寛文時代は、戦争が一段落したにも関わらず、多くの刀鍛冶が輩出した時代である。 この理由の一つとして、江戸法城寺派鍛冶集団が出身地(近江と推論)との有縁から藤堂家(近江出身)と関係があり、その藤堂家の藩祖藤堂高虎は城郭建築のスペシャリストであることから、城郭建築金具の鍛冶が城郭建築需要の少なくなった時代に刀鍛冶に転向したのではないかと推論している。(桃山から江戸時代初期の約60年間は大城郭建設時代でもある。それ以降は城郭の新築はもちろん、修理にも厳しい制限が加えられ、建築需要は激減している。)
また大工道具の歴史で南紀重国と伏見の文殊鍛冶との関係も見つけている。 著者は寛文の時代背景については問題意識を持ち続けており、刀鍛冶という供給側の事情ばかりでなく、需要側の事情についても「截断銘流行の背景」「明暦の大火と刀剣需要」などの論文で考察している。