年齢的なものかもしれないが、最近は、金工の細かいものより、鉄鐔−それも室町、桃山の古い時代のもの−に何となく惹かれるようになっている。現に最近、購入しているのは信家、平安城透かし、それにこの金山である。もっとも、こういう好みはまた変化するかもしれないが。
40年近く、刀・刀装具の趣味を続けてきたが、これまで尾張、金山の良いものにはご縁がなかった。これはこのホームページの趣味雑感にも書いてきた。
俗に尾張、金山と称する鐔は多い。ただ本当に尾張、金山らしい良いものは少ない。これは最近少なくなったのではなく、刀剣柴田の青山君などと付き合っていたころから少なかったのである。もともと信家よりも少ないのだ。
今回、ありがたいことにご縁があり、以上のような良い金山鐔を入手できた。購入した時は錆びも多かったが、1年間ほど手入れをして、上記のようになってきた。錆びがあったからと言って安く購入したのではない。名品は少ないだけに安くはないのだ。
購入後、この図とまったく同じ図柄のものが『刀装・小道具講座 1 鐔工編』の金山鐔の項の本文の中に紹介されているのに気がついた。同じ作者のものであろう。
左上耳の鉄骨の 状況など、よく似 ている。同じ作者 である。筆者のは 縦72.9o、横71 .1oで厚さは耳 で7o、切羽台で 6o。 次ぎのところが違 う。 1.切羽台が本の 方が少し幅広。 2.松皮菱の中段 の菱の角度が 本の方が直角。 3.松皮菱が下の 耳に接している 所が、本の方 は錆びで埋もれ ている。 |
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所蔵品 | 『刀装・小道具講座 1鐔工編』 |
また、最近「刀剣美術」のバックナンバーを見ていたら、「刀剣美術」268号の巻頭に「私の愛品」というコーナーで、米子支部の草信博氏が、私の所蔵品そのものを紹介しているのを見つけた。草信氏は次のように書いている。
「無銘 伝金山 丸形で厚みがあり、地鉄は強い感じで黒みがかり、耳には鉄骨が頻りと働く。図柄は簡素な菱文透しで、まことに力強く、稚拙ではあるが雅趣があり、あたかも戦国時代を髣髴させるものがあります。私の好きな愛品の中の一枚です。」
1.尾張、金山の名品とは
「尾張、金山の本当に良いものは少ない」と書いたが、それでは「尾張、金山の名品」とはどんなものかと私なりに説明したい。要素に分解すると「鉄味」と「文様」であるが「鉄味」は、現物を前にしないとわからないから「文様」について記してみたい。
透かし鐔であり、透かしの「文様」は大事である。「文様」は好みもあるので、あくまで私の意見だが、尾張、金山は図柄が左右対称、上下対称のものがいい。特に直線や曲線で構成した文様が好きである。そして品格、強さ、真面目さ、奥深さを感じられるものが好みである。具象画より抽象画の良さである。
もっとも尾張、金山の名品には尾張の宇津の山透かし、金山の釣り鐘、茶壺透かしなどもあるから何度も言うように私自身の嗜好である。
そして、尾張鐔の良いものは、左右対称、上下対称の図に加えて、少し華やかな感じがして、図柄が外へ外へと働くような感じを持つものである。
『透鐔 武士道の美』 | 『透鐔』より |
一方、金山鐔の良いものは、左右対称、上下対称の図に加えて、より謹厳な感じがし、内面に収まる真面目さと内面に籠もるような強さを感じる。これが私の基準である。
『透鐔』より | 『透鐔』より | 『透鐔』より |
2.松皮菱の文様
さて、この鐔の透かしの文様は松皮菱紋を借りた図案である。下図のように松皮菱の家紋を中抜きして、影紋にし、それを90度回転し、丸で囲めば、まさにこの鐔の文様である。ただ大事な家紋を90度回転することは考えにくいから、家紋を借りた図案だと思いたい。三本杉ではないが、三つの峯を持つ山のように見える。なお金山鐔は紋から借用した図柄も目に付く。
