兼光との30年

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30年と言えば、英語のgenerationの訳語の「一世代ー約30年-」です。あなたの誕生を仮に延文年間(1356~1360)とすれば今に至るまで約650年余。私がお預かりした期間の30年は、あなたにとっては、これまでの5%にも満たない、わずかの期間ですが、私にとっては妻と暮らした期間よりも長い期間です。部分的には研ぎたい箇所もあるのですが、研がずとも十分に美しく、魅力的であり、一度も研ぎには出さず、結果としてお預かりしている期間において減らすことはしていないことを嬉しく思っております。

30年間、多くの刀を拝見してきました。良い御刀も目の前を通りましたが、自宅に帰り、あなたを抜くと、あなたの方が素晴らしく、何で今更劣るものを買う必要があるのかと言う気になりました。あなたとは全く作風の違う脇差(薩摩新々刀の元平で、物打ちから上の地・刃が沸で狂っているもの)を一振購入しただけです。無駄なお金を使わないで済んだことにも感謝しております。

あなたはおそらく大名家などの高い身分、豪壮な館を持つ家に伝わってきたと思います。拙宅のような狭い家での暮らしははじめてだったと思います。その意味では申し訳ありませんでした。しかし、今の時世はお金があれば誰でもが名刀というものを買える時代になっております。また昔の身分にしても先祖が乱暴者で武功を立てただけですので、身分・格式の意味の無さについてはご理解いただけると思います。

あなたには伝来した御家において、伝承や切れ味などから異称があったのかもしれませんが、今ではわからなくなっております。銃砲刀剣登録証を発行している県に、昭和26年登録時の所有者を確認しようと問い合わせたこともありますが、個人情報保護という名目で教えてもらえませんでした。こうして伝来という文化が失われております。
そこで私は、白鞘に明治四十四年三月十七日に当時の宮内庁御剣係の竹中公鑒(こうかん)の鞘書があることから公鑒兼光と称しております。
この30年間、あなたは私の心の支えでもありました。名刀を持つにふさわしいかと時に自問すると、忸怩たるものがありますが、支えてきていただいたことに厚くお礼申し上げます。

刀剣の鑑定に不可欠なことを教えてもらいました。また刀剣の鑑賞、あるいは美術の鑑賞の基礎を教えてもらいました。今でもあなたから新たな美を発見し、教えてもらうところがあるのが頭が下がるところです。
あなたの魅力は、地鉄、刃紋、鋩子、姿の全てです。

地鉄は、差表(大磨上げになってますので刀を前提としての差表です)は一点のゆるみもなく、疲れ(時代を経ての研ぎ減り)もありません。差裏は鎺元にわずかに疲れがあり、中程の鎬寄りにほんの少しだけ芯鉄が出たような箇所(地沸がない部分)はありますが、健全さに驚きます。歳を取ると、あなたと脇差の2振を持ち歩くと重たく感じるようになりました。

地の全面に細かい粒(これを刀剣界では地沸と呼ぶそうですが、中には黒い粒を地沸と限定すべきという説もありますが)が沸き立っています。そこに様々な形の霞のようなものがかかっております。これを刀剣界では「乱れ映り」と呼んでいます。備前の肌は春霞とも言われておりますが、まさにこの言葉の通りの柔らかみも感じる地鉄です。(以下、写真は藤代興里氏撮影、押形は重要刀剣図譜に若干補筆)

差表の鎺(ハバキ)元からの地刃。上部は鎬地、棒樋が彫ってある。その下が地。
棒樋に沿って添樋。地は全面に地沸。そこの濃淡において、不規則な白い濃淡に
おける白っぽい部分が乱れ映りとして、鎺(はばき)元から先端まで続く。
その下の真っ白な部分が刃。地との際が刃文。

その地鉄は、種類が違った鉄が絡(から)みあって、捩(よじ)りあって構成されているように見えます。この模様を地景(ちけい)と呼んでますが、あなたの地景が至って美しく、光が違います。まるで銀の線が入っているように見えるものもあります。先人の中には銀髪線と呼んでおられる方もおりましたが、あなたの地景は、髪の毛のように細く、直線的で、太さが一定のものだけではありません。太さも、長さも、輝きも様々な変化に富んでおります。差表の鎺元の上方の地景は、当初は太く、それが徐々に細くなりながらも蛇行をくり返し、20㎝以上の長さを辿れます。刀身に対して縦に短く太く入るものもあり、また細く短く銀糸のように見えるものもあり、中には刀身を貫いて、向こう側から出てきたと思えるものもあり、その美しさと変化の妙に時間を忘れます。杢目状に円弧を描く地景も大小いくつか観られます。

