虎徹に関する確認したい話

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今度、佐野美術館で「虎徹と清麿」展が開催される。06年6月の日刀保東京支部でも藤代興里氏の虎徹の師に関する研究発表があった。

今回、取り上げるのは、私が信頼している刀剣界の人物から、50回重要刀剣指定の虎徹の脇差に関して、次のような話を聞いたからである。

『虎徹大鑑』のNO222に下左図の「いおき入道はことら」銘の脇差が所載されている。問題は「寛文五年十二月二十五日 山野勘太郎永継(花押) 弐ツ胴切断」の金象嵌銘である。この切断銘の「寛文五年」が「寛文十年」に改ざんされて、重要刀剣(第50回)に指定されていると言うのが、その人の指摘である(下中図)。

そして更に問題なのは重要刀剣図譜に、このことはおろか、鍛冶平の後象嵌ということも一切書かれていないということだ。(なお、この刀は「愛刀」平成17年12月号に出品されているので、その時の押形も下右図に掲示する)

この切断銘に関して、『虎徹大鑑』の説明に「鍛冶平押形によって彼の後象嵌であることがわかると同時に当時の虎徹研究の幼稚さも証明されるものである」と次の理由から明記されている。

  1. 『虎徹大鑑』執筆当時には、虎徹は銘字の研究が進み、この虎徹の銘振りは寛文12年頃の作品と判断されて、説明文の「時代」の項目に明記されている。刀が作られるより前の寛文5年の切断銘はおかしいことになる。

  2. 私は未確認だが、鍛冶平押形に、鍛冶平こと細田平次郎直光が象嵌銘を入れたことが書かれていることを『虎徹大鑑』の編者は確認している。

(虎徹大鑑No222,273頁)
切断銘 鍛冶平後象嵌、寛文5年

長さ55.5p、反り0.96p
元幅2.8p、先幅2.1p
鋒長3.3p、茎長14.2p
(第50回重要刀剣図譜)
切断銘 寛文10年

長さ54.5p、反り0.9p
元幅2.75p、先幅2.0p
鋒長3.3p、茎長14.3p
(愛刀355号2005年12月)
切断銘 寛文10年

同左であり、省略(記載は尺貫法)

なお、金象嵌切断銘は刃紋と同様に押形では取れず、後で観て書き入れる為に描く人によって相違がでる。このことは、明らかに同じものである重要刀剣図譜(中央)と愛刀(右)の切断銘の違いを見れば理解できよう。(それぞれの写真があれば明確になるのだが)

また長さ等も異なっているが、これも測り方によって若干の差がでるものである。(ただし『虎徹大鑑』のものと、50回重要刀剣が異なるものだと言う反論の材料にはなる可能性はある)

残念ながら刀剣の世界は「だます、だまされる」の話は多い。一振りずつの価格が決まっているものではなく、高い、安いは個人の主観によるものだし、また真偽も工房作の問題や現存する刀が少ない場合の銘や作風の変遷をどう判断するかの問題もあり、見方によっては異なるのも事実と思う。(私は、この意味で日本美術刀剣保存協会の「保存」「特別保存」がつかないと、すべてが偽物という風潮にも疑問を感じている)
だから、この手の話は仕方がないと思うのだが、以前にこのHPでも取り上げた延寿国村もそうだが、モノを改変・改ざんする行為には嫌悪感を感じる。後世の研究者によって今以上に研究が進むことがあるんだから、できるだけ文化財として保存すべきと考えている。

まず『虎徹大鑑』所載222の脇差と、50回重要刀剣に指定された脇差が同一の脇差かどうかを確認する必要がある。情報を提供していただいた方は「同一である」と断言されていたが、私は現物はともに拝見していないものの、次の理由から同一であると思っている。

  1. 『虎徹大鑑』を引っ張りだして、改めて所載品の銘を、この銘と比較して見てみたが、中心の形、銘の位置も含めて、ここまで同一のはない。

  2. この2振に共通する切断銘は写真が残っていればすぐにわかるのだが、寛文の年紀が違うだけで、他は十二月二十五日まで共通するというのも信じがたく、同一品の可能性が高い。

