信家 「紋散らし」 鐔

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放れ銘の信家である。「信」の字は何とかわかるものの、「家」はつぶれていて、明確には判別できない。でも、この信家の鉄、真っ黒に輝く鉄は、以前、鑑賞会で同じような鉄の信家を観て驚いた記憶を甦られせてくれた。
そして、この木瓜形の形、切羽台にかけて薄くなる地鉄、巧みで強い耳の打ち返し、加えて地鉄の文様。まさに放れ銘時代の信家だ。

「家」の字は、中心穴を広げ、その後にまた狭める必要が生じた時に、責金ではなく叩いて締めた為に、つぶれているわけだ。

1.「紋散らし」鐔の作風

写真はほぼ原寸である。形は木瓜形であり、縦が7.8p、横が7.4pである。厚さは、切羽台の厚さは叩かれてより薄くなっているが3_弱である。例によって切羽台から耳の方にかけて厚くなっており、耳の高さ(厚さ)は高いところで、6.5_程度である。地に比べて耳が高い(厚い)感じである。打ち返しての耳の高さ(厚さ)が高いところで6.5ミリだから、耳の手前の地は切羽台の3ミリに比して、それほど厚いわけではない。あって4.5ミリ程度ではないか。

さて、「紋散らし」鐔の銘は放れ銘であるが、「信」は下の「口」の右側が欠け、「家」の字は7画、8画の払いが微かに見える程度でつぶされている。裏の切羽台右側には、上に「六」、下に「二」と読める切り付け銘が見られる。

地には表裏ともに写真のように桐紋、菊紋、巴紋などが散らしてある。
地鉄は深みのある黒で、輝いているような良い鉄である。左の耳には鉄骨が出ている。

記憶にあった、この地鉄と同じような黒く輝く地鉄の信家を、ご所蔵されている小道具の識者H氏にお電話をする。
その方は信家を数枚お持ちであり、当該する信家は、最初期作とも見なされているもので、木瓜形で表に龍が線刻してあり、裏に菊と桐唐草が毛彫りされている大ぶりな鐔である。切羽台の厚さは3_、耳の厚さは6.5_と、紋散らし鐔とほぼ同じである。(『信家鐔集』の8図としても掲載)

この信家も同様に「放れ銘」の中の初期作と考えられる。

この鐔は信家の放れ銘によく見るように「強さ」と「優しさ」が混在する感じを持つが、どちらかと言うと「優しい」印象が強い。

形は、信家木瓜と言う言葉もあるように、木瓜形であるが、耳が高く、耳の幅が細く、優美な感じを持つ。ただ地鉄は真っ黒でしかも艶がある。
笹野大行氏は「「放れ銘」のなかには。太い鏨で切ったものと細い鏨のものがあり、赤味がかって力強い地鉄のものと、精良で紫錆ともいえるものがある。いずれも、耳を打ち返した。おだやかな木瓜形のものが多く、菊花の打ち込みがみられるのが一般的である。」(『刀装具優品図譜第二集』尚友会)と書かれている。

「題目・生者必滅」鐔は赤味がかって力強い地鉄であるが、この「紋散らし」鐔は紫錆と言うより真っ黒で輝きがあるような錆色である。

そこに丸に桐紋(五三の桐か五七の桐かなどは判然としないが五三の桐と思う)と丸で囲んだ菊紋と丸がない菊紋、それに左三つ巴紋などが散らされている。そのほか、表の右下部に判然とはしないが、酢漿草(かたばみ)のような紋もかすかに見える。表左中には盛り上がった菊紋かあるいは別の撫子(なでしこ)のような紋も微かに浮かび上がっている。

裏も同様に桐紋と菊紋、それに左三つ巴紋であるが、裏下左にある少し小さめの紋は酢漿草なのか梅なのか。また裏右に微かに見えるのは桔梗なのか梅なのか、よくわからない。

このように菊紋も含めて散らしている為か、放れ銘信家によくある菊花の打ち込みは見られない。

菊紋、桐紋は皇室の紋であり、それが有力大名に下賜されたものであり、格が高い。また巴紋は神社の紋として有名であり、これまた格の高い紋所である。
これが品格を高め、優美な感じを助長しているのであろうか。

