伊藤 三平
はじめに
この「桐・三階菱透かし」鐔は品格を感じさせる鐔である。加えて図柄が紋であり、取っつきにくさを感じていたが、何度も触り、観るという鑑賞を続けている内に、見えてきた景色がある。(これまでは三蓋菱紋としてきたが、紋関係の各書では三階菱紋の使用が一般的であり、ここでは三階菱を使う)
透かしは桐紋と三階菱紋であるが、この鐔が製作された時代の室町時代後期では、三階菱紋は畿内・四国に覇を唱えた阿波の三好氏が使用したものである。また桐紋も阿波守護の細川氏の一つの紋であり、阿波(徳島県)に多い紋である。
阿波三好氏は後に滅ぼされた為に現在では知られてはいないが、織田信長上洛以前の天文・永禄期の三好長慶の時代には、畿内・四国の9カ国を支配し、実質的な三好政権を築いている(松永久秀も同じグループ)。
一族には刀剣目利きとして名高い三好釣閑斎(ちょうかんさい)がおり、他にも文化レベルの高い武将がいる。趣味の良い刀装具を持つことに不思議はない。
そして、興味深い史実として、永禄4年(1561)2月1日に、足利義輝将軍から、三好長慶・義興父子と家臣の松永弾正久秀に、桐紋と塗輿の使用を許されたことがある。
この鐔の持つ品格と、以上の事実から、この鐔は三好一門の注文で作成されたものではなかろうかと推論している。
この推論を推し進めていくと、巷(ちまた)で尾張透かし鐔とされているものは、実は三好一門が治めていた京都、奈良、堺あたりで作られたものではないかとも考えられる。”尾張透かし鐔”という分類名称にも問題提起をしておきたい。
縦77.8×横76.1×耳厚5.9、切羽台5.8、角耳小肉 『透鐔』笹野大行著より |
私が撮った写真。桐紋における毛彫りもわかる |
そして、「正式の場、公(おおやけ)の場の佩刀に着用しても恥ずかしくない品があり、同時に武家としての力強さもある鐔だ」と結んでいる。
その後、見続けての印象を追記しているが、高い品格に言及しているところは同じである。具体的には「この高い格調をともなった品格には頭が下がる」、「透かしは丁寧である」、「造形に加えて漆黒に輝く黒錆びは、後藤本家のひときわ際立つ赤銅と共通する色であり、本当に真っ黒で照り輝いており、これが格調を一段と高めている」と書いている。
今でも、この印象は変わらない。以下に述べる論述も、この品格があっての推論である。
2.三階菱紋の分布
この透かし文様に使われている三階菱紋は、それほど一般的な紋ではない。そこで、この紋を切り口に調べてみた。
(1)菱紋の分布
三階菱紋は、武田菱、松皮菱などと同様に、菱紋の中に分類される。
『家紋の事典』(高澤等 著)によると、日本には多くの家紋があるが、大別して多い順に並べると「酢漿草(かたばみ)」9.27%、「木瓜」7.73%、「鷹の羽」7.17%、「柏」5.84%、「藤」5.54%、「桐」5.17%、「蔦」4.58%、「梅」4.58%、「橘」4.40%、「目結い」3.85%、「菱」3.82%、「茗荷」3.63%、「巴」3.22%と続く。
すなわち菱紋は、日本では11番目に多い大紋である。もっとも日本の紋の種類は膨大だから、多いと言っても日本の紋全体の中では各種菱紋全てで4%弱である。
同書には、上記の大紋の都道府県別の分布図が出ている。菱紋の都道府県別分布は下図の通りである。
山梨県が多いのは甲斐源氏新羅三郎義光の流れをくむ武田氏の紋章による。徳島県も多いが、これは鎌倉時代の守護小笠原氏(甲斐源氏新羅三郎義光の流れ)と、その流れを汲むという戦国期に活躍した三好氏の紋章であるからである。
(2)桐紋の分布
同様に日本で6番目に多い桐紋の分布は次のようになっている。
