前に肥後の「御家拵」の写しを紹介したが、そこにおいても記したが、もう一本、肥後脇差拵を所持している。これは、肥後鐔を愛好しているにも関わらず、その元になる肥後拵の良いものを一本も持っていないから、勉強の為にと伊藤満氏に譲っていただいたものである。
「御家拵」の写しと比較すると、次のようになる。肥後の鮫鞘拵で大小になって、見栄えがいいとオタクの私は喜んでいる。
この拵は、伊藤満氏が八代の方から譲りうけたもので、八代藩主の松井家が幕末期に何本が造った肥後拵の中の一本とのことである。松井家→松井家の御用も勤めていた大工棟梁→八代の伯耆流居合の師範でもあった愛好家→伊藤満氏→私ということらしい。
巷に伝わる伝来は、あてにならないことも多いが、①上記の具体的な伝来ルートと、②当時、肥後藩では鮫鞘は藩主のクラスか、藩主から許可を得た者以外は差せなかったことや、③後述するが、当初から付いていた小柄作品が後藤本家のものと鑑せられることなどから、伝来は首肯されるのではないかとのことである。
柄は金茶色糸巻き、幕末からの経年で汚れてはいる。柄巻きの下は親粒が2つある鮫皮で、これには黒漆はかけていない。年月を経て、鮫皮には少し欠損も見られる。
目貫は牛図で赤銅高彫金色絵。柄糸で巻き込んであり、詳細はわからないが、今回、柄糸の間から綿棒で汚れを落とすと、赤銅地の質は悪いものではない。後藤本家や脇後藤(今は京後藤)のものだろうか。
縁頭は無銘だが、作者は親信(八代の金工師釘谷洞石)と教えてもらう。時代は若いが質の良い赤銅に菊花の彫り(表菊と裏菊を密に彫るもので押し合い菊とも呼ばれる)も手がこんでいる。
鮫鞘で、鮫の種類は「豆カイラギ」だと思うが、鮫皮は種類も多く、正確ではない(3章に詳述)。この鮫鞘にある模様については後述するが、全体に細かいカイラギ(注)で、黒地に薄い藍と白とグレーの点が交じる。小尻は脇差拵らしく、鮫で丸くつくる。
(注)カイラギは狭義の意味では、梅花皮と書くように、鮫皮における梅花に似た模様だが、広義には堅い粒状の突起の鮫皮全体、あるいは茶碗では釉薬が焼成不足の為に縮れて鮫皮のようになった状態を言う。この文章においては広義の意味で使用している。
鯉口は黒漆、栗形の前に黒の一文字、指4本下に返り角。後ろも小柄櫃の下に黒で一文字と肥後拵の掟通り。栗形の形は八代藩型ではなく、熊本藩型(注)。松井家は八代藩主3万石だが、尾張藩における犬山城主の成瀬家や加賀藩の本多家のように、熊本藩にとっては家臣であり、この形式があっても良いとのことである。
(注)栗形の形の違いは、伊藤満氏から教わった内容を別紙「肥後拵の栗形における熊本藩形式と八代藩形式」(PDFファイル)に詳述。
小柄は、上手(じょうて)の後藤本家の程乗や廉乗と思われる「菱に蔓図」小柄。赤銅魚子地高彫、金哺み。
その他は伊藤満氏による後補だが、鐔は昔であれば「坪井」と鑑定されたもので、今だと「林」「神吉」とされるもの。笄は割笄であり、銀地に魚子風の点を霰(あられ)状に打って、そこに斜めの鑢(やすり)をかけ、樋定規を彫る。江戸後期~幕末のもので、鑑定に出すと今は「太刀金具師」とでもつくもの。下げ緒は金茶の平打ちの柔らかく非常に感じの良い、古いもの。
2.鮫鞘の模様
この鮫鞘には面白い模様がある。それについてコメントしたい。
(1)「の」の字拵
差し表の鮫鞘において、鞘で一番目立つところ(返り角の下、指2本くらいの場所)に、「の」の字が黒く浮かぶ。これにちなんで、私は、この拵を肥後「の」の字脇差拵と称している。
これは、鮫の親粒のところの変形・変色だと思うが、鞘製作者が「面白い」と思って、意図して鞘におけるメインの位置に誂えたのだと思う。
