さて私の刀を紹介したい。
無銘備前長船兼光である。鞘書は、刀剣鑑定界において「明治の三傑」と言われた鑑定家竹中公鑒(こうかん)であり、私は「公鑒兼光」と呼んでいる。
第10回重要刀剣である。それより貴重なのは昭和26年の特別貴重刀剣に認定されていることである。
私の所有になってからすでに19年経つが、その間、門外不出で、審査、研ぎ等には一切出していない。現在は鞘も割ってあり、古研も相俟って、このような状態で披露するには忸怩たる思いがあるが、お許しいただきたい。
刀をこのような状態にしていたら、新撰組であれば、士道不覚悟とのことで切腹になりかねない。
書きたいことはたくさんある。順繰りに書いていきたい。
1.入手のいきさつ
手元に昭和58年の売買契約書がある。私が作成したものである。
この刀を拝見したのは、畏友のH氏の紹介で、当時すでに故人であった高名な愛刀家のご自宅である。そのお宅に、どのような刀があるとも聞かされずに訪問し、見せていただいた中に存在した。
素人同士の売買になったので、契約書を作成して、2回に分割して700万円近くの金額で購入した。
当時、私は34歳のサラリーマンである。持っていた刀3振りを売却してお金を作った。その時は独身で母と暮らしていたが、母は当然に、そんな大金で素人から購入することを心配した。
名刀には霊力があると昔から言う。このような大名物(だいみょうもの)を購入するのは身分不相応であったが、この名刀を購入すれば、自分もいつか一国一城の主になれると思い、踏ん切った。この兼光を持つにふさわしい男には、残念ならがなっていないであろが、亡母の心配は払拭できたと思う。
何の分野でも、少し名の知れた蒐集家であれば、誰でも、ある時点で「踏ん切る」思いで高いお金を出しているものである。こうしないと眼は高まらない。
なお、このお宅には、この他、素晴らしいものがたくさんあり、故人の奥様が売却にあたっていた。ここで拝見した刀は後に重要刀剣になったものがたくさんある。左行秀の刀もあり、後に重要刀剣になったが、たくさんの蔵刀
の中では、目立たないものであった。余談になるが、この奥様は、後に悪い刀屋(私はあったこともないが、H氏から聞くと刀屋というよりブローカー的体質の男)にだまされて、代金を踏み倒され、息子さんなどご家族から非難されて寂しい晩年をおくられたと聞いている。詐欺を働いた刀屋は刑務所に入り、今では出てきていると聞いている。
何事も欲をかくのは大損のもとであると言ってしまえばそれまでであるが、処分する時は、しかるべき刀屋さんに依頼すべきである。
2.「何に見えます?」
見惚れていると、H氏が「何に見えます?」と尋ねる。特徴は次の通りである。
姿は南北朝期の磨上げである。
刃は明るく、片落ち互の目が目立つ。
見事なのは映りである。全面に乱れ映りがくっきり出ている。
地金は、いかにも備前の春霞と言われる地金で詰んでいる。そこに光の強い地景がうねうねと入っている。古研ぎで薄錆も出ていた。
鋩子は、はっきりしており、表裏は違うがのたれ込んで、突き上げて返っている。
「兼光ですか。」「そうです。いいでしょう。」「素晴らしいですね。こんなに刃の明るい兼光ははじめてです。」という会話をまだ思い出すことができる。
(注)重要図譜をスキャナーで取り直す。07.5.21
地に乱れ映り、刃は直ぐ調に肩落ち互の目が逆ががる(写真は藤代興里氏) |
部分拡大。刃紋の調子や地肌。なお地景の写真は下方に掲載。07.5.21 |
3.出来について他の人の評価
この刀を見せた人は少ないが、お世辞も含めて、次のような言葉をいただいている。
それまで、藤代松雄先生には、自分の刀を誉めてもらったことがなかったので、あらかじめ「少し染みがありますが」と言って観ていただいたら、先生はニコニコされて「これだけ出来ていれば少しの欠点なんか問題がないよ」とお褒めに預かり、嬉しかった。