地の中に黒っぽいウネウネした線が地景(写真では沈むが光線で輝く)

肌の鍛えは板目肌でしょうが、それほど目立たず、よく詰んでおります。肌目としてはむしろ杢目肌が目につき、中には地景が杢目肌状になったように目立ち、そこに乱れ映りがかかっている箇所があります。杢目肌状の地景が花芯を表し、その周囲に絡んだ映りが花びらを表すように見えます。そうです、これがあなたの見所として、いにしえの鑑定家が唱えた牡丹映りなのです。この牡丹映りに気が付いたのも20年以上経てからです。古刀は観るたびに発見があると先人が述べている通りです。まだまだ、私の気が付いていないあなたの素晴らしさがあるのかと感じております。

地景で杢目(輪状)になった部分が上下に2箇所あるが、
下部の杢目状の地景が花芯。その周りの乱れ映り(白っ
ぽい部分)が花びらのように見える。
これが「兼光の牡丹映り」

刃も素晴らしい。こんなことを言うとあなたに失礼かもしれませんが、あなたと同じ兼光の中には、匂口が沈むものもあります。その点、あなたは匂口が明るく、柔らかい。
刃の幅は広い方です。ただ刀の身幅が広い方だから、バランスからは頃合いです。

差表の鎺元からしばらくは逆丁字刃が見られます。直逆丁字刃と言う刃文です。そこから逆がかる片落ち互の目刃が少し入ります。父・景光の刃紋を受け継いでいます。片落ちした部分の匂口の柔らかいこと、柔らかいこと。そこから15㎝ほど小足の入った直刃が続きます。この糸を張ったような緊張感のある直刃調も好きです。そして刃中に映りが入り込んで染みになっている箇所に続きます。その上部の物打ち部分は、鉄の感度が非常に良い部分で刃中全面に軽い焼きが入っているような感じがして、そこに葉、小足が細かく繁く入っています。足が入ると言うよりは、丁字刃の頭部分を直調に抑えて、丁字足が繁く入っている直丁字刃です。もちろん葉も散っています。この箇所は祖父・長光からの伝統です。

差表元。白い部分が刃。右側に逆丁字刃、左側に肩落ち互の目刃。

地肌を霞のように覆う乱れ映りが刃中にも入り込んだ刃染みは、刃紋の形を崩し、鑑賞上は欠点ですが、今回、この文章を書くに際して『日本刀大百科事典』の「染み」の項目を読むと、このような刃染みは焼刃渡しのさいの火加減で出来たもので「燃え染み」と言い、地鉄が悪いわけではないから容赦してもよいとされていると言うことを知りました。30年を経っても、こんな状況で、あなたから教わっております。

差裏の刃は鎺元の方は直逆丁字で映りが入り込んで染みとなってます。それから感度が良く刃中に足・葉が繁く入る直丁字、それから中程は直刃、物打ちは、再度感度の良い直丁字刃ですが、そこに大きな肩落ち心の角互の目刃が続きます。

中程の刃

そして、刃の先端部、切先に鑑賞は移ります。切先は大切先と呼ばれる大きな切先です。切先部の刃文は鋩子と言いますが、差表の方は、切先に入ったばかりで一つ匂口の崩れ加減の互の目があり、それから小振りな互の目が2つばかり入ります。刃紋とまったく同じ匂口の明るさで入り込みますから、くっきりと見えます。中には備前物は鋩子(切先部の刃紋)が薄いなどと言う人がおりますが、それはウソであることがわかります。差裏は小型の互の目が3つ入ります。(下図は重刀図譜で画いたものであり、ちょっと違う)
そして先端で匂口が煙り、尖り心に尋常に返っています。そう、これもあなたの作風の見所として、いにしえの鑑定家が唱えた「ろうそく鋩子」です。小丸に返ると品がいいとも評しますが、尖って返っても品格があることをあなたに教わりました。加えて何とも言えない力強さを感じます。この鋩子は拝見していて楽しく、力を私にくれるような感じがして、いつも見惚れます。鑑定家は鋩子の大切さを説いていますが、鑑定に限らず鑑賞においても鋩子を鑑賞して評価できない内は、まだまだだと思っております。

