桃山時代のファッションー「松皮菱文様」

 ー金山鐔「松皮菱透かし」よりー
伊藤 三平

所蔵品の鑑賞のページ

はじめに

私が所蔵している尾張透かし鐔「桐・三階菱透かし」鐔について、三階菱という特徴的な紋から、その紋所を持つ阿波の三好長慶一門(長慶は、一時は畿内・四国の9カ国に支配を及ぼした天下人で、一門には刀剣鑑定で名高い三好釣閑斎などがいる)に関係があるのではと推論して、そこから尾張透かし鐔という生産地が付いた分類名称についての問題提起を「三好一門との関係?「桐・三階菱透かし」鐔」としてまとめた。

この松皮菱紋も、同じ菱紋の一つであり、同様に考えても良いのだが、松皮菱を紋所ではなく、文様として見ると、また面白い世界が広がることに気が付いた。

この鐔の製作年代について、「所蔵品の鑑賞」においては、小ぶりな金山鐔が出現した時期は、2尺前後の打刀が出現した時代という通説を踏まえ、この鐔そのものについては、『透鐔』(笹野大行著)における笹野氏の時代推定(写真も駆使した説明)を参考にし、また私の所蔵している生者必滅の信家鐔と鉄色・鉄味がよく似ていることから、信家と同時代の天正・慶長頃と推察した。

ここでは、松皮菱模様は、室町時代後期から慶長時代に流行した文様だと言うことを紹介して、上記の時代推定を補強してみたい。同時に刀装具と他の美術品との関連性に目を向けることの大切さを考えてみたい。

1.「辻が花染め」に多い松皮菱文

衣服における「辻が花染め」とは、室町時代から桃山時代にかけて流行した文様染めで、縫い絞り(縫い締め絞り)や竹皮絞りなどを利用して染め、色も多色を染め分けた豪華なものである。以下の解説や図版は『日本の染織2 辻が花』(河上繁樹著)より引用する。

慶長8年(1603)に刊行された『日葡辞書』(日本語とポルトガル語の辞書)にも「ツジガハナ」は収録されていて、「赤やその他の色の木の葉模様で彩色してある帷子(かたびら)。また、その模様、または絵そのもの」と説明されているようだ。

現存する遺例には、帷子(かたびらー麻地が多い−)はほとんどなく、小袖や胴服、あるいはそれらの断片裂などの絹地のが多い。模様として桜、藤、菊、椿などの草花をモチーフにしたものが多い。縫い絞りで出し得ないところを墨の描絵(かきえ)で補い、さらに摺箔(すりはく)、刺繍(ししゅう)などの技法も併用している。石見銀山の責任者:安原備中が徳川家康から拝領した胴服などは豪華で華麗なものだ。

辻が花の誕生時期は不明のようだが、制作年がわかるもので一番古いのは享禄三年(1530)に幡(ばん=仏教や宮廷の儀式における旗の一種)に仕立てられたものである。
この「辻が花染め」の遺品に「松皮菱文」や松皮菱文の中に他の模様を入れる「松皮取り」が目につくのである。(下図参照)

松皮取りに竹文様小袖
(重文 東京国立博物館)
松皮取りに松皮菱と桜杜若若藤文様裂 松皮取りに草花扇面散らし文様裂

ここでは、松皮菱は紋として使われているのではなく、文様として使われているのである。

ちなみに『日本の染織2 辻が花』に所載されている辻が花の文様には、植物が多く、次のようなものである(藤、楓、竹、桜、菊、芦、葵、椿、杜若、枝垂れ桜、桐、蓮、桔梗、葛、銀杏、檜葉、笹に雪、葡萄、紫陽花)。
鳥類・昆虫も含めた動物(鶉、鶴、波兎、獅子牡丹、雁、鶺鴒、勝虫)もあるが、数は少ない。
紋・文様は、松皮菱文以外に石畳文、段文様、菱文、花菱文、桐文、葵紋、流水、矢襖文、雪輪文、丁字文、円散らし、段替わり菱、菱重ね、扇車、御所車などがある。
「松皮取り」のような枠取り文様には「洲浜取り」、「霞取り」、「島取り」があり、「扇面」、「円」の中にも図柄があるものもあり、これらも同様な枠取り文様と考えられる。

