先に「両刃造り短刀の出現・流行・使用方法」(『麗』597号、599号)として、当時の武将の肖像画などから、馬手(右手)差しとして使われた両刃造り短刀の使用方法を明らかにした。左腰に差したものを、そのまま右腰側にグルッと回したような差し方である。すなわち、右腰で柄頭が身体の後ろに向かい、鞘を身体の前に出すという差し方である。このように差すと普通の刃は上向き、両刃の棟側の刃は下向きとなる。
こうすることで、馬手(右手)で柄を順手に握り、右腕を肘から後ろに引いて抜き、肘を戻す動作=刃を前に突き出す操作となって、素早く攻撃できる。腰のピストルを抜く動作と同じである。敵の鎧の隙間に貫入させることを狙いとする、反りは少なく、肘を後ろに引く可動域から短い方が良い。そして鎧の隙間貫入の第一次攻撃が失敗しても、刃が両方に付いているから、普通の短刀の時の動作で、下に切り払うなどの次ぎの攻撃ができる。
これとは別に法隆寺西円堂には、脇差程度の長さの馬手差し(栗形、返り角が通常の打刀拵とは反対側についている)の拵が多く残っている。この長さになると、上記のようにピストルのように抜くことはできない。
これに関して、戦国時代の合戦図屏風に描かれている武士(雑兵も含めて)は皆、左腰に太刀差し(打刀のように刃が上ではなく、太刀のように刃が下)していることに着目して、戦陣用では、平常時には打刀として差す刀を太刀差しにしたことを明らかである。
すなわち、打刀拵を太刀差しにすると、栗形、返り角を反対側に付けないと帯に差せない。すなわち、この為の打刀拵(軍陣用)が馬手差しとされているのである。
これについて歴史学者も違和感を持ち、その理由をいくつか推察しているが、それらの中では『鎧をまとう人びと』を著した藤本正行氏の推論(太刀に似せて武張った感じを出したいかもしれないが、この方が腰に差したまま座りやすい)が妥当かと考える。実際に座ってみると、座りにくいことには違いないから、これだけの理由かは不明である。
なお、当時は雑兵でも二本差しており、脇差拵だけでなく、刀拵があっても不思議でないのだが、法隆寺西円堂の遺品には現存しない理由をいくつか考察している。
(注)論文執筆後に『打刀拵』に、2振り、太刀スタイルの打刀拵が掲載されていることを、ご教示していただく。