無銘「蜂図」目貫
当初は土屋昌親と観たが、今は如竹の娘彫りか?

所蔵品の鑑賞のページ

はじめに

六世安親=土屋昌親の大小縁頭を紹介した時に、私が学生の時に入手した土屋昌親と思われる蜂の目貫を所有していると述べたが、ここに紹介したい。
昭和45~47年くらいだと思うが、お茶の水駿河台下にも店があった刀剣柴田で購入したもので3万5千円だったと記憶している。学生でも買えたのであるが、家庭教師のアルバイト代の1ヶ月以上はつぎこんだと記憶している。現在に至るまでも所持しているのは、それなりに気に入っているからである。
紹介するに当たり、改めて精査すると、必ずしも土屋昌親の作かどうかはわからなくなってきた。そんな経緯も一緒に述べていきたい。
→識者にご連絡して観ていただき、見解を聴いたり、またいくつかの資料を改めて渉猟して、色々な写真とも比較すると、村上如竹一派の方が良いのかなとも思いはじめています。その中で如竹の娘の如鉄、如水などとしての極めがいいのではないかとも考えています。3章をご覧下さい。もっとも、考えは新たな資料の出現でまた変わる可能性もあります。これも楽しみの一つだ。(1.21追記)
→別の識者の方からのご意見も入れました(1.23追記)→興味深い歴史資料を見つけました(1.26追記)。

1.この目貫の鑑賞

この目貫、かわいらしいものである。「かわいい」なんて言う形容詞は、若い女性がバカの一つ覚えで使うもので、この私は使いたくないが、この目貫を観ての第一印象は「かわいい」である。「かわいい」だけでなく、生気があふれている蜂であり、私は愛玩している。

作は素銅地を使用している。昆虫の躰は頭部、胸部、腹部の3つに分かれるが、頭部は目を大きく、顎もしっかりと逞しく彫っている。胸部はふっくらと彫り、そこに毛彫を細かく施し、やわらかな体毛をあらわしている。腹部は柔軟に曲がる節々を丁寧に立体的に彫り、そこに赤銅で平象嵌している。
羽根の脈は赤銅で平象嵌をしている。(裏は叩きだし、同じ素銅で四方から長方形の根をとめる)

羽根から前足の屈曲部32ミリ  羽根から羽根まで36.6ミリ 

現代では動物も虫も、もちろんアニメのキャラクターもおもちゃも、顔や姿態は「かわいい」とか「やさしい」「愛くるしい」を志向する。しかし、江戸時代の動物や虫などを描いたり、彫ったりしたものは怖い顔が一般的である。
動物の赤ちゃんや、子供はどの動物でもかわいいが、大きくなった動物や昆虫の顔は怖いものである。

しかし、この目貫は文句なしにかわいい。目が丸ではなく、平象嵌の線で、しかも内側に弧を描くように入っているからか、愛嬌がある。また一番前の脚は四股を踏むように横に大きく張り、力強い。
また顔の下(目の下)には顎をしっかりと彫っており、逞しい。また各脚は細いが、その先端は大きく二股に彫り上げており、これも力強い印象を倍加させている。
こういう逞しく、力強いところが、生気溢れる印象を与えるのだろう。この気張った所と、先が二股になった脚が片側に4本並ぶロボットのような印象は、少し滑稽な感じもする。


目貫の表裏で、一方は羽根を広げて飛び立たんとする姿態。これは「陽」だ。片や、ちょうど降り立って羽根を閉じようとする直前の姿態を「陰」にして彫り上げている。

蜂が画題になるときは、蜂を音読みして”ほう”として”封”の寓意にすることが多い。”封”とは「領土の意味」であり、領土に御縁があるようにとの願いを込めている。
そこで、「蜂に猿」を組み合わせた図柄となると、猿は猿猴であり、これから「猴」を”侯”に置き換えて、「蜂猿」=”封侯”と言う意味となる。また「蓮に蜂」を配した図もあるそうで、これは「蓮」=”連”であり、”連封”とするなどである。
蜂の「ほう」を”報”と置き換えて、「蝸牛に蜂」で”果報”とする語呂合わせもあるようだ。

また蜘蛛が蜂などを捕らえている図は後藤物などに見られるが、これは「智勇」の図と呼ばれる。

蜂の図柄には、以上のような寓意を含むことは多いが、この目貫は蜂だけを彫り上げており、語呂合わせの寓意ではなく、蜂、そのものを彫ったのだと思う。

昆虫は、古甲冑師鐔に蝶や勝虫(とんぼ)、赤坂鐔に蟷螂(かまきり)などがあり、古くから画題として描かれていたが、それらは昆虫そのものよりも、昆虫の持つ性格を愛でている。例えば蜻蛉(とんぼ)は、常に前に飛び、後ろに下がらないから勝虫として武士は好んだのである。蟷螂は「蟷螂の斧」ではないが、強い者にも勇気をふるって立ち向かうところを愛されている。蜂も社会性を営みながら、針で相手を攻撃する強さもあり、武士が好んでもおかしくなく、旗指物の図では蜂の図を観た記憶があるが、古い時代の刀装具では、私の不勉強の為か見かけない。