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『透鐔』所載の金山の中で著者笹野大行氏が最も古い(応永・永享頃)とし ているもので、影紋の松皮菱を紋の通りに透かしている。(松皮菱と見れば デザイン的に少し無理があるが、その文様を借りて新たにデザインしたと、 考えれば、これはこれで魅力的な鐔である) |
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『透鐔』より |
3.鉄味
鉄味を文章で表現するのは難儀である。「見たらわかるよ」なのだが、この鐔に即して拙い文章で表現してみる。
深味のある黒錆である。古人はこういうのを紫錆と称しているが、黒色というか黒紫というか、そのような錆色である。太陽の強い日差しの元では赤みも見えなくはないが、そんなような色である。(私の所蔵品の生者必滅の信家と同じ錆色である。だから時代も同じなのだと思う)
この鐔も入手した時は手入れが不十分だったが、目立った赤錆を角で落とし、あとは油もつけずに、自分の手と木綿の布で毎日、丹念に拭っているだけだが、輝きも出てきた。あまりに光らすのも品が悪くなるから、適度がいいのだが、本当にこれは楽しい作業であり、今後も続けていきたい。古美術で、これだけ触りまくってもいいのは鉄鐔だけであろう。(もちろん限度はあるのだが)
それから鉄骨と言われている鉄の表面にニキビのようなものが耳の横面、平面に現れているのが何とも言えない。刀で言うと地景(ちけい)、地沸(じにえ)のようなものである。焼き鈍しで出ると言うが、鍛えの中で、このような働きが出てくる要素があるのではなかろうか。この部分は少し硬度があるようで、盛り上がっている。そして鉄の錆び色がより黒味が強く、輝きも強くなる。これが何とも言えない変化となる。
鉄骨の種類も、米粒よりやや小さい程度の粒状の鉄骨だけでなく、もう少し大きくて不定形が塊状鉄骨も出てくる。これが出たところの変化の方が大きくなるのは言うまでもない。これを粒状鉄骨、塊状鉄骨と呼んでいる。(尾張鐔には尾張骨と呼ばれる短い線状の鉄骨もある。赤坂はもう少し長い線状の鉄骨である)
鉄骨は、特に塊状鉄骨はあまりに多いと美しくなくなるが、名品は程良いものだ。
4.品格
透かし鐔の名品の要素である「文様」と「鉄味」について記したが、これは要素であって、この二つによって品格を感じるような品物が本当に良いものなのだ。言い換えれば、このような品格を感じるものでないといけないのだと思う。
手前褒めだが、この鐔から品格を感じる。では、この鐔に即して、その品格は何から出てくるかと自分なりに考えたい。
一つは幾何学的な図柄の持つ謹厳さにあると思う。松皮菱という鋭い角を持つ図形であり、文様は左右対称、上下対称で、きちんとした図形である。松皮菱はやや細めの線で、透かしに狂いはない。そして、この細い透かしの面は、丸みをつけず切り立っており、地も磨き地に近く平らにしている。この細さが慎み深さの要素も持つ謹厳につながり、磨き地もきちんとした印象につながるのだ。
ただし、謹厳さが固さにならず、ゆとりのある上品な感じになって品格を高めているのは、鐔の耳の丸の造形とのうまい具合の組み合わせにあると感じる。耳は角耳だが、角を丸くして、より丸みを持たせている。加えて耳の平地にも出ている鉄骨が変化をつけている。また耳の太さは松皮菱の透かしの線よりも太い。その分、柔らかな印象が強くなる。まるで外柔内剛の人格者に接するような印象だ。見るからに武張った男より、このように内に強さを秘めた男の方がいざという時に役に立つ。鐔も同様に、このような鐔の方が位が上なのだ。
「文様」は以上の通りであるが、ここに鉄味の良さが加わる。全体に深味のある黒紫の錆に覆われて美しい。光沢も出てくる。そして、やや太く、柔らかい角を持つ耳に、鉄骨が適度に出て、鉄に変化を付けている。鉄に変化が出るということは観た時の色、光沢が違うということだ。鉄骨が真っ黒に輝く艶となって浮き上がるのだ。また鉄骨は出っ張りなどになって形にも変化に富む。耳の平地に米粒のような粒状鉄骨、また耳の平地や縁(横面)には形も不定形で大きい塊状鉄骨が観られる。