刀剣柴田の青山君のところに持参したら「今、社長がいるから」と3階に持っていった。柴田光男氏がわざわざ3階から降りてこられて「重要の中の最右翼ですね。竹中公鑒の鞘書の刀は、これまで何振りか拝見したことがありますが、みな良いものでした。」との言葉をいただく。
畏友のH氏は、「地金が素晴らしい。地金だけなら、重美以上の出来です」。
現代刀匠の広木弘邦氏は水神切り兼光を写していることから、お見せしたら「兼光がこんなにうまいとは思いませんでした」とのこと。
4.古研ぎ
この刀は買った時から少し錆が出ているが、私は研いでいない。藤代興里先生からは「こういう錆は研いだほうが良い」と具体的に指摘されてのアドバイスをもらったことがあるが、手元から離すのが嫌で研いでいない。
畏友のH氏は研ぐことに反対である。「古刀は、備前伝も相州伝も研いで良くなったのはほとんどない。」が彼の持論である。もっとも彼自身は応永備前の盛光なども研いでおり、研ぎの大切さは当然に理解している。
正直に言うと、少し研いでもらいたい箇所もある。しかし私は、今の兼光の刃紋の調子、映り、地鉄の全体的な調子が大好きである。錆があっても、楽しめるから、私が生きている間は研がないと思う。
刀屋さんの売り込みのセリフに「いい研ぎにかけたら良くなりますよ」というのがあるが、この言葉で幻想を抱いてはいけない。良いものは研ぎ直さなくても良いものである。あなただって美人は化粧しなくても美人であることがわかるでしょう。(研ぎは大切なのですよ。研いだら良くなる刀は研ぐ前から良いところが見えていて、それを引き出すために研ぐということです。この真意もご理解ください。)
5.欠点
欠点から書いていこう。
無銘の大磨上げであること。これは別に珍しいことではないが、在銘品があるわけだから欠点であろう。
染みているところがあること。映りと染みについては、別途項を設けて記したいが、鉄の感度が良い刀には映りが良く出ると同時に染みもでやすいのかとも考えている。
わずかであるが地鉄が荒れている箇所があること。
添え樋の通り具合を見ると、研ぎ減りもあると思うが、これはほとんど気にならず、むしろ健全さに驚くほどである。
6.兼光二代説について
兼光は二代あり、二代は延文兼光として初代とは別という説は、藤代松雄先生などの論文によって、今では一代における作風の変化ということが通説になりつつある。
私も、この通りだと考える。ピカソにしても、偉大な芸術家は作風が変化するのである。変化する刀鍛冶が、より芸術家的なのであろう。今の画家にもいるが、若い頃の作風を墨守して売り絵を描いている人は、芸術家ではなく職人である。(私は職人は職人で好きなのです。芸術家ぶった職人は嫌いです。ここで言わんとすることはわかってもらえますか。)
作風で代別するというのは、鑑定という銘当てゲームが盛んとなった弊害だと考えます。鑑定は作風主体で刀鍛冶を区別するものだからです。
国広、初代忠吉、虎徹、助広、真改、清麿などは作風が変化しているのは皆様もご存じであろう。最上作に位置づけられる刀工は、なんらかの面で独創を発揮している。
(注)私は、二代忠広は偉いと思い、その作品も好きです。しかし、独創という面で、初代忠吉には及ばない。ただ独創の前の試行錯誤の時代の作品を考えると、独創の刀工の方が出来、不出来の差が大きいのかとも思いますが、この意見は私の、あくまでも感覚的なものです。
公鑒兼光は、体配は従来言う所の延文兼光であるが、刃紋は初代兼光である。
兼光の鋩子について、『日本刀の掟と特徴』(本阿弥光遜著)は「乱込、図の様に尖端は匂で蝋燭の焔の如く刃中に尖り気味になる。これを兼光鋩子と云う」とある。この刀の鋩子は、まさにこの通りであり、見ていると実に楽しい。(鋩子の刃紋掲載。02.4.7)
鋩子部分(先端が匂で煙るところは表現できていない |
刃紋と同じ調子で入りこみ、互の目を持つ。鋩子の刃幅は変わらない。健全な証左である。