桐紋も徳島県が多い。なお、桐紋は太閤桐でも有名だが、足利将軍家の紋の一つでもある。徳島県が多いのは、室町時代の阿波守護家細川家が足利氏の流れを汲み、その紋の一つだった為と考えられる。
「(1)菱紋の分布」と「(2)桐紋の分布」を改めて見て欲しい。菱紋と桐紋が共に多い県は、徳島県だけであることも理解できる。
(3)徳島県で三階菱紋を使う氏族
三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった小笠原氏の末裔と称している。阿波三好郡を所領にしたために三好氏を名乗る。小笠原氏は甲斐源氏で、紋は三階菱紋であり、その流れの三好氏も三階菱紋を使う。
室町時代は阿波守護の細川氏に替わるが、三好氏はその被官として勢力を伸ばしており、戦国時代には阿波、淡路、機内にも所領を広げている。
三好長慶の紋は次のように、三階菱に釘抜き紋と言われている。
三好長慶の紋(三階菱に釘抜き) | 小笠原氏(三階菱) |
なお徳島県については、『阿波国家紋大図鑑』(桒井薫 著)という立派な家紋の調査資料が出版されている。この書は「中世阿波国武将家紋図鑑」と「蜂須賀家家臣家紋図鑑」に章立てされている。
「中世阿波国武将家紋図鑑」の方は古書『阿波國旗下幕紋控』(元亀3年刊)に基づいている。この書は三好氏諸武将の家紋を集約したものといわれている。桒井氏の著作では、このほか『阿波國徴古雑抄 巻三 故城記』(阿波國旗下幕紋控と内容が似ている)なども参考にしている。
なお、この史料では、三階菱を松皮菱と書いているが、掲図が三階菱であれば、三階菱と分類する。そして同書から、三階菱を使った氏族を洗い出すと以下の通りである。いずれも鎌倉時代の守護小笠原氏の支流を唱えている。幕紋の為か、三階菱紋ともう一つの紋を使っている家が多い。三好長慶の三階菱紋に釘抜き紋も同様な使用方法(幕紋)と思われる。
撫養、嶋田(島田)、佐井田、太代、姫田、馬詰、野江、板東、北原、得命、赤沢、下熊野、高志、堤、野中、堀江、七條、内羽、安養寺、寄来、高畠、八千蔵、一ノ宮、河南、早淵、石川、矢三、折野、武重、赤沢、立江、坂西、三好、上野、松尾、敷地、福永の諸氏が三階菱紋にもう一つの紋という組み合わせである。
三階菱に十文字を入れた高輪氏、陰と陽の三階菱紋を並べた麻植、重清、貞光、西村、大炊、原、南、中氏も、広義には三階菱紋で小笠原氏流である。
(4)徳島県で桐紋を使う氏族
『阿波国家紋大図鑑』における「中世阿波国武将家紋図鑑」から、桐紋を調べると、守護の細川家(五七桐)、その被官仁木氏(五三桐)がみられる。
仁木氏も一族には丹波等で守護を勤めた家もある足利一門である。
『都道府県別 姓氏家紋大事典ー西日本編ー』(千鹿野茂 著)は、現代における紋の分布を県ごとに調べた本であるが、ここで、徳島県で桐紋を使用している姓氏は、細川、仁木、十河、篠原とのことである(ここでは細川氏も五三桐紋としている)。
十河氏は三好長慶の弟が養子に入った家であり、篠原氏は三好家の重臣の家である。なお十河家の本来の紋は「公饗(くぎょう)に檜扇」というものである。
3.三好氏について
三好氏は鎌倉時代に阿波国守護になった甲斐源氏小笠原氏の支流として、阿波三好郡を本拠とする。室町時代には阿波守護の細川氏に従って活躍する。
室町時代は、応仁の乱でもわかるように将軍家からして同族で争い、管領の細川氏も同族で争い、また阿波守護の細川氏も、その被官の三好氏も多くの支流に分かれて紛争を繰り返しており、非常に理解しにくいので簡単に記していく。資料は『戦国人名辞典』に準拠する。
(1)三好之長(1458~1520)
