雁金屋彦兵衛か二代勘四郎か「雪輪雁透かし」鐔

所蔵品の鑑賞のページ

この鐔は雁金屋彦兵衛と極められて特別保存が付いている。しかし、二代の西垣勘四郎の作ではないかとのご指摘もあり、色々な視点から勉強した。買って手元に置いて鑑賞しないと、我々レベルではわからないのが、この趣味のつらいところだが、それも楽しみと思うしかない。
自分なりの勉強の結果、私は二代勘四郎の作品と思うが、もちろん特別保存の極めを尊重するのも一つの見方である。作位は同等で「華やかさ」があると同時に「強さ」も感じ、良い鐔である。

「現存の優品72」刀剣柴田発行より

1.作風

(1)印象
「華やか」な透かしであるが「強さ」を感じる。また「細かい」透かしだが、「おおらかさ」というか「伸びやか」もある。このように矛盾した要素を内包する印象を与える作品は飽きが来ずに、芸術的境地が高いものが多い。
(2)透かしのつなぎ
耳や、切羽台との繋ぎ部分は、しっかりしていて、京透かしとは違う。
(3)耳
特別保存の証書には丸耳とあるが、私の判断では角耳小肉付きである。
(4)切羽台
櫃孔に四分一の当て金をはめているので太く見えるが、生ぶの状態は太くはない。上部より下部がふくらむような形である。古い時代から江戸時代前期ころの形である。
(5)櫃孔
州浜形で、左右同形である。肥後の平田彦三の2代あたりにありそうな櫃孔である。やや右側の笄櫃の方が小さい。
(6)地鉄
磨き地で、艶があって、精良な地鉄である。地鉄は言葉で表現しにくいので所蔵品と比較すると、彦三の黒色と光沢は別格で比較にならないが、又七、重光ほどは肌理が細かくはなく、光沢も劣る。同様に遠山の方が肌理が細かく艶がある。地鉄の色は遠山より黒っぽい。甚五の方が鉄は柔らかく感じるが艶は甚五の方が強い。初代勘四郎も柔らかさと艶は強く、これよりは赤味を感じる鉄である。金山は鎚目地で焼き手をかけている為か肌理は細かくはないが、艶は同じようなもの。加えてトロッとした味があってしかも強い感じである。題目信家も金山と似ているが少し赤みが強い。京透かしの鉄はこれより柔らかく、色もやや赤味がある感じだが、艶の程度は似ており、肌理の細かさはこちらの方がある。私の尾張は黒色と光沢が強く、しかも柔らかみも感じながらも精良であり、この鐔とは別である。紋散らし信家の鉄色は、この尾張と同じ見事な黒色だ。ただし槌目地なので光沢と精良さは尾張ほどではない。以上、これらと比較するといずれとも違い、「時代が少し若いかな」という印象はする。
(7)鉄骨
右上方の耳の側面にやや太い鉄骨が出ている。菊花形であるので、各花弁に一つずつ見えて4弁に明瞭に観られるが、連続した太い筋状の鉄骨だったのかとも思う。また左上の一つの菊花弁に細い筋状の鉄骨が観られる。
(8)図柄
雁金を透かし、右上の3羽は右下方に、右下の3羽は右上方に、左側も同様に、上の3羽は左下に、下の3羽は左上に向かっている。左右対称の図柄のようだが、センターが少しずれていて、また右上の2羽目と3羽目の間が、左上の2羽目と3羽目に比較すると狭いなど変化がある。(この左右非対称は、尾形光琳下絵の鐔とも似ている)
(9)法量
縦80.5ミリ、横79.8ミリ、耳厚5.5ミリ、切羽台厚5ミリ

2.雁金屋彦兵衛と極めた根拠(推測)

雁金屋彦兵衛は、京都から江戸の赤坂に、鐔細工師庄左衛門、庄右衛門の兄弟を引き連れてきた道具屋で、下絵の名人で自らも製作したとも伝わっている。いわば赤坂鐔の始祖である。
ただし赤坂鐔の始まりについては諸説があり、若山泡沫氏、笹野大行氏などは違った見解を持たれていたとも聞いている。

