信家 「源氏車に桜、こぼれ松葉」図 鐔
-平和と戦争、栄枯盛衰ー

所蔵品の鑑賞のページ

太字銘の信家で、家の字のウ冠が平仮名の「つ」のようになっている時期のものである。笹野大行氏は、この手の銘の信家が、信家の中でも最も優れているとして愛好されたと聞いている。

.観て、見詰めて、触って、撫でての鑑賞

自分の手元に置いたら、何度も観て、時にはルーペも使い、鉄鐔であれば手に持って、ひっくり返したり、横からみたり、太陽の下に持っていったり、机で観たり、寝床に持ち込んだりして楽しんでいる。また、この鐔ではしていないが、角で赤錆びを取ったり、木綿で拭って鉄色を良くしていくのも楽しい。問題は、手元に置く為には多額の資金の提供が必要だということであり、この趣味もいい加減にしておかなくてはと思う。私のHPに来て、こんな文章を読んでいる人も私と同様の病気にかかっているわけであり、他人事ながら心配する。一方で、刀・刀装具の素晴らしさを多くの人にわかってもらいたく、この病気を広く伝染させたくもある。

鑑賞において、第一印象は本当に大事だと思うが、何度も観ていると、それなりの感興も浮かんでくる。熱気が醒めて客観的に見られることもある。また他の美術品との関連に気づいたり、先人が述べていたことはこういうことだったのかとわかることもある。以下、観て、見詰めて、触って、撫でて感じたこと、思ったことを書いていく。世間では「命の次に大事」と言われているものを出しているわけであり、どうしても贔屓目になることは否めない。欠点よりも良さを見つけるのは何事によらずに大切だと思う。ご了承いただきたい。

堂々とした存在感のある信家である。「どうだ!」という感じで迫ってくる。その「どうだ!」が、これ見よがしに造ったのではなく、造りたいものを造った結果として自然に生まれてきたような感じがするのが凄いと感じる。
銘も、慶長新刀の祖:堀川國廣の2字銘のように堂々と切っている。桃山期の気分なのだろう。まさに鉄鐔の王者:信家である。

まず、この鐔の錆色について語りたいが、錆色の説明は難しい。私も鉄鐔蒐集遍歴を重ね、その蒐集した鉄鐔はそれぞれに良い鉄錆色のものだと自負しているが、錆び色は本当に多種多様だと思う。そして、その良さも、それぞれに良さがあるという感じでもあり、人様に「こうだ」とうまく説明できないもどかしさを感じている。

各種の鉄錆色で、最上のものとして「紫錆び」という言葉を聞くが、現代では解説する人によって違うので戸惑う。これは刀の地鉄も同様であり、鉄の色合い、鉄の質の良さを説明する言葉は、聞いて理解するのも、逆に人に説明するのも難しい。説明する人が、それぞれの鑑賞人生の中で、身につけた基準があり、その定義も広く取っている人もいれば、狭くこだわっている人もおり、言葉で客観的に理解してもらうのは至難のことである。「尾張鐔の錆びは紫錆びだ」という鑑定の掟を思い込んで、それを発するだけの人もいる。刀の地鉄も同様で『日本刀の掟と特徴』(本阿弥光遜著)における粟田口の地鉄の説明は「その色合はあたかも深淵に臨むがごとく、また清朗な秋空を仰ぐが様でもある」と記されている。これは文学の世界でもあるが、粟田口の地鉄を実見した人は「なるほど」と思う人もいると思われる。

しかし、鉄錆色の良さの把握は難しいものではない。鉄色の良さ・悪さは、観れば誰でもがわかるわけで、特に品物を比較すれば容易である。言葉として伝えるのが難しいだけで、観て、比較すれば、ほとんどの人が理解できる。ただし、光の状態で見え方が違うのも困るところである。刀屋さんの店内ではわからないことも多い。あの笹野大行氏ですら、店内から太陽の下に持ち出されて確認されていたと、刀剣柴田の青山氏から聞いたことがある。購入する時に基準となる品物が手元にはなく、「ちょっと」と言って品物を持ち出して店外で確認することができない普通の人にとってはなかなか大変なのである。これは刀を拝見する時でも同様であり、難儀な趣味だと思う。

