良くなりましたよ。32年間の愛蔵の後に研ぎに出し、1年8ヶ月の長い間、研ぎに出てましたが、ようやく研ぎ上がり、手元に戻ってきました。研ぎ上がった御刀を拝見して、さらに30年を生きようという意欲が湧いてきました。
1.研ぎに出すに至った心境
昭和58年(1983)に購入してから、小錆、ヒケがあるにも関わらず、鑑賞するのに何も問題は無いとして、そのまま愛蔵してましたが、新たに購入した国広と比較する意味で、半年間ほど油を付けずに、折りに触れて鑑賞している中で、兼光が「そろそろ研いで欲しい」と言っているような気がしました。そんな時に、両国の震災記念館に出向き、焼けた御刀を見ている時に、「研がないのも保存、研ぐも保存」という気持ちが湧いてきました。
2.研ぎの依頼
そこで、研ぎに出すことに決め、藤代興里先生にお願いすることにしました。先生は「どんな風に研いで欲しいの?」と聞かれる。そこで文書にして先生に依頼の内容を伝えました。その内容は次の通りです。
以上の7項目です。藤代先生は最近は差し込み研ぎで腕をメキメキと上げられております。研ぎの詳しい方法の説明は私にはできませんが、差し込み研ぎとは、これと対比する研ぎが後刃(あとは)取りと言われてますように、刃文の形状が刀工が造った状態で見え、敢えて光にかざさなくても判別できる研ぎです。地鉄の状態がありのままに出て、映りがある場合は鮮明に出る研ぎ方です。
研ぎ上げた状態が長持ちするとも言われており、地味ですが品の良い研ぎと言われています。昔から、備前物で健全な刀にふさわしい研ぎとされています。
この反面、地鉄の良さが見えにくいです。また後刃(あとは)取りのように、刃の部分を白くする研ぎではありません。
藤代興里師の差し込み研ぎでは、私の要望した1、4は問題無く実現できるはずです。高感度兼光ですから、乱れ映りなどは物凄く鮮明に出ると思いました。だから要望1で、そこまで映りを感度良く出さなくてもいいから、地鉄における輝く地景をとお願いしたのです。
3.研ぎ上がっての公鑒兼光
1年8ヶ月ですからね。待つ身もつらかったです。まだまだかかるようであれば、一度手元に戻そうかと考えたこともありました。
もちろん藤代興里師のところには、博物館、美術館からの研ぎの依頼もあるでしょうし、刀屋さんからの依頼も多いでしょう。愛刀家だって私だけではない。公的機関は研ぎ代も予算の中だから納期がある。刀屋さんは商売だから寝かせておく期間は短い方がいい。また刀屋さんや愛刀家の中には重要刀剣や特別重要刀剣の審査の為に依頼する人もいる。みんな期限のある仕事だ。
こういうことはさておき、公鑒兼光の研ぎでは藤代師も悩まれたようです。
ご苦労をお聞きすると、さすがに「研いでも減らさない」という藤代福太郎師→藤代松雄先生からの伝統です。差表(本来は太刀だから差裏だが)の物打ちの少し下の燃え染みが甚だしいところの研ぎをどうするかということが一つ。
それから、差裏の鎺元のやはり燃え染みがあって、地も少し荒れているところの処置にも悩まれたとのことです。
あとは伺ってませんが、32年間愛蔵してきた者が書いた研ぎへの要望書を満足させて、その男の審美眼を超えて、驚かすにはどうすればいいかでも色々と考えられたのではないでしょうか。愛刀家との勝負でもあるのだ。
方針が決まれば、実際に研ぎの作業を実施する期間は手早いのだと思います。
<健全さ>
健全さが倍加した感じだ。かえって手持ちが重くなった感じだ。南北朝時代に造られた古刀とは思えない。
<映り>
乱れ映りを基本とした映りが、表裏ともオーロラのように地の全面に出ている。大劇場の緞帳のようなオーロラ映りが、まさに兼光劇場の開幕で開かれようとしている。
研ぎ上がってわかったのは、棒映りが刃縁の近くに現れている所に気が付いたことだ。差表(本来は太刀だから差裏だが)の真ん中辺りだ。だから、この箇所は二重の映りになっている。棒映りは次の応永備前の特色だが、兼光の前の景光にもあると記されている刀書もある。なるほどだ。
乱れ映りに濃淡があり、濃いところは刃縁にもからみ、そこに「燃え染み」と呼ばれる染みがあるが、研ぐ前に比べて、染みが減った感じだ。染みではなく、葉(よう)になっているところも出てきた。差表の、この辺りは藤代氏が研ぎで一番苦労したところだとおっしゃる。微かな研ぎ叢も以前はあったようだ。私は細かい所はわからないが、結果として欠点が是正されている。これが研師の腕だ。