ただ耳は強く、張りつめた感じがして、ただ優しさだけでは終わらない強さがある。
また地は磨き地ではなく槌目の後が感じられ、逞しい感じもある。

全体に小ぶりな点も「優しい」印象を強めているのだと思う。

2.信家の出自と時代について

(1)室町末期から安土桃山の拵

『打刀拵』(小笠原信夫著)に室町時代の打刀拵や、その時代の高級武士のいわゆる天正拵や、慶長、元和の拵(桃山拵)が多く掲載されている。これらを見ると、鐔は比較的薄いことが理解できる。(本には耳の厚さが記してあるだけなので、切羽台の厚さまでわからないが、たとえば有名な拵では次のような状況である)

これは、古甲冑師鐔や古刀匠鐔が薄いことからも理解できる。ただこれら拵には、俗に言う古甲冑師鍔や古刀匠鐔ではなく、変哲もない薄手の板鐔が付いており、やや不思議な感じがする。今の鑑賞基準で言えば、これらの拵に付いている板鐔よりも、古甲冑師鍔や古刀匠鐔のほうが作位は高いと思う。
さらに不思議なのは尾張鐔、金山鐔、京透かし鐔などの時代が古いと言われている透かし鐔がついている拵がほとんどなく、板鐔が多いことである。(明智拵だけに透かし鐔がついているが、古正阿弥風の鐔である)

透かし鐔が付いたうぶな天正拵を私が知らないだけかも知れないので、ご存じの方がいたら教えていただきたい。また今後新たに発見される可能性があるが、次のような仮説も成り立つと考えられる。今後の研究課題である。

  1. 透かし鐔は高級武士はあまり好まなかった。松宮観山の書に「金山鐔は町人か好む」という記述があるとも聞いている。

  2. 透かし鐔は、さらに大切にされていて、日常の拵には使われていなかった。

  3. 透かし鐔は古く見えるが、実際の時代はもう少し下がる。

(2)信家の初期作の薄さ

諸書では信家の特徴として、「やや厚手に造りこむ」という趣旨の説明が多い。しかし、放れ銘の信家には、地はこのように薄手のものも多い。もちろん、耳の厚さまで考えると、この鐔でも6.5_程度あるから厚い方となる。

前述した拵の実態から、同時代の信家も薄いことが理解できると思われる。時代の反映である。私はこの鐔の切羽台の薄さと、打ち返しの耳を観ていると、古甲冑師鐔からの移行を感じる。

信家鐔の解説に、鐔が厚いから「耳から切羽台までの厚さを減じている微妙の感じ」や「菊花などの打ち込みで微妙に平肉の変化をつけている」ように説明しているのもあるが、この鐔程度の薄さでも、地の微妙な平肉の変化などは実現できるのだと認識を新たにする。

また上記の上杉家の拵ではないが、上杉家伝来の拵に付属している山銅製の鐔は、太刀鐔の応用のようにも見えるが、薄い鐔で耳を厚く打ち返している。
耳を厚く打ち返す場合には、地が厚いと、更に耳が厚くなり、実用上、使いにくいに違いない。

厚いことをことさら説明している信家の鐔を見ると、耳を打ち返していない板鐔が多いことに留意すべきである。

(3)木瓜形は太刀鐔の影響

信家は現在の研究では尾張の鐔工で、時代は室町末期から安土桃山時代。「放れ銘」が初代、「太字銘」が二代(後に芸州に移住か)、「三信家」が三代と言うのが多数意見である。(笹野大行氏は太字銘の方が古く見えることから兄弟のような関係ではなかったかとも言われている。いずれにしても芸州信家が太字銘と非常によく似ていることから「放れ銘」→「太字銘」→「芸州銘」(もちろん太字銘同人も考えられる)と見る方が説得力は高い)

信家の時代の打刀拵は前述した通りであるが、この時代および前の時代の太刀拵として現存するものには、木瓜形の太刀鐔がかかっていることが多い。

太刀鐔ではなく、打刀鐔における木瓜形を信家は創ったのではなかろうか。(信家の鐔が打刀用なのはこの紋散らし鐔でも、紋の上下で理解できる)

