肥後拵「信長拵」写し=「御家拵」

所蔵品の鑑賞のページ

中根平八郎の鐔が付いている肥後の「信長拵」の写しである。本歌は細川三斎の愛刀加州信長に付けられた拵であり、「信長拵」(最下段の(注)参照)と呼ばれ、後に肥後藩で愛好され、その写しは肥後藩では「御家拵」と呼ばれているものである。

今回は「所蔵品の鑑賞」において、はじめて刀装(拵)を取り上げるから、刀装の鑑賞に関して、考えていることも書いたので長文になってしまった。御暇な時にお読みいただけると幸いである。
1章と7章だけが、この拵についての鑑賞記である。


1.鮫鞘は井戸茶碗、唐津茶碗のカイラギと共通の美意識

先日、「毛利家の至宝」展(サントリー美術館)に出向いた時に大井戸茶碗が2碗展示されていた。この陶器面におけるカイラギ模様を拝見した時、これは鮫鞘の表面と同じであることに気付いた。
幅広く美術品を観ると、美術の横の広がり、時代の共通性がわかり、大切なことだと改めて思う。

カイラギとは「梅花皮」とも書き『広辞苑』では「①鮫皮の一種。梅花形の硬い粒状凸起のある、アカエイに似た魚の背面中央部の皮。この魚は南シナ海・インド洋などの産で古くから輸入。俗に蝶鮫の皮と伝えられたのは誤り。刀の柄や鞘を包むのに用いる。また、その刀をもいう。(例文略)②茶道で、井戸茶碗の見所の一。焼成不十分なため釉(うわぐすり)のちぢれた様が①に似る」とある。

茶道における茶碗の評価では、「一楽、二萩、三唐津」と称するのが普通だが、人によっては「一井戸、二楽、三唐津」とか「花は桜」と同様に「茶碗は井戸」と断言するほどの人がいるように井戸茶碗は高く評価されている。
井戸茶碗は、見ようによっては変哲もない、実用的な茶碗である。でも、現物を拝見すると、私ごときが拝見しても「なるほど、大騒ぎするだけのことはあるな」と思わせるものである。
西洋人、中国人は、お茶を飲む時は綺麗な器で飲む。確かにマイセン磁器、ウエッジウッドにしても、中国の白磁も綺麗である。日本人は独特だと思うが、私は日本人の感覚を誇りに思う。

カイラギは唐津茶碗にもある。茶碗におけるカイラギ肌を理解していただく為に、井戸茶碗と唐津茶碗の写真を例示するが、「毛利家の至宝」展とは別の展覧会(「秀吉・古田織部と上田宗固」展カタログより)からの引用である。写真が小さくて観にくいが、茶碗におけるカイラギ肌を観てほしい。

大井戸茶碗
「十文字」
彫唐津茶碗

カイラギは、刀の鮫鞘に使われた方が早いから、鮫鞘は茶道の影響とは言えないと思う。またカイラギ(梅花皮)は刀装の鮫鞘の場合は、文字通り、梅花に似た鮫皮を言うが、茶道の茶碗では鮫皮肌全般を指すようだ。

茶道において高く評価されている井戸茶碗の見所や、唐津茶碗の景色と、鮫鞘が共通するのは、同じ美意識を持つ人間であれば、共に愛好するということだと思う。

茶道に造詣が深い細川三斎が、好んだ理由と思う。(「細川井戸」と呼ばれる井戸茶碗の重要文化財がある)

この「所蔵品の鑑賞」における平田彦三の鐔において、彦三の地肌について、古田織部の時代のお茶碗の肌と共通しているところを指摘した。肥後拵の鮫鞘も、そういうことなのだと思う。(茶道がわからないと、肥後拵や、彦三がわからないと言っているのではなく、当時、大流行した茶道の美意識との共通性を理解していただきたいとして、茶碗を例示している。時代の美意識なのだ。)

2.少ない拵の愛好家

日本刀として、普通の人が思い浮かべるのは拵に入った日本刀で、白鞘ではない。それなのに日本刀の愛好家となると、刀装は大事にせずに、刀身中心主義となる。拵については「無くて良し、あれば良し」だが、「拵付きで価格が高くなるのであれば、中途半端な拵は無い方が良い」が本音ではなかろうか。
刀装具の愛好家も、鐔、目貫、小柄、笄の桐箱に入ったものを好むが、それらがまとまった刀装はあまり大事にしない。

