はじめに
鉄の透かし鐔の中ではかなり古いものと考える鐔を紹介したい。「車透かし鐔」で地は槌目地。丸形でわずかに縦長、やや中低の造り込みである。切羽台が長く、切羽台の先がやや尖り気味(=下部の方に脹らみ)である。また櫃孔は、小柄櫃も笄櫃も同じ半円形である。
(単位はミリ)縦81.2、横80.9 槌目地で耳、切羽台に凸凹もある 耳厚5.3~5.9、切羽台厚は 4.5~5.3、切羽台長は47.8、 小柄櫃17、笄櫃17.6 |
車のスポーク部分(日本語では輻(や)と呼ぶ)は16本である。詳しくは後述するが、地鉄が良い鐔で作品としても優れているが、今回は古さに焦点を当てて、紹介していきたい。
この透かし模様である「車透かし」は、鐔に文様を透かすことを考えた際に、はじめに思い付くデザインのようで、古墳時代の剣の鐔も卵形ではあるが「車透かし」だ。いわば透かし鐔の原点となる図である。
このことは『鐔』(小笠原信夫著)で触れられ、「武士の意匠-透かし鐔 古墳時代から江戸時代まで」(佐野美術館・町田市立博物館)の中でも展開されているが、よりわかりやすく書いてみたい。
「金銅製倒卵形鐔」スポーク部分(輻(や))は8本
群馬県出土の古墳時代(6世紀後半)の金銅荘圭頭大刀(こんどうそうけいとうたち)の鐔 |
少し飛んで、南北朝時代になると、我々は教科書で足利尊氏像と習った騎馬武者が、肩に掲げている大太刀の鐔が車透かしだ。
京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像」(重要文化財)より、鐔がわかる ようにトリミング 古来、足利尊氏像として伝わるが、近年は、2代将軍義詮の花押が 像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違 の紋が足利家ではなく高家の家紋であるなどの理由から、像主を 高師直や、その子師詮、師冬とする説も出ている。 反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが 本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたと いう記録が残ることから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある。 |
また南北朝時代の作とされる金銅柏文兵庫鎖太刀(中身は康次)の鐔は「車透かし」鐔(金銅製)である。切羽台が細長く、上部が尖り気味である。太刀鐔であり、切羽台の刃部を下に掲示すべきであるが、他の鐔との比較の為に下図のようにしている。
「車透かし鐔」(金銅製)(縦111.4ミリ、横109.5ミリ、厚さ6.7ミリ)スポーク 部分(輻(や))は21本 金銅柏文兵庫鎖太刀(中身は康次)に付属する鐔(春日大社蔵) 銀鍍金で、車輪の輪は牛車を忠実に写している。 (「武士の意匠-透かし鐔 古墳時代から江戸時代まで」(佐野美術館・町田市立 博物館)より) |
「車透かし」鐔ではないのだが、同様な図柄「菊花透かし」鐔として、早い時期の透かし鐔として、諸書に掲載されているのが、下図である。やはり切羽台が細長く、上部がやや尖り気味であることがわかる。
「菊花透かし鐔」(縦102ミリ、横100ミリ、切羽台厚さ3.0ミリ、耳厚3.2ミリ これは鉄ではなく山銅の磨地である。太刀金具師としている本もあれば、 古甲冑師としている本もある。 上杉家に古くより伝来した鐔で、室町初期頃の作とされている。 (『透し鐔』(小窪健一、笹野大行、益本千一郎、柴田光男 著)の巻頭より) |
南北朝~室町初期から一挙に飛ぶが、戦国時代から安土桃山時代になると、「車透かし鐔」が流行したのではないかと考えている。まず佩刀状況がわかる肖像画として前田利家画像がある。ここにおける差料の鐔は「車透かし」である。
