大月光興 「月下餓狼図」 目貫

所蔵品の鑑賞のページ>

一宮長常、鉄元堂尚茂に、この大月光興を加えた3人は「京都三名人」と呼ばれている。今回は光興の有名な目貫である。写真を入れ替えました04.10.9)

1.画題について

この画題については、この手の図柄では有名な「月下餓狼」(げっかがろう)としたが、迷いがある。この目貫の箱書きを桑原羊次郎氏がおこなっているが、そこには「薄月狼色絵四分一目貫」とある。保存刀装具の証書でも「薄月狼図目貫」と記されている。しかし薄(すすき)、月、狼と出ているものを単に並べたような画題では風情がない。

飢えている狼かもしれない。あばら骨が浮き出ており、尻尾は巻いて股の下に入れている。狼が尻尾をこのようにする時の習性を知っていれば、この狼の心理状態もわかるのであろうが、この狼の目を見ると、獲物は狙ってはいないようだ。

また飢えて飢えて切羽詰まっていて、獲物を探しているという雰囲気もない。目は貪婪な目ではない。今の日本は飽食であるが、昔は我々子供でもあばら骨が見えるような生活をしていたのだ。飢えている時というよりも日常の狼の姿ではなかろうか。そういう意味で「月下飢狼」という画題には抵抗はある。

それではと「月下豺狼」(げっかさいろう)も考えたが、「豺狼」は『広辞苑』でひくと「やまいぬとおおかみ。貪欲残酷な獣」とある。この狼から貪欲残酷というイメージは感じられない。

裏目貫の図も変な図である。パッと見ると、左に薄の穂があり、月にかかって右手に薄の葉があると思われる。しかしよく観ていただきたい。これは穂であろうか。穂であれば、葉の向きと逆になっているのはおかしい。これは根のようだ。

ある刀屋さんと、刀装具の目利きの人は酒を飲みながら次のように解釈されたそうである。

「これは川か池の水面に映った月である。静かな水面である。そこに根ごと流されている薄が流れてきている。月の上に根がある薄があるのはこの為である。」

面白い解釈で「さすが」と思った。

私の解釈は少し違うが、私の解釈を述べる前に、草と月について考察したい。(04.10.9写真挿入)

まず草であるが、「月があるから薄(すすき)かな」と思うし、葉はたしかに細長い。しかし、薄ほど細長くはない。では何かと言われると困る。皆様のお知恵を拝借したい。

次ぎに月である。月は満月でもなく、三日月でも半月でもない。満月の15日を過ぎた19日頃の寝待月(ねまちづき)、別名を臥待月(ふしまちづき)という月か。あるいはもう少しあとの更待月(ふけまちづき)ではなかろうか。

寝待月(臥待月)は横になって待たないとならないくらいに月の出は遅いから名付けられ、更待月(ふけまちづき)は夜更け(午後10時頃)に昇るので、こう呼ばれている。

以上の考察を踏まえて、私は、次のように解釈している。

「時は晩秋、風が強い。秋から初冬に吹く、強く冷たい風、すなわち木枯らしが吹き荒れている。その強い風のせいで、空気は澄んでいる。澄んだ空気の中に更待月(ふけまちづき)が昇ってきた。風は相変わらず強い。枯れ草をも吹き飛ばしている。飛ばされた枯れ草の根が、まるで薄(すすき)のように見える。晩秋の更待月(ふけまちづき)にふさわしい月見である。獲物が少なくなる冬を間近にした狼までもが月見を楽しんでいるようだ。」

水戸の萩谷勝平に、まさに「月下餓狼」ともいうべき図の鍔がある。これと比較していただくと雰囲気が違うことが理解できる。

では伊藤は、この画題を何とすると言われると困る。教養が足りない。仮に「枯野皎々」(かれのこうこう)とでもしておきたい。木枯らしが吹きすさぶ枯れ野、冬を間近に控えて餌がなくなる時という厳しい環境であるが、澄んだ空に皎々と輝く更待月(ふけまちづき)が美しいという状景を画題にしてみた。

なお桑原羊次郎氏の箱書きには次のように書かれている。

「薄月狼色絵四分一目貫
表狼裏薄に月の光興三字銘四分一地目貫は大月光興の独壇場にして、荒涼たる風色真に満点のものなり。
昭和17年6月15日中央刀剣会審査員桑原雙蛙」

なおこの目貫は『刀剣金工名作集』、『日本刀大鑑』に所載である。

こういう作品はあまり細かい彫りを観るものではないかもしれないが、狼の皮膚、毛皮は細かい彫りを全面に施して感じを出している。皮膚、毛皮は薄い感じである。夜露にぬれているのかもしれないが、フサフサではない毛皮である。材質は四分一である。目や牙、爪に銀を使っている。

月は銀象嵌である。草の根は金象嵌で、葉は摺りへがし象嵌である。摺りへがし象嵌が枯れ草の感じを出している。

2.写実を超えた空気の表現

大月光興は一宮長常の「写実」に対して、どのような特色があるのであろうか。

各書には「禅味」、「飄逸な味わい」ということが書かれている。私が読んだ中では『日本装剣金工史』(桑原羊次郎著)が、一番わかりやすいと思う。表記を現代風に直して紹介したい。