「の」の字について、以前、裏千家十五代家元千宗室氏(現在は家元を十六代に譲り千玄室氏)が、あるところで、今の日本では、「私とあなた」「君と僕」「私と会社」のように「と」で関係を付けている。そうではなく「私のあなた」「あなたの私」「私の会社」のように「の」の関係が大事であると述べていたことが印象に残っている。
「私とあなた」では、並列して対立してしまう。「と」は「戸」であり、心を隔ててしまう。一方、「私のあなた」との関係になれば、あなたと私が一体となるような関係になると言う内容であったと記憶している。
茶道において、薄茶をたてる際に、茶筅を振るが、最後に「の」の字に茶筅を回して、引き上げると母から習った記憶がある。千玄室氏は、このようなことも踏まえて「の」の字の思想を考えられたのであろうか。「なるほど」と思う考え方だと思う。
「の」は日本語の文法的には助詞に該当し、格助詞として文中の意味・関係を表すとか、並列助詞として2つのものを並列させるとか説明されるが、こんなことはどうでもいいが、「の」の関係の方が和んで、親しみを感じることは確かである。
この「の」の字の思想が、この拵を製作した幕末に、茶道文化があった肥後の八代において存在したかはわからない。無かったと言った方が確率的に高いだろう。拵制作者や拵注文者は、こんなことは考えずに、たまたま選んだ鮫皮に、こんな模様が出ていたから「面白い」と考えて誂えたのだろう。
私は、この肥後脇差拵を”「の」の字拵”として千玄室氏の言葉を思い出す為のきっかけとして、鑑賞している。
(2)腰刻み風の鮫模様
この鮫皮には、もう一つ、面白い模様がある。それは下図のように、鯉口から栗形にかけて、鮫皮に現れた黒っぽい縞を生かして、腰刻鞘風にあつらえているところだ。その縞は鯉口の下から栗形までで6本、栗形部も含めて、その下指2本分下までに薄く5本、全部で11本数えられる。
肥後拵には歌仙拵もそうだが、腰刻風の鞘があり、これを意識したのだと思う。黒漆を塗って研ぎ出す時に、意識して黒くしたのかもしれないが、それにしては、薄く、はっきりとはしていない。だから自然の模様を生かしたものだとも思っている。
この部分は別の種類の鮫皮かとも思ったが、黒と薄い藍色、グレーのカイラギの色、大きさの調子は、下部の鞘と同じであり、同じ鮫からのものだと思う。
3.鮫鞘について
以前に紹介した御家拵の写しと、鮫鞘を比較すると、次の通りである。
上段:御家拵の写し、下段:「の」の字拵 |
鮫のカイラギ模様の細かさと、色相が上図のように異なる。大刀である御家拵の写しの方がカイラギが大模様で、白っぽい。
全体の色相も、御家拵の写しの方が白っぽいが、それは時代が古く、経年使用による陽の光で色が褪せていると伊藤満氏に教わる。すなわち、このような色相で鮫鞘の古さが鑑定できることになる。
カイラギの粒の大きさや、今回紹介する脇差拵の粒に藍の点が混じることなどは、鮫そのものの種類が違うことから生じているのではないかとも思うが、私にはわからない。御家拵の写しの方にも薄い藍色のカイラギがあったが、時の変化で褪色したのかもしれないが、明確にはわからない。
『日本刀大百科事典』を読むと、鮫は、魚類学の分類で言うとエイの方が珍重されたようで原産は東南アジアである。江戸時代には多くの種類の鮫鞘があり、例えば鮫の模様から「花カイラギ」「豆カイラギ」「背カイラギ」「鈍子」「女カイラギ」「飛腹」「鹿の子」「パッパ鮫」「虎鮫」「巌石鮫」「縮緬鮫」「南蛮海子鮫」「丁字海子鮫」「皮鮫」「真羽広鮫」「藍鮫」「蝶鮫」「菊綴じ鮫」「柳鮫」「白押し(しらべし)鮫」などがあり、一方で産地を冠してよばれることもあった。例えば広東鮫、長崎鮫、台湾鮫、琉球鮫、薩摩鮫などである。また藩ごとに、たとえば水府鮫、尾州鮫、紀州鮫、前田鮫、対馬鮫、仙台鮫などと呼ばれることもあったと記されている。
