる。両刃造り短刀の役割は終わったのではなかろうか。

「両刃造り短刀の出現・流行・使用方法」を「麗」(平成27年9月号と11月号)に発表。概要は伊藤三平執筆論文リストの該当ページにアップ。(2016.7.28)

室町後期の刀剣ー片手打ちの実態ー(2014年1月22日)

室町時代後期の刀剣(応仁の乱が終わり、文明頃の右京亮勝光などから永正頃の各国の刀工)に、2尺前後の長さで、茎も短く、片手打ちに使われたとされる姿のものが多い。数打ちではなく、銘文がきちんとした注文打ちには非常に魅力的なものが多い。備前と違って美濃の刀は銘文では注文打ちか否かは判断しにくいが、名作があることは同じである。

二本の腕がある時に、わざわざ片手使用を前提にして、その片手使用の為に刀剣の長さを短くするには理由があるはずである。実戦で刀剣を主戦武器として使う場合は、使いこなせる範囲で長い方が絶対的に有利である。
「馬手(めて:右手)に血刀、弓手(ゆんで:左手)に手綱 馬上豊かな美少年」は民謡「田原坂」の一節だが、騎乗で使う為の片手打ちかとも考えたが、馬上からなら、なおさら長い刀の方が有利である。

この片手打ちだが、最近、こういうことかと理解している。鎌倉時代中期頃までは戦いは武士だけが行い、従者は兵糧の運搬などの非戦闘員だった。だから武者が戦いの前に大音声で「やあやあ 遠からん者は音にも聞け 我こそは清和天皇……」と名乗りをあげて戦ったのである。それが異国の軍、蒙古襲来で通じなくなり、応仁の乱の時は、従来は武士の従者だった足軽が、集団戦を担い、戦いの主力となる。
集団戦が中心となると、足軽も含めて、当時の武士の主戦武器は槍になったと思う。柄が三間(5.4㍍)と長い槍は、足軽など雑兵が槍襖として突撃する時に有効だが、騎乗の武士はもう少し短い手槍が主戦武器だったと思う。武功は槍で立てるものである。(ちなみに名のある武士は、個人戦の段階になった時点でも、周りには自分の従者(もちろん武装)を連れていて、グループで功名を立てた)

この時に、自分の手槍で相手の手槍を払いのけながら、懐に飛び込んで切りつけるのが片手打ちの刀である。自分の手槍を投げつけたりした後に、相手から繰り出された槍先を避け、その槍の柄をむんずと掴み、相手を引き寄せ、相手を倒すのも片手打ちの刀ではなかろうか。もちろん、当初から片手に手槍、片手の打刀ということはないだろう。手槍だって両手で持たなくては、まともな突きはできない。

文明から永正頃の刀剣で、2尺3寸というものも現存しているが、武将の太刀として使用したものであろう(太刀銘を切っているものもある)。

さらに時代が下がって、天正頃から新古境にかけて、刀剣が長くなるのは、集団戦における鉄砲、長槍の専門部隊などの兵種の分化が進み、相手の手槍をかいくぐってというような戦闘が少なくなった為であろうか。三間の槍などになると、払いのけて飛び込んでも、相手に届かない。こういう面もあったと思う。
集団戦の主力武器は遠距離戦の弓、石の礫、接近戦の槍などから、ある程度の距離からでも強力な殺傷力を持つ銃砲になっていったのである。

来派の祖(2013年10月8日)

『日本刀大百科事典 5』(福永酔剣著)の「来」の項に、来の姓の由来についての諸説が記されている。
  1. 先祖が高麗から来た。
  2. 国吉が高麗から来た。
  3. 国行はもと異国の銅細工人だったが、異国から来たというので来という姓を朝廷より賜った。
  4. 国俊が比叡山の上から船を眺め、帆と帆綱の形から来の字を連想し、銘に切り始めた。
  5. 国吉の先祖が唐人で、唐から来たから(中国に来姓がある)。
  6. 朝廷の守護兵だった来目部の来から起こった。
  7. 来は朝鮮の姓の(こざと偏に、来の旧字)の略字という説(これは、おかしいことを福永氏が詳しく例証)

福永氏は、3説における異国を高麗として、これがもっとも有力だろうと述べている。その根拠は、上代には高麗からの帰化人が多かったこと、そして、これら帰化人に朝廷が姓を賜った事例があること、さらに遡ると雄略天皇の時に百済から今来という職人を献上していることを挙げている。

最近、『サムライニッポン 文と武の東洋史』(石毛直道著)を読んだら、中国、朝鮮(10世紀建国の高麗王朝以降)は儒教国で、父系親族集団重視で、死んだ祖先の名は諱(いみな)として、子孫の名前に使用することを堅く禁止したことを知る。こうであるならば、国行、国俊、国光、国次などと、国の字を通字は根本的におかしいことになる。もちろん、日本に来て、儒教をやめて神道など別の宗教になったと言いはる人がいれば別だが。

日本でも平安時代の貴族は、同じ世代の兄弟が通字(とおりじ)を使い、親の世代とは別にしていたが、「先祖にあやかる」「血筋を明らかにする」として、通字が広まる。清和源氏の棟梁家で見ると、八幡太郎義家→義親→為義→義朝→頼朝→頼家と義、朝、頼の通字(とおりじ)を使っている。平安時代後期から通字が自然となっている。

私は6説の「来目部の来から」という説が妥当かなとも考える。この説は福永氏の著作の出典によると、『古今鍛冶備考』(山田吉睦 文政13年)、『本朝鍛冶考』(鎌田魚妙 寛政8年)に掲載されているようだ。軍事的部民の中に武器を作る鍛冶がいる方が自然である。

ちなみに来目部(くめべ)は久米部とも書かれ、古代の大伴氏に隷属した軍事的部民と『世界大百科事典』に記されている。神武東征説話にも、大伴氏の祖日臣命が大来目部を率いたとあると記されている。

大江氏が江氏となり、同音で郷となって、郷義弘だ。大伴氏が伴氏になった頃に、大来目氏が来氏になったのではなかろうか。名字の省略はあるのだ。

お隣の国は不思議な国で、何でも朝鮮が発祥地としたがるようで、世界で有名になった日本、中国の事象から、キリスト教まで、実は韓国起源と言うらしい。韓国起源説(ウィキペディアにもあるから検索して欲しい)という言葉もあるようで、この国が歴史を直視などと言う方がおかしいと思う。民族としての劣等感の裏返しではなかろうか。韓国にも有識者がいると思うから自戒して欲しいと願う。東洲斎写楽も、日本刀もそうらしい。馬鹿馬鹿しいから、それら説の根拠などは読んでいないが、来派などは誤解されやすいから、敢えて記しておきたい。

そもそも、来派よりも古い流派(京都でも三条派、綾小路派)があるのだ。むしろ奥羽の方が日本刀の源流調べでは本流であろう。

●「金属が語る日本史 銭貨・日本刀・鉄炮」から考えたこと(2013年8月5日)

著者の齋藤勉氏は自然科学者であるが、国立歴史民俗博物館に所属して、出土した金属遺物を自然科学的に分析している。

日本刀の分析も面白い(私が面白かった点は以下にアンダーラインを引いている)。刀匠の法華三郎信房氏と子息の法華栄喜氏の協力で、分析されている。私の理解の範囲で、箇条書きにわかりやすくまとめたが、御興味がある方は当該本を御覧ください。

