肥後遠山派(鐔)の活躍時代(改定版)

−同田貫派(刀)との銘振り、銘字の近似性から− 

伊藤 三平

所蔵品の鑑賞のページ

<改定版にあたって>…2014/8/25に発表したものを、すでにお読みいただいている方には、ご迷惑をおかけいたします。結論は変わっておりませんが、加藤清正家と関連させた箇所を新資料の発見によって削っております。以下の変更点を参考に再読をお願いします。1章と4章を除いて大幅に変更しております。変更点6(第7章)は、面白い視点と考えますので目を通していただければ幸いです。

  1. ”九州肥後”という変わった銘を、同田貫派より早い時期(天文4年)に名乗る刀工「九州肥後住典田」の押形を見つけ、加藤清正家が”九州肥後”との名乗りに関係したのではと言う仮説を訂正。
  2. ”九州”銘の特異さを”奥州”銘と比較して論述。
  3. ”九州”銘発生の理由をいくつか検討(EX.九州探題、貿易品)。ただし、未だ不明。
  4. 同田貫派発生の経緯、近くの製鉄遺跡のこと、同田貫諸工のことなどを述べた資料の紹介。
  5. 同田貫派の正国は、加藤清正の片諱説ではなく、逆に憚って上野介に改名したのではとの岡田孝夫氏の説を紹介。
  6. 時代の推移と、銘字の書体の変化が関係あるのではとの示唆を受け、「州」の字で、室町期の相州鍛冶の字体変化を調べ、同時代の九州刀工の銘字を比較。 さらに遠山派、同田貫派の「州」の字を検証。(第7章に詳述)
  7. 遠山派、林又七の地鉄の共通姓に、この近くの製鉄遺跡のことに言及。ただし、明確な根拠は無い。

はじめに

肥後鐔の一派である遠山派の出自、活躍時代の詳細はわかっていない。所蔵品として、
遠山頼次「無文碁石形」板鐔を紹介する中で先人の研究成果を紹介したが、『肥後金工録』において「時代分明ならず。式云春日初代より下らざるべしと。一説に清正公の抱とも云う。また地鉄堅き故にその作幾分若く見ゆもあるべし」(句読点、旧仮名等修正)と記述されている以上のことがわかる史料・資料は、現時点では発見されていない。

所蔵の遠山頼次の鐔を何度も観ている内に、「遠山 源」と言う銘の切り方、銘振りが変わっていることに気が付いた。遠山派鐔の中には「九州肥後国」と冠しているものがある。大仰に”九州”から銘を切るのは他の鐔工に見ない特色だ。こう思いながら寝た真夜中に、刀工の世界で”九州”から銘を切るのが同じ肥後の同田貫派であることにひらめいた。

遠山派と同田貫派は、銘字の筆法もよく似ており、遠山派の鐔は、同田貫派の刀と同じ肥後国で、同じ時代に製作されたと考えることが素直な見方ではなかろうか。

「遠山 源(頼次)」「目の眼」(H23.2)より

1.”九州”から銘を切り始める遠山派と同田貫派

遠山派の銘の切り方を『林・神吉』(伊藤満著)や『肥後金工大鑑』から抜き出すと「遠山源 頼次作」、「遠山 源頼次作」、「九州肥後国遠山 源頼家作」、「肥州住遠山源頼家」、「遠山 源」、「九州肥後国遠山」、「遠山 源頼家作」、「肥後国遠山 源頼家作」、「九州肥後国遠山与三平衛 源頼家作」、「遠山与三兵衛 源頼家作」、「遠山与さんひょうへ 源頼次作」などである。

銘の切り方において特徴的なのは”九州肥後国”と、地名に”九州”を冠するものがあることである。これは肥後金工の「平田派」、「林(春日)派」、「西垣派」、「志水派」には無いし、「谷」、「諏訪」、「中根」、「三角」、「宮本武蔵」、「万日坊」の諸工にも無い。

同田貫派には「九州肥後同田貫」という銘があるが、これは遠山派の「九州肥後国遠山」の銘と同様である。

国の前に、地方名の”九州”まで冠するのは、考えて見ると不思議な感覚であり、他国の鐔工を見渡しても、遠山派しか無いのではなかろうか。

刀工にも考察を広げると、興味深いことに、同じ肥後の同田貫派が”九州”まで冠した銘を使用している。刀工においても”九州”のような地方名から切る鍛冶は特異である。
(注)堀川国広に山姥切長義を写した刀があるが、この銘に「九州日向住国広作」(裏銘は、天正十八年紀で、平顕長(長尾顕長)の注文銘がある)があるだけである。