  3. また切断銘における切り手の山野勘太郎銘は『虎徹大鑑』にも、鍛冶平後銘のこの一振だけである。山野家は永久、久英が試刀家として名高いが、家系は『日本刀大百科事典5』によると、山野加右衛門家久→不明→加右衛門永久→勘十郎久英(成久)→新助(後に吉左衛門)久豊と続き、享保4年に久豊が弟の頼蔵を養子にするも、幕府は試し役として認めず、以降、山野家は小普請役に編入されたとある。「勘太郎永継」は鍛冶平の創作と考えられ、他に正真銘が残っている可能性は少ないと思う。

もし、別のものであると証明されると、鍛冶平後銘の改ざんは否定されても、次の研究課題が残ることになる。

  1. 『虎徹大鑑』時代の研究では、この銘字は寛文12年頃と推測されている。非常に似ている重要刀剣の銘字が、切断銘にある寛文10年であることを踏まえると、論理的におかしくなる。銘字研究が更に進んで、この手の銘は寛文10年頃とされるようになったのであろうか。

  2. 上記でも指摘したが、そもそも「山野勘太郎永継」は本当に実在したのであろうか。山野家の名乗りにおける通字は「久」であり、疑問である。

次に、同一の脇差であったものを、金象嵌切断銘(鍛冶平後銘)の一部を改ざんしたものであるならば、次の点を明らかにすべきと思う。

  1. 重要刀剣に指定する時に、協会関係者は『虎徹大鑑』を確認せずに、見逃したのか。(ミスは誰にでもあることである。虎徹は偽銘が多く、しかも高額品であり、一方で研究も進んでおり、真偽の判定には誰もが慎重になる刀工である。また切断銘で多いのは山野加右衛門、山野勘十郎であり、山野勘太郎はほとんどなく、『虎徹大鑑』222号は眼に止まると思われるのだが、ミスとはそういうものである)

  2. あるいは知っていても、重要刀剣図譜に特記するほどのことはないと判断したのであろうか。(知っていて書かないとは考えにくいから、この可能性はないと思うが)

  3. さらに研究が進み、この鍛冶平後銘が当時のものと判断されるような事実が出現したのであろうか。これであれば、その由も特記されてしかるべきと思うが。

また、同一の脇差であった場合は日本美術刀剣保存協会の重要刀剣指定制度にも改善課題があるのかなとも思う。
今の重要刀剣の制度の詳細までは承知していないが、金象嵌切断銘でも後銘であることが重要刀剣に指定できない理由になっているのであれば、その内規を改めて、切断銘が鍛冶平の後銘であると明記することで指定してもいいのではないかと思う。(美術刀剣であり、美術的価値が高ければ良いと思う。他の美術品でも後代の補筆を認めながら評価している。また刀剣史において偽銘を研究の対象にする人も出てくると思うが、その場合、鍛冶平押形にもある後銘は一つの資料となる。)

私も「愛刀」の誌上で見た時に切断銘が後銘とか改ざんされているなどとは少しも思わなかった。この思いは私に限らず「愛刀」の編集部も同様と思う。それは財団法人日本美術刀剣保存協会が指定する重要刀剣に対する信頼感があるからだと思う。

もし同一の脇差で、象嵌銘が改ざんされていると明確になった場合は例え単純なミスであっても、日本美術刀剣保存協会の信頼回復をお願いしたい。50回重要刀剣図譜と証書を回収して発行し直すことぐらいまで検討すべきではなかろうか。

『虎徹大鑑』を編集した本間薫山氏、佐藤寒山氏は嘆かれると思う。幕末の鍛冶平に対して「当時の虎徹研究の幼稚さ」と言い切ったにも関わらず、その時点よりも虎徹研究は退化して、鍛冶平に笑われる事態になるからである。

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