  1. 鉄の硬さは炭素の量で決まり、炭素が多いほど堅くなる。2%以下のものを「鋼」といい、特に炭素が0.2%以下のものを「軟鉄」「軟鋼」と呼ぶ。前近代では0.1%以下の鉄を「包丁鉄」といった。
    炭素が2%以上のものを「銑鉄」または「鋳鉄」と呼ぶ。前近代では「銑」(ずく)とも言い、炭素濃度3~4%のものが多い。炭素が多いほど低い温度で溶ける。
  2. 日本刀は炭素濃度が低い(0.1~0.3%)軟らかめの鉄を、炭素濃度が高い(0.5~0.7%)硬めの鋼で包む造り込みで作られる。前者を心鉄、後者を皮鉄とよぶ。
  3. 刀匠の仕事の6~7割は皮鉄の素材を作ることに費やされる。日本刀に適した鋼に変える成分調整の工程(これを「卸し鉄」(おろしがね)と言う)と、それを均一化し精製して皮鉄の素材に仕上げる工程(これが「折り返し鍛錬」と言う)の2つからなる。
  4. 「卸し鉄」は炭素濃度0.5~0.6%に調整することだが、低炭素の鉄(炭素0.1%以下の軟鉄、包丁鉄)に炭素を含める「浸炭」と、逆に高炭素の鉄(炭素3~4%の銑鉄、銑)から炭素を除く「脱炭」があり、それは同じ炉(火床=ほど)で行われるというのが面白い。炉底の高さ、吹子を動かす速さと、火床上の炎の状態で判断するとある。
  5. 折り返し鍛錬の回数は、現代刀のどの刀匠も大差はないようで12~14回程度。
  6. 「焼き入れ」は刃側が膨張して外側に押しのけるような力が加わって反りができる。刃側にマルテンサイトができて体積が増える。棟側が縮み刃側を引っ張る力が出て反りができるのではない。後者だと刃切れが出やすい。
  7. 計る部位で温度は違うが、沸は780~800度、匂は720~740度くらいの温度で焼き入れする。焼き刃土で覆っている部分は、焼き入れの時でもゆっくりした冷却温度で変態温度を通り過ぎるので、マルテンサイトなどの焼き入れ組織を生じない。焼き刃土が冷却ではがれていくが、その時には地部ではトルースタイトやソルバイトへ変態が進行しているのて、もはや組織変化はおこらない。

以上のことは刀鍛冶であれば、承知のことかもしれないが、同じ炉(火床=ほど)で「脱炭」と「浸炭」を行うということに驚いた。また、反りは焼き入れ時に棟側が縮むのではなく、刃側が膨張するからと言うのも面白い。沸と匂の差を生ずる温度差も微妙なものだと改めて感心する。

鉄炮鍛冶の鉄と刀鍛冶の鉄の違いも興味深い。

  1. 鉄砲は日本刀と違って、炭素濃度0.1%以下の軟鉄でできている。銃身が割れないようにしたと思われる。また鉄-チタン酸化物の含有量が少ない。
  2. しかし、鉄砲の中には鉄-チタン酸化物を含むものがある。これは日本刀刀匠が鉄砲を作ったと考えられる。逆に、そもそも鉄砲鍛冶であった久保田宗明は、短刀の方に鉄-チタン酸化物が入っていなかった。
  3. 鉄砲鍛冶と刀匠は材料の調達方法や製作法に違いがあり、本業以外の製品をつくる際にもわざわざ素材を使い分けたりはしなかったようだ。

ここから繁慶は、鉄砲鍛冶だから、鉄砲用の地鉄(鉄-チタン酸化物が入っていない鉄)で、刀を造ったから、あのような面白い地鉄が出来たのではなかろうか。現代刀匠に試していただきたい点である。

その鉄砲の材料となる炭素分が少ない包丁鉄を造る大鍛冶の技術(銑鉄から炭素を取り除く脱炭の工程)も忘れ去られている。それを昔の資料(俵博士の文献など)と法華三郎刀匠の協力で試みる。
歩留まりよく脱炭するのがポイントだったそうで、それは、このページで久保刀匠が真砂砂鉄と赤目砂鉄の違いで検証したことに関連する。原料の砂鉄の違い以外に、精錬の方法でも、歩留まりよく脱炭する方法があるということだ。

  1. 4.9㎏の原料を、ともかくどんどん風を送って加熱すると1300度くらいになり、脱炭した生成物が2.7㎏はできた。
  2. 2回目は送風量を落として1200度くらいでやると、歩留まりはよくなった。だけど、これだと脱炭は十分ではなかった。
  3. そこで、はじめは低い温度で原料全体を予備加熱で、表面に脱炭層ができない程度の温度に保っておく。そして全体が十分に暖まってきたところで、原料の銑鉄が溶け出す温度まで一気に加熱する。こうすることで歩留まりよく、脱炭ができた。

清麿の映り(2013年6月2日→7月23日追記

辻本直男氏の著作(『日本刀人物誌』、『源清麿』(信濃毎日新聞社)における「源清麿の人柄と作品」)に、清麿のパトロンでもあった窪田清音の書いた刀剣書『鍛記余論』の内容が現代語訳として紹介されている。
「映りを焼くことは石堂家に伝わっていたが今はそれも絶えた。正行はそれを出そうと色々と努力するのだが成功しない。そこで私にも考えてほしいと言う。私はこうしたらどうかと意見を述べてみた。彼は最初は本気にしなかったが、その通りにやってみたところ映りがでた。それを土台に研究を重ねていく中に本当のものに到達した。偽物鍛冶の多い中に彼こそ本物である」

窪田清音は、幕臣で講武所の教授にもなり、山鹿流兵学、田宮流剣術・居合、伊勢流武家故実、小笠原流弓馬故実学んで奥義を究めた人物である。兵学門人は諸侯・旗本以下三千人余、剣術は六百人余とされ、著述は兵書五十部、剣法三十八部、水軍二部、砲書三部、雑書十一部。武家故実類書十三部を著しているというように、清麿のパトロンと紹介される以上の相当な人物である。
刀剣にも一家言があり、刀剣書も五部上梓している。

では窪田清音が特記している清麿の映りは、現存する刀剣にも見いだせるのであろうか。→<追記>に書いたが、「名刀図鑑 15集」(藤代松雄著)に明瞭な押形を発見。映りはある。
確認した本の範囲では辻本氏が関与した本以外には映りに言及しているのはない。ただし、各書に掲載された写真の中には映りかなと思うものもある。

なお、辻本氏が映りがあると調書に記した重要美術品:弘化丙午年紀窪田清音為打ちの刀は、各書に掲載されている有名な清麿だが、それぞれの地の説明は次の通りである。

映りは、くっきりしたものなら、誰でもが確認できるが、清麿の映りも、それほどはっきりしたものではないのかもしれない。あるいは窪田清音が清麿の優れた点を述べるにあたり、やや過剰な褒め言葉を述べたのかもしれない。私は清麿の作品を手に取って拝見する機会が少なく、清麿の映りは記憶が無いが、畏友H氏に確認すると、「長野県宝になっている清麿に映りと思えるものを観たことがある」とのことであり、『鍛記余論』の内容は誇張でもないのではと思っている。

刀を言葉によって説明する調書において、「地沸」、「杢目肌」等の定義もはっきりしておらず、客観的な定義は難しいと思う。「映り」についても乱れ映りの薄いのになると、研ぎの関係なのか、地の疲れなのかと迷うものもある。「白気映り」になると定義も曖昧であることに加えて、これは本来の「映り」でないとする人もおり、何とかして欲しいと思う。

