無銘(神吉楽寿)「笠透かし図」鐔

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無銘であるが、中心孔の上下の鏨から、神吉楽寿の鐔であることが明かである。『林・神吉』(伊藤満著)や「尚友会図録11」に所載のものである。
ひねくりまわして鑑賞している中で、「こういうことか」と感ずるものがありましたので、書いてみます。

『林・神吉』(伊藤満著)より

1.触覚による鑑賞

鑑賞は目で行うもので、触覚による鑑賞とは?と、思われる方が大半だと思う。しかし、この鐔は触覚ではじめて良さがわかったものであり、以降、書いていきたい。

(1)掌中の一片


この鐔の鐔裏面に若干錆びが出ていたので、赤錆び落としをして、その跡を拭いながら、何度も愛玩している中で「掌中(しょうちゅう)の一片」という言葉が浮かんできた。文字通り”手のひらの中にある鉄片”という意味であるが、この言葉を使うのならば通常は「掌中の一枚」になると思う。敢えて、この言葉が思い浮かび、それがしっくりすると思うのは次の理由による。

鐔の大きさは少し小ぶりで、私の手のひらにしっくり収まる(縦75.9、横72.7、厚さ耳2.2(切羽台3.3)ミリ)。そしてこの鐔は非常に薄いから、本当に鉄片という感じがする。その薄い鉄片だが、手のひらに収めて、指の腹で鐔の表面を愛でていると、その絶妙の肉置きに感心する。そうなのだ、この鐔の魅力は触覚によってはじめて理解できるものなのだ。

この鐔の魅力は、なかなか一般の方にはわかりにくいと思う。耳側に銀で二重の環を象嵌しているが、ところどころで象嵌は剥がれている。と言っても、これは剥がれたものではなく、はじめから時代を経た味を出すために、このような切れ切れの象嵌を施しているのである。今の時代の感覚では、名工・楽寿にきちんと象嵌を施してくれてもらえた方が綺麗で見栄えもいいのだが、これも楽寿の作家意識の現れなのだ。

そして、少し小ぶりで、厚さも薄い。刀が定寸以上あって身幅がある方が見栄えが良いのと同様に、鐔も一般的には、大きくて、ある程度の厚さがある方が迫力がある。

それから、透かしは肥後鐔によく見られる左右対象の大透かしである。肥後の大透かしは海鼠透かしや、影蝶透かしなどもあるが、この鐔のように、図案化した笠を透かしの模様にしているものもある。そして中心孔の下に、腕貫き紐用の孔を一つだけ開けている。これを笠にかかる雨粒を表しているととらえることも可能である。ただ雨粒にしては大き過ぎる。

肥後拵には、このような左右大透かしが合うと感じる。しかし透かし鐔の図柄としては、複雑で巧緻で華麗な方が愉しい。図柄も感情移入がしやすい具象的な植物、動物などの方がわかりやすい。一方、この鐔の透かし模様は、笠と言う、あまりおもしろみを感じないもので、しかも、やや抽象化されている(笠は宝尽くしの中の模様にも使われるが、他に宝尽くしと思える模様はないから、その意はないと思う)。

地鉄は磨き地ではなく、ガマ肌である。ガマ肌でも光沢はあるのだが、光沢だけで判断すれば磨き地の方が光沢も増して美しいと、普通の人は思うだろう。

(2)薄い鐔における平肉の変化

(1)節の後半で、鑑賞にあたって否定的な言葉を並べたが、手に取って、触覚も働かすと、その薄さにおける平肉の見事さに感嘆する。耳からの立ち上がり、透かしの際にかけての落とし具合が絶妙の魅力になっている。そして総ての場所において、平肉の調子は整っていて、本当に神経を使っていると感じる。
2.2ミリから3.3ミリの薄さにおいて、平肉の変化を付けているのだ。その約1ミリの変化で、これほどまでに豊かの芸術的印象を与えるのを、この鐔ではじめて認識した。

透かしている笠は、切羽台の方は、透かしの面(切り立て)へ、わずかにしか平肉は落としていないが、笠の外側は、切り立て面へかけての平肉の落とし具合が少し大きい。笠の天頂部はさらに大きいような印象である。
腕貫き紐用孔(雨粒)の周りは天頂部と同様に平肉を落として、鐔の切り立て面に入っている。