この理由を私なりに整理してみたい。

  1. 刀装はきれいな状態で保存されているのが極めて稀なのである。刀身は研磨という保存・再生技術が進んでいて、当たり前のように研磨されて鑑賞に供される。
    刀装の中で、大きなウェイトを占める鞘は、漆を研ぎ出したものが多いが、その分、傷ついたり、漆が剥がれていることもある。
    次に、大きなウェイトを占める柄は、柄糸がほずれていることも多い。下の鮫皮も傷ついていることもある。
    保存の状態が悪いと、どうしても美術的には欠点となる。そして補修してあると後補されているとして、価値を低く見る。刀身の研ぎは問題にしないのに関わらずだ。(刀身を必要も無いのに研ぐのはどうかと思うが、「重要、特重にする為だ」という欲のからんだ理由でやまらない)
  2. 次に、刀装に付属している鐔、目貫、小柄、笄、縁頭、小尻等であるが、我々が鑑賞するような上手(じょうて)のものが付いている拵は少なく、彫りの”なるい”下手(げて)なものが付いているものが多い。要は、名のある金工の作品は、当時から高価で、大名や高禄の武士、富裕な豪商が購っていて、多くの武士、町人、農民(町人、農民も脇差は持てた)が手の届くものではなかったのだ。
    こういう意味でも、拵として美術的に鑑賞に堪えうるものは少ないのである。(言い換えると、そういう下作な拵は淘汰されて、現存している拵はある程度良いものと言える)
  3. 上手(じょうて)の刀装具が付いている拵で、保存の良いものは高い価格となり、手が出にくい。(上手のものは鐔1枚でも高いが、拵となると、それに目貫、縁頭、小柄、笄が付いており、その金具代だけでも高くなる。後藤物などは高いお金を出して三所物を買わなくても、目貫だけで鑑賞しても同じという気になる)
  4. 拵は一作金具(同一の作者が鐔、目貫、小柄、笄、縁頭、それに栗形、小尻などを製作しているもの)だと、それなりに大事にするが、”取り合わせ”であると、場合によっては刀屋に「鐔だけ欲しい」とか、解体を依頼することがある。本来は”取り合わせ”が拵を注文する人の個性が出るところであるのだが。
    茶道の会席の道具選びは”取り合わせ”に神経を使って、客をもてなす。同様に、”取り合わせ”の拵は、それを依頼した人物や、拵を製作した業者、職人の美意識、嗜好が出ているわけだ。この面が強いだけに、新しく入手した人の好みに合わないところも出やすく、解体依頼もでてくるわけだ。(解体して、新しい持ち主が拵を自分の好みに直せば、まだ救われるが、金具だけ取って、鞘や柄などは二束三文で処分される)
  5. 拵には、中の刀身との釣り合いという面がある。今は身分制度がなく、お金さえ出せば、昔の基準で言うと名刀を私のような者でも所有できる。このような名刀に釣り合う外装というと、糸巻太刀拵とか天正拵、桃山拵になる。あるいは金工の上手(じょうて)のものを使った拵となる。名刀に見合った拵を新しく製作するとなると、価格が非常に高くなり、「そこまでかけてまでは」とためらってしまう。
  6. 刀装における鞘で、古いものは、ほとんど黒呂色鞘である。登城する時の礼装であり、多いのが当然なのだ。礼装であり、同じようなものが多く、おもしろみにかけるのである。そして、鞘、柄が同じようなものだから、関心は金具に移ってしまう。これまでの拵の鑑賞記が、付いている金具に多くを割いているのは、その為であるが、本来、拵の鑑賞と刀装具の鑑賞は別なのである。
  7. 時代があり、金具も、それなりのものがついて、保存も良い拵に、儀式用に使用した糸巻太刀拵がある。豪華で立派で良いものだが、儀式用であり、やはり同じようなもので個性的ではない。紋散らしなど見事だが、紋は自分の家の紋と同じものはほとんどなく、そうでなければ「三つ葉葵」紋のような誰でもがわかる名家のものでないと関心が薄くなる。
  8. 拵の鑑賞で大事となるは、鞘の材質、鞘の塗りであるが、この知識や鑑賞力が鍛えられていない。私もそうだが、どのような塗りが手間がかかっていて、上手なのかがわからない人が大半である。柄も大事だが、柄糸の種類、織り方、それから巻き方も、どこに手がかかっていて、何が貴重かもわからない。残念なことだ。