窪田清音の刀剣書『鍛記余論』に、苦心して清麿が映りを出すのに成功したと書かれているのであるから、はっきりしない映りでも、辻本氏のような立場からの調書の方が、私には望ましいと思うのだが、あなたはどう思われるか。

なお、この問題提起は、刀剣の言葉の定義問題(各言葉の定義が明確でなく、加えて人によって解釈が違うetc)だけでなく、鑑定に潜む固定概念問題(清麿の地鉄は「板目肌、地に流れ心があり、地沸豊富につき、地景入る」、備前物だと「映りがある」と説明し、映りの種類まで言及、美濃物だと、どんな映りでも「白気映り」、来物だと同様に「沸映り」とするetc)でもある。

<追記>
「名刀図鑑 15集」(藤代松雄著)に、「清麿 弘化丁未年八月日」の短刀の写真と押形が掲載されており、特に押形の方で明確な棒映りが描かれているのを教えていただく。解説の一節に「一般に乱刃よりも匂口締まった直刃は、地鉄よくつみ地映りもついて、精良なものが多く味わい深いものがある」と明記されている。窪田清音の『鍛記余論』の記述の通りなのだ。(7月23日追記)

新刀初期の作風変化における美術的な視点ー相州伝作風復活、梨子地肌誕生の背景ー(2012年10月11日)

末古刀時代の作風から、慶長初年になって新刀らしい作風に変化した背景を、より美術的な視点、すなわち俵屋宗達の作風から問題提起をしている。

新刀初期の作風変化における美術的な視点ー相州伝作風復活、梨子地肌誕生の背景ー(2012年10月11日)

刀身彫:後彫り(あとぼり)について(2012年9月21日)

以下の「草の倶利伽羅の研究」の中で、直面した問題について、『鑑刀日々抄(続)』に掲載されている2振りの祐定の彫りを例に具体的に取りまとめている。

刀身彫:後彫り(あとぼり)について

刀身彫り:草の倶利伽羅の研究(2012年9月19日に加筆)

二荒山の「宝刀譜」というカタログにおける国宝の倫光の草の倶利伽羅の彫り物の写真に感じるところがありました。
そこで、古刀における草の倶利伽羅彫りの時代、国による違いをまとめてみました。

刀身彫り:草の倶利伽羅の研究

相州伝の大和伝との関係(2012年5月16日)

相州行光と当麻の作風が似ているのは事実とすれば、行光は、そもそも大和系の刀工ではなかろうかということを書いてます。
思いつきではありますが、後世の方が研究してくれたら、良いと思います。

相州伝の大和伝との関係(PDF文書)

「行光」鑑定の幅の広さについて(2012年5月8日)

以前、短刀名作者の現存本数として、備前景光に比しての各短刀名人の本数を、一つの考え方で定量的に比較した。ここでも無銘の行光の短刀の多さが際立っていた。

今回は、本間薫山氏、本阿弥光遜氏の見解を整理して、問題提起をしている(というよりは諦めですね)

「行光」鑑定の幅の広さについて(PDF文書)

『武州下原刀工図譜』(2012年1月29日)

日本美術刀剣保存協会三多摩支部が2011年月に標記の本を出版された。武州下原刀工とは、末古刀期から江戸時代末期まで、八王子市に居住して作品を作っていた刀工集団である。

今は美術的見地からの評価だから、あまり高く評価されていない。また江戸時代でも軟弱な時代になると、下原=下腹=切腹のイメージで人気がなかったという。切腹は名誉の死で、この覚悟で務めるのが本来の武士なのだが。(これは将軍家御用の康継家も下坂=くだりざかとして嫌ったり、埋忠明寿の埋忠家も、忠(義)を埋める=とんでもないとして嫌われたのと同様である)

ただ、新刀の武蔵太郎安国(大村加卜の門)が出て、その門流の吉英は、新々刀の巨匠水心子正秀のはじめの師である(川越藩秋元家の関係)。
さらに、私はまだ可能性を捨てきれないのが、早い時期の江戸鍛冶、和泉守兼重も下原の出身ではないかとの説である。(今回の著作の中でも、この線を突っ込んで調べれば、和泉守兼重下原説を補強できるのではないかと思われるヒントもあり、参考になる)
また人気刀工繁慶も、なにやら下原鍛冶との関係もあるように思える。(この著作には、憶測段階の和泉守兼重のこと、繁慶のことは触れていない)

作風については末古刀の一派としての作風以外に、『日本刀の掟と特徴』(本阿弥光遜著)に「著者の曽祖父の金治又は父の欽明が「下原物には思いもよらぬ相州伝上位と見えるものが刀にも短刀にもあった。廃刀令の出た前後には研師も生活が出来ず、又刀商もその如くであったので、上々の下原物を「コナシ研」をして名刀として、これ愛刀家の前に出したが、その中には正宗もあったろう、義弘もあったであろう。とにかく相州上位に直されたものが非常に多かった」と話したが、これは大いに我々が心得ておくべきことであろう」とある。

この逸話は、この本にも取り上げられているが、この本は下原刀が素晴らしいという身贔屓のトーンではまとめていない。客観的な姿勢を貫いている。

昔は郷土刀顕彰の熱心な人がいたが今は少なくなっている。これは人口の大都市集中の影響かと思う。こうなると、郷土刀が大事にされなくなる懸念がある。寂しいことだ。HP上で論文検索サービスを受け付けているが、有名工以外は、論文がないことが多く、がっかりさせてしまう。こういう意味でも意義のある出版である。

また協会は審査に追われ、『肥前刀大鑑』を最後に資料をまとめて発表していないことを私は批判してきたが、この本は三多摩支部であるが、今回の取り組みには敬意を払いたい。

祖の下原周重は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏、次いで北条家の庇護を受け、康重の康は北条氏康からの拝領である。照重は北条氏照(大石定久の養子で大石姓を捨てる)からの拝領である。
徳川の時代になると、徳川家の御用を受け、子孫の山本康臣家には家康の命で槍千本の御用を受けて、褒美として除地苗字帯刀を許され、康の字を賜ったとして、先祖の事績を改竄したりする。

実用の武器、槍の生産では下坂と同様に高く評価されてきたのだと思う。(実際の戦闘では鉄砲と槍が主戦武器、次いで石、弓矢で刀などは集団戦では意味が無い武器)

掲載の押形集を拝見すると、沸の強い相州伝風のが観られるが、地鉄を観ないことには本阿弥光遜の父、曽祖父が述べた相州上位に紛れるかはわからない。私や識者を驚かすような下原刀を発掘してほしい。下原もそうだが、島田鍛冶、千子鍛冶という東海道筋の鍛冶には、同じ街道の相州鍛冶に共通する作風はあると思う。

短刀の無銘の理由が明確なのは村正(徳川家に祟るとして消される)くらいと思っていたが、下原刀のたなご腹の茎を観ると、村正の無銘も下原刀の可能性に留意しないと危ないと思う。こういう点でも参考になる。

八幡北窓治国の不思議&在銘の怖さ(2012年1月8日、13日)