繰り返しになるが、上記言葉で書いた変化は約1ミリの中での、0.何ミリの変化である。

このような平肉の変化は触覚効果だけでなく、視覚にも訴えるのである。私がこの鐔の初見の時に「いい鐔だなぁ」と感じたのは、、水玉とも思える腕貫き紐用孔に吸い込まれるような深遠さを感じたためである。今から思うと、この第一印象は、孔の透かし際の平肉の落とし具合から生まれているのだ。こういうのは自分の所蔵品にして、触りまくる中でわかってくることなのだ。

幕末の時代である。鐔全体の地の仕上げの狂いの無さや、透かし、孔の周りの際の面取りの美しさは、手作業なのだと思うが、恐ろしい技術である。何か特別の機械、道具があったのであろうか。どうしたら、この薄い鉄を、少しの狂いもなく、ムラなく、しかも微妙な変化をつけて面を仕上げることができるのだろうかなどと考えてしまう。

(3)ガマ肌の味

ガマ肌と言っても、触るとぶつぶつしているのではない。少しざらついたような地肌であるが、磨き地の鐔を隣に置いて比較すれば、ツルツル度の違いはわかるが、大差はない触感である。

またガマ肌だからと言って光沢がないわけではない。しかし視覚では、柔らかさと深みが出る感じである。この深みが、平肉の調子からくる深みに加わるから、なんとも言えない感じになる。

このガマ肌を見ている時に、私は不思議なことに皮革を見ているような気持ちになった。鉄が革とは何ごとかと思われるかもしれないが、本当に、そんな感じなのである。黒革のベルトにおいて観たような既視感を感じている。革は、ご承知のように硬い中にも柔らかさを感じるが、その印象を鉄という金属で表現したように感じる。

ガマ肌とは鉄で皮革の肌合いを出すことを狙いとしたのではなかろうか。

その革のような感じが、暖かみにもつながるのだと思う。

この鐔の表上部に細い線状の傷のような肌が出ている。これが楽寿の特色で芋根と言われているものなのだろうか。
それから表下部に刀の地鉄にある地景のような筋状の鍛え肌がみられる。ここは鉄の輝きも違うから不思議である。混ぜた鉄の違いであろうか。
それから、笠の透かし際に鉄を寄せたような筋がいくつも見られる。鏨で透かしを抜いて、整えていると思うのだが、この筋を見ていると、鉄を叩き寄せながら笠の形に広げているように見えるから不思議である。本当に叩きながら寄せているのかもしれない。そんな加工をしたら、平肉の調子はもっとムラがでるように感じるが、前述したようにムラは感じさせない。

表・左下部の写真
笠の天頂にかけて寄せたような鉄。
下部の腕貫孔の横に地景のような肌模様。

鐔の裏では地景上の筋は上部にみられる。茎孔から腕貫孔にかけては鍛接面が少し割れているところもある。また1箇所、小さいが鳥の足跡のように見える傷もある。伊藤満氏によると、このような鳥の足跡のようなものは楽寿の作品にまま見られるようである。

ガマ肌は、伊藤満氏に教わると、又七にもあり、硬軟の鉄を混ぜて地鉄をつくり、梅酢で腐らかし(表面腐食)をしたものである。深信や楽寿は、その後に、炭で軽く磨いてムラをとっている程度であり、地鉄の鍛接模様が明瞭になる。
又七は腐らかしをしたあと、楽寿などとは違うもう一工程を入れて、完璧にしているので、このような鍛接模様は明確にはなっていないと伺う。

(4)銀象嵌の技術ー伊藤満氏の評ー

上記のように神経を使って完璧に平肉が微妙で、ガマ肌の地鉄を仕上げた反動として、周りの線状の銀象嵌を切れ切れにしたり、太さにムラを出したりして、あえて瑕疵になりかねないようにしたとも考えられる。後藤の彫り物における虫食いの彫りにでも見られるように、江戸時代は「全きは、欠けのはじめなり」という意識があった時代なのだ。

周りの銀象嵌については、他の肥後の作者と比較して上手いとかどうかの評価は私にはできない。中根平八郎の銀象嵌だけしか私には比較材料がないからである。

そこで『林・神吉』(伊藤満著)における伊藤満氏の評を引用したい。

「耳から切羽台に向かってゆるやかに肉を付け、平地はガマ肌である。透かされた笠と水滴は柔らかく感じが良い。耳際の銀象嵌も細く、微妙で調子が高く好ましい。やや小ぶりであるが、充実していて、楽寿の傑作である。」(『林・神吉』の262図の解説より)

