刀身彫:草の倶利伽羅の研究

伊藤 三平

日本刀の研究のページ

はじめに

日光二荒山神社の宝刀展におけるカタログ「宝刀譜」において、国宝備前長船倫光の草の倶利伽羅の彫り物の写真に感じるところがあり、これにちなんで、古刀に限定した範囲で「草の倶利伽羅」が彫られている刀を身近にある刀剣書から抜き出し、時代別、国別に整理した。

そうすると、特色が観られ、こうなると、「この時代の相州物は?」「応永備前は?」「同じ時代のこの刀工には無いのか?」などと関心は広がり、渉猟する刀剣書は広がった。不鮮明なもの、同種の彫りがあるものなどを捨象して、次のような書籍から抜き出している。

  1. 『日本刀工辞典ー古刀篇ー』(藤代義雄、松雄編)
  2. 『鑑刀日々抄』(本間薫山 著)の正、続、続二、続三の4冊
  3. 『図説刀剣名物帳』(辻本直男 補注)
  4. 『刀影摘録 神津伯押形』(神津伯 著)
  5. 『長船町史』

ここまで来ると中途半端では終わりたくないと思い、『刀剣に見られる梵字彫物の研究』(伊藤満 著)、『日本刀の彫物』(佐藤良樹、中宮好郎 著)を参考にして、「草の倶利伽羅」彫りの意義や、その出現の背景等も整理してみた。

小論の構成は、はじめに各時代、各国の草の倶利伽羅の彫りの写真から、違いを見いだしていく。次に「草の倶利伽羅」の彫り物の意味、生まれた背景、彫り物の図柄、意匠の推移などをとりまとめておきたい

1.備前の南北朝の彫り

@剣と龍の口を近づけ、剣を呑みこも
  うとする。
A龍の口は奥が深い。
B龍の角は旗のように後ろになびく。
C龍の身体は同じ太さで太め。線は
  ゴツゴツして、唐草の龍の異名ある。
  大太刀と短刀は太さに違いがある。
D首から剣に巻き付くところが剣の上
  から巻きはじめ、後ろに回って上に
  少し上がってから巻く。
E巻きが膨らみ加減に見える。
F三鈷の真ん中は鞠のように丸い。
G三鈷の両脇は、真ん中の剣に微か
  に付く。
兼光:短刀
延文□年
『長船町史』
兼光:大太刀
延文5年
上杉家伝来
三日月兼光
『鑑刀日々抄』
倫光:大太刀
貞治5年
二荒山神社。
「宝刀譜」
 

2.備前の室町期(永正前後)の彫り

@剣に龍の口がかぶさり、剣を呑み込
  こもうとする。忠光は少し離れる。
  (他と同様にかぶさるものもある)
  全体の彫り物の長さの関係で、調節
  しているのかとも思える。
A龍の口はすぼまってはいない。
A龍の角は一本が上にヒュルと目立つ。
B龍の身体は同じ太さで、前代よりも少し
  細くなる。尻尾、足にあたるところが
  トゲを持って上に尖る。
C首から剣に巻き付くところが剣の下になり、
  巻かないで上に少し上がる。
D巻きはそれほど膨らまない。
E三鈷の真ん中は鞠のように丸い。
F三鈷の両脇の剣は真ん中から離れる。
勝光:『刀
工辞典』
勝光:短刀
明応2年
『鑑刀日々
抄(続)』
祐定:刀
永正6年
『鑑刀日々
抄(続)』
忠光:刀
延徳元年
『長船町
史』
 

3.相州の南北朝の彫り

★ここは正直、確信を持ってコメントで
 きません。
 末相州とか、末古刀の彫物について
 以下に述べていますから、そちらを
 まず、ご覧になってから、お読み下さ
 い。

@獅子貞宗は焼身とはいえ、名物。
  しかし、貞宗の彫は、もっと上手で
  はないでしょうか?
  右に参考として、これを康継が写し
  た彫りを掲載しておきます。
A秋広の応安7年紀の彫りは室町期
 の相州綱広とよく似ています。
B秋広の貞治元年紀の彫は、研減り
 があり、明確にはわからないのです
 が、中心の剣が太く、力強いです。
 いずれにしても同じ手とは思えない 
貞宗:短刀
獅子貞宗
(焼身)
『図説刀剣
名物帳』
秋広:脇差
応安7年
『刀影摘録
神津伯押
形』
秋広:脇差
貞治元年
『刀剣に
見られる
梵字彫物
の研究』
  康継:短刀
獅子貞宗
写し『図説
刀剣名物
帳』