三好氏が勃興したのは三好之(ゆき)長(長禄2年~永正17年)からである。阿波細川氏の細川成之に属し、管領細川勝元に従い、応仁の乱で東軍の武将として参加する。勝元の子細川政元の養子に阿波細川家から澄元が迎えられると、これを支え各地を転戦して武功を挙げ、畿内にも大きな影響力を持った。そして政元から細川京兆家の直臣となることを望まれ、これを受けた。これ以後、三好氏は細川京兆家の重臣の一つとなる。
(2)三好元長(1501~1532)
三好之長の子が長秀でその子が三好元長(文亀元年~天文元年)である。同様に細川家とともに足利将軍家の内紛に巻き込まれて戦う。大永8年(1528)7月には、それまでの功績により山城国下五郡守護代となり、京都を支配するが、摂津、堺で戦い敗死する。
(3)三好長慶(1523~1564)
次いで、三好元長の嫡男三好長慶(大永3年~永禄7年)が10歳で家督を継ぐ。一族の三好政長が力を付けるが、三好長慶も長ずると能力を発揮し、弟の三好実休(阿波)や安宅冬康(淡路)、十河一存(讃岐)らと協力して、父の仇の敵勢力を次々と破り、細川家中に父以上の勢力を築き上げる。天文18年(1549)には細川高国の養子氏綱を擁立、細川晴元に反旗を翻し、晴元の勢力を軍事面で支えていた三好政長を討ち取る。将軍・足利義晴と細川晴元は大津に逃亡し政権が崩壊した結果、長慶は戦国大名として名乗りを上げた。
天文19年(1550)5月、足利義晴が死去。その子足利義輝は六角定頼を烏帽子親として元服していて、長慶と敵対する。長慶は足利義輝と戦って近江に追い、畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)や四国(阿波、讃岐、淡路)と合わせて9ヶ国と播磨、伊予、土佐の一部を支配する大大名にまで成長した。
永禄元年(1558)に長慶は足利義輝と和睦し、幕府相伴衆として13代将軍・足利義輝を推戴し、足利義輝-細川氏綱-三好長慶という体制に移行した。とはいえ実権は長慶が握っていた。長慶は後に15代将軍足利義昭を推戴した織田信長と同様に、上洛し都において室町将軍の役割である畿内地域の支配と地方大名の統制を間接的に担った、戦国時代初の天下人といわれる。
なお、この過程で松永久秀は頭角をあらわす。まず三好長慶の右筆(書記)として天文の初期に仕え、天文11年(1542)には三好軍の指揮官として山城南部に在陣した記録があり、
永禄3年(1560)には興福寺を破って大和一国を統一する。
長慶の嫡男・三好義興と松永久秀は共に将軍義輝から相伴衆に任じられ、永禄4年(1561)1月には従四位下に昇叙され、2月1日には三好長慶・義興と一緒に、足利義輝から桐紋と塗輿の使用を許される。
以降、三好家は衰運となり、永禄四年には長慶の弟の猛将十河一存が病死。永禄五年三月には、和泉で三好実休(義賢)が戦死。そんなこともあり、長慶は政治への意欲も失い、その指導力も低下していった(このあたりは松永久秀の謀略説もある)。
永禄六年、将来を嘱望していた嫡男の義興が急死すると、ついには連歌・茶の湯に明け暮れる文化人となり、ほとんど「恍惚の人」になってしまった。永禄7年五月には松永久秀の讒言を信じてもうひとりの弟安宅冬康を殺害する愚行をなした。それから二ヶ月後の七月、三好長慶は病死した。
(4)三好義継(?~1573)
長慶の死後、養子の義継(十河一存の子)が家督を継承した。松永久秀および三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と協議し、長慶死後の京畿における三好勢力を保持しようとした。しかし、三人衆と久秀との間はとかく不協和音が生じ、ついには武力抗争に発展した。永禄7年には足利義輝将軍を松永久秀と一緒に殺害したり、東大寺を焼いたりしている。