奥が深いものである。
鮫皮鞘は八代将軍吉宗が鷹狩りの際に、鮫鞘の大小を指して格好が良かったために、流行するようになり、江戸では値段が十倍くらいになったと、同書に記される。具体的には「藍鮫」は享保の末年には藍粒の間に白粒の交じったものが銀二匁くらいだったが、宝暦頃には十倍の高値になり、銀五両で取引されたとある。鮫一枚の面積や、鞘にどれだけの面積のものが必要になったかはわからないから、鞘の価格には換算しないが、高価のものだったのである。
江戸時代は身分差に非常に敏感な社会であり、分不相応な所持品に対してはお咎めを覚悟する必要があった。そして、寛政の改革、天保の改革などは、いずれも華美な風俗を禁じている。
鮫鞘については、幕府は寛永17年という早い段階で、カイラギ鞘の禁止を打ち出している。肥後藩では鮫鞘は藩主のクラスか、藩主から許可を得た者以外は差せなかったと伊藤満氏から教わる。
ともかく、鮫鞘は贅沢品だったのである。
この鮫皮は、元の方は腰刻みのような縞があり、「虎鮫」かもしれないと思ったが、この部分のカイラギは前述したように中ほどから先の方と同じ鮫皮であり、よくわからない。黒地に白いカイラギの中に、薄い藍色の小さなカイラギが混じるから「藍鮫」かとも思ったのだが、『日本刀大百科事典』の「藍鮫」の図を見ると、もっと細かいカイラギであり、模様だけから判断すると、この鞘は「豆カイラギ」と模様は似ている。
この鞘は、黒地の中に白いカイラギと、薄い藍色の小さなカイラギが混じり、色調の変化に深みがあって楽しい。加えて腰刻み風の黒い縞模様も現されており、なかなかのものだと感じる。人工ではなく、自然の模様を生かしている日本人の感性を誇りに思う。
御家拵の写しを、HPにアップして紹介する時に記したが、カイラギは井戸茶碗、唐津茶碗にあらわれる陶器のカイラギ模様と共通し、当時の人というより日本人が好む模様なのだと思う。
またこの鮫鞘は表側に比して、裏側(身体に接する側)の方が、わずかに平べったい肉取りになっているが微妙なものである。
4.釘谷洞石の縁頭
この縁頭は無銘であるが、幕末から明治にかけて熊本の坪井で細工をしていた釘谷親信の作品と伝わる。
釘谷親信は明治期には八代に移って、「洞石」と名乗っている。洞石は隠れた名工の一人で、八代市立博物館の学芸員・山崎摂氏が「八代の金工師・釘谷洞石と聴石」という展示解説シートを作製している。聴石とは洞石の息子である。
釘谷洞石は天保14年に熊本北坪井に生まれ、刀装具で銘を切った場合は「東肥親信」と切る。竹川五郎作に学び、明治8年に八代に移住すると言う。『肥後金工大鑑』や『林・神吉』(伊藤満著)に作品は掲載されている。
在銘がほとんどなく、基本は無銘であるが、銘を切らなくても、自分の作品であるとわかるという自負があったと、この拵の元の所有者が、息子の「聴石」から直接聞いたと教えていただく。
頭 | 縁(差表) | 縁(差裏) |
菊の花を彫ったもので、このように緻密に彫る模様を「押し合い菊」と言うと記憶している。肥後藩は文化レベルが高く、肥後六花(椿、芍薬、花菖蒲、朝顔、サザンカ、菊)と呼ばれる花を熊本藩士が育てていた。肥後菊は、薄物の一重咲きで、花弁の間が透けているものである。厚物咲きの豪華を追求するのではなく、清雅高爽な美しさを求めたと言われる。この菊も、そのような菊である。