前田利家は若い時は「かぶき者」であったと伝わる。これは晩年の姿である。
前田利家画像 桃山時代 紙本著色一幅 縦60・0横38・0 (個人蔵) 前田利家に限らず、功成り名を遂げた武将の肖像画の多くは束帯姿であるが、 これは平服で珍しいものとされる。 戦前の国史の教科書にも挿図として紹介されていた著名な肖像画である。 石川県指定文化財。 所持する方の先祖が利家と親交があり、直接拝領したとの伝えが内箱蓋裏 銘文にある。 (「ー春期特別展ー肖像画にみる 加賀藩の人々」石川県立歴史博物館 平成21年4月より、解説を引用) |
徳川家康から紀州徳川家に伝わった名物「分部志津」の拵の鐔も、「車透かし鐔」であり、私の所蔵品と似ている。ちなみに紀州藩主徳川頼宣は、この拵の写しを作り、普段はそれを使用していたようだが、写しの鐔も同様の「車透かし鐔」(縦84ミリ、横83ミリ、厚さ6ミリ)で、それは両櫃孔が無く、車のスポーク部分(輻(や))は24本であり、厚手である。
「車透かし鐔」(縦84.5ミリ、横84.5ミリ、厚さ4.5ミリ) 車のスポーク部分(輻(や)は17本 蝋塗打刀拵(天正拵)で中身は分部志津 (個人蔵) 名物の分部志津の拵で、徳川家康の差料であり、紀州家の頼宣に譲られた ものである。 この鐔の鉄味は、「桃山時代の堀河ものの刀の茎に似ている」とある。 (「武士の意匠-透かし鐔 古墳時代から江戸時代まで」(佐野美術館・町田市立博物館)より) |
桃山時代の名鐔工の信家、法安、山吉兵は次のような車透かしを造っている。法安は2枚掲載したが、信家、山吉兵も数枚の車透かしが現存しており、それぞれに作柄は違っているが、大きな傾向は共通する。それぞれ魅力的な「車透かし鐔」が多い。
信家 | 銘「信家」 (個人蔵) 車透かし鐔(縦87.1ミリ、横82.8ミリ、厚さ6.1ミリ) 車のスポーク部分(輻(や))は12本 石目地に唐草文を線彫りしている。 (「武士の意匠-透かし鐔 古墳時代から江戸時代まで」(佐野美術館・ 町田市立博物館)より) |
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法安 | 銘「法安」 (東京国立博物館蔵) 車透かし鐔(縦85ミリ、横80.5ミリ、縁厚さ4.7ミリ、切羽台厚さ4.3ミリ) 車のスポーク部分 (輻(や))は10本 車輪を厚く、軸を薄くし、車輪には虫喰いを意匠化している。 (「武士の意匠-透かし鐔 古墳時代から江戸時代まで」(佐野美術館・ 町田市立博物館)より) |
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法安 | 銘「法安」 車透かし鐔(縦78ミリ、横75ミリ、切羽台厚さ4.0ミリ、耳厚さ4.5ミリ) この鐔は紫錆である。焼手腐らしの手法で網のようなものを出している。 尾張物の研究家金森一吉翁の遺愛品 (『透し鐔』(小窪健一、笹野大行、益本千一郎、柴田光男 著)より。法量は 『透鐔』笹野大行著より) |
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山吉兵 | 銘「山坂吉兵」 車文鐔(縦91ミリ、横80ミリ、厚さ不明 車のスポーク部分(輻(や))は 8本 槌目仕立の鉄地に点々と鉄骨をあらわして、鉄味を一層味わい深いものに している。斬新さがあり、打刀拵にかけると一層引き立つ鐔である。 (『鐔の美』のコメント) (『鐔鑑賞事典 上』(佐藤寒山監修、若山泡沫編集代表)より) |
また埋忠明寿も車透かし鐔を作成している。これは車のスポーク部分(輻(や))が同じ太さで細いが、車輪に象嵌をして装飾的である。形は長丸形(縦丸形)になっている。