そして、永禄十一年(1568)十三代将軍義輝の弟義昭を奉じた織田信長が上洛すると、松永久秀とともに信長に従属し、河内北半国を宛がわれるが、後に信長に背き、天正元年(1573)、若江城において佐久間信盛率いる織田軍に攻められ落城、妻子とともに自害して三好氏嫡流は滅亡となった。
(5)その後の三好一族
三好釣閑斎は三好政康(享禄元年~元和元年)のことで、三好長慶の死後、養子の義継(一存の子)を守り立てた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の一人である。
永禄十一年(1568)には三好義継と離れて、阿波に逃げ、以降は信長と戦う。後に豊臣秀吉・秀頼に仕え、大坂夏の陣で戦死。88歳。三好清海入道と同人とある。
三好釣閑斎の履歴については『戦国人名辞典』を使ったが、「戦国武将目利者 三好釣閑斎の研究」(生野勇 著)(「刀剣美術」1989年4月号)という論文に、刀剣関係のことが詳しい。なお、ここでは三好釣閑斎(享禄元年~元亀元年四月二十七日没)とあり、私としては生野氏の説の方が本当ではないかと考えている。
三好一族の阿波の三好長治は信長に抵抗をつづけていたが、天正三年(1575)、十河存保とともに信長に降る。勝端城主として細川真之を奉じ、阿波一国を支配していたが、重臣の篠原長房を攻め滅ぼすなど愚行を演じ、天正五年(1577)には、細川真之が兵を挙げ、一宮・伊沢・吉井の諸氏が真之に味方したことで、ついに長治は敗れて別宮浦で自刃して果て、大名三好氏は滅亡する。
その後、一族の十河存保が勝端城に拠って讃岐の諸将に号令したが、天正十年(1582)、長曽我部元親と中富川で戦い、大敗北を喫した。かくして、阿波一国は長曽我部氏の支配下におかれ、十河存保は豊臣秀吉を恃んで大坂に奔った。
(6)三好釣閑斎(政康)と三好一族の風流
三好釣閑斎(政康)は、長慶死後、養子の義継(一存の子)を守り立てた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の一人であり、前述したように享禄元年~元亀元年に活躍した武将で、刀剣目利きとしても有名であった(没年は「戦国武将目利者 三好釣閑斎の研究」(生野勇 著)(「刀剣美術」1989年4月号)の説を採用)。
生野氏の論文によると、戦国時代の刀剣目利きと謳われた三好釣閑斎は、刀剣鑑定を本阿弥光心とその子光刹に学ぶと言う。ちなみに光刹は光徳の父、光悦の叔父である。そして釣閑斎の刀剣鑑定の弟子に細川玄旨、宮木入道、松永右衛門佐、篠原油雲斎、岩主慶友がおり、『三好下野入道殿聞書』『宮木入道伝書』などが残されている。
三好一族は趣味教養の面で広く、かつ深いものがあり、三好長慶は和歌・連歌・禅、三好実休(義賢)は和歌に優れ、茶道も武野紹鴎・千利休に学び、安宅冬康は歌と書に優れ、茶の湯を好み、堺の津田宗達らと茶会を催す。三好宗三の茶の湯も当時有名であった。三好釣閑斎も永禄7年11月15日に天王寺屋の大座敷での振舞いの会(茶の湯)にも招かれており、茶の湯もたしなんでいた。また能、特に鼓打ちに優れ、永禄4年閏3月12日に将軍義輝の指名で鼓を打っている。
釣閑斎所持の名刀に、西方江、大般若長光、鷲の巣行光、法城寺の薙刀などがある。また三好一族所持の名刀には、三好正宗、三好江、実休光忠、安宅貞宗、十河正宗、宗三左文字(義元左文字)、薬研藤四郎がある。同論文では、三好一族の名刀蒐集に三好釣閑斎の指導・助言があったと考えられると推論されている。