3.拵の鑑賞とは

拵の美は、拵全体の印象からくる美しさであり、個別の金具類の良さとは違うと思う。個別の金具を鑑賞するならば、桐箱の中の鐔、目貫、小柄、笄、縁頭の方が細かく鑑賞できる。

拵全体の印象を大きく左右するのは鞘である。次いで柄である。これを語らずに、鐔や金具を論じても、意味はない。また、前述したように一作金具だけを評価するのはつまらない。一作金具を製作した職人の美意識は評価しても、同時に、自分なりの美意識もあるはずである。そこに”取り合わせ”を楽しむ境地がでる。(”取り合わせ”については西垣勘四郎の縁頭の鑑賞において記している。参考にして欲しい)

(1)鞘

鞘の鑑賞は形と塗りである。

塗りについては、江戸期は塗師の中で一番腕の立つものが鞘の塗りを担当したのだと思う。厳格な身分制度下における支配層である武士の、しかも表道具が刀装なのである。
家具・調度品の塗りなどは、その下だったはずである。
鞘は表面も平らではなく、その意味でも鞘の塗りは難しいと思う。

江戸時代に鞘の塗りは進化し、その種類は多く、どうやって塗り込めたのだろうと感嘆するものがある。そこに蒔絵や金銀螺鈿を施したものもあり、豪華でもあり、模様の繊細さに驚き、あるいは控え目の中に粋を感じる。卵の殻を塗り込めたり、銀の薄板を貼ったりの加工もある。
当時の漆芸・蒔絵の職人の最高峰の仕事に感嘆する。陶器が英語でChinaであるように、漆は英語でJapanなのだ。そのJapanの中の最高峰が鞘の塗りなのだ。

かく言う私も塗りの技術の善し悪しを判断できない。一番多く現存している黒呂色鞘では表面の円滑さ、ムラの無さはわかるが、黒の深みとなると、何となくわかっても、本当の所は比較するものがないとよくわからない。その他の技術的要素は、情けないことに把握していない。
昨今は、漆の代用塗料としてカシュー(カシューナッツの実の殻から合成塗料)も多く使われるようになり、知人は匂いで違いがわかるというが、私は確認していない。インターネットで調べると、匂い以外は区別しにくいのが実際ではなかろうか。匂いは年月で薄れるものである。ちなみにカシューを使っても漆同様な変わり塗りは出来るようで、インターネットにも方法は掲載されている。

鞘の塗りでは、後補(補修)の問題が出る。後述するが、刀装は威儀を正すものの一部であり、ファッションの一部なのである。威儀を正したい時に、塗りが剥げていてはしょうがない。わからないように補修する職人が腕の良い職人だったのだ。

蒔絵、螺鈿、蛭巻きなどは、それなりに鑑賞できるが、鞘は形状が細長く、絵を描くには手箱、硯箱などに比べて不利であり、作品の面白さ、見栄えは劣ってしまう。鞘だけになると、不完全なもので、ますます鑑賞では不利となる。

鞘の機能・形状は、刀が鞘の中で当たらず、ガタつかずは基本だろうが、白鞘の鑑賞のように朴の材質とか、面の立て方の見事さを鑑賞するのとは違ってくる。
全体の形状のスッキリ感などは、時代によっても、また藩によっても違うとも言われると、技術の優劣ではなく、特色として捉えないといけないとなる。

鞘を笛巻き風にしたりする形状も、それなりに難しいものだと思う。時に見事なものを拝見し、感嘆する。

鞘に鮫皮や、布(錦)を貼ったりの加工も面白い。鮫なども、色々な種類があり、驚くと同時に美しいと思う。

もう一つは鞘の材質である。白檀やタガヤサンなどもあるが、これも正しく鑑別できないし、鞘は刀身の保護が基本だから、やはり朴の木だと言われると、木の種類でもて囃しにくい。

(2)柄

拵において鞘の次に大きな面積を占めるのは柄である。柄は形状も大事だが、柄巻きの糸や織り方、ふすべ革の色という材質と、巻き方というノウハウの両方で鑑賞していく必要がある。そして各巻き方の名前は資料を見てわかっても、そこにおける工夫、ノウハウ、見所になると、これまたわからない。