刀も地鉄における地景の働きがある刀の方が見飽きないが、同じことだ。鉄骨は耳の横面、平面に出て、中の透かしの線には出ていない。どのように焼き鈍したのであろうか。
なお、この鐔の大きさは縦72.9o、横71.1oである。金山鐔にしては十分以上の大きさである。厚さも耳で7o、切羽台で6oと金山鐔の中でも厚い方である。この厚みが存在感と強さを感じさせる。
金山鐔はある程度、厚みがあるのがいい。切羽台に近づくほど、やや薄くなる造り込みは古い時代の鐔に共通である。
鐔は切羽台も大切だ。この鐔の切羽台は実にきちんと立派に造っている。鐔が実用の道具であることを考えれば当然のことであるが、これがきちんと造られていないのは下手(げて)や今出来のものである。
下部に比較して、やや上部が尖り気味なのも、古い時代の鐔にある形である。切羽台の縦の長さは41.8oと十分に長いのだが、横幅も23.0oときちんとあるから細長くは見えない。(実質は、切羽台が縦に長いとされている鐔の切羽台と同じくらいの長さがある)
<参考>
私が所蔵している京透かしの切羽台の長さは42.0oであり、この鐔の41.8oと大差ない。ただ横幅が京透かしは22.0oと狭く、印象として京透かしの方が縦長と観られる。(松皮菱透かしは狭い所の切羽台の幅が23.2o、太い方だと26.0oある)
切羽台に横幅があり、小柄櫃、笄櫃はないが、その分、切羽台にきちんと凹みを造って実用に備えている。
また松皮菱の透かしと切羽台の間は4つの取っ手でつないでいる。この取っ手部分は低く彫り、しかも丸みを付けて棒状につなぐなど、非常に手間をかけた上手(じょうて)の作品である。低く丸みをつけたのは多くはないかもしれないが、図柄を耳、あるいは切羽台と棒でつなぐ手癖は金山に見られるものである。
この分、若くみられるが、そういうことではない。
笠を耳の横で つないでいる、 時代は天文頃 とされている。 |
松皮菱を耳の 縦でつないで いる、時代は 室町前期とさ れている。 |
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『透鐔』より | 『透鐔』より |
5.時代
笹野大行氏の『透鐔』は古刀匠、古甲冑師、京、正阿弥、金山、尾張の古い時代のものを作品に即して、製作時代を推定している点が意欲的な著作である。
各鐔の説明を読むと、黒錆の古色で時代を区別しているところもあり、これについては写真ではわからず、実際に並べて比較し得る立場にない私では判断できない。
また印象で、例えば「高尚な感覚で室町中期」とか「強さ・厳しさよりも、おおらかであり、桃山期」となると別次元である。ただ、このような感覚的な時代区分を私は否定しているわけではない。現物で比較すれば、なるほどというところはあるのである。観ている人の感覚を馬鹿にしてはいけない。美術は理論・理屈ではないのだ。
切羽台の形状、櫃穴の形状で時代を説明しているところもある。これもそれぞれの写真を比較しても、明確にはわからないのだが、時代が上がるほど、上部(刃の方)が尖り気味になっている。また切羽台全体の長さが長くなるのが古いとされいるようだが、金山鐔、尾張鐔の図版と同時代としている京透かし鐔、古正阿弥鐔と比べると、この考え方にも統一感がないようで迷ってしまう。
また櫃穴は時代が上がる頃は小柄、笄の形が同じ。それから笄櫃が洲浜形になる。小柄櫃が縦に細長い時期、笄櫃だけが小さい時期などがあるようだが、これも本における写真の比較ではわからない。
なお、金工鐔などには異形の櫃穴があるが、鉄鐔ではみない。
時代による切羽台の形状の違いは上記のように書かれているが、本の掲載写真では例外もあり、明確にはできないのが実態でなかろうか。
なお、笹野氏の『透鐔』は全体に透かし鐔の時代を上げすぎているという感じも持つ。古書に透かし鐔は足利6代将軍の義教(1429〜1441の永享時代)から始まるとあるから、上限はここではなかろうか。
そして透かし鐔が大きく発達したのは応仁の乱後(1477)で、打刀の便利さが実感として体感され、広く打刀が出回った時期からではなかろうか。