松永久秀も茶人としても有名であり、その最期において茶道具『平蜘蛛の茶釜』と共に爆死したエピソードは有名である。
(7)松永久秀(1510?~1577)
松永久秀は出自は不明だが、山城国西岡出身とも伝わる。三好長慶に仕え、三好一族を凌ぐようになる。三好長慶の右筆(書記)として天文の初期に仕え、天文11年(1542)には三好軍の指揮官として山城南部に在陣し、永禄3年(1560)には興福寺を破って大和一国を統一する。
永禄4年には、三好
長慶、嫡男・三好義興と共に将軍義輝から相伴衆に任じられ、1月には従四位下に昇叙され、2月1日には三好長慶・義興と一緒に、将軍から桐紋と塗輿の使用を許されている。永禄7年には足利義輝将軍を三好義継と一緒に殺害したり、永禄10年に東大寺を焼いたりしている。永禄11年(1568)に十三代将軍義輝の弟義昭を奉じた織田信長が上洛すると信長に降り、大和一国の支配を認められ、朝倉攻め、石山本願寺攻めに加わるが、天正5年(1577)に信長に背き、信貴山城で自爆。
ちなみに松永久秀の紋は蔦紋とされているが、三階菱紋も使用していたとする資料(『苗字から引く 家紋の事典』高澤等著より)がある。三好氏との関係を考えれば、三階菱紋も使用していたと考えるのは自然である。
4.紋の変形について
この鐔における三階菱紋は、下段が大きく伸びている。尾張鐔の良いものに見られる”図柄が外へ外へと広がる”ような印象を与えるものである。(当HPにおける金山鐔「松皮菱紋透かし」で説明)
紋は改まったものであり、変形などは許されないものと、私は考えていたのだが、以下の小柄(後藤乗真作 廉乗極め)を観て、認識を改めた。この小柄の紋様は三階菱ではなく松皮菱だが、細長い小柄におけるデザインとして、中太菱を思い切りデフォルメをして伸ばしている。この鐔の三階菱の下太菱を伸ばしても不思議はないし、むしろ、そのようにデフォルメするのが当時の人にモダンだったのかもしれない。
乗真作 廉乗(花押) 『刀装金工 後藤家十七代』より |
5.この鐔が生まれた経緯に関する推論
以上の検討を踏まえ、この鐔の誕生に関して、次のような仮説を立てておきたい。
<根拠>
品格のある作風。
三階菱紋と桐紋を丁寧に透かしている。一般的な図柄では無いだけに特別な注文=この紋に関係する人物の注文ではないか。
室町時代後期において、三階菱紋に関係するのは阿波から出て畿内に大勢力を張った三好長慶を中心とする一族である。桐紋も阿波守護細川家の紋であり、両紋はともに阿波に多い。
三好一族は、刀剣鑑定の大家:三好釣閑斎(政康)や、和歌・連歌・禅で名高い三好長慶、和歌に優れた三好実休(義賢)、歌と書の安宅冬康と文化レベルは高い。総合的な美意識が必要となる茶道も嗜んでいる。松永久秀も同様である。
三好本家と松永久秀は将軍家から永禄4年に桐紋の使用を認められる。
<仮説>
この鐔は、足利将軍家から三好氏に桐紋の使用を許された時(永禄4年)の記念品ではなかろうか(松永久秀の紋も一書に三階菱と記されており、松永久秀の注文の可能性もある)。
武家目利きの三好釣閑斎の注文で作られた鐔ではなかろうか。
三好一門は総じて文化レベルが高いから、その他三好一族からの注文ではなかろうか。桐紋使用の一門との縁(例えば婚儀)が生まれた時の記念ではなかろうか。
そして、この鐔の製作地は三好一族の勢力下の畿内、四国、具体的には京都、奈良、堺あたりではなかろうか。この品格と漆黒の鉄味を見ていると、後藤家が関与した鉄鐔職人がいれば、このようなものを製作したのではなかろうか。
6.尾張透かし鐔の分類名称への問題提起
(1)「桐・三階菱透かし」鐔は「尾張透かし」鐔らしい鐔