緩まないのが用としては大事だと思うが、そのための見所、チェック方法などもわからない。当初から緩んでいて私ごときに緩みを指摘されるのは論外だが、実戦の中での緩みにくさとなると、わからない。

柄糸は褪色もある。『打刀拵』(小笠原信夫著)によると、糸巻きは材質上100年が限度。特に黒糸は鉄媒染をしているから早く朽ちるとある。しかし、褪色によって味が出ることもあり、美とはやっかいなものである。

また、柄糸は常に汚れたものでないように心掛け、巻き直したようである。「柄巻師は年の瀬に忙しい」といわれたのは晴れ着同様に刀の柄を巻き替え、新春を迎える風習があったからである。鞘のところでも触れたが、威儀を正す道具が汚れていては武道不覚悟なのだ。
それが江戸時代の常識であっても、現代は「柄糸の巻き直し」=「後代に手が入っている」として、価値の減点材料になってしまう。刀は平気で研ぎ直させるくせに。
こういうことでは柄巻き職人が育たないと懸念する。居合刀の柄巻きをしていても技術は上がらないだろう。

またファッションであり、この視点からも、流行遅れの色などは巻き直し、流行遅れの縁頭が付いていれば替えたと思う。

柄に巻き込んでいる鮫は、光沢があって、親粒が大きく、周りにも形よく整っているのが、私の基準における良いものだが、柄糸で巻き込まれていれば光沢もなくなるし、江戸時代は、幕府も諸藩も基本的には贅沢を禁止しているので、良いものは少ない。(出鮫の合口拵に、素晴らしい鮫を観ることがあるが)

(3)下げ緒

拵に下げ緒がないとどうだろう。やはり、何かおかしいだろう。拵の鑑賞において、下げ緒は大事である。私などは、下げ緒の色目が拵全体で調和しているかどうかぐらいしか鑑賞できないが、下げ緒の織り方の種類も「畝打ち」「重打ち」「高麗がすり」「さざなみ」「唐組み」「高麗」「貝の口」などがある。身近に現物を観て覚えないとわからない。鑑賞力が衰えると、職人の技術も向上しない。そうすると、一つの日本文化が消滅してしまうのだ。

(4)全体のバランス

拵全体のバランスが大事なことは言うまでもない。全体のバランスとは、柄と鞘の長さの比や、柄巻きの色と鞘の色・模様との調和、使用している金具の統一感などであるが、これは一振ごとに見て、判断していかざるを得ない。
バランスは大切なのだが、日本人の美意識は単純ではなく、古田織部の美意識のように、敢えてバランスを崩すことで、魅力を増すものなども、あると思う。単純ではない。

バランスにおける鐔の役割も大きいが、これについてもわからないことが多い。今、我々が持て囃す尾張鐔などを付けた天正拵、慶長拵は見ないのである。藩祖のものには、もう少し素朴な鐔がかかっていることが多い。(尾張徳川家で名物になっている「あけぼの」「残雪」の鐔は徳川家康が使用していたとの伝来があるが、素朴なもので古刀匠、古甲冑師に近いものである)

肥後にしても肥後拵=肥後鐔ではないのも多い。藩祖の細川三斎の肥後拵には古正阿弥の鐔である。
伊藤満氏に「又七の御紋透かし鐔は、よく見る肥後拵に調和するのですか?」と質問したこともある。伊藤氏は「合いますよ」と断言されていたから調和するのだと思うが、まだ付いて、調和している肥後拵を拝見はしていない。

4.現存している拵

「3.拵の鑑賞」で書いたように、現存している拵は鞘が補修・塗り直しされ、柄巻きが巻き直されているのが普通である。畏友のH氏は以前に糸巻太刀拵の古いのを所蔵されていたそうだが、触るたびに糸がほずれて、落ちてくるような状況であり、自宅での保存に自信が持てずに売却されたことがあると伺った。