明寿 | 銘「埋忠明寿」重要美術品 法量 不明 車のスポーク部分(輻(や))は16本 象嵌が車輪に施されている。 (「刀剣美術」 通巻7号口絵より、同し鐔は『日本の拵』小笠原信夫著にも掲載) |
2.いつ頃の車透かし鐔か
以上の同種の「車透かし鐔」の比較から、所蔵の「車透かし鐔」の製作時代を推定していきたい。時代推定の鍵としているのは切羽台の形、大きさと櫃孔の形状である。切羽台の形状は上述した「車透かし鐔」の流れにおいても時代に応じて異なっているのが理解されると思う。
これは切羽台、櫃孔が外装に直接関係しており、外装が刀身の保護という機能面だけでなく、個人の嗜好が反映され、その個人の嗜好は時代の流行とは無縁でないからと考えられる。
この他の要素として、鐔から受ける印象も加味している。科学的でないと言われれば、反論はできないが、一つの考え方(仮説)としてご理解いただきたい。
まず、南北朝時代(金銅製)の「車透かし鐔」は切羽台が非常に細長くて、先が尖り気味である。
次に、室町時代初期(山銅製)と伝わる「菊花透かし鐔」も同様に切羽台が細長く、先はやや尖り気味である。
また上記の2鐔は大きさが10㎝以上ある。小柄、笄の櫃孔も無く、材質は鉄ではなく、金銅、山銅である。
これに対して所蔵の鐔の切羽台は、非常に長いが、それほど細くはなく、先も尖り気味(下部が膨らみ気味)ではあるが、上記鐔ほどではない。また大きさは8㎝程度である。そして鉄鐔であり、小柄、笄が同形の櫃孔を持つから、上記の2鐔の南北朝期や足利時代初期(応永元年=1394~)よりは時代は下がると考えられる。
鉄の透かし鐔が、古来の言い伝えのように「足利義教将軍の時代(正長元年=1428~永享、嘉吉元年=1441)から」というのであれば、やはり足利中期以降となるのであろう。
一方、桃山時代(美術的視点からの桃山時代であり、政治的な意味の江戸初期も含む)の明寿、信家、法安、山吉兵は、前掲写真から判断すると、力強いデフォルメ、優雅な装飾など、より作家意識が出ていると言える。
以上のような個性を発揮して製作した桃山時代に比較すると、所蔵品のデザインは昔のままであり、また桃山時代の名工の在銘鐔は切羽台が太く、丸味を帯びているのが目につき、所蔵品とは形が大きく異なっている。そういう点で桃山時代(天正四年安土城=1576~)までは下がらないと思う。
徳川家康所持だった分部志津の鐔とは、櫃孔が左右同形で半円形である点などで似ているが、分部志津の鐔も、スポーク部分(輻(や))は車輪側(外円)にやや幅広で変化がある(輻(や)が外円に向けて幅広なのは南北朝期の鐔にも見られるから時代とは関係はなく、作者あるいは時代の好みだと思う)。そして切羽台は分部志津の鐔は尋常であり、より桃山時代の方に似ている。このようなことから、分部志津の鐔よりも古いと思う。
所蔵品 縦81.2ミリ、横80.9ミリ、耳厚5.9ミリ |
分部志津の鐔 縦84.5ミリ、横84.5ミリ、厚さ4.5ミリ |
伊藤満氏に観ていただくと、「古い鐔だが、櫃孔が、あまり平たくないから天文頃(1532~1554)ではないか」とのご意見であった。一理あるが、私は櫃孔が後世に切羽台の方にかけて広げられた可能性もあると考えている。櫃孔の切羽台側に当金を加えたと想定して、写真を加工して、参考として、尾張鐔の初期の名品とされている「花弁透かし鐔」と比較すると次図の通りである。地の作り込みは、ともに槌目地である。花弁透かしは耳が5.6ミリ、切羽台が5.2ミリである。所蔵品も耳厚は5.3~5.9ミリ、切羽台厚は4.5~5.3ミリで、ともにやや中低の造り込みである。地の仕立ては槌目地で同様であるが、所蔵品はより平肉を削いでいる感じがある。
所蔵品の櫃孔に当金を加工 | 尾張 花弁透かし鐔 『透し鐔』(4人共著)の巻頭2頁 |