2.織部焼における松皮菱文

桃山期の茶人に古田織部がおり、彼の好みとされる焼き物が織部焼と言われている。ここにも下の作品のように、松皮菱は器の形状に取り入れられている。辻が花染めにおいて多用された「松皮取り」が器の形状になった例である。当時、流行した同様の枠取り文様である「洲浜取り」に該当する形状も織部焼に取り入れられている。

鳴海織部 松皮菱形手鉢 北村美術館蔵
『日本陶磁大系12織部』より

『日本陶磁大系12 織部』によると、織部焼は美濃(現在の土岐市久尻あたりの元屋敷窯を中心に、大平・大萱の方に展開)の窯で焼かれたもので、時代は慶長年間(慶長5、6年頃からか?)とされている。
当時は織部焼と言う名称は無く、瀬戸焼の一部とされていたようだ。古田織部が意匠を考案し、指導して作らせたとの証拠は無いようだが、千利休亡き後の茶道界をリードした古田織部の好みを、陶工たちが反映して作陶していたことは間違いがないとされている。

織部焼の意匠については、当時流行していた「辻が花染め」の意匠との類似性から、「辻が花染め」のデザインを巧みに、しかも大胆に取り入れたのではないかと推測されている。

京都三条通柳馬場の唐物商の有来新兵衛(茶人としても有名)の住居跡から織部焼の残骸がたくさん出土したことなどから、このような商人から美濃陶匠への発注、意匠の指定などが行われたとも考えられている。

3.賤ヶ岳合戦における丹羽長秀本陣の旗に松皮菱文様

秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いー天正11年(1583)ーを描いた「賤ヶ岳合戦屏風」がある。絵は江戸時代に画かれたもので、『太閤記』、『信長記』、『諸将旌旗』らの記述に合わせて画いている面もあるが、武士の装束や旗、馬印などは当時の風俗を正確に描いていると言われている。
以下の図は、そこから秀吉本陣部分を抜き出したものだが、そこに「松皮菱に笹」の旗が翻っている。虎の皮の陣羽織を着て、「赤地に金の日の丸扇」を持っているのが秀吉である。前の従者(一人置いて、その先の従者)が「瓢箪一個に金の切裂」の馬印を持っている。

そして秀吉の斜め左下で黒い兜に緋縅の鎧、クジャク羽根の陣羽織を着たのが丹羽長秀である。丹羽長秀の馬印は斜め左下の従者が持っている「絵鶴竹に金の短冊」(黒い羽根が左右に5つあるもの)であり、この「白地に松皮菱に笹」の旗は、長秀の旗と思われる。

賤ヶ岳合戦屏風より秀吉本陣 『戦国合戦絵屏風図集成 第2巻
賤ヶ岳合戦図・小牧長久手合戦図』より

ちなみに、笹紋は丹羽家の紋の一つである。松皮菱の松と笹紋の竹で、おめでたい松竹を意味したのであろうか。いずれにしても「松皮菱」文様は、このように武将にも愛用されていたのである。

4.後藤乗真の小柄「松皮菱文」図

以下の小柄(後藤乗真作 廉乗極め)も存在している。廉乗極めであるが、極銘として廉乗は古い時代であり、極めの信頼性は高いものである。後藤乗真は後藤家三代目として永正九年(1512)に生まれ、永禄五年(1562)に浅井家が所領の近江坂本に攻めてきた時に戦死している。永正、大永、享禄は若年時代であり、製作は天文(1532〜1554)、弘治(1555〜1557)、永禄は五年まで(1558〜1562)が中心と考えられる。
細長い小柄におけるデザインとして、中太菱を思い切りデフォルメをして伸ばしているから、家紋というよりは文様的になっている。

乗真作 廉乗(花押) 『刀装金工 後藤家十七代』より

松皮菱文様が室町時代後期から桃山時代に流行した理由は、明確にはわからないが、三階菱紋も含めて、菱紋を使う阿波の三好・松永の勢力が堺、京都に伸張するにつれて出回りだしたのだと思う。三好長慶(一時は四国、近畿9カ国を支配し、信長の前の天下人ともいわれる)の絶頂期は天文十九年(1550)〜永禄四年(1561)だが、後藤乗真の活躍時代に合致する。この小柄も三好一門の注文ではなかろうか。