4.末相州(室町後期)の彫り

@龍は剣を呑むというより、剣と会話する
  感じで、龍の口と剣先は少し離れる。
A龍の口は上顎が長めとなる。つぼまっ
  てはいない。
B龍の角は二本が上にヒュルヒュル。
B龍の首が胴より細い。
C龍は剣の下から巻きはじめ、上に巻き
  上がることなく、下に巻く。
  胴の真ん中の巻きは、斜めの太い棒と、
  アルファベットのCの字(あるいは三日
  月)で表現。(注)
  足はゴツゴツではなく、丸い山が一つ、
  あるいは三つ連なる。
D三鈷の真ん中が少し伸びた筒、鼓状。
E三鈷の両脇の剣は真ん中を包む。
綱広:『刀工
辞典』
綱広:脇差
『鑑刀日々
抄(続三)』
助広:『刀工
辞典』
(注)綱広には斜めの太い棒の両端が骨の
   ように膨らんだものが、「刀剣美術」の
   151号の鑑定刀に掲載 

5.山城の室町前期の彫り

★応永の源左衛門尉信国の彫りである。応永20年
  の方は、押形が2頁に渡っていたのを付けている。
  応永34年の方は、草の倶利伽羅というよりも、
  行の倶利伽羅が研ぎ減ったような感じである。
  いずれにしても、ここも確信を持ってコメントはで
  きません。

@応永20年の方は、龍の頭は鶏のようである。胴の
  巻き付く回数が上部の方で一巻き多い。また剣が
  細いという特色がある
A応永34年の方は、引用した本では応永2年紀とし
  ているが、同じものが『刀剣要覧』に掲載されており
  そこでは銘字も鮮明に応永34年と読めるので修正。
  この刀には差裏に変わった彫りがあり、『刀剣に見
  られる梵字彫物の研究』の著者も「これ何物ぞ」と
  いうタイトルを付けてノーコメントである。
  異質な彫り物のある刀であり、よくわからない。

信国:脇差
応永20年
『鑑刀日々
抄(続三)』
信国:太刀
応永34年
『刀剣に
見られる
梵字彫物
の研究』
 

6.山城、伊勢、駿河、豊後の室町後期の彫り

@龍は呑まずに会話。龍の口と剣先は
 少し離れる。龍の口は上顎と下顎の
 長さに差が少ないが、特に長吉はほぼ
 同じ。
A龍の角は二本が上にヒュルヒュル。
B龍の首が胴より細い。龍というより鶴
  の感じ。
C龍は剣の下から巻きはじめ、上に巻
  き上がることなく、下に巻く。
  胴の真ん中の巻きは、斜めの太い棒
  と、アルファベットのCだが、長吉はC
  が食い込み、村正は、つながって斧の
  よう。助宗は太い棒が骨のように両端
  が膨れ、Cと離れる。長盛は食い込み
  形。(注)
  足は半円が三つが基本。
D三鈷の真ん中が鼓のようになる。
E長吉と助宗は三鈷の両脇の剣は真ん
 中から離れる。村正、長盛は包む。
F長吉は剣が龍より長い。
長吉:『刀工
辞典』
村正:刀
文亀元年
『鑑刀日
々抄(続)』
助宗:刀
『鑑刀日
々抄(続)』
長盛:刀
『鑑刀日々
抄(続三)』
(注)『刀工辞典』の村正に、平安城長吉と
   同様な倶利伽羅がありCは留意。

7.草の倶利伽羅の彫り物の意味

まず、倶利伽羅の彫り物の意味である。

「倶利伽羅龍は黒龍、これは外道の表示で倶利伽羅のまつわりついている剣は、不動明王の表示であり、仏法と外道とが論争し、その結果ついに仏法の勝利になるという意を表敬したものである。」(『日本刀の彫物』佐藤良樹、中宮好郎 著より)

この解釈に対して、それは密教的な解釈であり、修験道の解釈では「不動明王と同化した修験者が、加持祈祷や調伏などに実際に使役する金剛童子は腰に蛇を3巻き付けた姿で表現される。ご神体に蛇が巻き付く形が倶利伽羅龍王。剣は不動明王の験力の根源である剣と索を神格化したもの。修験者も修行によって、それと化すことをはかっている。」(『刀剣に見られる梵字彫物の研究』伊藤満 著)という解釈も示されている。

私は、倶利伽羅は、修験的解釈の不動明王の剣と索を神格化した不動明王の象徴という考え方に惹かれる。

そして『刀剣に見られる梵字彫物の研究』(伊藤満 著)では、「草の倶利伽羅」が生まれた背景を次のように説明していて興味深い。箇条書きにできるだけわかりやすくまとめてみた。ただし、その分、著者の真意から外れている可能性もあり、引用する時は、原著を当たって確認して欲しい。