上記の仮説に従うと、尾張透かし鐔という名称も再考を要することになる。1枚の「桐・三階菱透かし」鐔を尾張透かし鐔を代表するように取り上げて尾張透かし鐔を論じるのが良いのかという批判もあると思う。
まず、この1枚は尾張透かし鐔らしいものであることを述べておきたい。この鐔は、『透鐔』(笹野大行著)に所載されている。そこでの笹野大行氏の解説は次の通りである。
「上下に桐、左右に三階菱を透かしている。精良な地鉄。造り込みも慎重、入念の作である。耳に肉をつけ、丸耳に近く、おだやかであるが、骨格のしっかりした骨太い造形である。」
以下は、笹野氏が尾張透かし鐔全般の作風を論じている箇所である。アンダーライン部分は、この鐔の作風と、尾張透かし鐔全般の作風が共通している部分である。
「尾張は紫錆の精良な地鉄のものが多く、手強く深みがある。平肉・耳に動きがあり。造り込みは慎重・入念で、切羽台・櫃孔など、すべて堂々としている。重厚・謹厳で、骨格がしっかりし、骨太く、論理的である。」
上記のアンダーライン部分の共通性から、この鐔から尾張透かし鐔全般を論じることに、ご寛容をお願いしたい。
(2)現存する天正拵に尾張透かし鐔が使われていない不思議
鐔は拵を構成する一つであるが、室町時代の拵に尾張透かし鐔が付けられているのを観ないのが不思議である。こう書くと、伊藤の不勉強と言われる可能性もあるが、私の周りの識者に伺っても同意される。
拵は衣服、ファッションの一部であり、柄糸などは劣化する。鞘の塗りも禿げたりする。そこで古い時代の拵は廃棄され、作り替えられているのが大半であり、尾張透かし鐔を外されていたり、逆に新たに付けられている可能性もある。
こういう状況だが、大名家の藩祖の拵には、さすがに生ぶなまま残されているものを観る。
『打刀拵』(小笠原信夫著)に、このような伝来を持つ、時代が上がる天正拵、慶長拵が掲載されている。
江戸時代の大名家の多くは、天下を制した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地の三河、尾張、美濃を出自とする家が多い。すなわち尾張透かし鐔の本場のはずである。
しかし、これらの拵にも、俗に言う尾張透かし鐔は付いていない。藩祖自身に審美眼が無くとも、刀剣は一流のものであるからには、拵製作者も気を遣うはずである。徳川家康の使用した鐔が尾張徳川家に「残雪」「あけぼの」と銘されてあるが、写真での鑑賞になるが、何の変哲も無い古甲冑師、古刀匠風の鐔である。分部志津の刀には「車透かし鐔」である。ちなみに尾張透かし鐔だけでなく、金山鐔、京透かし鐔の名品もついていない。
このことから、私は、天下人に連なる大名などが生まれた三河、尾張、美濃では室町時代には、俗に言うところの尾張透かし鐔は無かったと考えたい。
法隆寺西円堂にも室町時代の打刀拵が多く残されている。これは上手(じょうて)のものが少なく、鐔が無い(欠損も含めて)ものも多いが、ここでも多いのは古刀匠、古甲冑師鐔のようなものであり、奈良近辺にも、尾張透かしなどは無かった可能性もある。
今後とも、資料の収集につとめたい。
(3)尾張透かし鐔の名称
そもそも尾張透かし鐔の名称も根拠の無いものである。明治の頃に、秋山久作が、肥後の名鐔工の林又七が尾張の鉄砲鍛冶の子孫ということから尾張における鉄鐔製作の伝統を意識し、加えて銘が無ければ尾張透かし鐔に見える「尾州住」の入った三代山吉兵を根拠として、初二代山吉兵も尾張、もちろん一群のこれらの良い透かし鐔を尾張でできた尾張透かし鐔であるという論理を形成したと認識している。(「刀装・刀装具初学教室(16)」福士繁雄著「刀剣美術」465号)