この名品と比較すると、櫃孔の形状は大差がないが、切羽台は長い。切羽台の長さでは「所蔵品」>「花弁透かし鐔」>「桃山期名工の鐔」となる。だから「花弁透かし鐔」よりも古く、室町時代中期の、鉄の透かし鐔の黎明期に近い(寛正頃=1460)か、下がっても室町時代後期に入った頃(文明=1469~永正=1504~1520)のものと、私は判断している。
3.鉄鐔の時代設定
以上のように記しているうちに、鉄鐔の時代設定を刀の時代とリンクさせて考えるのも面白いと思うようになった。刀の名工が出た時代に、鉄鐔の名工も出たと考えるのはどうだろうか。
鉄鐔の名工が出現したのは、桃山時代である。この時、刀剣は慶長新刀と呼ばれる時代を画する名工が出現している。では、その前の時代はどうであろうか。時代の変遷がよくわかる備前を例に考えると、室町時代は盛光、康光の「応永備前」からはじまる。次は大きく分けると、応仁の乱以降の「末備前」になるのだが、細かく見ると寛正則光、祐光の「永享・寛正備前」となる。次いで右京亮勝光、宗光、忠光、与三左衛門尉祐定の「文明・永正備前」、それから祐定、清光の銘は同じだが俗名で異なる多くの刀工による「末の末備前」となる(この末期に「新古境の末備前」も入るが)。
「応永備前」には寸の延びた平造脇差や、鎬造りの脇差も出現しており、鉄鐔に関係する打刀拵を考える時には大事な時期だが、鉄の透かし鐔の出現は「足利義教将軍の時代(正長元年=1428~永享、嘉吉元年=1441)から」との伝承を尊重して、応永頃は古甲冑師鐔、古刀匠鐔、山銅鐔などであったとしておきたい。
すると鉄の透かし鐔が出現した足利義教将軍の時代とは「永享・寛正備前」の鍛冶の時代となる。私の「車透かし鐔」はこの時代で、刀工で言えば則光、祐光である。これら鍛冶は小振り、細身のものが多く、地味な時代である。「応永備前」に似るが、先反りが少し強くなる感じである。
次の「文明・永正備前」は名工が出現する。出来に差が大きいが、勝光の草壁打ちのように非常に魅力的な刀が生まれている。鉄鐔においても、尾張の「花弁透かし鐔」のような巷にある尾張、金山の名品は、この時代に造られたのではなかろうか。この時代は備前以外でも美濃に兼定(ノ定)、孫六兼元、兼常などの名工が出現している。
「永享・寛正備前」「文明・永正備前」においては、日本刀が中国・明への輸出品として大量に製作された。このようなものは量産品で、それなりのものである。
次の「末の末備前」は量は多くなるが、質は注文打ちを除いて劣る。鉄鐔も同様なのではなかろうか。
乱暴な推論ではあるが、こう考えると、尾張、金山、京の名品レベルから、つまらん尾張、金山、京までの存在もわかりやすい。
桃山時代の慶長新刀に匹敵する桃山時代の鐔工(信家、法安、山吉兵、明寿、彦三、又七、甚五、勘四郎等)出現の後はどうなるか。
刀では寛永にも上工はいるが、寛文新刀の時代が刀における名工出現の時代となる。肥後は前代に続いて名鐔工が出現し、古赤坂の名品や、柳生鐔の本歌が生まれる。
金工品は、刀剣の時代とは無関係である。こちらは改めて考えたい。今回は鉄鐔、それも透かし鐔に限っての推論である。
4.鐔の作者
この鐔には日本美術刀剣保存協会の特別保存刀装具で「古正阿弥」として指定されている。
古正阿弥は、手元にある『透し鐔』(小窪健一、笹野大行、益本千一郎、柴田光男 共著)、『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)、『透鐔』(笹野大行著)、『刀装小道具講座 5 京都金工編』などの諸書の記述をまとめると、次のような特色を持つと記述されている。(古正阿弥と正阿弥の違いは、古が付くと、室町期、桃山期という時代で、つかないと江戸期という差)
耳は小肉のある角耳。丸耳もある。
透かしは尾張が左右対称、上下対称が多いのに対して、動きのある図柄が多い。
切羽台は楕円形によく整い、広め。櫃孔は横幅が広く、巧み。ずんぐりしている感じである。