2.昆虫を写実的に彫る時代背景

昆虫を写実的に彫るのは、江戸時代後期からである。絵でも伊藤若冲(1716~1800)には「
菜蟲譜(さいちゅうふ)」がある。伊勢長島藩の藩主の増山雪斎(正賢)(1754~1819)は特に虫が好きで、特に次図のような虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』を描いている。このお殿様は本当に虫が好きだったようで、虫塚なるものも建てている。狩野派の下絵帳(写生帳)などを精査すれば虫を細かく画いたものもあると思うが、作品の主題としてリアルな虫の姿が生まれたのは18世紀末から19世紀初頭と思う。

虫豸帖より(国立博物館)

虫に限らず、植物でも動物でも自然物に目が向くようになったのは、自然科学、特に本草学的な関心が高くなった時代背景を持つと言われている。自然物に科学的な眼が向けば、その観察によって、それぞれの自然物の美しさに気が付いたのであろう。それが、これまでの粉本主義(お手本を写して事足れりとする)に飽きたらなくなっていた人々に受け入れられたのだと思う。円山応挙(1733~1795)も刀装具の一宮長常(1721~1786)も、そのような動きの中から生まれている。

刀装具の世界では、岩本昆寛(1744~1801)は様々な魚を多く写実的に彫っている。昆虫は、村上如竹がトンボや蝶を単独に大胆にデザインしている。如竹は天明(1781~89)から寛政(1789~1801)ごろに65歳以上で没したと推定されるから伊藤若冲より10歳程度若い。トンボ、蝶は古来からある図であり、また如竹は精密に写すというより、よりデザイン化して彫っているから、本草学的な興味から、これらの昆虫の美に気がついた画家とは違うのかもしれないが、同じ時代の空気を感じていると思う。

19世紀末にヨーロッパでおこり、ガラス工芸のガレなどに代表されるアール・ヌーヴォーという芸術運動は、日本美術に影響を受けたと言われている。具体的にどの日本美術かは明確にされていなかったが、『アール・ヌーヴォーに影響を与えた幕末・明治の金工』(「緑青」通巻72号)で村田理如氏は、幕末から明治の日本の金工作品(正阿弥勝義、一乗一派など)の金工作品がそれだろうと推測し、それらの作品に昆虫の図柄が多いことを指摘されている。この通りと思う。日本から100年ほど後のことである。

2.この目貫の作者

今、思い起こすと、刀剣柴田で購入する時も、作品の値札には作者名も記されておらず、私も店員さんに「誰の作品か?」とも聞かなかったのが不思議である。もちろん学生であり、当時は刀剣柴田の店員さんとも懇意ではなく、これは女性店員さんから購入している。この話をすると、後年に、その女性店員さんは舟山堂の故山田さんの奥様になった方ではないかとも教わったが、確認はしていない。
当時は刀装具の勉強を本格的にはしていないから、「この目貫の作者は○○」と言われても何の関心もなかったと思う。

はじめて、刀装具の作品を、その魅力で買う人(名前で買うのではなく)は、こんなものかもしれないと思う。

昭和50年代後半に銀座の宝満堂で、まったく同じ図柄で無銘のもので、もう一回り小さいものが特別貴重の証書で「如竹」と極められて売りに出ていた。確か14万円程度だったと思う。当時はまだまだ刀装具の初心者であり、この極めは私にとっては嬉しかったが、如竹極めは半信半疑だった。素銅地が緋色銅であれば、それに平象嵌は如竹の作風の一つだから可能性も無くはない。また如竹には図柄として、蜻蛉や蝶の昆虫を大きく彫ったものもあり、それで、このような鑑定になったのかと考えていた。

『刀装小道具講座3 江戸金工編(上)』(若山泡沫著)の村上如竹の作風において、図柄として見受けられるものの中に「蜂」が明記されており、特別貴重として「如竹」と極めた当時の審査員が、このような在銘の如竹作品を知っていた可能性もある。

刀装具の勉強もするようになると、この無銘の蜂の目貫についても、どの作者の作品かと関心を持つようになったが、後藤でも、横谷系諸流派でもなく、強いて言えば奈良派の末流の後代の土屋派か浜野派、あるいは前述した如竹一派なのかと考えていた。一乗一派にも虫は多いが、この作品の感じは京都金工ではなく、江戸金工かと思っていた。これは今でも変わらない。江戸金工ではなく、水戸金工の可能性もあるが、いわゆる水戸金工的な濃厚さ、過剰感はない。