近年は、笹野大行氏が明治以来の尾張透かし鐔を、尾張透かし鐔、金山鐔、古正阿弥と分類した。金山鐔についても、江戸時代の天保十年(1839)に刊行された田中一賀の著作では「金山透鐔 金山ハ山城国地名ナルカ姓ナルカ不知ト云ドモ世ニ唱テ珎重ス」とあるように、山城(京都)で製作されたと言われていたものである。
しかし、笹野大行氏は『透鐔』で「金山には京風のところはなく、山城の国で作られたとは考えられない。尾張の熱田や大野の金山、美濃の金山など諸説があるが、いずれとも決し難い。しかし、金山と山坂吉兵衛の初・二代の鉄骨のでかたが全く似ているところから、両者は関係が深く、金山は尾張地方で作られたと考えられる」と推論している。
要は作風による鑑定・分類による名称である。(私は分類については否定しない。尾張同様に、古萩という名称もおかしいが、京透かし、正阿弥とも違うとして一つの分類を設けたことは一理あると思っている)
(4)当時は京都が産業の中心
『物語 京都の歴史』(脇田修 脇田晴子 著)には、中国の宋や明への輸出品は大半は京都の産業から生まれたもので、それは刀剣類、蒔絵類、金屏風、扇などと記されている。延久5年(1073)に太宰府商人王則貞は高麗王に刀・弓箭を進じるという記録があるようだ。北宋の時代に欧陽脩の日本刀の詩ができていた。刀の時代区分で言えば古備前の時代である。
平安期には七条市あたりに集住していた刀工は三条、四条、粟田口に移り住むとある。そして、室町・戦国期はさらに活発となり、刀は信国、その拵は藤左衛門が有名だったと記されている。
奈良から運ばれてくる「数打ち」=藁で束ねてあるので「束刀」を元に、戦国期ごろには二条室町鞘の木彫り、塗師、柄、柄を巻く糸造り、鐔など、細かな分業で太刀飾りがなされ「拵え物」といわれて売り出され、「太刀屋座」という問屋集団が問屋制手工業で大量生産していたようだ。二条には鮫皮で有名な店もあった。
戦国期では、二条油小路に「拵え物」「仕立刀」といわれる刀屋があった。同様のものを売る「寺町物」より良いという評判であった。
江戸時代における鷹峯の本阿弥家は、もとは京都の今出川にあり、刀剣の拵え、目利き、研ぎ、ぬぐいなどを家職とし、鐔、柄、鞘、付属品を製作する職人たちも金工・木工、漆工や皮細工、紐細工の者も差配していたと記されている。
私は、当時の透かし鐔は古刀匠鐔、古甲冑師鐔などに比して高級品だったと思う。高級品であればいつの時代でも需要が限られ、どうしても大消費地で販売されるものになるのではなかろうか。大消費地とは、京都である。江戸時代の金山鐔と現在の金山鐔は定義も違うようだが、江戸の古書にあるように京都で造られたというのも根拠があるのではなかろうか。
桃山時代においても、在銘がある埋忠明寿は京都の鷹峯(本阿弥光悦の元)にもいたようだし、金家は京都の伏見と住地を明記している。ともに京都である。
『打刀拵』で小笠原信夫氏も、黒田如水の拵のハバキに「埋忠」の銘があり、京都の埋忠が製作したのではなかろうかと推測されている。細川三斎も、信長拵の小柄の取り合わせに思案して、千利休に相談したという逸話も、京都での製作を物語っている。
すなわち、二条室町の太刀屋座の系統、二条油小路の刀屋の系統、寺町物の系統などがあり、加えて後藤家、埋忠家の高級品工房も鉄鐔を造る職人を抱えていたのではなかろうか。
(5)鐔は生産地立地か、消費地立地か(結論に代えて)刀剣は、室町時代後期には全国的に生産されている。「末備前諸流」と「末関諸流」が2大産地だが、全国には「月山」「下原」「「末相州」「島田」「山村」「宇多」「薬王寺」「藤嶋」「千代鶴」「下坂」「千子」「若狭冬廣」「金房」「古水田」「道祖尾」「末三原(貝三原)」「法華一乗」「二王」「海部」「大石左」「平戸左」「末延寿」「高田」「末波平」と多くの流派が存在している。