ただ、「観ればわかる」「比較ですよ」となると、刀剣・刀装具の良さを一般の人にまで、広く伝えることができない。だから、私も、乏しいボキャブラリーを使って、ああじゃない、こうじゃないと”良さ”を伝えようとして煩悶している。しばらく、お付き合いをいただきたい。

私の尾張透かし鐔「桐・三蓋松図鐔」の鑑賞記の第1章で鉄色、最上の「紫錆び」について言及しているが、それは、あの尾張透かし鐔の錆びこそ最上の「紫錆び」と激賞していただいた識者(私はこの方の眼に一目置いている)がおられたので、これを古来、「紫錆び」と称していたのかなと考え、記しているわけで、そこでも書いたが、あの尾張透かし鐔の錆色は紫と言うよりはしっとり感のある黒である。それはそれで本当にいい錆び色なのだが、この信家鐔の錆び色を観ていると、こちらが本当の「紫錆び」なのかなと思うもので、確かに紫色を感じる。太陽の下だと赤紫が強くなり、間接光のもとでは青紫が強くなる。そして、おだやかな光沢があり、この光沢に光の加減で「銀色」の要素が加わる(光沢については愛好家の手入れの考え方・方法でも変化する。中には、あまりに手入れをし過ぎて強い光沢を出すのを好まない人もいる)。

「紫錆び」の定義については、これ以上のことを言う知識もなく、また「紫錆び」という言葉にあまりにこだわり過ぎるのもどうかと思うが、この信家の紫色を感じる錆び色は渋さの中に華やかさも感じさせるもので、そこに、時代を経たものに共通する奥深さも感じる。

次に、この鐔の形状であるが、気持ち下膨らみの穏やかな長丸形なのだが、迫力を感じる。また、手に持って握ると何とも言えない安心感があって、ずっしりとする。法量は、縦84.4ミリ。横80.0ミリ、耳の厚さ5.2ミリ程度であるが、透かし鐔ではなく、板鐔だから、その分重さを感じる。強さとか、武張ることを意識していないで造っていると感じるのだが、作者の持つ力の為か、あるいは時代の持つ力なのかはわからないが、強烈な感じも受ける。

切羽台にかけて薄くなるようなこともなく、地における高低の変化はない。表側よりも裏側の方がわずかにフラットな感じであり、自然である。

地は槌目地だが、特に表側の耳の近くには焼き手をかけた時に出来た塊状鉄骨、湯だまり(表面が溶けて崩れたような変化)があり、それが地の景色となっている。 また裏の地は、それがもっと激しく、それに地に鍛え割れも切羽台の横と、下部左側にも出ている。本来は傷として忌むべきところなのだろうが、そんなのは「どうでもいい」という感じだ。
秋山久作氏は「鍛え割れ、切れ、フクレ破れのある信家には名品が多い」との言を残していると伊藤満氏に教わった。これが慶長期、桃山文化の気分なのだと思う。(「切れ」については現物で確認しておらず、今度、伊藤満氏に教わります。)

この信家には、地に打ち込み模様(地紋)が観られるが、この鐔のは太く、短いタガネが無造作に、打ち込まれている。鐔の表側の切羽台周りは、それを阿弥陀鑢風に打ち込んでいて何となく華やかである。阿弥陀鑢風の打ち込みは、切羽台の上部だけに見られるが、それは切羽台の下部には車が毛彫りされていて打ち込めず、切羽台の左右は後世に櫃孔が開けられて(現在は鉛で埋められている)、元の打ち込みがわからなくなっているためである。