この乱れ映りの濃淡が、緞帳が靡(なび)いているように見えるのだ。天空全面のオーロラも、こんな感じかと思ってしまった。名刀は不思議だとつくづく思う。
<刃>
刃は焼きが高いと言うか、本当に頃合いの刃幅だ。ある程度の刃幅の中で、刃中に働きが多いから、楽しい。足が太く入るところ、チリチリと細かく入るところ、長く入るところなどで変化がある。逆足が多いが、そうでない足もある。全体に、そんなに長い足は入らない。
そして、刃中に葉(よう)が飛ぶ。大きめの葉(面積の広い葉)もあれば、細かい葉もある。以前に比べて細かい葉に気が付くようになった。
刃は、大きめの頭が一つ出た丁字刃もあるが、箱がかる互の目刃も目立つ。箱がかる部分にも細かい足が入るから直丁字刃のようにも見える部分もある。祖父長光の刃だ。そして互の目が終わって凹むところが肩落ちになっている刃が多い。父景光の肩落ち互の目の大型の刃だ。
刃縁の匂口は明るい。そして匂口のふっくらとしているところもあれば、締まっているところもあるが、全体には柔らかい匂口だ。こういう匂口の変化も研いでから鮮明になったところでもある。
もちろん、刃縁に映りが下りてきて、匂口が膨らんだところもある。映りが下りてきても染みない刃もあるのが、研いだ結果わかってきた。
矢筈刃風の刃も一箇所あるが、水神切兼光の押形に、まったく同じ形の刃があった。匂に囲まれた池のような刃も研いだら出てきたぞ。
差裏(本来は差表)は鎺元のところが、映りが入り込んで燃え染みになっているが、ここも以前より良くなった。そこから肩落ち互の目で逆足が繁く入った刃が続く。ここは見事だ。それから中ほどに広直刃の箇所、研ぐ前は直刃と思っていたが、研いだら、直刃というより、微妙な変化のある糸のような刃文だ。そこに、細かい、薄い葉が繁く入っているのだ。研いで良かった。
物打ちから上は、匂口の豊富な働きのある肩落ち互の目調の刃が鋩子まで続き、刃中は葉と足が頻りだ。高感度兼光だ。
<鋩子>
さて鋩子だ。この御刀の鋩子の刃は、くっきりとして見事だ。「鋩子は見事ですね」「本当に兼光らしい鋩子だね」と藤代興里先生と会話する。刃幅もほとんど減らずに返りまで突っ込んでいく。差表は4つの互の目が入って兼光帽子だ。先が匂いで煙って返る。差裏も先はロウソク帽子で、こちらの燃え方の方が勢いがいい。
鋩子にも映り心は出ている。高感度兼光だからだ。
この鋩子を拝見していると、「備前物の鋩子は薄い」とかの言い訳をして、あるかないかわからん鋩子しか見ていない人を可哀想に思う。
<地鉄>
さて、心配していた銀髪線のような地景の有様だが、大丈夫だ。差表の杢目状の地景に乱れ映りの牡丹映り、以前よりは牡丹らしさが減ったが、十分に識別できる。
その近くから、ウネウネと伸びる銀の鉱脈も明確だ。差表は、このように刃に添うような銀髪線の地景だ。不思議で美しい地鉄だ。
差裏は以前もあまり地景は目立たなかったが、詰んだ地鉄の中で板目に沿って、刃に対して縦に入るような地景が見えてきた。研いだ結果でわかったことだ。「こちら側の地景は、こんな感じだったのだ」と認識を新たにする。
自然な感じの板目肌で、一部分の年輪が銀色に変化したようだ。差表のウネウネと伸びていく地景は、木に何かが侵入した後に銀色に変化したような肌で美しい。
今の刀剣界では、地の全面を覆って鉄の輝きを抑えるような細かい粒を地沸と呼ぶが、それも全面に出ていて、オーロラのような映りと相俟って、備前の春霞と言われる肌を形成している。
強靱でありながら、美しい鉄だ。
おわりに
研いでいただいて、長所は益々磨き上げられ、短所(差裏の鎺元の地の荒れたところ、中程の少し地鉄が割れたところ、差表の物打辺や差裏の鎺元の燃え染みが多かったところ)は抑えられたという感じである。見事でありました。厚くお礼申し上げます。
藤代興里先生の技量もさることながら、御刀そのものの出来の良さがあって、それが十分に引き出されたのだと思う。こういうことが研ぎ師の本領だと思う。
藤代興里氏は預かって1年8ヶ月の間、色々と悩まれたとおっしゃっていた。悩まれることで、先生の技量も更に上がったとすれば、私も愛刀家としてうれしい。
研ぎ上がった公鑒兼光を拝見して、「これから、また30年の人生第二幕を生きるぞ」という気持ちが自然に湧き出てくるというのは凄いことだと、改めて思う。