刀剣柴田の青山氏と懇意になった後も、この目貫をお見せしたことはなかった。特に理由はない。価格が安いものであり、作者が誰であろうがどうでもいいと感じていたのだと思う。

平成20年2月のことだった。「刀和」に同じ図柄で同じような姿態のもので、在銘で昌親のものが販売品として掲載された。ちなみにこの作品は『刀剣美術合本 第13巻』に掲載されているとのことであるが、それは若山泡沫氏の「土屋昌親」という論文の中に作品の例として掲載されているものである(元は「刀剣美術」通巻121号、昭和41年2月号に掲載)。

「刀和」の販売品は、すぐに売れたようで私は実見していないが、下の写真のように、私の蜂とまったく同じような彫りであり、この目貫は土屋昌親一派のものと確信した。
解説によると、販売品の方には素銅地、赤銅象嵌までは同じだが、金色絵が施してあるとのこと。銘は割側銘。

32ミリ  30ミリ 

こうして、私の蜂の目貫は土屋昌親か、その一派のものだと、今回、このページでアップするまでは確信してきたのである。

それが、このページに紹介してアップするにあたって再考の余地が生じているのは次のような点である。

  1. 在銘の昌親は、羽根の脈をリアルに彫り込んである。私のは平象嵌で、簡単に線で表現している。

  2. 目は昌親は丸く金象嵌、私のは線で平象嵌で示している。

  3. 羽根は昌親の方が小さく、私の方が大きい。飛ぶ為には大きい方が良いと思うが、実際の蜂の羽根は胴体の大きさに比して意外と小さいものである。

  4. 脚は昌親の方は前の2本は同じ下地上に彫っているが、私のは前の2本は下地から離れて、別々に彫っており、より丁寧と言うか、実際に近づけている。羽根を広げている蜂の2列目の脚も昌親は胴と同じ下地に彫っているが、私のは離して彫っている。 

以上のような違いは、小さな差異とも考えられるが、昌親在銘の品と比べると、具象から簡略化、誇張化が観られるから、土屋昌親より少し時代が下がるのかもしれないとも感じている。土屋昌親の弟子筋で、明治になって浜物(輸出用金工品)を作った作家の作品の可能性も考えられる。 ただ、明治金工が彫って、アールヌーヴォーに影響を与えた虫の彫物は、もっと色彩も豊かで精密なリアルな昆虫を彫っており、それに対して、よりデザイン的な感じがするから、ちょっと違うかなとも感じているが、確かなことはわからない。

そのデザイン化されている部分が、昌親より豊富であることから、時代は昌親と同時代でも、デザイン化されている分、如竹一派の可能性もあるのかなとも感じている。

今の愛好家は伊藤ごときが「あーじゃない」、「こーじゃない」と考えるよりも「協会の審査に出せば」と考えるだろう。
しかし、審査料が買値と同じくらいというのはもったいないと感じる。作品と紙が同じくらいの価格というのは滑稽だと思う。

そして、私はこの目貫の作柄が好きで持っているわけであり、作者名などにはこだわっていない。このように自分で「あーじゃない」、「こーじゃない」と勉強できるだけ、楽しみが多いとも思う。だから、このまま所持していたいが、在銘品で同様な作品をお持ちの方はご教示願いたい。それまでは在銘の昌親の作品と、似ているから、昌親と極めておきたい。

昔は帯止めに加工された片目貫をよく見たことがある。そこで、この目貫をバッジ、ブローチに加工するのも面白いと思っていた。ステキなアクセサリーになると思う。
もっとも、今はこのまま所持していこうと思っているが。

3.目貫の作者は村上如竹一派の娘彫り?

(1)識者のご見解

伊藤満氏にご連絡して、HP上の写真だけで、ご見解を伺うと、次のような内容でした。

「素銅製で赤銅の平象嵌があることから、素直に村上の系統であると私は思います。如竹ではないにしても、正則あたりではないでしょうか。以前、これと良く似た、在銘の蜂の縁頭を持っていました。肢体のデザインが土屋昌親のものに似ていますが、先輩の如竹のものを下絵として使ったのではないでしょうか。
昌親の作風はいわゆる、リアリズムですので、素銅製のような文様的、装飾的には作らないのではないかと思います。」