「予、あんずるに、光興は、長常と等しく宗a以後の名手にして、夏雄翁が最も畏敬せし名工の一なり。
長常は宗a五十一歳の時に生まれ、光興は長常四十七歳の時に生まれて、片切彫において一種の脈絡あり。宗a、長常が共に家風に育ちて、ついに絵風に転ぜしごとく、光興も、その父光芳までは純然たる後藤風なりしも、一朝感ずるところありて、絵風に転じて、宗a、長常より更に一層の進歩をなしたり。

すなわち長常は宗a画題の旧套に堕したるを改めて、考古的、歴史的、風俗的の画題を取り入れたるに対して、光興は長常より更に一歩を進めて、禅味的、暗示的、空想的のものありて、芸術的に観て一層高所に位するものと云うも不可なしと思ふ。

ー中略ー単に、これを瞥見せしだけにては何ら新味無きがごとしといえども、これに対して瞑想をこらせば、そこに彫刻そのものの外観よりは、むしろその根底に躍動する一種の情緒を感ずるのである。この一種神秘的、暗示的なる感興を惹起するところの芸術こそ、もっとも至難とせらるるところのものにして、光興の彫刻は仮に外観上粗雑に見ゆるものありとするも、この感興を表現しいるものである。この点における光興の理想は彫金工史上まことに希有のものにして、宗a、長常よりさらに一歩前進せしものである。

これを再言せば、宗a、長常においては刹那的感興を表現せし作品は敢えて乏しとなさざれども、光興のごとく今一層深く人心の根底を動かし、綿々として永く余情を残すものはすくなし。」(『日本装剣金工史』桑原羊次郎著 原文を現代風にあらためる)

「禅味がある」というのはわかりにくい表現だと思う。私も含めて一般の人には「禅」そのものもわからない。わからない禅を基準にしあ「禅味」では言っているほうも説明できない。また「飄逸な味わい」というのは軽過ぎると思う。飄逸とは「人事や世間のことを気にしないで明るく暢気なさま」とある。中には、このような作品もあると思うが、光興の作風を解説するには違うと思う。

私は桑原氏が書くところの「これを瞥見せしだけにては何ら新味無きがごとしといえども、これに対して瞑想をこらせば、そこに彫刻そのものの外観よりは、むしろその根底に躍動する一種の情緒を感ずるのである」というのが実感としてはあっている感じがする。

次ぎに書くが、実は私も初見では、良さがわからなかったのである。

3.この作品をめぐる思い出

この目貫を購入したのは15年ぐらい前である。ぶらりと寄った刀屋さんで見せていただいた。桐箱の内箱に杉の外箱があり、その紐はボロボロであった。画題とか作者名などを書いた色々な紙が貼ってあったが、それもボロボロであった。中のふとんも台も同様にほころびていた。

正直に言うと、この目貫は初見の時に、あまり良いとは思わなかった。裏は陰陽根がついているが、拵えに使っていたのであろう。裏には詰め物が詰まっていた。狼の方はわかりやすいが、月に薄の図柄が理解しがたい感じだったのかもしれない。

桑原氏が言うように「これを瞥見せしだけにては何ら新味無きがごとし」という印象を持ったのだと思う。

「大月光興の目貫で、昔から有名なもののようですよ。日本刀大鑑にも所載です」というような説明を受けた。そして刀屋さんは「材質は鉄だと思います」と言ったと記憶している。

刀屋さんが鉄と思ったからかもしれないが、聞いた値段は予想外に安かった。「この値段なら、自分は大月派の作品を持っていないし、買っておいても良いかな」と思っている時に、笹野先生がお見えになった。私は笹野先生には師事しておらず、面識もなかった。刀屋さんが「笹野先生にもお見せしていいですか」と言った時に、「じゃ、これいただきます」と言ったのを覚えている。
別に笹野先生と品物をめぐって張り合ったわけではない。これはタイミングに過ぎない。

ご覧になった笹野先生は「良いものです」と言われ、当方が「裏に詰まっているものは取れないでしょうか」と伺うと「これは何々に松ヤニを混ぜて詰めたものだからとれますよ」とおっしゃったことを覚えている。

この目貫の一番の思い出は、青山氏が病床に伏せた時に、「お見舞いは小道具を持参して見せること」と言うことで、持参した時である。私が持参した小道具に対して相変わらず憎まれ口を叩いていたが、この目貫に対しては「いいなぁ」と目を潤ませてしばらくの間、観ていたことが目に焼き付いている。

青山氏は瞥見しただけで良さがわかったのかもしれない。「伊藤さんとは違うよ」と言いそうである。しかし私は青山氏は観て想ったのだと思う。枯れ野の状景に自分の人生の終わりを。

光興の良さは、「観るだけでわかる」というより、「観てから想うことでわかる」ものではあるまいか。


所蔵品の鑑賞のページに戻る