計量刀剣学−多作鍛冶は誰か?−

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(株)日本刀柴田が発行している通信販売雑誌の「刀和」が平成11年10月号で通巻200号を迎えた。
そして、その号に「刀和」100〜200号で販売用に掲載された刀剣が掲載されている。(100号までの販売数は100号に掲載されている)

これを見ているうちに、このデータを加工すると多作鍛冶が、より実証的にわかるのではないかと考えた。

「古刀」、「新刀」、「新々刀」に分類して、取りあえず5振以上の販売数がある刀鍛冶をリストアップして、その販売数が多い順に並べ替えをしてみた。
販売数には在銘品だけでなく、無銘(鑑定銘)、朱銘・金象眼銘・金粉銘などを含んでいる。
偽銘があるかどうかについては一切関知していない。

リストアップした結果は、なかなか興味深い。タイトルは多作鍛冶にしたが、厳密に言うと現存する遺作が多い刀鍛冶ということになる。
古刀から順に見ていきたい。


古刀における多作鍛冶

  1. トップの祐定は祐定ブランドで作品を発表する大勢の刀工がおり、またそれらの刀工の”数打ち”と呼ばれる作品を含むので、妥当なところである。
  2. 応永備前の盛光もさすがである。同じ応永備前の家助(本によっては小反り)も6振と多いのが目につく。認識を新たにする。
  3. 備前長船の則光、勝光、忠光、清光も順当であり、その往時の活躍振りがうかがえる。
  4. 美濃の兼房、氏房系も人気刀工であったことが理解できる。その他の美濃刀工も後代兼氏、兼則、大道、兼道、兼常もなるほどと思う。
  5. 綱広、信国、義助は代があるので、この数値かと思うが、意外に多いとの印象を持つ。
  6. ビッグネームでは来国俊が目につく。
  7. 宇多、三原、一文字、手掻、藤島の流派が多いが、在銘が少ない流派である。それにも関わらず販売数が多いのは鑑定の避難港になっているのかとも考えている。

刀工名(流派名) 時代区分 備考
祐定 備前 23 古刀 俗名無し全て
盛光 備前 12 古刀  
氏房 美濃 9 古刀  
兼房 美濃 9 古刀  
清光 備前 9 古刀  
則光 備前 9 古刀  
宇多 越中 7 古刀 流派
勝光 備前 7 古刀  
綱広 相模 7 古刀  
信国 山城 7 古刀  
家助 備前 6 古刀  
後代兼氏 美濃 6 古刀  
兼則 美濃 6 古刀  
大道 美濃 6 古刀  
忠光 備前 6 古刀  
三原 備後 6 古刀 流派
一文字 備前 5 古刀 流派
兼常 美濃 5 古刀  
兼道 美濃 5 古刀  
来国俊 山城 5 古刀  
手掻 大和 5 古刀 流派
藤島 加賀 5 古刀  
義助 駿河 5 古刀  


新刀における多作鍛冶

  1. 予想通りに肥前刀の二代近江大掾忠広が首位である。肥前刀は、この他に忠国、初代忠吉、四代忠吉、二代正広、初代正広、宗次とランキングに顔を出している。いずれも質も高く、立派なものである。異色の肥前鍛冶である伊予掾宗次がこれだけあるというのは新しい発見である。
  2. 出羽大掾国路も立派である。堀川派という説が主流であるが、私は三品派であるという説に賛成したい。
  3. 坂倉言之進照包(二代越後守包貞)も人気刀工であったことが理解できる。偽官位の詐称で訴えられたとの話があるが、人気があったためでもあるのかもしれない。初代包貞も5振とランキングに顔を出している。
  4. 親国貞もよく見るので、理解できる結果である。二代の真改国貞も5振とリストアップされている。真改銘ではなく国貞銘は時々見かける。
  5. 一竿子忠綱がこんなに多いとは思わなかった。彫の無い一竿子は印象に残らないが、実態はこのようなものかと思う。
  6. 中河内国助も人気があったようで、よく見る刀である。
  7. 久道は代があるので、こういう結果なのかもしれないが少し意外な感を持つ。
  8. 法城寺正弘、大和守安定、初代是一、上総介兼重も多い刀工であり、妥当である。寛文江戸新刀は、大きく人気が偏ることなく群立していたとも考えられる。また出雲大掾吉武が5振あるのも驚きである。
  9. ビッグネームでは五字忠吉以外ですと、堀川国広が5振出ている。
刀工名(流派名) 時代区分 備考
2代忠広 肥前 19 新刀  
国路 山城 15 新刀  
忠国 肥前 10 新刀  
2代包貞(照包) 摂津 8 新刀  
親国貞 摂津 8 新刀  
忠綱(一竿子) 摂津 8 新刀  
久道 山城 8 新刀  
初代忠吉 肥前 7 新刀 武蔵大掾含む
法城寺正弘 武蔵 7 新刀  
安定 武蔵 7 新刀  
初代是一 武蔵 6 新刀  
越前下坂 越前 6 新刀 流派
4代忠吉 肥前 6 新刀  
2代正広 肥前 6 新刀  
初代包貞 摂津 5 新刀  
上総介兼重 武蔵 5 新刀  
国貞(真改) 摂津 5 新刀  
国助(中河内) 摂津 5 新刀  
国広 山城 5 新刀  
初代正広 肥前 5 新刀  
肥前宗次 肥前 5 新刀  
吉武 武蔵 5 新刀  