ここでは、刀装が外出着を飾る道具となっていった状況、そうなると、時代の流行が加味された状況を説明したい。

以下の文章は、寛文頃を過ごして、元禄末頃の侍の風潮を嘆いた老人の物語である。

「昔、刀・脇指の拵へ様、二十歳の人の刀・脇指、三十才計りの人の刀・脇指 四十五十の中年の人、老人の刀・脇指、拵へ方それぞれに格別選違ふ、刀の長短其外、若きは若き物好き、中年の人は年頃相応の物好き、老人は短く軽くと、物好き夫々に賛る…。客の刀、座敷の刀掛にかけても、是は誰の刀ならんと、物好を見れば、其主の貌を見る様に知れたり、近年の刀・脇指の拵へは、さのみ長短もなく、大方二尺三四寸位にて、刀掛へかけても大方揃ふて、拵も細きがはやれば皆細く、鞘ひらめが時花れば皆ひらたく…是れ心得がたし。自分了簡物好きせば、十腰は十腰異なるべきに…自身ゝの器量薄故、人の真似す(『畴昔話』が原典で私は『江戸時代年鑑』(遠藤元男著)より引用)

要するに、江戸時代の寛文頃は、差す人の歳や、体力、好みで、それぞれ違っていたが、江戸時代中期の後半には「拵も細いのが流行れば皆細くなり、鞘も平たいの流行れば、皆平たくなる」という状況であり、時代に合わせて造り替えないと流行に遅れてしまうという風潮だったのだ。

また、幕府は、江戸時代には、一貫して贅沢(ぜいたく)を戒めている。幕府が贅沢を戒めている時に、諸藩も当然に華美・贅沢を禁止している。贅沢でないと黒呂色となり、地味で面白くないのだ。

こういう状況であり、伝わってきた拵は、次のようなものが多いのである。

  1. 後補(柄糸、鞘)があるもの
  2. 地味な黒呂色鞘のもの
  3. あまり上手の金具がついていないもの

ただし、地味な黒呂色鞘のもの、あまりに粗末な金具の拵は、明治~平成の間に解体され、現在、残されている拵は鞘の塗りが面白いもの、金具も揃っているもの、良い金具のものが多い。ただし、後補は多い。

5.私の好きな拵

これは私の好みというよりは、あなたも同様だと思うが、天正拵、慶長拵、肥後拵はいい。以前に鞘師の高山一之氏の個展に出向いた時も、陳列してあったのは、天正拵、慶長拵、肥後拵の写しが大半だったと記憶している。

私は、若い時から刀の拵は好きで、本棚を見ても、次のような本が並んでいる。『刀装入門』(柴田光男著)、『図鑑 刀装のすべて』(小窪健一著)、『打刀拵』、『日本刀の拵』(共に小笠原信夫著)、『東京国立博物館図版目録 刀装篇』(東京国立博物館編)、『鐔と拵』(廣井雄一著)、『薩摩拵』(調所一郎著)などである。
これらの本の中には、江戸時代末期の鞘に蒔絵や螺鈿、蛭巻きを施したり、蝶鮫、しだれ鮫の鞘などの贅を尽くしたものも掲載されており、豪華で綺麗なものだが、やはり具体的な好みを上げると、次のような拵である。

天正拵(明智拵)…伝 明智左馬之助光春
天正拵(ふすべ革巻打刀拵)…兵庫の射楯兵主神社にあり、定利の拵
天正拵(助真拵)…徳川家康、日光助真の拵
天正拵(三池典太拵)…徳川家康、大典太の拵
慶長拵(左文字)…本多富正が家康より拝領、左文字の拵
慶長拵(金霰鮫打刀拵)…黒田如水、あたき切りと称する祐定の拵(同種拵がへし切り長谷部にある)
慶長拵(朱鞘二匹牛鐔打刀拵)…結城秀康、長船元重の拵
慶長拵(黒漆研出鮫打刀拵)…岡江雪、江雪左文字の拵
肥後拵(信長拵)…細川三斎、加州信長の拵
肥後拵(歌仙拵)…細川三斎、之定の拵
肥後拵(希首座拵)…細川三斎、大和守宣貞の脇差拵

いくつかを例示すると、次の通りである。
天正拵(明智拵)…伝 明智左馬之助光春(『打刀拵』より)

以下は『鐔と拵』より
慶長拵(朱鞘二匹牛鐔打刀拵)…結城秀康、長船元重の拵
慶長拵(金霰鮫打刀拵)…黒田如水、あたき切りと称する祐定の拵

自分の好みで、順序を付けると、明智拵が一番好きだ。鞘が春慶塗が古びたような塗り(生漆)であり、柄糸が萌黄色(黄緑色)の古びたもので片手巻きであり、この色合いの美しさに感動する。
次は細川三斎の肥後拵である。今回は肥後拵の信長拵の写しであり、喜んでいる。