  1. 彫りのある刀から彫り物を実際に集録してみると、刀剣の注文主や所持者の信仰が彫られていると思われるものむしろ少なく、そのほとんどが刀工達の信仰であるのが多い。刀工達が神仏に祈願して自分の作刀に神仏を彫ったものであればよしとし得る寛容性がみられる。
  2. 梵字の大日如来の印(種子)は、新藤五、貞宗、正広、綱広、さらには信国、長谷部国信、の相州伝刀工に多い。真言系修験との関係がある。(次直、忠光、冬広、村正にある)
  3. 梵字の阿弥陀如来の印(種子)は備前長船鍛冶に多い。長光から末備前まである。熊野信仰を中心とした修験道である。
  4. 備前長船刀工に連綿と見られる阿弥陀如来種子が、延文5年頃までの兼光に見られるが、倫光に至り、全くみられなくなっている。
  5. 長光、景光、初代兼光に多くみられていた不動明王種子が延文5年の兼光までは見るが、倫光には全くみられない。
  6. 長光、景光、初代兼光に多くみられていた真あるいは行の倶利伽羅が、延文5年紀の兼光以降、倫光にも全く見られなくなり、すべて草の倶利伽羅となる。
  7. 摩利支天種子が延文元年紀の兼光太刀にはじめて出現し、延文兼光、康安、貞治、応安年紀の倫光に主尊として用いられている。
  8. 摩利支天は調伏法や、加持祈祷にも使われる。刀剣の摩利支天は呪詛調伏の目的であろう。南北朝争乱が生んだ憎悪や敵意の象徴ではなかろうか。
  9. この原因は、南北朝期に、それまでの熊野天台系で備前南部に勢力があった「備前児島長床五流」の勢力が衰え、北部の熊山や備北や美作の修験(後山修験、作州修験、備前北部に西山寺修験などの真言系修験)の影響を受けたためと推測できる。
  10. このころの兼光や倫光は銘に「備前長船」と切り、「備前国長船住」と切っていないから、北部の方で駐鎚していた可能性もある。
  11. 応永備前は神号を切るのが多くなる。また摩利支天種子がさらに多い。応永備前には倶利伽羅をほとんど見ることがない。(一、二例経眼するも甚だ稀)
  12. 応永頃から、梵字、彫物などによる信仰の意匠が全国ほぼ共通の意匠となる。宗教側の主体性は失われ、世俗社会の要求に迎合する形となる。形式化、儀礼化、娯楽化の傾向。
  13. 末備前は@彫りの意匠が濃密となる、A倶利伽羅が甚だしく多くなる。立体感あふれる躍動的な倶利伽羅から、平面的であり、絵画的となる。B神仏の各号がますます多くなる。C調伏、呪詛の象徴が多い。D梵字の装飾化。これらは他国にもあてはまる全国的な傾向である。
  14. 室町期になると熊野天台系修験と吉野真言系修験がそれぞれ本山派、当山派の2大教団を作り、統一徹底がはかられた。これが、全国的になっていった背景ではなかろうか。
  15. 相州は真言系修験で金剛界大日如来種子が多い。また忿怒明王の種子が多い。そもそも相州物は倶利伽羅が少ない
  16. 貞治から明徳の正広、文安の広正、その他刀工も倶利伽羅はほとんど草体。室町中期以降は真や行の倶利伽羅も生まれる。
おわりに

大太刀:国宝:倫光の「草の倶利伽羅の写真」から興味を持ってから調べはじめたが、生来、オタク気質が強いから、ここまで広がった。研究といっても、わたしは写真を時代別、国別に並べてコメントしただけだが、先人の研究、特に『刀剣に見られる梵字彫物の研究』(伊藤満 著)には頭が下がる。

この本を拝読していると、有名な彫り身でも、後彫りの疑念が強いと思われる彫物には、ノーコメントで通すなど苦心の跡が感じられる。このあたりの問題については稿を改めて述べてみたい。

刀身という細長いキャンパスには、樋、剣、護摩などの長い彫りが納まりやすい。中でも倶利伽羅は細長いことに加えて、模様が華やかであり、刀剣の彫りとして好まれたこと理解できる(信仰とは別の視点だが)。
そして、私は、「真の倶利伽羅」よりも、「草の倶利伽羅」の方がスッキリしていて、実用の刀剣が持つ研ぎ減りに備える意味でも、刀身にはふさわしいと思う。

倶利伽羅の中で、真の倶利伽羅から、草の倶利伽羅に変遷していったのは、真の倶利伽羅が研ぎ減ったものを見た刀工が、これも面白いとでも感じたからと思ったのだが、上記の『刀剣に見られる梵字彫物の研究』(伊藤満 著)を拝読すると、もっと奥が深いもの(修験道の流派の違い)のようだ。

このような研究に取り組んで改めて思うのは、備前物の資料的価値である。

備前物では長光が、短刀でも片落ち互の目でも何でも嚆矢として手がけていることが多く、「草の倶利伽羅」も長光にあると、想定していたが、伊藤満氏の研究で合点がいった。

同じく、兼光、倫光と末備前の間にある応永備前の「草の倶利伽羅」が見つから無かったのも、『刀剣に見られる梵字彫物の研究』で記述されているように非常に少ないからなのである。

兼光、倫光はさておき、勝光の彫りは有名だが、同時に忠光の彫りも素晴らしいと感じる。(真の倶利伽羅とか、他の彫り物を検討すると、景光の素晴らしさを識者は言う)

なお、国の指定品や、名物における彫りについても疑問を呈している面もあるが、一素人が写真だけからコメントしているに過ぎず、補う研究、反論を期待したい。

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