地紋に加えて表側には、桜の花を適宜散らして毛彫りしている。左から中央の下部には半身の車を2つ毛彫りしている。これを水車と見る向きもあるが、この当時の水車の図は、例えば淀の水車などは桶が付いているのを多く見る。これは牛車の象徴としての車と考えて、牛車に乗っての花見を意味した図と解釈したい。『信家鐔集』にも80図に同様な図があり、秋山久作氏は「源氏車と梅花」としている。ちなみに秋山久作氏はこの手の花を梅としているが、花の先端が割れており桜だと思う。なお、この時代の後藤家の彫り物(乗真、光乗)には、きちんと牛車を彫って、そこに桜をあしらった目貫が存在する。また『信家鐔集』の96図には車は無いが、表が桜で、裏がこぼれ松葉の鐔も所載されている。

裏の地には、こぼれ松葉を適当に彫ってある。線が強くて、いさぎよい。こぼれ松葉=折れた松葉の形状は、矢が折れた様子のようにも見え、寂寥感も感じる。表側の華やかな花見と、裏側は戦いが終わって折れた矢が散乱するような寂しいこぼれ松葉。私には栄枯盛衰の様子を寓意しているように感じる。あるいは花見に興ずる平和と、戦いで敗者となる可能性もある戦乱を表現したようにも感じる。

ナポレオン戦争時のロシアを舞台に、トルストイは文学として『戦争と平和』を著した。信家は鉄鐔で、戦国時代から続く戦乱後の太平の世の中における栄華、それも、次に戦乱が起これば敗者となる可能性もある世の中を、同時代人として鐔の作品とした。こう書くと大げさな感もするが、このように感じさせるスケール感がある。

私が所蔵している「題目・生者必滅」鐔もそうだが、信家の毛彫の文字にも無常感を持つものがあり、この空気は身近に満ちていた時代と考えられる。表面は活力に満ちた時代だが。
この鐔を造った信家も、この鐔を求める武人も同様の世相の中に生きていたのだ。そして栄枯盛衰に、ある種の覚悟を持って生きていたと感じる。この覚悟が、今のように泰平をむさぼっている私などに覚醒剤になるのだろう。

鐔は耳が大事だが、以上のような地鉄の変化を受けて、耳の線も自然に変化している。僅かの変化であるが、ゴツゴツしている箇所もあれば、盛り上がったりしている箇所、また欠けて窪んでいる箇所もある。この変化が無作為の感じで何とも楽しい。耳は、このような状況であり、鉄骨は塊状鉄骨がいくつも出ているが、寝床で何日も撫で廻している中で、耳の上部に太い線状の鉄骨も出ているのを発見した。識者によっては尾張骨と言う鉄骨の形状である。

ともかく、槌目と地紋、それに毛彫りという信家の手技と、焼き手を加えた時の火の働きという人為を超えた自然の働きが混然となって迫ってくるのだ。加えて、私のような愛好家が、400年間、その手で愛玩し尽くしてきた結果としての地紋・毛彫模様がなるめられてきたような味まである。

私は、これまで2枚の信家(放れ銘…下図参照)を所持して鑑賞しているが、それらを観ながら「彫刻のような鉄鐔の王者・信家」という評を述べている。耳の叩きだしての盛り上がりや、切羽台にかけて薄くなっているような地の変化と、木瓜形の形状などが、そのような印象を与えてくれるのだと思う。
笹野大行氏や伊藤満氏は「信家は塊でみる」と表現されているが、この太字銘で家のウ冠が「つ」の字のような信家は、形状は長丸形であり、切羽台にかけて薄くなるようなこともなく、同じ三次元を感じても「塊」と言うのも、よく理解できる。観る人は観るものだと改めて脱帽する。

今回、改めて感じたのは、信家の地紋、毛彫りという作者・信家の技と、焼き手をかけることで火熱によって自然に生じた肌の融合が、陶工の技と窯の火熱によってできる焼き物(=陶器)の肌と共通するということだ。焼き物を愛でる感性と共通するということが、桃山期の武人の感性・嗜好に合ったものだったのだろうなということである。茶道における桃山期の陶器が今に至るまで愛玩されているように、この嗜好は桃山期の武人だけではない。今の時代の我々にも共通する美意識なのだ。