下級武士は打刀拵で戦っていたが、戦国乱世はこれら拵で戦っていた下級武士を実力で出世させた。
出世した下級武士は、高録を得ても身に付ける武器は、相変わらず打刀拵を求めたのではなかろうか。ただ外装は出世に応じて豪華になる。この時、高級武士の太刀拵にかかっていた木瓜形の太刀鐔を打刀拵用に作った信家は魅力的だったのではなかろうか。言い換えると、信家はこのような自分の才覚で高級武士になった層の嗜好をうまく捕まえたのではなかろうか。

さらに時代が下がり、桃山時代末期から江戸初期になると豪快な気風が強まり、円形のままで、少し厚手の信家に作風を変化させたのではあるまいか。(太字銘の方は木瓜形が少なく、やや厚手となる)

(注)私は「截断銘流行の背景」を書いたが、この時、かぶきものの横行、旗本奴、町奴などの横行した江戸初期の風俗を認識した。(こういうかぶきものの刀は長大になり、鐔はおそらく太字銘信家どころではない、豪快なものになったと思われる)

(4)信家ブランドと市場性(時代と出身地について)

銘を切るとはどういうことか。
勝矢俊一氏は金家鐔について述べた文章に「私はツバに銘が刻されるようになったのは、ツバが特定の人のみによる契約製産から、市場性を持った一般商品製産の形をとるようになった事が原因だと考えている。だから城下町が出来るということと密接な関係にある。したがって時代も織豊時代からだと主張している。」と記されている。
非常に説得力のある文章である。

鐔の三名工の一人の埋忠明寿は「埋忠」銘を刀剣において天正16年(1588年)から切っているが、刀剣で「明寿」銘は慶長3年(1598年)であり、慶長12年頃(1607年)から元和(1615〜1623)にかけて多くなる。
信家と並ぶもう一人の名工金家は「伏見住」と切るように、伏見城下が出来た時からと考えるべきである。その伏見城は文禄元年(1592年)より着工し、完成した城に秀吉が文禄4年(1595年)に入るが、すぐに地震で倒壊し、慶長元年(1596)に移築されている。そして伏見城は一国一城令で廃城になるまで約30年間続く。

明寿、金家とも同時代である。そして京都である。

私は、この優しい感じを与える信家を見ていると、信家も、やはり同時代の作者で場所も尾張ではなく京都なのではと考えはじめている。(後藤家においても自身銘が見られるのは、諸説があるが桃山時代の光乗、徳乗からである)

ただし、太字銘信家に有縁と考えられる芸州信家は福島正則の広島転封(慶長6年1601年)についていったとされているが、こう考えると放れ銘信家はもっと時代を上げるのが妥当という説も説得力がある。ちなみに福島家は元和5年(1619年)に取りつぶされている。その後、紀州から浅野長成が移ってくる。この浅野家には法安が抱えられている。信家も福島家ではなく、浅野家に抱えられたと考えることも可能だろうか。

太字銘信家が、芸州住信家の前と考えると、明寿、金家と同時代となり、放れ銘信家は室町末期となる。ここにおいて笹野大行氏の放れ銘信家と太字銘信家が兄弟のような関係ではないかということも一考に値する。

3.祐乗の黒と信家の黒

後藤家初代祐乗は、銅に金を混ぜることで見事な漆黒の赤銅を開発した。室町時代の水墨画の伝統が黒を進化させたような感じである。
私はこの「紋散らし」鐔の見事な黒く輝く地鉄を見ている内に、信家は鉄で、室町時代の水墨画の黒を進化させたのではないかとの思いも浮かんできた。

後藤家の彫物には、木や葉に虫食いの跡などをわざと彫ったりしている。この鐔も地に凹みのような打ち込みも観られる。もちろん、後の世に傷ついた可能性も大きいが、後藤家の虫食いと同様に当初から施していたような気もしている。

では放れ銘信家は、祐乗など後藤家上三代と同時代なのであろうか。

この問いに対しては否と答えたい。後藤家でさえ、光乗と伝えられる銘はわずかであり、埋忠家でも前述したような時代から銘を切っているからである。

「祐乗の赤銅による漆黒の発明、信家による鉄地での輝く黒の発明」
皆様は、どう思われるか。

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