新々刀における多作鍛冶

  1. やはり固山宗次がトップである。弟子の宗寛も売れていたことが理解できる。
  2. 直胤、直勝も多い。師匠の正秀もさすがである。
  3. 綱俊もなるほどと思った。人気があったことが理解できる。
  4. 薩摩新々刀の双璧である元平、正幸も想像していた通りである。
  5. 意外な刀鍛冶が細川忠正である。たまたま「刀和」で多かったのかもしれないが、気がつかなかった刀鍛冶である。
刀工名(流派名) 時代区分 備考
宗次(固山) 武蔵 13 新々刀  
直胤 武蔵 11 新々刀  
綱俊 武蔵 8 新々刀  
忠正 下総 7 新々刀  
直勝 武蔵 7 新々刀  
正秀 武蔵 6 新々刀  
元平 薩摩 6 新々刀  
宗寛 武蔵 5 新々刀  
正幸 薩摩 5 新々刀 正良含まず

私は「清麿の武器講中断の理由」(『麗』343〜345号)にて清麿が芸術家気分が強いことによって寡作であるとの通説に対して、次のような論拠で疑問を投げかけている。引用したい。

「 次に武器講中断に関して取り沙汰されている清麿の寡作説について検証したい。

(1)鍛刀生涯と作刀数
 清麿寡作説に対して、花岡氏は数が少ないことは認めつつも、鍛刀生涯が短いのを忘れるべきではないと記されている。
「確かに寡作者にちがいないが、遺作本数の極端に少ない最大の理由は、鍛刀生涯そのものが短いのを忘れるのは片手落ちである。天保初年から四十二歳時終焉までで二十数年間である。本格的専業生活者として作品がいちだんと増える「武器講」天保十年(一八三九)からは、わずか十数年の短さである。遺存本数はもとより多かろう道理もない。だが、専業時期に入ってからの清麿は、酒におぼれたのは事実としても、それなりの製作本数は残していよう。
 清麿の遺作は、一概に正秀・元平・直胤・宗次あたりの三割程度と推測されているらしいが、それ以下とみても実働期間がこれら諸工の半分あるいは三分の一と考察してみると、合理的な解答の一端は窺えると思われる。」(『刀工山浦真雄 清麿 兼虎伝』より)

『新々刀入門』(柴田光男著)において、著者である柴田光男氏が長年の刀剣商としての体験から、新々刀諸工の現存する作品の多寡を十段階で記されている。花岡忠男氏が清麿の遺作は正秀等の三割程度という説を引用しているが、この原典は当該資料とも思われる。
 この指標を作品数指数と名付けて、新々刀諸工の実働年数(初出の年紀と最終の年紀の期間)から、寡作比率(作品数指数÷実働年数)を算出して見た。

結果は表3のとおりである。花岡忠男氏の説を認めた上でなおかつ山浦兄弟が寡作であることは理解できる。

(注)今回、上記のような考え方で寡作比率を算出したが、柴田光男氏も筆者にこのような形で現存する作品ランクを使われるとは予想外のことであろう。大まかな目処程度に記された指標を根拠のあるような使い方をしたのは筆者であり、このランク表に関する批判は筆者が受けたい。
 ただこのような視点での計量刀剣学とも言える手法が開発できれば二代説、工房説などの解明に役に立つであろう。
刀工名 作品数指数(A) 年齢(歳) 初出年紀(西暦年)(B) 最終年紀(西暦年)(C) 年紀銘期間(年)(D=C-B+1) 寡作指数(A÷D)
月山貞吉 2 71 1819 1868 50 0.04
南海太郎朝尊 2 61 1834 1865 32 0.06
横山祐永 6 不明 1786 1850 65 0.09
山浦真雄 4 71 1830 1871 42 0.10
加藤綱俊 7 66 1805 1863 59 0.12
源清麿 3 42 1830 1854 25 0.12
会津兼定 5 67 1863 1902 40 0.13
市毛徳隣 4 59 1804 1834 31 0.13
斉藤清人 6 75 1854 1897 44 0.14
固山宗次 10 不明 1805 1870 66 0.15
角大助元興 5 80 1840 1872 33 0.15
運寿是一 8 73 1843 1891 49 0.16
直江助政 4 不明 1809 1832 24 0.17
大和守元平 10 83 1770 1826 57 0.18
大慶直胤 10 79 1801 1857 57 0.18
次郎太郎直勝 7 54 1820 1858 39 0.18
尾崎助隆 4 53 1783 1804 22 0.18
勝村徳勝 4 64 1850 1871 22 0.18
伯耆守正幸 10 87 1764 1817 54 0.19
手柄山正繁 8 不明 1789 1830 42 0.19
左行秀 6 75 1840 1870 31 0.19
細川正義 8 73 1820 1858 39 0.21
浜部寿格 5 66 1782 1804 23 0.22
高橋長信 7 64 1841 1871 31 0.23
水心子正秀 10 76 1773 1814 42 0.24
御勝山永貞 4 60 1854 1869 16 0.25
八代忠吉 6 59 1837 1859 23 0.26
鈴木正雄 4 不明 1853 1866 14 0.29
栗原信秀 6 66 1853 1871 19 0.32
泰龍斎宗寛 8 不明 1848 1870 23 0.35
  1. 作品数指数は現存する作品の多寡を『新々刀入門』において著者の柴田光男氏が定めた値。
  2. 年齢や年紀銘の初出年紀と最終年紀は『日本刀銘鑑−第三版−』より抽出。
  3. 寡作指数は作品数指数を作刀期間(初出年紀銘から最終年紀銘までの年数)で除した値。この値が少ない程寡作と言える。