地鉄は鍛え良好で、重ねはやや薄い。槌目仕立てもある。
これに対して、この鐔は地は槌目地、スパッとした角耳で、厚くも薄くも無い厚みであり、耳から切羽台にかけてやや中低である。切羽台は非常に長いが、先の方がやや尖り気味であり(下部の方が脹らみがある)、古正阿弥の特色(楕円形によく整い、櫃孔は横幅が広く、ずんぐりしている)に当てはまらない。
耳に一箇所、太め(幅2ミリ程度)の筋状鉄骨(長さは7ミリほど)がぼんやりと出ている。金山鐔の粒状鉄骨、塊状鉄骨、赤坂鐔の線状鉄骨とは違う鉄骨である。尾張骨という言葉で説明を受けた尾張鐔の鉄骨と似ている(ただし尾張骨という言葉の定義も、形状も識者によって違うようで明確ではない。このような筋状の鉄骨を言う人もいれば、昔は細かい区分無しに、鉄骨は皆、尾張骨と言ったという人もいる。ちなみに尾張鐔の名品の多くを手に取って拝見されている伊藤満氏は尾張鐔は鉄骨は少ない方で、穏やかな塊状の鉄骨が主で、たまに線状のがあったと述べている)
透かしは左右、上下対称である。すなわち、従前からの流派区分の定義に従えば「古正阿弥」よりは「尾張」と極めるのが妥当である。伊藤満氏も尾張鐔という見解である。
ただし、私は、古い鉄の透かし鐔を「尾張」、「金山」、「古正阿弥」、「京」、「古萩」という名称で、全てを分けるのは無理があると思っている。「正阿弥」だけは室町、桃山時代と思われるものを「古正阿弥」としているが、「尾張」「金山」「京」は、それぞれに室町時代から江戸時代の元禄頃までを含めて極めているのだから、いい加減と言える。
鐔よりも製作が難しい刀では、室町後期には「末備前諸流」と「末関諸流」が2大産地だが、全国には「月山」「下原」「「末相州」「島田」「山村」「宇多」「薬王寺」「藤嶋」「千代鶴」「下坂」「千子」「若狭冬廣」「金房」「古水田」「道祖尾」「末三原(貝三原)」「法華一乗」「二王」「海部」「大石左」「平戸左」「末延寿」「高田」「末波平」と多くの流派が存在している。鉄鐔だって同じと考える方が自然であろう。
戦国期の名のある武将が佩刀した拵(天正拵、慶長拵)に付いている鐔には、俗に言う「尾張」「金山」「京」の名品は付けられていないのが実態である。古甲冑師、古刀匠、山銅鐔、平安城象眼鐔、与四郎象嵌鐔、信家、古正阿弥以外は、どことも極め難い鐔が多い。明智拵、助真拵も同様に”尾張+甲冑師風”である。尾張徳川家にある名物鐔「あけぼの」「残雪」も写真で拝見すると何の変哲もない鐔である。ここで紹介した分部志津の「車透かし」鐔も、そのような鐔の一つである。
分部志津の「車透かし」鐔は、若山泡沫氏の『刀装小道具講座1鐔工編』には「尾張透鐔」の章において紹介されているが、そのコメントに「系統的には尾張透鐔に属するものであるが、手法的には画一的に決めにくいものである」と正直に書かれている。(ちなみに、ここでは徳川家康所用の鐔と、紀州徳川頼宣所用の鐔を取り違えている)
いずれにしても、「尾張」、「金山」、「古正阿弥」、「京」に在銘品は1枚も無いわけであり、ここで「古正阿弥」ではなく「尾張」だと言っても、結論は出ない。また私にとってはどちらでも構わない。私は、この鐔の古そうなところに惹かれて購入したのである。
だから「古正阿弥」でもいいのだが、現在、言われている「古正阿弥」の鑑定の見所とは大きく異なる特色があって誤解されるといけないから、ここでは「室町古鐔」としておきたい。
私の所蔵品の古い鐔と比較すると、切羽台の細長い点と、その切羽台が鑽(たがね)で削がれている様子は京透かし「将軍草透かし」とよく似ている。ともに時代が古い一つの証左である。
鉄の質は尾張「桐・三蓋菱透かし鐔」に似ているが、磨地と違って槌目地だから光の反射が少し違う。
金山「松皮菱透かし鐔の鉄質は、もう少し肌理が粗いが、そこに光沢が強い鉄骨が交じる感じである。信家の鉄と似た面があり、別種の魅力に満ちた鉄である。