佐野美術館主催の「粋な透かし 赤坂鐔」展のカタログに「赤坂鐔の研究」として福士繁雄、丸山栄一の両氏が論文を発表しており、ここでは諸説を紹介した上で、雁金屋彦兵衛の存在を肯定して、作風として次のように定義している。

  1. 京透かしに近く
  2. 透かしの繋ぎには安定感があり
  3. 耳の丸さが目立ち
  4. 平地にも変化があり
  5. 雅趣に富んで捨てがたい

この中では3については丸耳ではないが、角耳に小肉が豊富と考えると該当しないでもない。4は平地は磨地であり、変化があるとは言えない。5は人によって感想は違うから何とも言えないが、前述したように「華やかさ」と「強さ」が感じられ、良い鐔と感じる。

そしてこの論文では、染物で有名な京都の呉服商雁金屋の出でもある尾形光琳(1658~1712)の下絵帳の資料を発見し、そこに掲載している鐔(下右図)を雁金屋彦兵衛の作品のヒントとしている。尾形光琳は元禄期、雁金屋彦兵衛は寛永期と時代は違うのであり、無理があるとは思うのだが。
(下左図は下右図と同工異曲として同書に掲載の鐔で、ここでは初代忠正と極めているが、「刀剣美術」482号での「刀装・刀装具初学講座(33)で」雁金屋彦兵衛作と極めている)

「粋な透かし 赤坂鐔」展のカタログより
原図は『小西家旧蔵・光琳関係資料とその研究』(山根有三著)

この鐔は、光琳下絵の鐔(上図の右側)に似ているものである。このあたりが、日本美術刀剣保存協会で雁金屋彦兵衛とした根拠と推測される。
なお京都の呉服商雁金屋は当時日本一の呉服商で、2代は淀君、3代は東福門院などの権勢を極めた女性の呉服調整で名高いが、元禄10年(1697)には店を畳んでいる。

「現存の優品72」の解説では「「雁金屋」という屋号もあずかって、この手の雁金繋透かしの鐔を雁金屋作というようである」と書いているが、これは書き過ぎだと思う。雁があれば雁金屋では単純過ぎる。

3.雁金屋彦兵衛の鑑定よりも2代西垣勘四郎か

「雁金屋彦兵衛でなければどこに極めるのだろうか?」と考えると、赤坂でなく江戸前期の正阿弥というのが第一に思い浮かぶ。古正阿弥は室町~桃山期であるが、江戸前期のもので、このように京透かしに似ているのは私が習った頃は京正阿弥と観た。(金象嵌があって華やかなものも京正阿弥ということがある)

刀は江戸初期の慶長前後(桃山期と同じ)、江戸前期の寛文あたり、江戸中期の元禄以降享保頃までと分けられるが、小道具の世界は刀と違って在銘で年紀がある作品は希であり、ここまで厳密には区別仕切れない。(鑑定に自信のある人は区別できると言うかもしれないが)

この鐔の地鉄は、上記で比較検討したように、江戸前期から元禄頃までに含まると思うが、より元禄寄りの感じがする。ただ何でも「上手(じょうて)は若く見え、下手(げて)は古く見える」から、そこまで若くはないのかもしれない。

櫃穴の形は小柄櫃、笄櫃が同形で、古い時代の鐔や、肥後の彦三や勘四郎に多い。(『透鐔』(笹野大行著)に赤坂2代忠正に極めている鐔に笄櫃がこのような形の鐔が掲載されている。ただし小柄櫃は丸いもの)

鐔の耳を菊花形にするのは尾張にも赤坂にもあるが、西垣勘四郎に圧倒的に多い。

ここで肥後鐔に詳しい伊藤満氏に連絡すると、写真を観ただけで、現物を観てもらっていない段階で、「2代西垣勘四郎の良いものではありませんか?」との返信をいただく。

伊藤満氏の根拠は次の通り。

  1. 櫃穴の形は肥後。左右州浜は赤坂にはあまりないと思います。
  2. 肥後でも平田彦三によく見られる櫃穴ですが、西垣にも多い。
  3. 初代は殆どが焼き手仕上げですが、二代は磨き地で、たまに鍛えに沿った線状の鉄骨のあるものもあります。
  4. この菊形は赤坂にもありますが、肥後では普通によくある形です。
  5. 雪輪に雁の図は赤坂よりはむしろ肥後の図です。
  6. 切羽台もそんなに尖っていませんし、左右の櫃穴もそれほど差はありません。