舟山堂の山田均氏が2011年12月27日に逝去された。お店は会社から歩いて行ける距離にあり、年末のご挨拶に出向いたら、店にたくさんの人が来ておられて、訃報を知ったという次第である。お酒、特にビールがお好きで、酒を一切嗜まない私とは、この面では接点はないが、理論家で、刀に関する本を多く読まれ、蔵書の多さは圧巻である。また多くの刀を観てきた豊富な経験があり、疑問点に答えていただける人であった。こういう人だから協会のおかしな体質には当然、批判的であった。

昔、私は「八幡北窓治国、天和2年5月日」と銘のある脇差を購入したことがある。刀剣柴田の「現存の優品」にも賞めて所載されていたものである。確か甲種特別貴重刀剣の証書が付いていた。井上真改風の匂口が深い、沸出来のものである。

驚いたのは、何かの折に、藤代松雄先生に観ていただいた時に、「これはダメだ」と言われたことだ。後年、この話を含めて八幡北窓治国のことで、山田さんとお話した時、「その治国は知っている。自分が観た中では、あの脇差が一番良いと思う。北窓治国は江戸時代の評価は高いがあまり観ないよ。また不思議なのは、観たことがある治国は天和2年の年紀ばかりのことだ。」と言われた。

なお、この脇差の銘字は藤代『日本刀工辞典 新刀篇』に掲載されている銘字と、似ている字もあれば、違うが時代の変遷によるものと判断されるような字もあり、全体の感じは、むしろ堂々と立派に見えるものであった。

先日、紹介した『今村・別役刀剣講話』において、別役将軍は第28回講義「真改一族について」の中で「真改、助広には割合に弟子打ちの品が世上に少ないのと、真改、助広にはほとんど真物に近い偽物がたくさん世間にあるところより考えて見ますると、弟子打ちの通用の悪しき在銘物をどしどし磨りつぶして、師匠の銘を彫って世人を欺いている」と述べているように、八幡北窓治国が少ないのは師匠の真改に改竄されているからであろうか。

同時、山田さんとお話した時に思ったのは、現存する数が少ない刀工は、偽物をたくさんつくれば、それが本物として通ってしまう可能性も否定できないことだ。ある偽物作者が、天和2年の銘のものを何振りか作れば、それがその刀工の天和2年の銘振りになる可能性もあるというわけだ。

この脇差、何かの時に、刀剣柴田で下取りをしてもらったが、その後は見ない。刀剣柴田の青山君には「松雄先生に悪いと言われて驚いた」と明言したら、「本当?これは本物だと思うよ」と言っていた。証書が付いているし、松雄先生以外の方は本物とされているから、世間はそれで通ると思う。

私ごときは、刀も刀装具も自分のものにして、何度も観ていかないと真偽もわからないし、何度観てもというところがあり、今でも、この八幡北窓治国の真偽はわからない。今の時点で、あえて否定的に観ればという点で思うことはあるが、再観した上で判断したい。

この話を敷衍して考えると、怖い。例えば慶長期に、ある刀工が古刀の偽物を多量に作って銘を入れる。後世、同じ手の銘のものが現存する。すると、出来に大差がなければ、この銘の方が多量にあるだけに標本的となる可能性もあるわけだ。幕末の桑名打ちという末備前の偽物も、このようなもので、それが偽物として判明している例であろう。

私は土佐吉光などは、この手のもので、たまたま出来が劣るために、土佐吉光という刀工が生まれたのではなかろうかとも考えている。銘に多様なものがある新藤五国光、藤四郎吉光、来国光などにも、この手のものがあるのではないかと想像している。新藤五などは、特に銘の多様性が広い(2代とか代銘で片付けているが)。

細直刃の短刀など、慶長新刀のある程度の刀工が作れば、なかなか判別するのは難しいと思う。私は昔、藤代松雄先生の鑑定会で、直刃の短刀ばかり8振くらい出されて、頭が真っ白になった記憶がある。研ぎも、上手な研ぎ師さんは、その刀工らしく研ぐわけだ。(ある研師さんから、無銘であるが、ある刀工に極まっている刀の研ぎは神経を使う。刀の個性を出して、研いで、極めの刀工の作風に似ていないものになれば研ぎが下手と言われる懸念があると、伺ったことがある。言い換えると、その刀工らしく研ぐことは、ある程度は出来ると言うことだ)

之定の来写しをよく観るが、鑑定会で判者は「鋩子が違う」とか「匂口に節がある」とかの来との違いをことさら言うが、実際には難しいものもある。之定に来写しがあれば、名の知られていない末関刀工にも来写しがあったわけである。それはどうなったのであろうか。
慶長期になれば沸を強くした直刃の短刀を作ることは造作がないだろう。

以上のことをアップしたら、津田越前守助広、左行秀でも、上手な偽銘を切る者が、多くの偽物を造ったことがあり、今でも本の所載品に掲載されていると、識者の方から伺った。
そういえば、畏友のH氏も重要指定の上記刀で「あれは」と述べられていたことを思い出した。上記の偽銘切りが造りだしたものだろうか。

鍛冶平偽銘も考えてみれば達者なものだ。

最近では人気の現代刀匠大野義光にも、偽銘が多く出回っているようで困ったものです。(1/13追記)

無銘の相州伝の怖さを述べたことがあるが、古刀在銘のものにも、以上のような怖さがあることは認識しておくべきだろう。
こんなことを書くと、有名工の作品は買えないと思う人が出るかもしれないが、我々素人は所詮趣味で買っているのである。趣味は時間と金を無駄に費やして楽しむもの。しょうがない面もある。振り込め詐欺程度の手口であれだけの人がひっかかっているのだ。授業料を払いながら勉強するしかない。(1/13追記)

古刀と慶長新刀、あるいは室町期のものは、地鉄を観れば違うと豪語する方も多いが、山田さんは「刀は怖い。鑑定会はこっちが説明しやすいものを出すが、わからないものを出されたらわからないよ」と述べられていた。刀屋さんにしても、趣味人にしても御刀に対する謙虚さは必要だと思う。

●「真砂砂鉄と赤目砂鉄の分類」の紹介(2011年5月13日)

ある方から、「刀鍛冶の久保さんが、久保田氏(日立金属冶金研究所)と一緒に、こんな論文を「たたら研究50号(2010年12月)」に掲載しており、興味深い」と奨められて、読ませてもらったものである。

専門的な内容も多く、要約が正しいかは自信もないが、次のような内容である。

  1. 真砂(まさ)砂鉄は島根などで産出され、一方、赤目(あこめ)砂鉄は備前などの山陽側で産出される。そして、「真砂砂鉄は磁鉄鉱に対して、赤目砂鉄は風化の進んだ赤鉄鉱であるため鉄が生成され易い」と言われてきた。
  2. また「古来は銑押したたらでの赤目砂鉄の使用だった」が「天秤たたらの発明による送風量の増加で真砂砂鉄による銑押したたらが可能になった」という説があらわれ、半ば定説となっている。しかし実験で送風量を増加しても奥出雲地方での真砂砂鉄で銑を流すことはできなかった。
  3. この定説を今回、実験で覆せた。
  4. 砂鉄の選鉱法には比重選鉱法と磁力選鉱法がある。日本古来のたたら製鉄では水流を利用した比重選鉱法=鉄穴(かんな)流し法だが、今は磁力選鉱だ。だけど実は磁石に着かない成分があり、それが重要な役割を果たしていたのだ。(比重選鉱=鉄穴流しでは採取できる)
  5. 中国地方の砂鉄を比重選鉱法と磁力選鉱法で、それぞれ採取し、砂鉄成分の違いとたたら生成物への影響を、実際にたたら操業で調べた。
  6. 比重選鉱したものは二酸化チタンが12.5%と多い。一方、磁力選鉱したものは二酸化チタンが3.6%と低く、これは高品位の真砂砂鉄に近い。
  7. 比重選鉱したもので、たたら操業をすると、操業初期からスラグ流出時に激しい火花を伴い銑(ずく)が流れ出て、炉内銑塊11.0㎏、流れ銑10.6㎏の計21.6㎏の銑が生成され、歩留まりは52.4%と高い。(銑押し操業)
  8. 一方、磁石選鉱したものでは銑は全く流れず、スラグのみが流れ出し、炉内には鉧(けら)が生成される。歩留まりは43.9%であった。(鉧押し操業)
  9. 山陽側の赤目砂鉄地帯の河川には磁石につかない成分がかなりある。この磁石に付かない成分が銑を流しうる赤目砂鉄本来の性質を備えている成分だった。すなわち磁力選鉱では取得できないものだった。(以下、この実験結果が詳しく書かれる)