5.鑑賞
この鐔の魅力の一つは地鉄である。深みのある黒錆びの肌はねっとりとした強い光沢がある。私が所蔵している尾張「桐・三蓋菱透かし鐔」に鉄色は似ているが、片や磨地で、これは槌目地であり、印象は異なる。槌目地の方が地に変化があり、その分、強い光沢も場所によって変化がある。
造り込みはスパッとした角耳で、耳に丸味はない。京透かし「将軍草透かし」も角耳だが、こちらの方には、耳にわずかに膨らみがある。だから耳を摺ったとも疑ったが、耳の側の鉄も、それなりの変化もあり、耳の一箇所に太い線状鉄骨が出ており、うぶな耳と思う。耳の印象は無駄を削ぎ落とした武骨な印象を感じる。
地は槌目地であり、細かい凹凸が変化となって、整っていない面白さがあって、力強い。ただ平肉はない。
切羽台は鑽(たがね)で幅広く責められて削がれており、そこに素銅のハバキを切り取って嵌めたような責金が入れてある。この責金の角は立っており、なれていない分、そんなに古い時代に入れたものではないだろう。この切羽台は大きく、削がれているので野趣がある。京透かしの「将軍草透かし鐔」も削がれているし、また尾張の名鐔「花弁透かし鐔」も同様に削がれており、古い時代のものを何度も刀を替えて使用した結果であろうか。荒々しい印象を与える。
透かしは16本のスポーク(輻(や))で左右対称・上下対称でもあるが放射状である。真横のスポークは切羽台を挟んできちんとした直線だが、他は切羽台を挟むと、直線にはならない。埋忠明寿の「車透かし鐔」も同様である。
透かしは鏨(たがね)などを使って抜いているのだと思うが、鑢(やすり)で丹念には整えてはいない。スポーク部分の透かしの切り立て部分が垂直でなく、また幅にわずかな広狭があるスポークもある。こういう点は技術的には劣るのだろうが、それが野趣になっている。
車輪のスポーク部分(輻(や))が信家、法安、山吉兵のように車輪に近い部分が太くなっていない分、細くて華奢というか無駄を削いだような感じであり、強調されてきた力強さが減殺されて京透かし鐔のような優美な感じも残っている。これが時代の感覚(桃山時代の豪壮さではない、室町時代の感覚)なのかとも思う。古刀匠、古甲冑師、京透かしにしても、古いところは優しい感じを与えるものも多い。
また車輪のスポーク部分(輻(や))が直線的であるので、切羽台を光源とする光線のようにも見える。阿弥陀如来の光背のような感じでもある。尾張透かし鐔の良いものに見られる、外へ外へ働く感じと共通している。
すなわち、古びた武骨さ、野趣に、無駄を削いだような質実さが加わり、そこに優美さが混じっている。これが造られた時代の美意識なのかと思う。
前章でも分部志津の鐔や、桃山時代の「車透かし鐔」と比較したが、改めて横並びに比較すると次の通りである。
所蔵品 | 分部志津の徳川家康所用鐔 |
桃山時代の在銘の「車透かし鐔」との比較は次の通りである。信家、法安、山吉兵は力強く、魅力的であり、明寿は華やかである。
信家 | 法安 | 山吉兵 | 明寿 |
これらの「車透かし鐔」の比較をしたあとに次のようなことを考えた。
「車透かし鐔」は伝統的な透かし模様であり、紺のブレザーのようなトラッド・ファッションだ。
トラッドにも、流行の変化は来る。2つボタンを3つボタンにしたり、襟の幅が変わったり、センター・ベンツからサイド・ベンツにしたり、生地の色合いや織り方なども変化する。
分部志津の「車透かし鐔」はスポーク部分(輻(や))の先を少し広げ、その太さも信家、法安、山吉兵のように輻(や)ごとに均一ではない。切羽台も尋常の大きさにしている。この点で所蔵品の「車透かし鐔」は切羽台が長過ぎて、当時の鞘には合わず、少し、もっさりしたものになったのではなかろうか。タヌキ親爺の家康公のファッションの方が、少しトレンディだったと思う。