そして、突き上げて返っている。ただ返っているのではないですぞ。切っ先に向けて突いております。だから強さを感じます。
そして突き上げたところが匂いで煙り、ゆらめいている感じがする。だから柔らかい強さを感じさせ、品位を感じます。
鑑定に、鋩子が刀の位をあらわすとあります。お聞きになったことがあるでしょう。だけど、これは良いものを見ないとわからないです。
私も兼光に出会わなければわからなかったでしょう。
小丸に返る、いかにも品の良い鋩子だけが、品が良いのではないのです。
銘当てゲームだと鋩子も鑑定上の特色だけに注意が払われますが、名品を拝見した時は鋩子の働き、位ということにも注意を払っていただけると、また別の楽しみも感じます。
長くなるから、今回はここで終わりとしましょう。(2001.6.6)
8.兼光の大切先の鋩子
鋩子を観じることの楽しさを前章で述べましたが、鋩子を楽しむには、平造りの短刀か、大切先の刀の方が楽しみやすいことは否めない。
今回は、兼光の大切先の鋩子を見てみたい。いずれも名刀である。福島兼光、波泳ぎ兼光、大兼光、一国兼光と蟹仙洞の重要文化財、細川家の重要美術品(光徳象眼銘)、京極家伝来兼光(京極高和所持で光温折紙)、鉄砲兼光(秀包所持、向井将監象眼銘)の名刀です。じっくりと見比べてください。
(注)『刀影摘録 神津伯押形』と『図説 刀剣名物帳』は棟筋まで押形をとっていないので、他の書籍とは印象も異なることも留意していただきたい。
公鑒兼光 | 福島兼光 | 波泳ぎ兼光 | ||||
重要図譜より |
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福島兼光 | 一国兼光 | 大兼光 | 蟹仙堂重文兼光 | ||||||||
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細川家光温兼光 | 京極伝来兼光(光温) | 鉄砲兼光 |
『鑑刀日々抄続』本間薫山 | 『鑑刀日々抄続二』本間薫山 | 『名刀図鑑二十五集』藤代松雄 |
なお福島兼光は、同じ刀であるが、別の押形を参考のために掲示した。同じ刀を見ても、採る人によって押形は変わるということも理解できよう。蝋燭の煙るところを描いたのが『図説刀剣名物帳』、蝋燭の芯のありかまで細かく見たのが『渡邊誠一郎氏寄贈刀剣図録』ということである。私はこれらの押形採択者の気持ちがよく理解できる。
ただし、福島兼光は切先の長さが名物帳の方が長いように見える。切先が折れて、補修したようにも感じるが、これはうかつなことは言えない。ただ比較することで、このようなことまで推察がつくことは覚えていていただきたい。
切先は損傷しやすい。切先の形だけで言うと、鉄砲兼光も、もう少し切先が伸びている方が私には自然の姿に思えるが、これは識者に確認していただく必要がある。
このように並べて見ると、鋩子の刃紋の調子が似ていることが理解できる。一見、異風に見える一国兼光も、公鑒兼光、福島兼光の軽い互の目が大きくなっただけと理解できる。そして一国兼光の鋩子の刃紋と鉄砲兼光の調子もよく似ていることが理解できる。
京極家伝来兼光については寛永十七年の光温の折紙付きであるが、本間薫山氏は、「兼光の典型的刃文ではないが、あり得るできであり」と述べている。(以下の引用もそうだが、刃文について述べたことが、鋩子の刃についてもあてはまることがおもしろい)
また、このように比較すると、同じ大切先でも細かいところで形が違うことが理解できる。ふくらの形も異なる。枯れているのもあれば、ふっくらしているのもある。これらの違いは研ぎのためなのであろうか。それとも刀匠がそれぞれに工夫したものであろうか。私は研ぎだけのせいではないように感じる。
鋭く、ふくらが枯れた波泳ぎ兼光、ゆったりした福島兼光、バランスが取れて力強く見える公鑒兼光など、いろいろである。私はこの比較図を見て、公鑒兼光については切先の形も好きであることを改めて認識した。