匂で煙るところは表現できていないが、
兼光のロウソク鋩子。

姿は元は2尺6、7寸はあったのだと思いますが、今は大磨上げとなっております。慶長磨上げと呼ばれる体配です。大切先で身幅も広く、豪快です。重ねも厚いです。持つとずしりときます。刀剣書には、あなたの時代の他の諸国の鍛冶の作品は、重ねが薄くなっているとありますが、あなたの重ねは身幅の広さ、刀の長さに見合ってます。これも鑑定の見所とされているようです。

鎬地には棒樋が彫っており、重量を軽減すると同時に、刀身に光りの変化を与えております。添樋もアクセントになっております。

それから、これは私が実証はできないのですが、あなたは古来、切れ味で名高く、刀の実用としての評価も最高位を極めております。
『刀剣名物帳』に所載のあなたの他の作品は、切れ味の良さを表現する異名を持ったものが多くあり、戦国期の武将に愛されたことがわかります。
江戸時代後期には、幕府の御試し御用を勤めた山田浅右衛門が、門人とともに編纂した『古今鍛冶備考』において、切れ味ランクにおける最上位の最上大業物(力仕事で逞しい男子の胴の堅い部分をずばり截断の切れ味を10中8、9示したもの)の首座として選定されております。
刀剣は言うまでもなく、武器であり、その武器としての性能を追求した結果として地鉄の鍛錬があり、焼き刃があるわけであり、「美」とは別の「用」の部でも、最上位に評価されていることを尊敬いたします。
このことも、私に力を与えて頂いている一因と考えております。

あなたとの出会いは、昭和58年。今でもお付き合いをしているH氏と、大京町の藤代松雄先生のところの鑑定会で知り合い、お話をしている内に、H氏が師事された方の遺品に名品があると言われ、同道して拝見したのが始まりです。
そこの御宅の主は本阿弥光遜氏、光博氏に師事された方で、本阿弥光遜氏が田口儀之助さんに超一級品をお世話して、次のクラスの御刀を、取り巻きの一人として購入されていた方でした。
古名刀はもちろん、新刀、新々刀の最上作クラスの御刀が多くありました。今でも時々、その時に拝見した御刀が展覧会や鑑定会で登場します。

今でもH氏とお話しますが、30年経った今、当時と同じように名刀が目の前に並んでいても、刀では、私はあなたを撰ぶし、H氏は尾張徳川家伝来の無銘長光を撰ぶと断言できます。

当時はサラリーマンで、結婚もしておらず、家族は母だけでしたが、金額を聞いた母は驚きました。買おうとしている本人だって清水の舞台からの心境でした。
しかし、刀は他の美術品とは違います。代々受け継いで来た人は命を託してきたのです。だから名刀ならば持ち主を守るはずとの信念で、舞台から飛び降りました。

本当に良かったです。心の支えになったばかりか、美意識の基礎(名刀とはかくなるもの)、精神の誇り(刀の中でも美的には古刀最上作と先人が認め、実用的にも最上大業物としてプロの試刀家が認定)を得ることができました。

本当に、その御刀を愛好するのであれば、白鞘のままではなく、拵を造るべきなのかもしれません。あなたの格に見合う刀装具も所持しておりますが、拵として造り上げるには、拵の知識が十分になく、私には自信がありません。そういうことですからご容赦をお願いいたします。

ちなみに、私の志水甚五(仁兵衛)の梟の鐔も、この御宅から購入したものです。私のHPの表紙に掲載しても飽きないもので、名品はそういうところからしか買えないと言うことです。
刀剣と違って、刀装具収集は遍歴しております。名品も多く手に入れております。しかし、自分の好みは志水甚五(仁兵衛)の作品に帰着するのかなと最近は感じております。

この30年の刀剣・刀装具遍歴は何だったのかと思います。30年前から眼は進歩していないのでしょうか。そうかもしれませんが、素直な気持ちでの第一印象からくる感性とは、当初から人間には備わったものなのではないかとも感じております。そうであるにもかかわらず、「見果てぬ夢」の幻想に取り付かれていただけのような気がします。

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