世界に冠たる日本刀には、まだ不思議なことがある。このような実験・研究に敬意を払いたい。

短刀名作者の現存本数(2010年6月11日)

最近、「山岡重厚の書簡」(佐藤幸彦編)を拝読。山岡将軍はちょっと真偽に厳しすぎるというか、少し異常なところもあると感じる。私は拝見していないが来国次の中では屈指とされる鳥飼国次もダメとある。
山岡氏も異常だが、一方で『鑑刀日々抄』のシリーズを観ていくと、短刀の名作を多く作った新藤五国光、来国俊、来国光についても、「2代だろう」と記して認めたり、「銘ぶりは違うが偽臭は感じられない」とかのコメントで、やや幅広く認め過ぎているのかなとも感じる。
そこで本間薫山氏の『鑑刀日々抄』シリーズ(補遺は、以降の刀剣美術で掲載分である)に取り上げられた数と、第1回から34回の重要刀剣に指定されたこれら刀工の数を、備前の短刀名作者の長船景光と比較してみた。

短刀名作者の鑑刀日々抄の掲載数、重要刀剣指定数

結果は次表の通りである。長船景光との時代の違い、寿命の違いなども加味しないといけないが、新藤五国光、来国俊、来国光などは許容範囲が広すぎる=甘いのではなかろうか。

もっとも山岡将軍は景光の白山権現の彫りのある重要文化財を偽物(それもかなり具体的に)としているわけであり、景光が全てホンモノとも言えないのだが。

私は個人的には、範囲を広げても救った方が良いとは思うのだが、異論はあると思う。(刀工によって、是認の幅に広狭があり過ぎる感じがする。一番広いのは相州伝上工の無銘物だと思うが)

応永備前の肌と研ぎ(2009年3月6日)

私のブログ(09年2月12日)に、ある刀屋さんで拝見した応永備前の盛光について記し、その中で「地鉄が肌立って杢目が非常に目立つ。その分、棒映りはあまり目立たない。刀屋さんは研ぎで肌を出し過ぎていると言っていたが、以前、別の刀屋さんでも肌を異常に立てた盛光を見たことがある。応永備前は「応永杢」という言葉があるそうだが、基本的には杢目が目立ち、肌立つことが多いのだろう」と記したが、この刀を拝見した研師さんによると「肌を出し過ぎて、若干汚くも見える箇所は継ぎ研ぎがしてあり、それが下手で、こうなっている」とのこと。そして「継ぎ研ぎは、前の研ぎ師より、上手くないとダメであり、難しいもの」とか、「基本的に応永備前の研ぎは肌が立ちやすく難しい」というお話であった。

また応永備前の直刃には棒映りが出やすいが、乱れ刃には出にくいこと。だから肌立つから目立たないという言い方はおかしいようだ。なお乱れ映りは現代刀工も出せるが、棒映りは出せないとのお話もあった。

ちなみに、ここに書いた別の刀屋さんにあった肌を異常に立てた盛光は、また研師さんに行き、肌を抑えて、重要の審査に出し、落ちて、売りに出されている。これが繰り返されるのではないか。こうして、どんどん減っていく。悲しいことだ。

以前、拝見した古備前吉包(ブログの08年10月24日記載)は本来、少し肌立つものを、つぶして、変な感じになっており、なるほど肌立つものの研ぎが難しいのだと認識を新たにした。

特重の志津の正宗への改ざん(2009年2月19日、24日)

今月(09年2月号)の「刀剣美術」に”第53回重要刀剣の伝正宗は特別重要刀剣に既に指定済みなので取り消す”という内容のお知らせが掲示された。これは以下のようなことらしい。

  1. 第2回の特別重要刀剣として伝志津と極められた刀がある。(第13回の重要刀剣指定)
  2. この刀の茎先を「切り」から「剣形」にし、中心穴(従前は4つで内2つ埋め)を埋めたり、新たに穿ったりで改ざんして、第53回の重要刀剣で伝正宗として指定される。
  3. 次いで第20回の特別重要刀剣審査にも合格し、伝正宗で指定された。
  4. この事実が判明したので、上記の公告になったというわけだ。

はじめて聞いた時は、特重が格下の重要になるわけだから、何だかよくわからず、図にしながら説明を聞いたものだ。
特別重要刀剣の志津、これでも大名刀なのだが、これを改ざんするわけだから、正宗としても再度、特別重要刀剣に指定されるという確信がないとできないことと思う。怖ろしい話である。(この話を聞いて、一応、各重要、特重の指定の押形を私自身で確認したが、中心は一見しただけでは同じに見えないように改ざんされているから、皆様も確認してください。刃紋の押形が出ている13回重要図譜と53回重要図譜を比べると合点がいきます。延寿国村虎徹に続く現代の改ざん事件のその三)
無銘の伝志津を無銘の伝正宗にするのだから、「従前の極めを再鑑の上、正宗と改める」でいいと思うのだが、今の特重、重要の制度では中心を改ざんしないといけないらしい。変な話である。(今度は元の特重の志津に戻すわけだから、改ざん者は大変だろう。また茎先を切るのだろうか。こういう職人も悪いです。日本美術刀剣保存協会は「保存」がついているのだから、「改ざん」は厳しく糾弾して2回特重も取り消したらどうか)
江戸時代は正宗が大名家に必要で、本阿弥が造ったわけだが、同じことが現代にも生じているわけだ。これが今の刀剣界の一つの現実。

重要文化財指定の直刀問題(『お騒がせ贋作事件簿』より)(2008年4月2日)

先日、『お騒がせ贋作事件簿』(大宮知信著)と言う本を読んだ。世を騒がせた贋作事件を取り上げた本である。高麗青磁、藤田嗣治、鉄斎、永仁の壺、浮世絵、三越事件、偽バイオリン事件まで幅広く、取り上げられている。
その中で刀剣では、1989年に重要文化財に指定された上古刀の直刀5振のことが書かれている。このことは1990年6月12日、国会の参議院文教委員会で、重文指定疑惑の問題として取り上げられて、広く知られている。この本の内容を要約すると次の通り。

私は、上古刀のことはまったく知らないので、これに対しては何の意見もない。ある刀屋さんは「あれは新しいものではなく、正しく上古刀」と言い切っているから、正しいのかもしれない。いずれにしても再度、検討し直した方が気持ちがいい。
当時、「こんな事件が起きると、これからしばらくは刀剣の重要文化財指定が見送られるのでは」と仲間と話をしたが、今回の日刀保の問題も含めて、文化庁は刀剣には懲りているのではなかろうか。