同様に、比較すると、驚いたことに樋も多様であることが理解できる。公鑒兼光は竹中公鑒の鞘書では、「影樋」という言葉を使っているが、現代の鑑定では、「棒樋に連れ樋」という)であるが、今度は兼光の樋の研究でもしてみるか。
以下に掲載する大切先の兼光は、少し刃紋の調子が異なる。これも比較してほしい。ただし、はじめの2振は折返銘と額銘であるが兼光在銘である。
折返銘の兼光 | 額銘の兼光 | 朝鮮兼光 | 伝兼光 |
『鑑刀日々抄』本間薫山 | 『鑑刀日々抄』本間薫山 | 『鑑刀日々抄続三』本間薫山 | 『鑑刀日々抄続』本間薫山 |
折返銘の兼光は大島津家旧蔵の1.98尺の折返銘であるが、本間薫山氏は「常にみるこの工の作とは相違して、いわゆる相伝備前の中でもむしろ元重と鑑せられる。」と述べている。
額銘の兼光も1.69尺の脇差であり、備前国住長船左衛門尉兼光という長銘が額銘で入っている。本間薫山氏は「銘は正しいとおもう。上記の刃文からしても貞和を下らぬ兼光であり、鍛が出色である。」と述べている。
朝鮮兼光は島津義弘が朝鮮出兵や関ヶ原合戦に使用したとされている由緒ある刀であるが、本間氏は兼光とは極め難く、また一派の倫光などとも異なるとして、「成家在銘の傑作の太刀に最も近似する」と同書に記述されている。
伝兼光について、「兼光ずばりとは極めがたいが、延文頃の一派の作と鑑せられ、兼光にほぼ並ぶほどの出来」と述べられている。
確かに朝鮮兼光などは、鋩子の刃紋の調子だけでも、兼光ではないと思われる。
もっとも生ぶ中心の在銘の兼光の鋩子の写真を掲載しないで、無銘大磨上だけでは、如何に名刀揃いでも納得しがたいという方もおられよう。押形の写真が見つかりしだい掲載したい。
なお刀の教科書では次のような鋩子を掲載している。
『日本刀の掟と特徴』本阿弥光遜著 | 『刀剣鑑定読本』永山光幹著 |
(02.9.1)
9.竹中公鑒(こうかん)
竹中公鑒について記しておきたい。
『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)には「本阿弥宗之丞の養子で、幕府お抱え研ぎ師として禄200俵。明治維新後、本姓竹中氏に復帰。宮内省御剣係を拝命。」とある。
『刀の値段史』(光芸出版編)には、次のように興味深く書かれている。
「本阿弥12家の中に生まれた。若年には本阿弥長識門に入り、維新後宮内省に奉職したとき、本阿弥の宗祖家の五条家ゆかりの竹中姓に改めたという。刀剣界にあっては今村長賀、高木復と共に三傑と称されたほど傑出した鑑定家であった。今村長賀は自重して鑑定入札はしない人であったが、竹中は一向に平気で、「鑑定の当たらぬのは何の恥にもならず却って興味を増すものだ」と進んで入札するという気色であった。竹中は入札ではずした刀は必ず手に入れ、よく研究していたともいう。竹中は宮内省の御剣係として、また国宝取調委員として、実に夥しい数の刀剣を見ているが、太刀、刀等の拵で気に入ったものは必ず模造した。遺愛刀のうち遊就館に陳列された数十刀はいずれも竹中が模造させた拵か、自ら考案した拵がついていた。」
今の鑑定家でも、入札鑑定をやる人は少ないでしょう。昔、藤代先生の鑑定会では檜山さんなどは札を入れていましたが、今はどうでしょうか。
このような態度から竹中公鑒の鑑定家としての凄さがわかるでしょう。
またこの鞘書きの墨色はすばらしいです。明治に書いたものが、写真のように鮮明です。墨でも良い墨は少ないのでしょうね。
佐藤寒山先生は刀剣博物館建設などの刀剣界の発展のために、刀屋さんが持ち込んだ刀に気前良く鞘書をされ、その時、先生は本当に確信があるのは、濃い墨で鞘書きされたとの話を、ある刀屋さんから聞いたことがあります。もっとも佐藤先生の鞘書き自体の偽物もあるようです。