同じく小道具の識者のX氏にも同様に観ていただき、ご見解を伺うと次のとおりです。

「素銅地の作品であり、格式ばらない作風であり、土屋派(庄内金工も含めて)の作品の可能性はあります。昌親は細かく彫りますが、これはそうではないので、昌親より時代が上がる土屋派かとも思います。あるいは、素銅地に平象嵌という技法から素直に村上派の作品と観るのも一つです。村上派の中では正則あたりに、このような作品があります。」

別の小道具の識者Y氏からいただいたご意見である。この方の目は伊藤満氏とは同様に美術としての見方から出来ており、既成の見方を超えてハッとすることを言われる方で、私は一目を置いている人である。

「無銘土屋昌親で結構だと思います。鑑定としては、土屋派とか庄内金工と極める作品だと思います。出来が良いものには個銘をつけた方がよく、土屋昌親がいいと思います」

(2)蜂の彫り物の比較

(イ)村上如竹

左は『緑青34 幕末・明治の鐔・刀装金工』に掲載の縁頭である。清水三年坂美術館コレクションの一つである。
沈んだ感じの緋色銅で、いかにも如竹の地金である。よりリアルに写し、象嵌を施している。羽根は平地ではなく少し彫り込んでいる。羽根は少し大きめで、先端は丸ではなく直線的である。

右は「刀剣美術」通巻69,70号に若山泡沫氏が書いた「金工村上如竹について」に掲載のものである。白黒写真で判然としないが、羽根は平地に赤銅平象嵌のように見える。脚は金色絵である。


(ロ)菊岡光保

『緑青28 金工鐔名品集 幕末・明治の名工の技と美』の中に菊岡光保の「秋草虫図鐔」の中に蜂の彫り物がある。

(ハ)ではこの目貫の作者は

識者の
お二人のご意見は、土屋昌親であればもっとリアルに細かく彫る。また、この作風の時代は昌親より下がって明治の方に近くなるのではなく、逆に昌親の前に位置づけられるのではないか。そして素銅地に平象嵌という作風から、村上派でも正則(如竹弟)あたりが、既存の作品との類似性からも妥当となるということである。

既存の在銘の蜂の彫り物資料として比較したのは、土屋昌親、如竹、菊岡光保しかないが、この中からでは、如竹よりは土屋昌親の方が似ている。識者Y氏のご意見も一理ある。もう少し、蜂の図柄の資料を集めてから最終的に判断したいと思う。

如竹の蜂の図と比較すると、弱々しい蜂の脚の先端を二股にして逞しさを出して生気を出している点、目を丸でなく、線象嵌で内側に寄らした円弧で表現した点は、如竹の蜂よりもデフォルメが生きていて、なかなかのものだと改めて思う。



村上派だとすると、村上正則の極めでもいいのだが、私が、この目貫に感じた印象の「かわいらしさ」を重視すると、如竹の娘で、金工を行い、「娘彫り」と言われた如鉄の作品と極めてみたいと思うが、どうであろうか。

なお、如竹の娘で娘彫りと言われた工人は如鉄だけでなく、如水もいる。若山泡沫氏は『金工事典』の中で如鉄については「如竹の門人。一本に如竹の娘で、世に娘彫りと称すと記している。」と記すが、如水については「加茂氏。京都の出身で、江戸へ出て村上家に学んだ。如水は如竹の娘と、京都の山光堂と号する人と別人説を従来はとってきたが、作風・花押などから推量して、同人とみるのが妥当であろう。さらに作品より考えて別人で如水と名のる工人のあることも考えさせられる。旧本の一つに如竹の娘とあるが、いかかなものであろうか」と、こちらの娘説には否定的である。

浮世絵師の葛飾北斎は名高いが、その娘に葛飾応為(作品は1810~1855年頃にあるとされる)がいる。職人の娘が作品を残すのは不思議でもないのが、江戸時代の後期なのである。ちなみに葛飾応為の現存する作品は少なく、北斎の代作が多かったと考えられている。応為とわかる作品の印象としては美人画に優れ、西洋画法への関心が強く、誇張した明暗法と細密描写に優れていると評されている。


読んだばかりの『定信お見通し』(タイモン・スクリーチ著)という本で、寛政の改革において松平定信に重用された絵師谷文晁(1763~1841)は多くの門人を持った絵師だが、その門人の10%は女性だったことを知った。そして谷文晁の妻の谷幹々(1769~1799)や、妹の谷 舜媖(1772~1832)、同じく妹の谷 紅藍(1780~1833)も女流画家だったそうである。ちなみに谷幹々は観音像の絵を得意としている。

別に私は、この目貫の作者として、村上派の娘彫りに拘っているわけではない。「かわいらしい」という作風から思いついただけである。そして、同時代の他の美術の分野における女性の活躍を目にとめただけである。しかし、おもしろい展開になったと思っている。(1.26追記)

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