『刀狩り-武器を封印した民衆ー』(藤木久志著)の紹介(2008年1月22日)

刀を趣味にしている我々は、江戸時代において、農民も町人も脇差を指せることを知っているが、黒澤明の「7人の侍」もそうだが、小説家、知識人と言われる人の中には、百姓・民衆は秀吉の刀狩り以降、武器は持てなかったと思っている人が多いらしい。筆者はその思いこみを正し、筆者なりの論を展開している。
法令を施行の段階で、実施する方の解釈の違いは見られるようだが、筆者は刀狩りの本意は身分制度を明確にすることではないかと実証している。これはヨーロッパの中世にも見られるようだ。
そして鉄砲も含めて多くの武器が江戸時代を通して農村に存在したことを多くの資料から抜き出している。
ただ支配層も農民層も、戦国乱世の反省からか、お互いに武器を使わないように抑制してきた歴史も描いている。
須田努の研究を引用して、徳川時代にあった百姓一揆の総数1430件のうち、武器を持ちだしたのが15件(1%)。しかもこの内14件は最後の19世紀前半の50年に集中しているというデータを掲載している。

明治の廃刀令も、武装解除ではなく、帯刀禁止令で、帯刀は軍、警、官だけの身分表象だったとしている。

我々、刀剣愛好家にとっての悲劇はマッカーサーの刀狩りだ。米軍は一般日本国民の所有する一切の武器を取り上げようとした。その時、先人が日本刀は「日本人の魂」、民間の「家宝」として除外するように一生懸命に働きかけ、結果として美術品は別と言う名目で守られたことを、この本でも書いている。

戦後の刀狩りは静岡、熊本、茨城、長野は厳しかったようだ。(だから阿蘇神社の国宝の蛍丸が行方不明)
1946年4月までに、没収された刀剣類は140万本となった。なお著者は別の箇所で、占領軍令によって消滅した刀を300万本と推計している。

ちなみに現在(1999年度末)で刀は231万本が登録されている。だから戦前の日本の丸腰の民衆は530万本を保持していたとなると結論づけている。

内藤直子著「戦国大名と刀工集団ー今川氏・武田氏と島田刀工ー」(2007年4月27日)

大河ドラマが「風林火山」だから、山梨県立博物館、新潟県立歴史博物館、大阪歴史博物館で特別展が開催されている。そのカタログが『信玄・謙信そして伝説の軍師』で、その中に大阪歴史博物館の学芸員の内藤直子氏が標記の論文を執筆している。

古文書に基づいて島田鍛冶の今川家、武田家との関係や、島田鍛冶の当時の評判、島田鍛冶関係者(例えば連歌師宗長は島田鍛冶出身)の活躍の様子などが明らかになっていて興味深い。

刀ではおそらく造りの助宗や、原入道の添銘の広助を解説しており、特に広助の刀は、武田信玄の剃髪にあわせて原虎胤も剃髪し、その記念碑的作品と推察されている。

二王もそうだが、島田鍛冶も五ヶ伝重視の中で看過されつつあり、再見直しをしたい。(知人が沸の強い義助を所持されている。銘も異風とかで保存が通らないと聞いたが、こういう作品ほど無銘にされて相州上位に極められているのではなかろうか)

岡田孝夫著『江州刀工の研究』の推奨(2006年12月26日)

岡田孝夫氏の論文には、江戸新刀の研究においても非常に多くのお世話になっているが、『江州刀工の研究』(サンライス出版2940円)として発刊されている。
私は新刀、特に江戸新刀の源流に、近江国が大きな役割を果たしていると考えているが、その江州刀工(康継、虎徹、兼若、忠綱、一峯助直など)のことや、古刀期の高木貞宗(岡田氏は貞宗は佐々木源氏に縁のある者で、相州貞宗と同人であると非常に説得力のある研究を、この本の中でも展開されている)から、粟田口有国が承久の乱以降江州に移ったことなどまで幅広く、しかも資料に基づいて深く研究して、とりまとめられている。
特に下坂鍛冶のことは圧巻である。
また談義所西蓮の話や江州刀工とは関係がないが、小反物の意味や、郷ではなく江が正しいとの話なども非常に興味深く、示唆に富んでいる。是非、一読をお奨めしたい。
一つだけ希望を述べると、収録された各論が初出された年月や雑誌名なども明記して欲しかった。岡田氏がはじめて指摘した事実がたくさんあるのだから。

虎徹に関する確認したい話(2006年6月29日)

第50回重要刀剣に指定された虎徹の脇差に関して、気になる話を聞きました。怒る人も、あきれる人も、この話は本当なのかと驚く人もいると思います。はっきりさせてほしい話です。

鉄の歴史-『語っておきたい古代史』森浩一著より(2005年8月22日)

同志社大学教授の森氏の上記著作は講演結果をまとめたものであり、読みやすく面白い。
その中で鉄の歴史が書かれており、要約すると次の通りである。相州伝誕生や現代刀作家の材料作りに参考になるのではなかろうか。

  1. 製鉄遺跡は幅が2㍍ほどの急流があり、その5~10㍍ぐらい横に炉跡として出る。
  2. 縄文時代にも製鉄があった可能性がある。それは日本海沿岸に巨木文化があったが、固い栗の巨木の伐採を考えると鉄斧を使った可能性が高いこと、縄文遺跡の中に高温の炉跡(6000~7000年前の松阪市の鴻ノ木遺跡)があること。(鉄の残滓は弥生でも見つかりにくい)
  3. 鉄は年代が古くなるほど純粋の鉄で、6世紀以降の大規模製鉄時代になるほど不純物が交じる。
  4. 中国は石炭を使って還元していた。高度の方法と思っていたが、これだと不純物(硫黄)が多くなる。日本の炭での還元の方がいい。(中国は森が少なく、炭はだめ)
  5. 弥生の頃から中国、朝鮮にはない砂鉄を使っていた所もあったが平安時代になると鉄鉱石を使用する所はほとんどなくなり砂鉄中心となる。
  6. 砂鉄の採取は沈殿させていくわけであり、稲作の灌漑技術が応用されて大規模になっている。
  7. 日本にはほとんどの県に製鉄遺跡がある。関東の鉄生産は鎌倉幕府の頃にピークを迎え、幕府の力の根源は関東の鉄ではなかったか。

改造された延寿国村(2004年8月7日)

今年、第18回特別重要刀剣に指定された額銘の延寿国村が、切断された茎尻に在銘が残っていた延寿国村を改造したものという指摘があり、「改造された延寿国村」として、とりまとめてみた。

杉田善昭氏のずぶ焼き(2004年7月12日)

日経新聞(04.7.12)の文化欄に現代刀作家の杉田善昭氏が「刀鍛冶の魂刃紋に輝く」という一文を寄稿されていて、ズブ焼きについて書かれている。

杉田氏のことは、99年にこの欄でも紹介したが、ズブ焼きは本当に不思議な方法である。刀身を鍛えるという行為は必要だが、刃紋については不作為である。それゆえに出来不出来の差が大きくなる。

今回の文によると、焼き入れ用のふねの深さを深くして、それの解消を図っているようだ。

杉田氏の長い鎬造りの刀は拝見していないが、平造り以外もうまくいくのだろうか?
興味はつきない。益々の研究に期待したい。

伝来についての疑問(2004年7月1日)