また本間薫山先生が鞘書された時の墨は、娘婿の高山武士先生が譲り受けたとも聞いております。
10.地景
.この公鑒兼光の真価が出ている地鉄の説明に入りたい。
地景は黒く見える肌だが、板目にからんでよく入っている。しかし、この刀の地景は、そんなに黒くは見えない。そして太いものから、細いものまで様々である。その内のいくつかは銀鉱脈みたいに一種の輝きを持ってウネウネと続いているのである。また、ここまで輝いてはいないが、透明感があってきれいな地景も入っている。(本当の銀鉱脈が一条の線になっているかなどはわからない。イメージをわかりやすく表現するための例えである。)
このウネウネと続く地景が備前は兼光あたりに現れる太い地景である。これが板目に沿って続いて消えていく。
山岡重厚氏の本『日本刀伝習録』には、このような名刀にあらわれる地景を銀髪線と呼んでいる。これが見ていて飽きない。地景は刀身の表面に現れるが、この刀を見ていると地景が刀身を垂直に貫いて、縦横斜めに、立体的に貫いているようだ。地に現れるのが地景だが、この地景は刀身内部にも及んでいることが、公鑒兼光を見ていると理解できる。
くりかえしになりますが、地景=銀糸がウネウネ、バリバリ、縦横斜め、立体的に見えるのです。強さ的にも、これが強靱さの秘訣なのかと思う。細かい鉄の糸を縒りに縒って鍛えた日本刀である。「凝っては百錬の鉄となり、鋭利、兜を断つべし」という藤田東湖の一節が思い出される。(これは原典にあたっていないから間違っていたら教えてください)
そして地沸が細かくついて、刀身全体に春霞がかかったように柔らかい感じに包まれている。「地景のバリバリ」が細かい地沸で柔らかく包まれている。真の強さを内に隠している感じで何とも言えない風情である。
(地沸の定義は、「地にこぼれている沸(あるいは地に散布している沸)で、刃中の沸ほどは密集しておらず、研ぎの結果黒く見える」ものである。元平などにはこの定義通りの地沸が、本当に厚く付いているのであるが、備前の刀などは、刃が匂出来だけに、地沸は細かく一粒ずつ黒く見えるということはない。「沸が地にこぼれる」のであれば「匂が地にこぼれる」こともあると思う。このように見えるものを私は地沸と呼んでいる。)(2005.1.4追記)
地の中に黒く太い線がウネウネと。これの輝きがいい。07.5.21 |
(注)地沸について、最近、来の名刀を拝見し、その刀において、地にこぼれて黒く見える地沸をキチンと識別しましたので、やはり地沸は「地において黒く見えるもの」に限定した方がいいかと思います。
ただ肥前刀などの梨子地肌も「小杢目肌に地沸がよくつき金蒔絵の梨子地を見る如く、又は金砂子を撒いた如く」(『日本刀の掟と特徴』本阿弥光遜)とあるように現在の刀剣界では一粒ずつ黒く識別できないものも地沸と呼んでいるのが現状です。(07.1.1追記)
刀の畏友のH氏が、「拭いについて、自分なりに自信がついたから、やらせて欲しい。古名刀は必ず良くなるから」と述べられるので、やっていただいた。
確かに良くなりました。
地景については、これまでは横にウネウネと続く地景が目立ってましたが、今度は、鎬と刃の間(要するに地)を結ぶような縦の地景が方々に現れてきました。太さは様々ですが、全体には太めで、直線的ではなく、柔らかく曲がって出てきました。中には丸く出るものもあります。これが次項の牡丹映りにつながります。(07.1.1追記)
11.映り(乱れ映りと牡丹映り)
映りは、地に白く息を吹きかけたように見えるものを言う。公鑒兼光には乱れ映りが鮮明に元から先までむら無く出ている。部分的には丁字映り(差表中程)になっている。表裏とも元から先まで、様々な形の映りが地をおおっている。まさに乱れ映りである。ぼや〜んとした様々な形であるが鮮明なのである。
兼光の牡丹映りという言葉があるが、定義によると「断続してボッボッと現れるもの」とか「円形な映り」であるが、公鑒兼光には地景が強い処に出た映りが、板目、木目状の地景に影響されて円形に見える箇所がある。これを兼光の牡丹映りと言うのではあるまいか。
