皆山応起「一葉葵文透かし」鐔

所蔵品の鑑賞のページ

目も覚めるような真っ黒な赤銅の鐔である。笄櫃が右にある方が表だから、銘がある方が裏であることがわかる。この鐔は『百鐔』(柴田光男編著)の101頁に所載されている。また銘字は『金工銘鑑』(益本千一郎、小窪健一著)の「応起」の項(63頁)に掲載されている。

   
 縦71.6×横67.8ミリ、耳厚5.0ミリ、丸耳

1.皆山応起

皆山応起は(かいざん・おうき)と読むのが語呂がいいが、正式には(みなやま・まさおき)である。「応起」の正式な表記は「應起」だが、現在では「応起」表示である。
『鏨廼花』の「皆山応起小伝」に大月光芳の門人とされていて、京都二条通油小路か、二条小川通に住んだと記述されている。
『金工事典』(若山泡沫著)に「直市という。屋号は菱屋。初銘を応興と名乗る」とか、「<号銘>麗墨堂・竹鳳堂(堂を略すこともある)」とも記されている。
ここでは「大月光興(一説に光芳とも)の門人」と大月光興の門人説の方を主としているが、私は以下の理由から『鏨廼花』の光芳門人説をとる。

  1. 『鏨廼花』の執筆時期は応起が生きた時代に近いこと。
  2. 『刀装小道具講座5京都金工編』のなかで、若山氏が「裏之彫光興作 紋應起彫」の合作品を見た」と記しているが、師匠であれば「裏之彫」と言う位置づけは無いと考えること。

同門になる大月光興は明和3年(1766)に生まれ天保5年(1834)に69歳で死去する。光興より少し年上、あるいは先輩ではなかろうか。応起には文化6年(1809)の年紀がある縁頭が現存しているから文化・文政・天保の頃に活躍したと推測できる。

福士繁雄氏は刀剣美術に連載した「刀装・刀装具初学教室(120)」において、「作品の数は少ないのですが、作風としては比較的に細工が細かく、すみずみまで鏨が行き届き、華麗にできたものが多いようです。そして、本協会の重要刀装具に指定された「遊仙の図」揃金具、「嵐山・高雄の図」大小揃金具、「業平東下りの図」目貫二組等の作品を見る限りでは、かなりの名工であったと思われます」と記されている。

桑原羊次郎氏は『日本装剣金工史』において、「応起もまた大月派の上手なれども、秀国篤興よりは稍劣るべしとの公評なり」と記している。

若山泡沫氏は『刀装小道具講座5京都金工編』において「作は縁頭や目貫が多く、鐔や小柄、三所物、金具も造っている。目貫は、大振りに造込むものが相当数ある。工法は高彫が得意でこれに片切平象嵌、肉彫地透、鋤出高彫色絵などの手法をみせ、地金は赤銅、鉄、四分一、真鍮を用い、地面は磨地や魚子地に仕立ている。総じて鏨を利かして、大月流で器用堅実な彫法である」と記述している。


2.この鐔に対する先人の評

(1)佐藤寒山「箱書」の評

佐藤寒山氏の次のように箱書されている。
箱表:「在銘 皆山應起 一葉葵文透鐔」
箱裏:「竪丸形 赤銅地 肉彫透 銘 皆山應起 花押 同作中の変り出来也 珍重 昭和癸丑年初夏 寒山誌 花押」

昭和癸丑年とは昭和48年である。

(2)『百鐔』(柴田光男編著)における解説

「銘=皆山応起(花押)」
「一葉葵の図 赤銅地 丸形 肉彫透 両櫃」
「珍品かつ好参考資料である。赤銅や四分一等の色金を用いた透鐔は、それが主として献上品であったためか、在銘品は比較的少ないものである。この一枚も無銘ならば「越前記内」「武州伊藤」「赤尾吉次」等の名が浮かぶもので、とうてい応起の名を想像する人はいない。ともあれ確たる皆山応起在銘の上品な一枚で、相当上位の人からの注文に謹んで製作した作風が窺える。」
「縦=七一ミリ 横=六七ミリ 厚さ=五.五ミリ」 

この本は1973年すなわち昭和48年の刊行である。

3.この鐔の鑑賞

赤銅の漆黒な美しさは、後藤家作品の質の良い赤銅と同じか、それ以上であり、実に美しい。この色を愛でるだけで良いと思うほどである。

一つ葉葵を大胆に中心に据えて透かしているが、鐔工では無く金工だから、きちんと丁寧に彫っており、葉脈ごとの肉取りも実に丁寧である。その模様が大きいからか、線は鋭く神経を使って彫っているにもかかわらず、むしろ強さ、逞しさを感じる。こういう所は応起の優れたところだと思う。

そして肉取りの巧みさは、耳の円環よりも葵の中心=切羽台が盛り上がっている感じにしている。すなわち葵の葉も実際の葉と違って、真ん中が盛り上がって福々しい葉になっており、吉事に使うのにふさわしいと感じる。

切羽台の狂いの無い楕円も実に美しいが、櫃孔も正確に美しく、櫃孔周りの線を切羽台に近づくほど細くしていく配慮と、それを実現する正確な彫技に感嘆する。

耳は丸耳だが、丸味は正確であり、それが真っ黒な赤銅の地鉄で輝き、感動する。

このような精巧で美麗な作品なのだが、前述した線の強さ、肉取りの豊満さからか豪快な感じがする。

銘を裏に切っているので献上作と言われているが、この時代の京都金工(篠山篤興、大月光弘など)には裏に銘を切っているものがあり、これだけでは断言はできない。ただし、一つ葉であっても葵紋である。「享保鍛冶改め」で称賛された鍛冶に許されたのが一つ葉葵紋であることを思い起こせば、徳川家ゆかりの高位の方からの注文作と考えられる。前述した『百鐔』の解説においても「赤銅や四分一等の色金を用いた透鐔は、それが主として献上品であったためか、在銘品は比較的少ないもの」と「上品な一枚で、相当上位の人からの注文に謹んで製作した作風が窺える」などと記している。
ともかく、しかるべき高位の人からの注文作だろう。

元は大小鐔で、これが小の方の鐔とも考えられる。


おわりに

鉄鐔は多く購入しているが、金工の鐔はほとんど買わない。金工作品には鐔を彫金の台にして、そこに据える高彫を見せたり、鐔という彫金台に片彫、毛彫で自分の腕を見せるものが多い。このように鐔=彫金台でも、鐔というだけで小柄などより高価であるから敬遠している面もある。

鐔=画面として絵を描いている金工作品もあるが、用の制約から、メインの図は差した時に外側になるような配置で形式化されているきらいもある。

もちろん埋忠明寿や安親、清寿などは鐔=彫金台という意識で無く、鐔の造形にまで気を配って製作している名工であるが、価格は半端なものではない。

この鐔は透かし鐔として造形まで気を配っている。そして彫りの線の見事さ、肉取りの巧みさ、加えて赤銅の見事な色合いがあり、購入した次第である。図が一つ葉葵という紋であるところが面白みに欠ける点であるが、他の紋と違って葵紋だけに想像が膨らむものである。

この鐔のような色金物は、さすがに寝床に持ち込むようなことはしない。

所蔵品の鑑賞のページに戻る