この信家の裏面に観られる割れなども、陶器の鑑賞と共通するものだと思う。古田織部などは、わざっと茶碗を割って、それを継いで楽しんでいる。割れが生じても、平気で作品とする放胆さが、桃山芸術の気分なのだ。

太字銘信家と、この鐔の伝来について

現在、信家は放れ銘と太字銘の2種類の銘字を切る作者、すなわち非常に近い関係で2人は存在していたとされている。太字銘の信家は芸州銘の信家と同人とされ、他に「三信家」がいるので、これを含めると3人である。
伊藤満氏は、このほかに本来の意味で信と家が大きく離れた放れ銘の信家がいたと推定されている。

私の所蔵品として、これまで紹介した信家は放れ銘である。それに対して、この信家は太字銘であるが、伊藤満氏は太字銘の変遷も研究されており、この鐔のように家の字のウ冠が「つ」のようになっている時期のものは、芸州銘に移行する前の大成期の銘とされている。笹野大行氏は、この手の銘の信家を最も愛好されたと聞いている。

芸州住信家は、福島正則の広島入城(関ヶ原後の慶長5年(1600)10月に領地が決まり、入城は慶長6年(1601)3月頃)か、浅野長晟の広島入城(元和5年(1619)7月)以降となる。
太字銘信家が福島正則に抱えられていたとの前者の説をとると、家のウ冠が「つ」の字の信家は慶長初期となるが、後者の浅野家抱え工説だと慶長末年〜元和初年頃と考えられる。20年近い差があるが、私は信家と作風の似た法安が紀州に縁があることから、浅野家(広島の前は紀州)に縁がある鐔工の可能性もあると考えているが、福島正則も広島転封前が尾張であり、尾張にも信家と一部、作風が共通する山吉兵がおり、今後の研究課題であろう。

法量は前述したが、縦84.4ミリ。横80.0ミリ、耳の厚さ5.2ミリ前後である。櫃孔は後開けを鉛で埋めている。小柄櫃の切羽台には金の当金(あてがね)を嵌めている。櫃孔上下における銀の責金(せめがね)と相俟って、名品だけに、このような加工にもお金をかけていることが理解される。

この銀の責金があることも、秋山久作氏の旧蔵の一つの証とされている。この鐔は、江戸期の伝来は不明だが、明治期には秋山久作氏の旧蔵となっている。なお秋山久作氏は、江戸期の中村覚太夫押形集を復刻したが、その中で「野翁は壮年より信家の鐔を好み、数多の信家鐔を見て、正真と信じて押形を取ったものが128枚に達した。其の中19枚は本集(信家鐔集のこと)に出ているもの」と前文に書いている。128枚の中の1枚であったことは間違いがない。

この鐔は、『鍔』(装剣小道具千代田会編 刀剣柴田発行)、『鐔の文化史』(服部治一郎著)の著作や、「刀装・刀装具初学教室30」(福士繁雄著…「刀剣美術」)や「信家鐔」(伊藤満著…「日本刀柴田発行の「刀和」で平成8年より42回連載)に所載されている。
また古い桐箱には日野松庵の箱書きなども残っている。古い鐔箱の落とし板の裏には大正十二年八月八日とかの文字の書き付けがある。

余談になるが、この鐔は以前に(株)刀剣柴田にいた青山氏が扱って、納めていたのを私は知っている。デパートの即売会の目玉商品とされたが、すぐに売れてしまい、もちろん私はその当時に実物を拝見していない。青山氏より、この鐔は社長・柴田光男氏の持ち物だったことを聞かされたことが記憶に残っている。

この鐔を愛でていると、私が所蔵していると言っても、作品が生まれてからの長い年月の中で、私が一時的にお預かりをしている御品という感じがする。

これだけの信家であり、以前の所蔵者もまだまだ愛着がおありで、私が手放す時は、イの一番に、この方に御声をかけることを約束している。

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