中根平八郎「左右大透かし・雷文繋ぎ銀象嵌」透鐔

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マイナー肥後として三角、遠山の作品を紹介したり、コメントしてきたためでしょうか、中根平八郎の鐔が私の元にやってきました。しかも肥後拵付きで。

縦82ミリ×横80ミリ×耳厚4.3ミリ

1.中根平八郎は肥後熊本藩の上士

中根平八郎は、このような鐔の作品を残しているが、歴とした肥後細川藩の武士である。それも四百石という高禄の武士である。

伊藤満氏の『林・神吉』にも、取り上げられており、要約すると以下の通りである。

  1. 中根家は徳川家、加藤忠広に仕え、加藤家改易後に細川家に仕えた正明を初代として続いている。平八郎は六代の正勝である。文化3年生まれで文久元年に隠居して明治3年に65歳で亡くなっている。

  2. 『細川藩侍帳』によると「平八郎」の名があるのは中根市十郎家で四代と六代にあるが、六代が該当し、「久太郎(平八郎)中根平八郎扶持方差出(安政二年)四百石 細川慶順公御書出(万延二年)四百石」とある。

肥後細川藩は、面白い藩で、肥後六花と言われる園芸植物を愛好したのも主として武士と言われ、水心子正秀の刀鍛冶としての弟子にも次のような高禄の武士が含まれている(家士として石高が記されていない人物は微禄な武士かとも考えられる)。

2.中根平八郎の作風と先人の評価

作風について、『肥後金工録』には「もとは藩士にて余暇の作あり。もっぱら正阿弥写を作る(御家刀用信長透及唐人笠の類)其の銀彫り込み象嵌の如きは最もたくみにて中には真に迫る。また泥摺?の作は其の式好く妙なり。ただ惜しむらくは一生模造を事とし自家の作とてはなし。…肥後刀拵方に高熟にして神吉につぎ名あり。近年没すという」と取り上げられている。

『林・神吉』(伊藤満著)では、「金工の技術は左右大透かし鐔が林、西垣の後代には見られず、神吉深信には同じような作品が残っていて、中根と似ているので深信に教わったと考えるのが自然である」と述べ、「まったく写し物ばかりではなく。オリジナルに近いものも制作している。仕事は素人の余技とは思えない。ていねいで調子の高いものであり、現在に名前が残った訳がわかる。しかし技法は鉄地に銀象嵌であり、他の材質をみない。これは余技である所以であろう」と評している。

高禄の武士の作品だから評価されているのではなく、銀彫り込み象嵌の巧みなことで評価されているわけだ。

ただ、銀彫り込み象嵌で造った作品が信長拵にある正阿弥の鐔などの写しである点が評価を下げているところである。

3.御家拵に憑かれた男

「芸術は独創」に価値がある。私は、このように信じている。このような立場に立った時、
惜しむらくは一生模造を事とし自家の作とてはなし」と評されている中根平八郎を「どうして買ったのか?」と問われるかもしれない。

たまたま私が買った中根平八郎の鐔に肥後で御家拵と呼ばれているものの写しが附いていたから気が付いたのだが、私は、武士中根平八郎は御家拵が大好きな男だったと思う。御家拵とは細川三斎の愛刀とした名高い信長拵のことである。現在は本歌は所在不明である。

この鐔が付いている肥後信長拵(御家拵)の写しは下の写真の通りである。「肥後拵」「肥後拵」と幕末から大騒ぎするだけあって格好の良いものである。私の家族も、この格好の良さに感心していた。現代の鞘師の高山一之氏の個展でも、天正拵、桃山拵、肥後拵を写したものが中心であったと記憶している。作りたくなる拵となると、これらの拵になるのが自然なのだと思う。

本歌の信長拵は、肥後刀装録によると「頭は四分一の浪毛彫に山道の深彫を入れ、縁は樋腰、小豆革包(小豆色の染革で山金地を包んだ縁)、鐔は鉄の古正阿弥の海鼠透かしに、銀の雷文繋の耳象嵌、目貫及び笄は赤銅繋ぎ蛸の図なり。小柄に至りて、其の配合に窮せられ、之を利休居士に問いて、銀の無地、丸張りを以てし、柄は燻革を以て巻き、鞘は柳鮫の黒塗、研出を用い、小尻は鉄の泥摺り、下げ緒は法橋茶(やや澄んだ渋茶色)の畝打ちにして、其の高尚風雅、全く茶道の玄味に出で、後世之を模せし装刀は、肥後を始め、遠く東都に及べり」とある。