こういう刀剣の産地には、全ての地で鉄鐔の生産があったと考えるのも自然である。古刀匠鐔、古甲冑師鐔などは、どこでもできたのではなかろうか。問題は質、作風だと思う。
前述の『物語 京都の歴史』では、刀は奈良から来て、拵に仕立てるのを京都としている。これは数打ちの例だが、高級品となると需要も限られ、高度な技術の発揮に恵まれた京都を中心と考えるべきなのだと思う。
以上から、現段階では、「尾張透かし」という地名を冠した分類名称だけに疑問を呈しておきたい。
今の「尾張透かし」がどこで製造されたのかについては、この一文で記した三好一門との関係から京都、奈良、堺というのも一つの説くらいにして、今後引き続き、検討を加えていただきたい。
おわりに
私が所蔵している鉄鐔の中で、この「桐・三階菱透かし鐔」と林又七鐔は、格調が高い。その分、親しみにくいものであったが、鉄鐔は骨董的な美術品で”いじる”ものである。いじりまくっている中で、「桐・三階菱透かし鐔」は、やっと自分の手の内に入ったような気がして、鐔の方でも語りかけてくれるような感じになってきた。
現代でも、刀剣だけの趣味の人は別だが、刀剣も刀装具も蒐めているという方は、刀剣の良いものをお持ちの方が、刀装具も良いものをお持ちである。そういう意味でも、この高い品格を感じる鐔は、刀剣愛好者として名高い三好一門の注文作という推論は、そんなにおかしなものではないと思うが、傍証はまったくない。
一方、
尾張透かし鐔という言葉も別に証拠になるものは残っていないのだ。小林秀雄が述べたように「鐔の研究分野は穴だらけ」なのだ。ただ、同じく小林秀雄が述べているように「(鑑賞では)見尽くされている」面があり、先人が尾張透かし鐔と分類して愛でているものは良いものが多く、私も分類名としては否定しない。古萩という分類名と同様であり、それなりに意味を持つ。
今の審査では「尾張透かし」の極めになっても「尾張透かし(江戸時代)」という記載も多いと聞く。尾張にこだわると、江戸時代の尾張透かしの鐔工とは誰ですか?になる。山吉兵の初代、二代は桃山時代までになり、すると、三代以下の山吉兵(桜山吉も含めて)か貞広、あるいは柳生鐔の作者と比定される江戸の古鉄五左衛門、当時の尾張鐔工の戸田彦右衛門、福井次左衛門、時計鐔の作家時悦一派、大野鐔の作家福茂・福重一派等が考えられる。秋山久作が観たという尾張鐔のような三代山吉が存在するのかもしれないが、無銘でこれほど存在するのであろうか。前述した、その他鐔工の作風は、尾張透かし鐔の作風と一致しないと思うのだが、どうなのであろうか。
尾張鐔問題はともかくとして、この鐔は 京都、奈良、あるいは堺(当時の日本の大都市)あたりの名工が造ったのではなかろうかと感じる。
特に漆黒の鉄錆色と品格から、見事な黒を赤銅で造りだした金工:後藤家が関与する鐔工の作品ではないかと仮説の一つに書いたが、自分の書いた内容を再読すると、4章で掲示した「乗真作 廉乗極めの松皮菱紋小柄」における中太菱を思い切り長く伸ばしてデフォルメした発想も、この鐔が後藤家関連(後藤家の指導も受けたことも含めて)という説の根拠になるかとも感じはじめている。三好釣閑斎あたりが「面白い」と言ったのかもしれないと想像は膨らむ。こういうのも楽しみの一つとご寛恕いただきたい。
なお、紋の話で進めてきたが、菱紋というと、私の金山鐔「松皮菱透かし」にも言及しないといけないと思うが、これは桃山時代の作品であり、また別の切り口から述べてみたい。(「桃山時代のファッションー「松皮菱文様」ー」として取りまとめた。お読みいただければ幸いである)