気になることがあるから、ここに記しておきたい。

  1. 今月号(平成16年7月号)の『刀和』に某氏が、ご所蔵の来国俊の短刀について書かれているが、その中で「(肥前平戸松浦伯爵家旧蔵と伝える)」と記されている。たまたま、この来国俊を以前お持ちだった方を存じており、その入手のいきさつを聞いたことがある。長崎で発見、購入されたのは事実だが、肥前平戸松浦伯爵家旧蔵は飛躍しすぎである。某氏は刀屋さんから、こう聞いたのかもしれないから、ご本人には責任がないと思う。某氏は色々と貴重な古文書を発掘されたりして、尊敬している方である。ただ、このように書いたものが残ると、次の人にも誤った伝来が伝わることになりかねない。

  2. 伝来の件で書いたので、佐野美術館で開催された『長光展』での、重要文化財の白山権現の彫りがある景光の伝来についても記しておきたい。佐野美術館の編集した図録において、この短刀は「加賀本多家伝来」とある。この短刀のことについて、私は「白山権現の景光誕生の背景」(『麗』平成10年6、7月号)という拙論を記した。この短刀については重要文化財でありながら、一部で偽物説(中央刀剣界系の鑑定家など)もある。また刀そのものは紛れがないが「白山権現」の彫りが後彫りではなかろうかと疑問を持つ人もいる。私自身は現物を拝見したことがないが、この姿は非常に美しいと思い、娘のお守り刀の姿に写してもらっている。

    長船長光に熊野三所権現の刀があるように、長船嫡流は熊野信仰である。拙論においては、この白山権現景光は白山中宮長滝寺が火災で炎上して再建された時に寄進されたものと推測したが、「なぜ景光に熊野信仰とは違う白山信仰の短刀があるのか」については今後も研究課題として議論していくべきだと思う。(熊野と白山はともに天台系の修験である)

    佐野美術館はこの長光展をはじめ、興味深い企画展を実施しており、私は一目をおいている。佐野美術館が「加賀本多家伝来」と記したのであるから明確な根拠があると思う。今の流行りの言葉であるが「説明責任」もあると考える。

私は伝来も大切にすべきと思う。しかし、伝来には、鞘や鎺の紋から勝手に希望的に推測したり、登録証の登録県の大名家から「○○家伝来と推測する」人もいる。
その人は断言せずに推測でも、その刀が別の人に渡っていく内に「○○家伝来」となってしまう。刀屋さんも、売りやすい。そして、ある時、鞘書に記入してもらうと立派に誤った伝来が完成する。

こういうこともありますから、刀を伝来で買うようなことをしてはいけない。実質本位であるところが茶道具などと違って刀の良いところですから。

出羽大掾国路に関する佐藤幸彦氏の論文について(2003年8月27日)

刀剣美術の2003年8月号に「出羽大掾国路と越中守正俊」という佐藤幸彦氏の論文が掲載されている。
この中で佐藤氏は、浅井了意『京雀』という江戸時代の京都の町のガイドブック的本に、これら両鍛冶が西洞院毘沙門町の項に並べて掲載されているのを紹介し、高野辰之旧蔵『諸職受領調』に慶長18年10月10日に祖父(出羽大掾国路初代)が受領したとの記載があることや、国道銘があること、作風の類似性から出羽大掾国路は三品家の人か、あるいは高弟であり、30代半ばに堀川国広門になり、国路と改名、そして慶長18年10月10日に出羽大掾を受領したと推論されている。

従来から、国路については、国道銘という初期銘が存在していることと作風から、三品派有縁説があったので、この説自体は目新しいものではないが、刀剣界では知られていない資料から受領の時期や居住地などを発掘されたことに敬意を払いたい。

私は、国路ははじめから最後まで三品派で、堀川派に属したこと自体も疑問と考えているが、このことはいつかまとめてみたい。

寛文新刀出現の背景(2001年10月17日)

今月号の『刀剣美術』(平成13年10月号)の「資料紹介~審査の現場から 幕府抱え金工 安田方教の鐔と目貫」という論文の中で、著者飯田俊久氏より、私が書いた論文「明暦の大火と刀剣需要」を注釈の中で紹介していただいた。

ある人から私の論文について問い合わせを受けたので、PDFファイルに落として、全文を掲載しました。

戦乱が武器の発達を促すことは確かであるが、元和偃武(1615)から50年近く後の寛文時代に、なぜ多くの刀工が出現し、寛文新刀と呼ばれる時代を築いたのかというのが私の問題意識であった。(第2次世界大戦が終了してから50年というと1995年である。このことからも、寛文新刀の不思議さが理解できよう。)

その一つの仮説として、武士の都、江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(1657)で多くの刀剣が灰燼にきしてしまった為に、復興需要として刀剣が必要となり、その結果刀工が輩出したと考えみた。

飯田俊久氏に目をとめていただき、喜んでいる。

山城伝短刀の見方(2001年1月24日)

東京支部の新年会に出向き、年に1度の1本入札に参加しましたが、今年は当たりは2振に留まりました。畏友のH氏も2振だったようですが、私と違ってはずし方の筋が違います。

H氏の入札を拝見していると、やはり本筋で勉強されただけに、二流、三流は外しても、古刀の一流所の良いものはキチンと鑑定されます。H氏が「自信があるのは5号の吉光です」と言われたの対し、伊藤は「沸が強いな、新藤五かな。でも地景が見えないから、作風の広い来国俊かな」と外してしまいました。吉光などはこれまで2振しか拝見していないから、刀工名が出てこなかったです。
その反省もこめて、これら3刀工の違いを復習しましょう。

昔、刀剣柴田の大丸店に荒木斎蔵さんという方がおられました。ご老人で、当時の私なんかは、お話ができない人でした。その荒木斎蔵氏が、『麗』に「荒木斎蔵刀剣教室」という連載を昭和53年四月号から16回にわたってされたことがあります。
「蛙子丁字を焼く刀工達」、「新刀の丁字刃の見方」、「大和五派の作風の見分け方について」などのテーマ別に解説されました。
鑑定という「銘当てゲーム」のためには、面白い着眼だったと思います。 その中の「短刀の見方」から転載します。

合戦における刀の位置づけ-『刀と首取り』『弓矢と刀剣』を読んで-(2000年12月4日)

『刀と首取り』(鈴木眞哉著)という本を読んだ。この著者は、鉄砲、槍などに比較して現存する刀が多いことから論をすすめ、これだけ多いのは実戦では刀を使わなかったのではないかと仮説を立て、それを古文書などから明らかにして、「日本人の戦闘は接戦思想ではなく遠戦思想で、戦いの主力は昔は弓、次いで槍、そして鉄砲伝来後は鉄砲と槍であった」と述べている。

『弓矢と刀剣』(近藤好和著)でも、古来から戦いの主役は弓であったと、絵巻資料なども駆使して証明されている。

私も、合戦の主力は弓、鉄砲で、次いで槍だったという意見に賛成である。私が指揮官でも刀を抜いた白兵戦などは夜戦や、負け戦以外は考えないであろう。

私は日本人は、刀を戦いではなく、護身のシンボルとして大切にしてきたと思っている。
身を守ってくれるものは、神仏、次いで刀となる。当然に大事にされたと考える。

鈴木氏、近藤氏のこれら研究を、刀剣界で活かす一つの道は、刀の姿の変遷を、時代ごとの戦闘形式で説明してきたことが妥当かということを再度検証することに活用することも一案と考えている。
馬上で刀を降っての戦い、徒歩(かち)による集団戦、道場剣道で突き技が発達したことなどに絡めて、刀の姿を教わってきたが、はたしてこれで良いのだろうか。