当時、透かし鐔は高級品であり、刀の方で、片手打ち用の2尺前後の打刀(1尺8寸程度から2尺1寸程度まで)の高級品が出回る文明末期(1485)頃からではなかろうか。
自分で、この鐔を拭いながら感じたのは、このちょっと小ぶりの70pくらいの鐔は、室町後期(文明末期(1485)頃から永正末年(1520)頃)の片手打ちの打刀にちょうどいいのかなということだ。
鐔は刀の付属品である。鐔の大きさは刀の長さに影響を受けるのが自然である。もちろん、各人の好みや、剣術の流派などにも関係すると思う。宮本武蔵作と伝えるなまこ形の鐔は大きくない。柳生連也斎の関与したと伝える柳生鐔も小振りである。
また、刀は、その時代、その時代で出来たものだけを使うのではなく、桃山時代であれば平安、鎌倉、南北朝、室町の各時代の刀を各人が差すわけであり、自分の所持する刀に合わせて鐔を選択するだろうから、鐔の大きさ=時代の反映とは言えないことは確かである。ただ、このくらいの金山鐔が出現した時期は2尺前後の打刀の名品が出現した時代ではないかと推察しているだけである。
さて、この鐔の時代だが、切羽台は、整った小判型で、それほど肩がはっているわけでもない。逆に肩が落ちているわけでもない。上部のふくらみの方が下部幅のふくらみに比較してやや尖り気味も狭くはなく、広い方だが、櫃穴に即して凹みをつけている。
切羽台以外の耳の太さと透かしの線の細さとのバランスや、他の感覚的なものも含めて、笹野氏の本から似ているのを探すと、天文頃から天正・慶長頃の時代(桃山時代)とされているものになる。こんなところではなかろうか。前述したように、切羽台の長さそのものは、天文頃とされている京透かしとも大差ないのである。(下の右は金山ではなく尾張とされている)(「鉄味」の項で説明したが、私の所蔵品の生者必滅の信家と同じ錆色である。このことからも、信家と同時代の天正・慶長頃だと思う)
『透鐔』より。金山、 天文頃 |
『透鐔』より。金山、 天正・慶長頃 |
『透かし鐔』より。尾 張、桃山 |
白洲正子は次のように言っている。
「桃山でも徳川でもいっこう構わない。美しいものは美しいのである。」(「楓」)
6.生産地
江戸時代は天保十年(1839)の田中一賀の著作でも「金山透鐔 金山ハ山城国地名ナルカ姓ナルカ不知ト云ドモ世ニ唱テ珎重ス」とあるように、山城(京都)で製作されたと言われていた。
しかし、明治以降、秋山久作が肥後の名鐔工の林又七が尾張の鉄砲鍛冶の子孫ということから尾張における鉄鐔製作の伝統を意識し、加えて銘が無ければ尾張鐔に見える「尾州住」の入った三代山吉兵を根拠として、初二代山吉兵も尾張、もちろん一群のこれらの良い透かし鐔を尾張でできた尾張鐔であるという論理を形成したようだ。
そして近年、笹野大行が尾張鐔を尾張鐔、金山鐔、古正阿弥と分類した。そして氏も『透鐔』で「金山には京風のところはなく、山城の国で作られたとは考えられない。尾張の熱田や大野の金山、美濃の金山など諸説があるが、いずれとも決し難い。しかし、金山と山坂吉兵衛の初・二代の鉄骨のでかたが全く似ているところから、両者は関係が深く、金山は尾張地方で作られたと考えられる。」としている。
作風による鑑定を重視すると、どうしてもこのような説になる。刀でも、備前長船兼光のように一人が時代で大きく作風を変えると、二代説が生まれたのと同様である。
私は、当時の透かし鐔は高級品と思う。高級品であればいつの時代でも需要が限られ、どうしても大消費地で販売されるものになるのではなかろうか。加えて、古来からの伝承から、金山鐔も京都で造られたのではなかろうかと考えている。桃山時代においても明寿は京都の鷹峯、金家は京都の伏見である。(私は信家も京都ではないかとも感じている)
最近、写楽についても、古文献にある「阿波の能役者」を裏付ける資料の発見があり、この説にほぼ間違いがないという雰囲気になっている。これまでは百花斉放で誰でもが説を出せた状況であり、今でも素人研究家が色々な説を唱えているが。
いずれにしても古文献を簡単に否定してはいけないと思う。