銘を切る鐔は、デザイナーズ・ブランドのファッションのようなものだ。桃山時代には力強いファッションも好まれた。それを愛好する男は信家、法安、山吉兵風の「車透かし鐔」を好んだと思う。また桃山時代の華やかさを愛好した男は明寿の「車透かし鐔」を身につけたのだろう。私の「車透かし鐔」は質実剛健な男が好んだのではなかろうか。
今の時代でも信家、法安、山吉兵の力強さは、わかりやすく、魅力的である。それに対して私の所蔵品は、図柄がトラディショナル(伝統的)で単純なだけに「素朴さ」を感じる。また地鉄は槌目で凸凹があり、面白いのだが、この面白さを堪能するには、透かし部分が多過ぎて、地鉄部分が少なくてモノ足らない。そして、無駄を削いでいるような武骨さ・野趣に「内面的な強さ」を感じるのだが、細い透かしであり、何となくそこに「優美さ」が漂って、わかりやすい「外面的=肉体的な強さ」は感じない。こういう点を面白いと思うか、逆に戸惑いを感じるかである。
私は、この鐔の無駄を削ぎ落としているような造り込みや地鉄の深さに質実剛健という印象と同時に禁欲的な印象(ストイックな印象)も感じる。桃山時代にはキリスト教信者も多い。あるいは禅宗に帰依した武士もいただろう。そのような武士が、ファッションのトレンドを求めながらも選んだ鐔のような印象も持つ。
また私のような小太りの人間が佩用するよりも、筋肉質の人間が持つ方がふさわしいのかなと感じる。
あまり、このような印象を書いていくと、読者は呆れるだろうから、ここで止めたいが、美術品を自分のものにしたら、それとの対話は楽しみである。人間は見ているようで観ていないのだ。観たと思っても、心に兆す感情は時々に変化する。その心の動きも、観る行為には反映されるはずである。自分のものにしたら、どうしても欲目が出てくる。それは客観性を奪う。自分の教養の底が浅ければ、それが目に反映されてしまう。自分の審美眼以上には見えない。そして名品は審美眼を向上させてくれる。
何度も観ないといけないが、何度も観ると、欠点も見えてくる。この鐔も、古いだけに裏は少し摺ったのかなと感じるところもある。鐔の切り立て部分も手入れのし過ぎかなとも感じる。
ある方が、この透かしは、スポーク部分を透かしたのではなく、嵌め込んだ工法ではないですかと言われ、精査もした(そのような手間のかかることはしていない)。
前述したが、耳は摺ったのではないかと疑念を感じたこともある。
ただ、欠点を探す姿勢よりも、美点を探す姿勢の方が趣味人としてはいいと思う。欠点を探したら、古いモノは買えない。刀で言えば、古刀は研ぎ減り、傷、欠点をある程度許容しないと買えないのだ。
私やあなたも、長所もあれば短所もある。欠点、短所を美点、長所で補って生きてきたのだ。欠点、短所と長所は表裏一体という面があり、短所を直したら長所が消えることもあるのだ。部下だって長所を生かして使ってきたのだ。
私は、この鐔を購入した時から「古正阿弥」と特別保存が付いているのを承知しており、前述したように「古正阿弥」でも「尾張」でもどうでもいいと思っている。しかし「尾張」と思っていて、審査にだして「古正阿弥」となれば、そこで悩む人もいるだろう。自分の鑑識眼を否定されるように感じるかもしれない。
購入して、自分のモノにして、よく観ると、このような心のさざ波は生ずるのだ。ある識者が「買った時は100%良いと思って購入する。買ったとたんに確信度が90%になる。あとはここから確信度が下がるか上がるかだ」と言われたが、この通りだと思う。買わなければ、こんな悩みは生じない。高い金を出して、悩みを背負い込むのが美術品収集だ。
だけど、このような悩み以上に美の素晴らしさを教えてくれるのも美術品収集なのだ。
私の鑑賞記は個人的なものであるから、どうでもよく、また最後は筆が走って、余計なことまで書いたが、この鐔は時代の上がるものであり、透かし鐔の歴史を考える時に大事な資料になると思う。