また、刀の切れ味とかに関心のある人に『刀と首取り』を一読されることをお奨めする。
甲冑などの防具を着けた実戦においては、刀の切れ味など何の役に立たないことであることがご理解いただけよう。
刀は実戦に使うと目釘、柄、柄糸の損傷が多く、それで使えなくなると資料を引用して述べられているが、なるほどと思う。

私個人としては、首取りと恩賞のことが、よく理解できた。能力主義時代であった戦国時代の恩賞の与え方について疑問に思っていたことが氷解した。

三原物(2000年10月10日)

試刀家の松本長太夫、鵜飼十郎右衛門(2000年6月21日)

私は「截断銘流行の背景」という論文を書いており、試刀家にも関心を持っている。
 中川左平太、山野加右衛門、山野勘十郎や山田浅右衛門の歴代は有名だが、他にも切断銘が残されている試刀家がいる。

(注)截断銘を「さいだんめい」と読まないで欲しい。「截」は「切」の旧字であり「せつだんめい」が正しい。日本刀はハサミと違うんだから「裁断」はおかしい。

 『大江戸死体考』(氏家幹人著)という歴史学者の本を読んでいたら、江戸時代の試刀家の事跡が少し判明した。

 鵜飼十郎右衛門義真には、「和州包重(貞享五 三つ胴)」の切断銘があるが、彼は、元禄五年から十三年にかけて幕府の御様御用(おためしごよう)を勤めたそうで、この間の九年間に1505人の罪人を試すとのこと。
 身の丈六尺の偉丈夫で、外出の際は鉄棒を杖がわりに歩くが、引退後は伝通院に供養したりして過ごしたことが書かれている。

 松本長太夫雅友は元禄頃の試刀家で、関物を好んだのか、「和泉守兼定(元禄二 二つ胴)」。「和泉守兼定(二つ胴)」、「無銘 末関(二つ胴)」などの切断銘がある。彼も根津三郎兵衛、倉持安左衛門とともに幕府の御様御用を勤めたそうである。松平大学頼貞が師事したことも紹介されている。
 神田白龍子の『雑話筆記』に、「壮年コロヨリ人ヲ斬ルコトヲ家業トシテ、八十歳ニ至ルマデニ都合三千三百余人ヲ斬殺セリト云エリ、尤悉皆法禁を犯ス之罪人ニシテ、各死刑ニ相当タル者也」と記されているのが紹介されている。

小笠原先生の講演(2000年2月14日)

東京国立博物館工芸課長を3月31日に退官される小笠原先生の講演会(2月5日)に出向く。
講演の内容は、いずれ「刀剣美術」にでも掲載されるだろうから、ここでは詳細を紹介しない。

今回の講演では、「中世鍛冶組織の問題点」、「作刀における分業の問題」、「受領名のこと」を事例に即して講演された。
この中で長光一代説を唱えられたことを振り返っておられるが、小笠原先生の大きな功績の一つは、「鑑定=刀の銘当て」「研究=真偽の鑑定」に偏していた刀剣界に、他分野の事例などを紹介して、職人の歴史の一部としての刀剣研究を打ち立てたことにあると認識している。
鑑定中心でいくと作風の違い=別人となる。藤代松雄先生の兼光一代説が嚆矢であるが、小笠原先生の長光一代説も今では通説になりつつある。

今回の講演でも、工芸の職人は工房的生産形態をとり、そこから代銘、代作問題を考えるべきと強調されたのが印象に残っている。
これも刀鍛冶の世界以外の職人の世界を踏まえた提案である。

その研究の立場と成果をまとめられた『日本刀の歴史と鑑賞』は、何度読んでも新鮮である。皆様にお勧めしたい。

大工道具鍛冶と刀鍛冶(99年11月17日)
竹中大工道具館の主席研究員の方から、私の論文に文殊鍛冶のことが出ていることを知ったのでという問い合わせをいただいた。
拙論をお送りすると同時に、先方からも資料をご送付いただき、またいくつか情報を提供していただいた。

いずれにしても鍛冶全般の研究の中から刀鍛冶をとらえ直すことも大切と考える。

計量刀剣学-多作鍛冶は誰か?-(99年10月8日加筆)
(株)日本刀柴田発行の「刀和」に100号から200号の販売品リストが掲載されていた。このリストを活用して計量刀剣学(こんな言葉、筆者以外に使っていませんから世の中では通用しないと思います)の一つとして多作鍛冶を洗いだしてみた。

日本刀の神秘-ズブ焼き-(99年6月12日)
先日、久しぶりに藤代興里先生のお宅にお邪魔する。先生の刀剣写真は沸、匂など刃中の働きと地金の働きもわかる素晴らしいものだが、ドイツでの展示も終わり、写真が戻ってきたばかりだそうだ。さぞ好評だったのではなかろうか。
先生から研磨手法の違い(拭いだけで終えた場合との違い)などを教わる。

また現代刀の善昭氏の短刀を拝見する。華やかな丁字主体の乱れ刃で、やや逆がかり中青江を思わせるような短刀である。刃紋は明るく、キブイところもなく見事である。ただ帽子の返りが長くなっている。
善昭氏は「ズブ焼き」と呼ばれる手法(焼き刃土を塗らないで焼き入れする方法)で、このような作品を制作されているとのことである。ズブ焼きは出来不出来の差が大きいとのことで、一昨年の日刀保のコンクールに出品した短刀は本当に中青江みたいな作品であったが、去年は良くなかったと伺った。しかしこの短刀は素晴らしい。
日本刀の常識を覆すようなことをやっている現代刀匠がいることに感動した。

お買い得の本(98年12月1日)
『長船町史』の「刀剣編史料」と「刀剣編図録」が10月に刊行された。立派な装幀の書籍であるが、この値段が八千円である。民間で作れば四万円程度するのではなかろうか。
私は買ってきたばかりで精読していないが、ざっとご紹介したい。
「刀剣編史料」には刀剣古伝書史料の概要が紹介されており、特に備前に関する刀工の系図掲載されている。
刀剣目利書の新刊秘伝抄等における備前各刀工ごとの見所が原文で紹介されている。
また備前刀工の年紀作が年表でまとめられており、これは便利である。
近世史料としては、岡山藩における関係資料が掲載されている。新刀備前鍛冶の研究に役に立つのではなかろうか。

「刀剣編図録」は備前伝の代表作が写真と押型の双方で掲載されており、解説も充実している。
購入をお勧めしたい本である。

大名売り立て目録のデータベース(98年6月11日)
某刀屋さんで、古いパソコンに、ワープロソフトで大名売り立て目録を入力されているのを見る。このソフトを使った刀工名の検索の方法を教えてくるが、入力したデータは貴重な財産である。このデータを生かして、キチンとしたデータベースにされることを期待したい。

「白山権現の景光誕生の背景(下)」の校正完了(98年6月8日)
7月号の『麗』に掲載予定の拙論の校正を見る。刀剣柴田のご努力で、長船鍛冶の熊野願文の写真が見つかり、資料として掲載されることになる。この文書は重要美術品になっているとのことである。


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