なお、私の好みから離れて、戦国時代の打刀拵で魅力的なものを列挙すると次のものである。鞘は朱鞘あり、金の延べ板を蛭巻きしたり、銀を貼ったり、青(深緑)漆あり、銀で藤花を鞘に沿って螺鈿で描いたり、龍を描いたりと派手なものである。鞘の形状を尻鞘(小尻にかけてふくらます姿)にしたのも、白檀を使ったのもある。

では、なぜ、戦国時代の拵が魅力的なのだろうか。それは、所持者に結び付けられる個性があるからだと思う。

前に、元禄後期から享保期頃の武士の回顧談を紹介した。そこでは皆が流行に乗って同じような拵を差す状況が書かれていた。
以下の話は、秀吉が、並べられている差料から持ち主の性格を把握して、持ち主を当てた話である。

『常山紀談』に「豊臣関白五腰の刀の主を察せられし事」の章があり、「秀家(宇喜多)は美麗を好むが故黄金を鏤めたる刀これなるべし。景勝(上杉)は父の時より長剣を好めり。寸の延びたる刀これに当たりき。利家(前田)は又左衛門といひし時より先陣後殿の武功により、今大国を領すれども昔を忘れず。革巻たる柄の刀、これ他の主にあらずと思へり。輝元(毛利)は異風を好む、異る体に飾なせる刀これならん。江戸大納言(徳川家康)は大勇にして一剣を頼むの心なく。取繕ひたる事もなく又美麗もなき刀其の志に叶ひたり」と人物の性格とその指料が一致することを述べている。(『日本刀の拵』小笠原信夫著より)

戦国時代から江戸時代初期(寛永時代頃まで)には、名の知られていない武士も、このような個性溢れる魅力的な拵を差していたと思う。かぶき者はかぶき者だとわかる長大な刀、朱鞘、大角鐔などだったのだ。ただし、ほとんど現存していないのは前述したような理由である。
藩祖の差料は記念として大切に大名家が保存したから残っているのである。

他に江戸期のものが残っているのは糸巻太刀拵が多い。これは儀式用だから残っているのである。また儀式用であり、それなりの金具、塗りが施してあり、素晴らしいものがある。しかし、持ち主を推測できるのは施された紋所くらいで個性が無い。

黒呂塗鞘の裃指(番差)も儀式用の一つであり、良い金具を使用した名品が残っている。ただし、番差も個性を抑えていて、どれも同じである。鞘の塗りと、鐔・縁頭・目貫・小柄・笄の金具の違いである。金具の違いであれば金具を鑑賞するのと同じことであり、入手しようとは思わない。(良いものがあるのを否定しているわけではなく、おもしろみという点で述べているだけです)

江戸期のものにも、豪華なものがあるのだが、前述したように、基本は贅沢禁止である。分に過ぎて贅沢すれば家財を没収されることもある世の中なのである。それでも、豪華で上手(じょうて)の感心する良い拵も見るが、違いは、そこに実用の美を感じるかであろうか。(細川三斎の信長拵は加賀の信長、希首座拵は大和守宣貞は今の基準で言う名刀ではなく、歌仙拵は之定だが、これは当時では現代刀のようなものであり、実用に使っていたものの拵である)

また、江戸期のものでは各藩の御国拵がある。写真で拝見するだけでは、細かい違いであり、私は明確に違いを把握できていない。いずれ勉強していきたい。尾張拵、柳生拵、庄内拵などが知られているが、際だって個性的で、魅力があるのが薩摩拵である。拵に詳しいI氏が、柄が鮫でなく牛革で、目貫は無かったと思うが、そこに柄巻きしている脇差拵をお持ちであり、時に「譲って欲しい」と述べているのだが、願いは叶えられていない。

ちなみに『薩摩拵』(調所一郎著)は、薩摩示現流の流派別に特徴を洗い出し、また武士の身分の違いによる拵の違いもわかり、参考になった。実用=剣術との関係も研究課題である。(肥後拵も伯耆流抜刀術にかなった拵という説もある)