幕末~明治に金工にみる緻密な細かい彫り口で、一乗一派にも、このような彫りを観たことがある。手間はかかるし、上手なものだと感心する。この技術で、明治になって花瓶などの金工品をつくれば、高く評価されたことも理解できる。
ただ、細かく、精緻な彫りだけに、従来の肥後拵を「あるべき姿(信長拵、歌仙拵)」として認識した場合には、装飾過剰な印象は出る。しかし、これが時代なのだと思う。拵はファッションでもある。
5.後藤本家廉乗あたりの「菱に蔓図」小柄
小柄は当初から付いていたものである。この模様は紋のように見えたので、そのように認識していたのだが、『刀装金工後藤家十七代』(島田貞良、福士繁雄、関戸健吾 著)を紐解いていたら、図版42の「紋乗真 廉乗(花押)」の笄直しの小柄に同図を発見して、伊藤満氏に連絡した。
小柄の赤銅の色は、そんなに古いところではないことを物語っているが、見事な色の赤銅である。そして彫り口は非常にシャープでありながら、曲線は柔らかく、丁寧である。緻密で細かいけれど、弱さは感じず、品の良さが際立っている。
材料である赤銅の質と、見事な彫り口から、後藤本家の作と鑑せられるものである。私は後藤十代廉乗と鑑したが、伊藤満氏は九代程乗と観られていたと聞いた。いずれにしても、このあたりの作品と思う。
ちなみに、小刀の穂は、相州住光房という銘があり、草の倶利伽羅の彫りがあるものである。小刀鍛冶の消耗品である。
6.拵全体の調和・バランス
述べたように、この拵の鐔、笄、下げ緒は、うぶのものではなく、伊藤満氏による取りあえずの後補であるので、うぶの状態は、想像するしかない。
当初からの鮫鞘と、後藤本家の小柄は、松井家が造らせたという格の高さをうかがわせる。また無銘ながら幕末期の親信(八代の金工師釘谷洞石)が造った赤銅に菊花の彫り(表菊と裏菊を密に彫るもので押し合い菊とも呼ばれる)は、幕末の一つの時代相を示しており、赤銅一色だが派手めなものである。
牛の赤銅色絵の目貫もうぶだが、巻き込んであり、あまり目立たない。目貫は”目抜き通り”の語源になったとして、目立つものと言われるが、それは短刀などの出し目貫の場合である。柄糸で巻き込んだ目貫は、目立たないのが実態である。
柄糸の金茶色と鮫皮の色の調和は、悪くない。脇差拵だから実戦から一つ距離を置くということで「ふすべ革」で巻かなくてもいいと思う。装飾的な方が全体に合うと思う。
この格と、時代色、全体の色調などからは、鐔や笄は次のような道具が似合うのではなかろうか。もっとも、私の今の時点の好みが入っているが。
鐔は鉄であれば、私の所蔵品の楽寿「笠透かし」鐔などが似合うかとも思ったが、もう少し金象嵌などが華やかなものでもいいかと思う。あるいは肥後の色金鐔などはどうであろうか。
笄の銀色は良い感じである。細川三斎が信長拵の製作において小柄の組み合わせに苦慮し、千利休に助言を求め、銀の無地のものにした故事が思い出される。現状の銀の割り笄も感じがいいのだが、少し細身であり、鞘の笄入れは、もう少し大きいから、今より少し太いのでも良い。
小柄と同様に後藤の赤銅の笄も考えられるが、そうすると格式張る感じが強くなると思う。こういう方向でもいいかと思う。
笄の替わりに、肥後の馬針で、上手(じょうて)なもので、金象嵌で装飾しているのも面白いかもしれない。
下げ緒は、伊藤満氏がつけたものが、長さはもう少し長い方が感じが良いが、良い下げ緒だと感じるが、全体を派手目にしたら、また別の下げ緒も合うと思う。
拵の楽しみは、このように「取り合わせ」を考えながら、観ることにもあると思う。
これからの人生、所蔵の御刀や、刀装・刀装具を愛玩しながら、「の」の字の思想で生きたいものだと思っている。