2.楽寿の評価

楽寿は、鐔工としての神吉家の3代目である。『林・神吉』(伊藤満著)によると、文化14年(1817)~明治17年(1884)の生涯である。幕末の名工として名高いが、これは作品そのものの出来の良さと同時に、『肥後金工録』の中において長屋重名が高く評価していることによっている。

「余、先に熊本に在り。余暇を以て金工鑑定上の初歩を楽寿に受く。今、此の編の企は実に楽寿の賜なり。楽寿、口を開けば又七又七と云う。其の作行を説く。親切にして人をして金工門弟の如き感あらしめたり。又謙遜にして先輩諸家の作を見る毎に力及ばずと嘆す。実は楽寿の力域は諸家の右に在るも左たらざるべし。切に言う。諸家の如き楽寿と年を同じくせざるは幸いにして楽寿の不幸ならん。余は楽寿を称して又七後一人となす。決して過称にあらずと信ぜり」

作風においても「此の作、地鉄極めて精且美にして毎作形状より象嵌法及び透かし鑢、鑽、槌等一として精妙ならざるなく誠に最上の作たり。其の父祖は勿論、肥後古今作中林又七を除く外、皆三舎を避くべし。」と褒めている。
文中における又七以外は「三舎を避ける」とは、中国の故事による慣用句で、相手の強軍であることを畏れて、三日の行程も離れた所で陣を敷くという意味であり、相手に一目を置くと言うことになる。

またガマ肌については次のように解説している。
「此の作、鐔及び縁頭等の地鉄に一種のハダものを見る。其の状、雲の如く、又或いは蝦蟇の肌の如く、或いは芋根の如し。蓋し此の法、やはり又七より伝来のものならん。妙趣他人の夢でも見るあたわざる所とする。」

”妙趣他人の夢でも見るあたわざる所”とは、どういう意味かわかりにくい。「この妙なる趣きは、他人の夢の中でも見ることができないところ」と訳せるが、私には意味不明である。何か慣用句・言い伝えがあるのであろうか。いずれにしても、妙趣とあり、ガマ肌を褒めていることは間違いがない。

伊藤満氏は、このような長屋重名による「又七以外は楽寿しかいない」ような記述に対して、特に深信の低評価に対して、品物を比較しながら反論をされている。二重唐草象嵌を比較して又七のが、最も線が美しく細かいのは認めるにしても、次は深信が美しく細かい。楽寿はその次で二代勘四郎と同程度と評している。枯木象嵌も同様とされている。

伊藤満氏のコメントは、楽寿の評価を貶めるというのではなく、深信再評価とみるべきである。

私は、深信の透かし鐔を所有しているが、その鑑賞において書いたように、深信は真面目な性格でありながら、西垣勘四郎の雅味のあるものを造ろうとした苦悶のような感じを持つ。
楽寿は、この鐔に観られるように、古びた味わいを出そうとか、苦心したりの作家意識が強いと感じる。作家意識=独創志向であり、成功すれば芸術性は高くなる。
深信と違って、楽寿は明治になって、幅広く良いものを観ることができ、流派のしがらみをそれほどに感ずることなく、また長屋重名のような鑑賞者を交友を持つことで、のびのびとしているようにも感じる。職人として、そのような活動に制限があった深信の環境の違いはあるだろう。

おわりに

この鐔は笹野大行氏が所蔵されていて、その後に名品を多く持つ目利きのコレクターが長く愛蔵されてきたものである。
その間に、伊藤満氏が御著書に掲載するにあたって鑑賞して「傑作である」と評している。これらの人の鑑賞眼は大したものだと改めて思う。私と違ってグダグダと言葉では述べなくても、もっと早く真価を分かるのだと思う。私がここで書いた以外の良さを発見している可能性もある。

私は触りまくる中で、「こういうことか」と分かってきたが、鑑賞の道は、まだ遠いと感じる。救いは第一印象として「腕貫き紐用孔における深遠さ」を感じられたことであろう。

この鑑賞記で、鐔の平肉の大切さ(肉置きの大切さ)をご理解いただけたであろうか。刀の鑑賞においても、平肉をうるさく言う人がいる。畏友のH氏などもそうだ。こういうのは、実際に触って、そして観て、また触れて、そして観てを何度も繰り返さないとわからないのではなかろうか。私は、この鐔で教えていただいた。

触れて、観ての繰り返しとは、自分のものにしないとできない。こういう調子だとコレクションは増えてしまう。一見して、ある程度のところまでわかるようになりたいと切に思う。コレクションの増加は困ったことであるが、楽しいことでもある。

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