6.慶長期の拵と肥後拵えの共通性(波山道紋の不思議)

肥後拵と慶長拵は似ている。伊藤満氏も肥後拵は桃山期の姿がそのまま残っているものと把握すべきと述べている。(前述したように、肥後藩の御流儀剣法、抜刀伯耆流居合術の影響と書いてある本もあるが、私には伊藤満氏の説の方が説得力を持つ)

全体の姿も似ているが、慶長拵と肥後拵の頭の金具も、山道と波紋という、よくわからないものが共通している。

柄の形もよく似ている。黒田如水の拵のハバキに「埋忠」の銘があり、京都の埋忠が製作したのではなかろうかと小笠原信夫氏は『打刀拵』の中で、推測されている。

細川三斎も、信長拵の小柄の取り合わせに思案して、千利休に相談したという逸話も、京都での製作を物語っている。
肥後拵も含めて、これらの拵は、当時の刀装コーディネーターである埋忠工房が関与したのではなかろうか。ともかくセンスがいいのである。

7.私の御家拵写し

自分の好みの外装は、天正拵、慶長拵、肥後拵であるが、このような拵でうぶのものは希少で、当然に高価であり、私が入手できるものではない。
ただし、肥後拵は肥後藩で時代を越えて使われてきており、金具を造る金工も多く、現存しているものは他の天正拵、慶長拵に比べると多い。加えて、明治から戦前にも肥後拵は愛好されて、写し物も造られている。

たが、写し物でも、鮫鞘や肥後の金具代もあり、高価なのである。天正拵の写しなども、目貫、小柄、笄に古後藤、古金工、縁に古美濃、鐔に古美濃、古金工などを使用することになり、当然に価格は高くなる。

そういうことで、好みに合う拵は一腰も持てないでいたのだが、肥後拵については、以前に伊藤満氏から、幕末に松井家(八代藩主)が何本か造らせた脇差拵(後日「「の」の字拵」としてアップ)を勉強の為に譲ってもらったことがある。これも補修、後補が入っているのだが、いつかご披露したい。肥後鮫鞘の拵で、大小の拵になったわけである。

さて、中根平八郎の鐔が付いた「御家拵」の鑑賞に入りたい。

私の、この肥後拵も、肥後拵に詳しい伊藤満氏に観て頂くと、次のように手直しがあると教えていただいた。

私は、この拵に付いている下げ緒も好きである。伊藤満氏の話によると「肥後の掟のもので、片側がもっこりとする「畝打ち」のもの。これは色は紫だから少し位が高いが侍が所有したもの」とのことだが、薄紫の色目が、全体と調和している。下げ緒の柔らかさも結びやすく、味のあるものである。下げ緒も拵鑑賞では、大事な見所と思う。柔らかいし、この長さ、いざという時は、襷(たすき)として使いやすい。

この拵の目貫は大振りな羽箒である。お茶の道具でもある。本歌は繋ぎ蛸だが、大刀に巻き込む目貫は、この目貫のように少し大振りの方が感じが良いと思う(大振りと言ってもわずかな程度だが)。目貫の彫の肉置きは良く、材質の赤銅は赤銅である。後藤本家のものほどの赤銅の質ではないが、巻き込まれていて、汚れ等があるので何とも言えない。毛彫りは羽根の線が中心であり、技術を云々するほどのことはない。目貫の裏もわからない状況であり、作者は不明である。

ちなみに作の良い目貫は出鮫柄のように、巻き込まない柄で使用することが多かったのだと思う。巻き込まれては良さがわからない。(もちろん、いつの時代もお金持ちはいて、巻き込んでチラッと見えるのがいいのだと考える人はいたと思う。私の柳川直光の狗児の大小目貫は虎徹が入っていた拵から、刀剣柴田の青山君が解体したものである)

頭は西垣の波地山道という、意味のわからない模様だが、前述したように桃山期に流行した図柄である。他の美術品に、この模様があるのかを探っていきたい。波の毛彫りは丁寧で、山道の彫りは深くて力強く、なかなか上手(じょうて)のものである。

縁は樋腰の形状で斜めの時雨鑢を施しただけのものである。頭と同様に西垣のものと教わるが、シンプルなもので金工作品と言うよりは、単に金具と言ってよいものだ。材質は四分一なのだろうか。