「なるほど」と思い、伊藤満氏の著作の肥後三部作を観ると、2代勘四郎の同種作品は未掲載だが、肥後各派に次のような作品が掲載されている。

左側の初代勘四郎は「動き」がある。これはなかなかの境地である。

右側の初代も左右対称を崩している。
初代勘四郎 雪雁透
『西垣』(伊藤満著)作品24
初代勘四郎 雪雁透
『西垣』(伊藤満著)作品23
2代彦三の櫃孔は私の所蔵品と似ている。

3代藤八は林派らしく左右対称でキチンとしている。
2代平田彦三 雪雁金透
『平田・志水』(伊藤満著)作品45
3代藤八 菊雁金透
『林・神吉』(伊藤満著)作品112

なお、今回、勉強していると、赤坂鐔の雁金と肥後鐔の雁金は下図のような点が違うことに気がついた。赤坂の雁の形は、羽の先が丸まる度合いが強くなって平たくなる。もっとも『透鐔』(笹野大行著)には三代西垣勘四郎の作品(図版265)として、赤坂のような雁金の鐔が掲載されており、また尾張として掲載の鐔(図版167と169)にも赤坂風のがあり、一概には言えないのかもしれないが。
(雁金屋彦兵衛は赤坂鐔とは違うから、赤坂の特色を備えていなくても良いのだが、私が今回購入した鐔の雁金は赤坂鐔の形ではなく、肥後風である)

赤坂の雁金(「粋な透かし 赤坂鐔」展のカタログより、作品34 忠宗の井桁雁透かし鐔より)
羽の先が丸まって、全体が平たくなる感じ。
肥後の雁金(『林・神吉』(伊藤満著)より、作品113 三代藤八の雪雁透かし鐔より

西垣勘四郎初代は慶長18年(1613)生まれで元禄6年(1693)に没する。二代勘四郎は寛永16年(1639)生まれ、享保2年(1717)に没する。

ちなみに赤坂初代忠正は寛永期から明暦3年(1657)、2代忠正も同様に寛永から延宝5年(1677)、3代忠虎は寛文から宝永4年(1707)であり、赤坂上3代は、肥後の西垣勘四郎の初・二代と時代は重なる。雁金屋彦兵衛は初代忠正と同年代か、少し上の時代と考えられるが、初代勘四郎と年代は重なる。

伊藤満氏のご指摘に加えて、以下の点が西垣かなと感じる。

雁金屋彦兵衛の極めとするには、次の点を強調した場合と考える。(雁金屋彦兵衛は存在すら否定する人もおり、明確な作品も残っておらず、作風で判断はできにくい)

刀もそうだが、刀装具も、鑑定は難しいものだと思うが、作位は西垣2代勘四郎、雁金屋彦兵衛などのランクに極まるものだと思う。

4.古赤坂鐔の勉強と、西垣勘平在銘鐔との比較(2011.11.12追記)

その後、あるコレクターの元にお邪魔して、古赤坂鐔を勉強させていただいた。雁金屋彦兵衛は古赤坂の前(あるいは同時代)に位置するわけであり、この雁金屋極めの鐔と、私の尾張透かし鐔も持参して比較する。
見事な古赤坂鐔が並び、眼福の楽しい時間を過ごした。私が実見して、把握した古赤坂鐔の特徴をまとめると、次の通りである(古来、赤坂鐔の掟とされていたものと共通するが)。

以上の特色を踏まえ、この雁金屋極めの鐔を比較して、「古赤坂ほど厚くはないですね」「この肥後風の櫃孔、他の赤坂でもご覧になったことがありますか?」「いや、ないですね」「錆色も古赤坂より若いですよね」などの会話を経て、「やはり肥後ですかね」となる。
このコレクターが西垣勘平の在銘の鐔があることを思い出され、比較する。鐔の厚み、鐔の錆色を比較するとほぼ同じ。西垣勘平は2代勘四郎の弟。「やはり2代西垣勘四郎だ」となる。