このように肥後だけでなく全国の武士に愛された信長拵だが、旧藩時代には細川藩では絶対にその通りの模造は許されなかったという。特に蛸の目貫と笄だけは許されなかったとも伝わっている。これ程、御家拵の格式というか一般の崇敬を集めたものであった。

肥後藩士四百石取りの中根平八郎正勝は、鐔の銀象嵌だけでなく、「肥後刀拵方に高熟にして」と肥後拵の製作者としても優れていたことが伝わっている。

中根平八郎は、御家拵の鐔としては、本歌と同様なものがふさわしいと信じたのだ。だから何枚も同じような写し物の鐔を作ったのではなかろうか。

この情熱が人の心を打つのだと思う。自分の画きたい絵ではなく、売れそうな絵(例.富士山、バラなど)を描くのを売り絵を描くとして軽蔑される。当然、このような売り絵やこれを画く画家は”時代の選別”によって後世には残らない。

中根平八郎は自分の作りたい拵が御家拵であり、その為に作りたい鐔がこの古正阿弥写しだったのだ。これが人の気持ちを打つのだと思う。だから、錚々たる肥後金工に互して、後世に名と作品が残っているのだ。

この拵、”肥後刀拵方に高熟な”中根平八郎が関与して作られたものならばいいが、私には新古の区別はわからない。鞘の内側、外観や、柄巻きのふすべ革の状態などは相応の時代に見えるが、今度、肥後拵に詳しい伊藤満氏にでも観ていただきたいとお願いしている。

江戸時代も、正月を前に柄巻き屋が賑わったと言われているように、柄巻きは新しくするのが一つの慣習だったようで、その場合は目貫も縁頭も、もちろん鐔も替えることもしたと思う。同様に鞘の塗りも、あまりに剥げが目立つようなものは塗り直したと思う。だから大半の拵には手が入っているのだと思う。

御家拵=信長拵は前述したように本歌は現存しておらず、『肥後金工大鑑』にも、この拵の模造中、最も忠実であり、製作が優れていると云われているものが肥後の愛刀家であった堀部直臣が造らせた御家拵と記しているように、戦前の模造を江戸期の写しより、評価しているほどである。ちなみに、この新作拵についている正阿弥写しの鐔は勘四郎が三斎の命で作った同作六枚の内の一枚といわれている名鐔とのことである。

4.中根鐔の魅力

私が撮ったので、あまり良い写真ではないが、錚々たる肥後金工の中にあって銀彫り込み象嵌は”最もたくみ”と評価されているが、確かにうまい。

具体的に述べると、銀の線の太さが、細く、しかも一定である。雷文の形、大きさも円弧に即していながら、全て同様に見えるところなどは、相当の神経を使わないとできないと思う。

鐔の表面耳際の雷文繋ぎは、2つを一筆で象嵌し、雷文の数は2×16の32個である。裏面もまったく同じ文様である。また耳に凸凹の雷文繋ぎが凸が63個、凹が63個の126個を彫っている。保存状態も良く、表裏の雷文に象嵌の欠落はない。耳の雷文繋ぎの象嵌は一部はがれているところもある。

ちなみに本歌の信長拵に付いている古正阿弥の鐔は耳に108の雷文繋ぎが彫られているという。(中根平八郎の鐔の多くは、耳にあるような簡単な雷文繋ぎのが多く、この鐔のような複雑な雷文繋ぎは少ない)

このように精巧に連なる雷文が華やかさを出すと同時に、銀であるがゆえの渋さもある。この渋さが、茶道の影響を受けたという肥後拵にピタリとくる。

また地鉄は、幕末という時代の若さがあるが、肥後の生ぶの錆(少し赤みを持った艶の美しい錆)がそのまま残っている。なお地肌には蝦蟇肌のような鍛えの線と、すこしムラな鑢の跡も残っている。

肥後鐔はこの錆色が命でもある。これが残っているか残っていなかで価値が違う。

なお、中根平八郎の鐔が付いている私の御家拵も含めて、肥後拵については、項を改めて述べてみたい。

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