小尻は良い地鉄に、舟型の形状も綺麗である。伊藤満氏が「これだけ欲しい」と言うものだけあると思うが、鉄小尻であり、このような金具に目を付ける伊藤満氏のオタクぶりに感じいった。こういう人がいないと伝統文化は守れない。(畏友のH氏は、素銅のハバキを10個以上持って、「この肉置きが…」と蘊蓄を傾ける。このような人は大切だ)

柄巻きが糸ではなく「ふすべ革=燻べ革=くすべ革(馬糞を乾燥させたものを燃やして、煙に当てた鹿革で肥後八代はその産地で有名でもあった。肥後以外では、わらの煙でいぶして茶褐色にした鹿革もあるようだ)」である。
私のは、そのふすべ革の上に漆を塗っているのではないかと思う。加えて、柄の鮫は黒漆塗りであり、何となく実用性(雨の防護と、汚れを目立たせなくする効果)も加味されているような野性味も出ていて好きである。

革は適度な薄さで、締まっていて、塗っている漆が、こすれて漆が剥げた古色もある。その禿げた感じが古びた感覚がして感じが良い。私は喜んでいるのだが、伊藤満氏からは、補修して巻き直していると冷たく言われている。昔のは頭側の止めを”削いで””削いで”巻いて、目貫の部分よりも低くしているそうだ。私のは戦前の職人さんの仕事なのだろう。
現代におけるふすべ革巻きの柄を見ると、少し、ぼてつく感がある。(今でも上手な職人さんはいるとは思う)

鮫鞘は、伊藤満氏によると古いもののようだが、色がほんの少し飴色っぽくなっており、感じがいい。補修の跡もない。もっとも補修の跡をわからないようにするのが、昔の職人なのだから、本当のところはわからない。
なお肥後藩では鮫鞘は藩主のクラスか、藩主から許可を得た者以外は差せなかったと伊藤満氏から教わる。幕府も寛永17年という早い段階でかいらぎ鞘の禁止を打ち出しており、事実なのだと思う。(柄に巻く鮫も、親粒が大きく、整ったものは驚くほど高価なものだったようだ。鞘の鮫も、それなりに贅沢なものだったはずである)

鮫鞘を漆で研ぎ出したものは実用を配慮しつつも、華やかであり、楽しいものである。肥後拵は何と言っても鮫鞘がいいと思う。

鮫鞘の色と、柄巻きの薄茶の色、柄巻きの下の黒い鮫と、全体の色のバランスは、下げ緒を除いて本歌の信長拵と同様であり、落ち着いた、品の良い、華やさがあり、センスの良いものである。

肥後拵は「照り降り知らず墓場刀」と言われたようで、陽がかんかん照りのところでも、雨が降るおりも大丈夫で、墓場のような墓石があるところで、少々ぶつかっても問題がないと称えたようだ。『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)では「墓場刀」を「墓原刀」としているが、誤植だと思うが碩学の福永酔剣氏のことだから、このような表現もあったのかも知れない。ここでは墓場に行くまで使えるほど、堅牢を旨としたものと注釈されている。いずれにしても、堅牢さをうたっていることには間違いがない。

鐔は、以前に鑑賞記を書いたが、本歌の古正阿弥を写した中根平八郎の「左右大透かし・雷紋銀象嵌鐔」であり、地味でありながら華やかな感じがして、合っていると思う。

いつかは、伊藤自身のセンスを出した拵も考えたいが、三斎公のセンスには及ばないことはきちんと自覚している。

(注)本歌の信長拵について。(『肥後刀装録』より)

「頭は四分一の浪毛彫に山道の深彫を入れ、縁は樋腰、小豆革包(小豆色の染革で山金地を包んだ縁)、鐔は鉄の古正阿弥の海鼠透かしに、銀の雷文繋の耳象嵌、目貫及び笄は赤銅繋ぎ蛸の図なり。小柄に至りて、其の配合に窮せられ、之を利休居士に問いて、銀の無地、丸張りを以てし、柄は燻革を以て巻き、鞘は柳鮫の黒塗、研出を用い、小尻は鉄の泥摺り、下げ緒は法橋茶(やや澄んだ渋茶色)の畝打ちにして、其の高尚風雅、全く茶道の玄味に出で、後世之を模せし装刀は、肥後を始め、遠く東都に及べり」

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