(2)寡作と仕事の手際良さとの関係
筆者はこれまでの人生で仕事ができる人を何人か見てきたが、「仕事ができる人」=「仕事が早い人」という共通項を見いだしている。
それ故に「仕事が早い」=「仕事が雑」という論理、言い替えれば「仕事が丁寧」=「仕事が遅い」=「寡作」という論理が素直に頭に入って行かないのである。
読者の皆様にも考えていただきたいが、刀鍛冶に限らず、研師でも農業従事者でもあるいは一般事務職でも本当のプロフェッショナルは手際が良く、仕事は早いのではなかろうか。

 商売の場で鑑定会のように刀を見ているプロの刀剣商はいないはずである。

多作者と寡作者の違いは仕事に取りかかるまでの気分の乗り易さという性格的なものと、出来た作品に対して自分の銘を切るに値する作品かどうかを見極める審美眼の程度であろうと考えている。
 仕事そのものは名工である限り、手際が良いのである。
 そして残された作品の芸術的価値は多作者も寡作者も変わらない。ただ寡作者の方が数が少ないので希少性で値段が高くなることは考えられる。また銘を切る作品を厳選していれば出来不出来の差も寡作者の方が少なくなると思われる。

(注)近江大掾忠広と陸奥守忠吉の価格の差が例になる。近江大掾忠広は多作にも関わらず出来不出来の差が少ないと言われている。

●この項の論旨は筆者の考え方を一般論で述べたも のであり、例外があることは当然である。清麿の仕事ぶりを具体的に伝える資料の発掘を待ちたい。
 なお筆者は表3から、清麿は生涯を通算すれば寡作であったと判断する。そして寡作の直接の理由は後年の酒の飲みすぎに起因すると推測したい。
 武器講の頃は仕事が面白く、どんどん作っていた時代であったと想像する。すなわち武器講中断の理由に清麿の寡作説が該当しないと考えたい。」(「清麿の武器講中断の理由」『麗』345号、平成6年9月号)

今回の分析を通して、当たり前のことであるが、多作鍛冶は、皆長命の刀鍛冶であることを理解した。
特に実際の年齢が判明している新々刀工で、上記リストに掲載されている刀鍛冶は皆、長命である。薩摩の正幸、元平は80歳代までの寿を得て、70歳代の年紀銘はよく見かける。綱俊は長運斎を晩年に長寿斎と変えており、現存する年紀銘の期間は59年である。固山宗次は年齢は不詳だが、年紀銘の期間は66年になる。直胤も79歳で没し、年紀銘の期間は57年である。

古刀、新刀の刀工は没年が不明だが、近江大掾忠広の作刀期間の長さはよく知られている。
来国俊も長寿で100歳を超えたとの伝承があるが、現存する刀を考えると、事実だったのかも知れない。
出羽大掾国路や坂倉言之進照包なども長寿であったとも考えられる。

多作の要因を整理すると次のようになる。今後とも研究していきたい。

  1. 刀工活躍当時の刀剣需要(需要がなければ多作になりようがない)
  2. 刀工の当時の人気(人気刀工に需要が集まる)
  3. 刀工銘が工房(マニュファクチュア=工場制手工業)のブランドになっている場合(末備前、美濃刀工で考えられる)
  4. 刀工の活躍期間(寿命も含めて)の長さ
  5. 藩の販売政策(肥前刀などは藩外に拡販したようだし、一方で藩によっては、御留め鍛冶として藩外に出さないことがあったことも聞いている)

多作鍛冶の作品は質に比べれば安価である。長寿を全うしたおめでたい刀工と考えて、大切にされたい。


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