H氏の拭いによって、上記に書きました指表の鎺(はばき)元から10pくらいの上部の映り形状がはっきりと牡丹映りであると確信できました。
牡丹映りとは、乱れ映りが円形の地景部分においてははっきり出ないで、そこだけが花びらのような形で澄んでいる箇所です。この刀では2箇所鮮明に現れてきました。これです。掟にある兼光の牡丹映りは。
下部の丸い杢目状の地景と周りの乱れ映り が牡丹映り。H氏に依頼した拭いで鮮明に なってきた。藤代興里氏写真07.5.21 |
『日本刀の鑑賞基礎知識』小笠原信夫著 より、倫光の写真と説明は藤代興里氏 |
右は小笠原信夫氏『日本刀の鑑賞基礎知識』に掲載されている倫光の写真です。(07.1.1追記)
鎬の方からかかってくる映りが刃中にまで入っている処がある。公鑒兼光では、このような箇所が刃紋に染みが出ているところである。刃染みは欠点として、備前三郎国宗などが有名であるが、刃染みが生ずる一つの理由に、映りの刃中への入り込みがあると考える。
(『名刀図鑑』第2集の景光や、第3集の長光などの写真に、映りが刃に入り込んで染み心になったような箇所が観られるが、実見していないので確かな例証とは言えない。)(2005.1.4追記)
地鉄について「色々書いてくれたけど、見なければよくわからないですよ」 って。そうなのです。見なければわからないですし、見たからわかるというものでもない。横で私が説明したら、わかる気になるでしょうが、それも本当は頭に知識が入るだけで、観たことにはならない。長い間、観て、観て、観て、はじめてわかってくる。やはり美術品は所有して、一生懸命観ないといけない。私も含めて所有しても観ない人も多い。お互いに反省いたしましょう。(7/12追記)
(注)「バリバリ」という語感は稲妻を連想させて、読む人に誤解を与えるかなと反省しています。この語感だと地景が直線的なイメージを与えるかもしれませんが、地景は直線的ではなく板目に沿った形として現れるのが基本です。ただし、中にはその板目を超越してつながっているように見える地景が見えるから不思議であり、刀身全体にそのような地景が刀身の奥から湧いてくるような感じです。そしてそこに太くウネウネと続く地景が見られる。
こういうように書けば書くほど、私の鑑賞能力、表現能力の限界を感じますが、また眼が肥えて、良い表現が見つかれば補正いたします。(7/16補足)
12.兼光の魅力−切れ味と豪壮な姿−
備前長船兼光の一般的な魅力に触れておきたい。
(1)切れ味
備前長船兼光は、多くの武将に好まれてきたが、その一つは最上大業物に選ばれている切れ味にある。新刀と違って、罪人を使った試刀は少なかったと思うが、これまでの実戦を通して実証されてきた切れ味によって、最上大業物の評価を得ている。
享保名物帳の波游兼光、小笠原長時が所持したという胄割兼光、松浦家に伝わったという鉄砲兼光は、その切れ味から名前が付けられている。
この他名物には短刀も含めて、竹俣兼光、大兼光、相馬兼光、城井兼光(黒田家)、吉田兼光、福島兼光(福島正則)、太郎坊兼光(秀吉)、一国兼光(山内家)、後家兼光(直江山城守)、紅葉狩兼光(加藤清正)などがある。
(2)姿
日本刀は時代によって姿が変化している。これは各時代の戦闘方法に影響を受けていることは言うまでもない。
戦闘方法とは無縁な鑑賞の時代になった現在では、姿については各自の好みであるが、南北朝時代の大磨上げ体配を好む人は多いのではなかろうか。
慶長新刀、新々刀など、南北朝時代の大磨上げを写した刀は人気がある。正宗を頂点とする相州伝は人気が高いが、時代的に南北朝にかかり、その大磨上げも当然に多くなっている。
この姿は、武=豪壮=力というイメージを想起させ、持つ人に言いしれない力強さを与えるものである。