5.参考:『神吉鐔絵本』所載の「雪輪雁」(2015.1.3追記)

『神吉鐔絵本』という資料(コピー)がある。昭和39年に浪華小道具研究会会員向けに難波五風氏が50部複写したもののコピーのようだ。この資料は奥書によると、元々は熊本の某氏が所蔵する「楽寿絵形集」数冊を基礎として、九州大学農学部の山川三郎氏が分類整理して筆写をしたものである。それを更に筆写したと奥書にある。奥書によると図は412枚とある(私は数え直して確認はしていないがページ数から考えると、このぐらいありそうである。ただし大小鐔の図柄も各1枚としていると思う)。そして、以降の奥書に、この書の伝来が記されている。

伝来によると、此の書を大正12年に長岡恒善氏が秋山久作氏より借りて写す。そして昭和3年に中野康平氏に一部を送り、訂正する所があり訂正する。そして昭和9年に長岡氏は改めて山川三郎氏に送り、山川氏は改めて筆写する。次に難波民之助氏が昭和11年に山川三郎氏より借りて写す。昭和31年に難波民之助氏から難波五風氏が借用して20部複写して同好の諸氏に頒布するとある。そして前述のように昭和39年に50部複写したというわけだ。

昔はコピー(複写機)が無く、写したわけであり、その過程で原図と変化している可能性もある。楽寿原本(熊本の某氏が所蔵)→山川三郎→(この間の経緯は不明ながら)秋山久作→長岡恒善→中野康平、山川三郎(一部)、難波民之助という伝来の過程では山川氏の段階から各人の筆写である。4回の筆写を経ていることになる。筆写は大変な作業であった分、先人の方がより目に焼き付けて深く勉強しているのかなと思う。

私は、同時に伊藤満氏より原本に近い絵図(コピー)を見せていただいた。こちらの絵の方が精緻である。これらは笹野大行氏の所蔵のものとのことだが、残念ながら約70図程度と限定されたものだけであり、多くは紛失していると思われる。大小鐔の図も多く、当時は注文品は大小鐔で注文が普通なのかと思う。

『神吉鐔絵本』を見ていくと、次の図がある。櫃孔と切羽台周りの雁つなぎの形だけが違うが、私の鐔と同じデザインである。また驚いたことに左右非対象な点も同様に描かれている。ではこの鐔が西垣勘四郎ではなく、神吉のものかとなるが、それは違うだろう。この頃になると、肥後鐔工各派の図柄は交流が進み、神吉は林派だけでなく、志水派、西垣派の図も取り入れている。

「現存の優品72」よ 『神吉鐔絵本』より「雪輪雁」図

以上から、この鐔は雁金屋彦兵衛ではなく、西垣二代勘四郎でいいと思う。同時に名称を「雪輪雁」と改めたい。

刀でも無銘の鑑定は難しいものであるが、無銘の鉄鐔の鑑定はさらに難しいと感じる。

6.注:『神吉鐔絵本』について(2015.1.7追記)

ここで『神吉鐔絵本』のことを取り上げたが、この本に所載の絵図が神吉鐔の図の全てのように思われるといけないから注記しておきたい。むしろ、深信や楽寿の在銘品で『肥後金工大鑑』や『林・神吉』に所載の名品には、絵図に無いものが多い。私が所蔵する神吉深信在銘の「投桐透かし」鐔は桐の絵は一致するものがあるが、外側の輪が少し違う。楽寿では例えば諸書に所載されて有名な角形の「干海鼠透かし」鐔も「枝折竹透かし」鐔も絵図には無い。楽寿得意の金象嵌の鐔の絵図も無い。私の所蔵品の「左右笠透かし」鐔(無銘)の絵図も無い。

柳生鐔における「柳生連也仕込鍔」などの諸本もそうだが、こういう古書も現存する現物と比較すると、どこまで信頼すべきなのかわからないところがある。二子山則亮の「則亮作事手控」はどうなのであろうか。則亮の研究家に現存する作品と手控の図を比較してもらいたいと思う。


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