三好一門は趣味人が多く、刀剣では三好釣閑斎(政康)が名高い。三好長慶は和歌・連歌・禅、三好実休(義賢)は和歌に優れ、茶道もよくし、安宅冬康は歌と書に優れ、茶の湯を好み、三好宗三の茶の湯も当時有名であった。世間が、趣味の良い人の風俗に憧れるのは今も昔も変わらない。こういうことから、松皮菱文などが流行していったのではなかろうか。(注、三好一門の詳細は「三好一門との関係?「桐・三階菱透かし」鐔」で詳述している。)

おわりにー残された課題ー

松皮菱文は、三階菱紋と同じ菱紋であるが、紋所ではなく、当時に流行した文様として説明したいとの趣意はわかっていただけたと思う。
要は松皮菱文は室町後期から桃山期に流行した文様でもあるわけだ。その流行に乗って、同時代(室町後期〜桃山時代)に造られた鉄鐔にも松皮菱文は使われたのではなかろうか。

所蔵の鐔も、「松皮菱紋透かし」というよりは、「松皮取り透かし」とした方がふさわしいとも思える。「松皮取り」の中に切羽台があるようなものだ。

あらためて観ると、切羽台の形なども室町期のと
は異なり、やはり桃山期のものだと思う。
(ちなみに所蔵品の「車透かし鐔」の中で桃山の
名鐔工の作品をアップしているから比較していた
だきたい)

丁寧な切羽台。耳には鉄骨を活かし野趣を持た
せているが、松皮菱文は平面に磨き、手間をか
けた作品である。切羽台と松皮菱文を一段落と
した”つなぎ”で繋いでいるのも凝っている。

透かしの線もゴッツクもなし、か細くもなしで上手
いと思う。

刀装具も、刀剣も、実用のものとして身に付けられていたわけであり、武士のファッションの一つでもあったわけだ。同時代の他の美術品と相互に影響を及ぼしていたと考える方が自然である。桃山期に流行した刃文と、桃山期の絵画技法との関連については「新刀初期の作風変化における美術的視点ー相州伝作風復活、梨子地肌誕生の背景ー」として、このサイトの中で指摘している。改めてご覧いただきたい。 

松皮菱文が室町後期から桃山期に流行したとしても、他の時代にも松皮菱文様は使われていたわけである。このことも、考える必要がある。
下図は『透鐔』(笹野大行著)に掲載され、笹野氏が金山鐔の中でも最も時代が上がるもの(応永・永享頃)として掲載されている鐔である。家紋として、松皮菱紋に縁のある武士の注文品として時代が上がる可能性も考えたが、そうだとすると松皮菱紋が変形され過ぎていると感じる。このデフォルメは上述(4.後藤乗真の小柄「松皮菱文」図)した小柄のデフォルメと同様の精神と思う。すなわち、この鐔も松皮菱文が流行した室町後期から桃山時代のものと考えたい。

『透鐔』より

私の所蔵品でもある古赤坂鐔「四方松皮菱透かし」は古赤坂鐔に間違いがないから、桃山時代より下がる江戸時代前期(寛文頃)であるが、これは前時代の流行文様が、まだ使われていたということだと思う。時代が下がる分、松皮菱文を目立たなくデフォルメしている。前代に流行した松皮菱文を採用しているだけに、古赤坂鐔の中でも時代が上がるものだと思う。


「桐・三階菱透かし」鐔の考察では、刀装具界で尾張鐔と称している産地について疑問を呈した。この時は、この鐔が桐紋と三階菱紋という注文作と想定できることから、当時、三好一門が勢力を張っていた堺、京都、奈良あたりの鐔工へ注文した作品ではないかとした。
しかし、今回の松皮菱は紋というより文様であり、普遍的な流行のファッションであり、そこまでは踏み込めない。元々の文様の発祥は三好一門が勢力を伸ばした四国、畿内だと思うが、流行しているデザインを真似するのはどこでもできるからである。上述したが、織部焼の意匠が「辻が花染め」の意匠に影響を受けたわけである。「辻が花染め」という高級呉服における流行の発信地は京都だと思う。だけど意匠の影響を受ける方は、どこで造ってもいいわけだ。だから美濃の織部焼に取り入れられたのだ。

今後は、金山鐔の他の文様からも考察を進めていく必要がある。

今回は鐔の意匠を、衣服の文様と、焼き物の形状だけで比較したが、絵画や蒔絵、甲冑デザインなど美術全般の幅広い観点から、刀装具を見直すのも楽しいと思う。

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