また兼光の刀は同時代の刀工に比べて重ねが薄くない。棒樋などで重量は減らしているが手持ちの重たいものである。このことも持つ人に信頼感を与える。
(3)彫り
私の刀には棒樋と添え樋しかないが、兼光の「孕み龍」を好む人も多い。あの彫りは個性的で魅力的な彫りだと思う。
(4)地鉄
地鉄の魅力は上でさんざん書いたが、簡単に言えば、日本刀史上で一番地鉄が美しいと評価されている長船景光の子だけあって、この美しさを引き継ぎ、しかもそれに強さ(強さと言っても弾性がある)が出ていることだと思う。(01.9.11追記)
13.刃紋
多くの人が一番高い関心を持つ刃紋の鑑賞に入りたい。(重要図譜を、より鮮明にとれました02.4.7追記)
公鑒兼光の刃紋は、全体に中直刃調に、刃紋の頭を抑えたような調子である。そこに片落ち互の目、逆がかる刃、少しほつれたような直刃が混じっている。片落ち互の目は幅が広いのから、少し細かいものまでいくつかある。そして何より匂口が明るいのが魅力である。さらに魅力的なのは足、葉がしきりに入って働いていることである。(もう少し、より直刃調の刃が続く箇所もあるが、この図はない)
中ほどの表裏の刃 | 刃区の刃 |
藤代『刀工辞典』では、このような刃紋を「直小丁字足入り」とか「直互の目足入り」とか「直逆互の目丁字」などと説明している。鎌倉時代後期に見られる刃紋で、備前では長船派の景光、近景、雲類、元重一派にあり、中青江、それから来国俊に見られる刃紋である。
差表の方が互の目が目立つ。ふわっと明るい刃が連なり、谷から足に入り、葉が飛ぶ。
差裏は直刃調であるが、物打ちから上半は同じように互の目が目立つ。
水神切り兼光の刃(『日本刀工辞典』より) |
乱れ映りと相まって、本当に楽しい。そして映りが甚だしい差し表の物打ち辺は、映りが刃中に入り込み、染み状になっている。刃中の染みの出る要因はいくつかあるのかもしれないが、「映りが刃中に入り込んでの染み」は前述した通りである。
そのことからもわかるように、非常に感度が良い鉄である。刃中に働いている葉は千変万化で、「あっ、ここにも葉が」との発見が、今、鑑てもある。(中には数カ所、錆もあるのは残念であるが、研いでないから仕方がない)
直刃部分は、ピーンと張りつめてはいない、ゆとりがある直刃であるが、刃中に小足、葉ということで充実感がある。
片落ち互の目は幅の広いのや、狭いのやら、明瞭なのや、片落ち互の目というより、小互の目で逆がかるというものまでいくつかある。「この片落ち互の目が景光の子供との証だよな」と思う。(重要図譜の兼光の図より、下の『日本刀工辞典』(藤代義雄著)の刃紋の図の方が柔らかくて、より実態に近い)
景光の刃(『日本刀工辞典』の「景光」の項より) |
直刃に小丁字足、葉入りは「おじいさんの長光だ」とつぶやく。
長光の刃(『日本刀工辞典』より) |
逆がかる小丁字が鎌倉後期の景光以降、南北朝の時代を表している。そして「来国俊の京逆足(逆足が帽子の方に上向きに入るのではなく、中心の方に下向きに入る)とは違う」と納得する。
差裏の物打ちより上部には2重刃が観られる。2重刃の刃紋は刃紋と同じ、片落ち互の目や直丁字である。だから、この部分は、刃紋+2重刃+地鉄の暗帯部分+乱れ映りという構造になっている。(2005.1.4追記)
兼光には匂口の沈むものもある。匂口の沈む刀の方が切れ味が良いという話も聞いたことがある。良い虎徹(少ないが)の冴えた明るい刃も考えあわせると、匂口と切れ味は関係がないと思う。
匂口は左文字、南紀重国、虎徹、真改と明るい方が良い。華やかである。
鑑定会とか即売会でも色々と名刀を拝見するが、国宝、重文などは別だが、「公鑒兼光の方がいいや」で終わる。だから、この刀を入手して以来、購入した刀は匂出来とは別の沸出来の一振りだけである。無駄な買い物をさせなかったという点でも、公鑒兼光には感謝している。(01.11.30追記)