なお、同じ地方銘として”奥州”銘がある。奥州は陸奥国と出羽国を併せた地方名であるが、刀工は”奥州仙臺住””奥州会津住””奥州津軽住”と、奥州を国名的に使用して、その後に城下町名を切っている。城下町の名を切らずに”奥州住綱家”と切っている鍛冶もいる。

しかし”九州肥後国”のような”奥州陸奥国”、”奥州出羽国”という銘はまだ見ていない。出羽国の鍛冶に、”羽州住近則”銘はあるが、”奥州出羽国住近則”銘は無い。新刀期の磐城の刀工:国虎には”奥州岩城住人”という銘があるが、磐城が国名になったのは明治元年である。明治元年に陸奥は磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥に分かれ、出羽は羽前と羽後に分かれたのである。

2.”九州”銘の嚆矢?:「九州肥後住典田」

資料探索の過程で、ある刀剣商の元に、昔の刀剣商:林田等氏が採録した「林田押形(仮称)」があり、その中に同田貫派とは別派の刀工で、しかも天文4年(1535)の年紀がある押形を発見した。下記に掲示の「九州肥後住典田」、裏銘「天文四年八月吉日」の押形である。

(表銘)九州肥後住典田
(裏銘)天文四年八月吉日



押形の脇に、次の書き込みが記されている。

「九州肥後住典田、天文四年八月吉日 菊池氏の鍛冶
なり、主家滅亡して鍛冶、その跡を絶ちしものか」

「長サ弐尺三(?)寸五分 少し磨上」

また別の人(末尾に○○堂?記があり、書き込みの主
と考えられるが判読不能)が次のように記している。

「これは筑後三池典太の末にて、地理的又は当時菊池
氏の領土的勢力内にありて(?)肥後に移住せし事明か
なり。出来備前末物 祐定 勝光等の如し 参考として
珍品なり(○○堂?記)

(注)「林田押形(仮称)」をコピーしたものを、私が、さら
にコピーさせていただき、それをスキャナーで採ったもの
ですから、不鮮明な箇所もある。
「林田押形(仮称)」コピーのコピー(部分)である  

『日本刀銘鑑』(石井昌国編著)には「典田」の項に2人の刀工を掲載し、一人は「三池住典田」、もう一人が、上記押形が原資料と思われる「「九州肥後住典田」 天文頃、肥後「年紀」天文四」と記載された刀工である。もちろん三池の刀工が肥後に移住し、実質は一人である可能性も高い。「三池住典田」の銘字が比較できれば結論は出るが、上記の「林田押形(仮称)」の書き込みも、この見解である。

現存する刀剣が稀少の場合は、真偽の判定が難しく、この押形を、ある識者に見ていただくと、銘字、茎の形状から、少し時代が下がる可能性もあるとのコメントをいただいたが、以下は、正真と考えて論を進めていきたい。

同田貫派は天正(1573〜)頃からであり、この押形の天文4年(1535)は、先立つこと約40年ほど前になる。


ちなみに、『日本刀銘鑑 第3版』(石井昌国編著)から、肥後国における他の末古刀期の刀工の銘字を下記のように調べたが、「典田」と同田貫諸工を除いて”九州”銘はない。

石貫鍛冶…玉名市石貫(同田貫の近く)に「景行」「景介」「昌国」「治国」「賢信」…”肥州石貫住”、”肥州玉名住石貫”、”肥州石貫”、”肥州住石貫”、”菊池住”。
小国鍛冶…阿蘇郡南小国町満願寺に「郷安」「郷安」…”肥州小国住”。(この工は肥前にもある)。
川尻鍛冶…熊本市川尻町に「行光」「行長」「行吉」「行久」…”肥州河尻住”、”肥州河尻住波平”、”肥州住”、”延寿”。
菊池鍛冶…菊池市野間口・北宮・深川他に「国進」「国賀」「国勝」…”肥州菊池住”、”肥州住”、”肥後住”、”肥後国”、”肥州住散位”、”菊池住”。
隈本鍛冶…熊本市鍛冶屋町他に「宣明」…”肥後隈本住”。
人吉鍛冶…人吉市鍛冶屋町に「雅楽助」…”肥後求麻郡人吉住人蓑田”、”蓑田”。
緑川庄鍛冶…宇土市野鶴町緑川に「守次」…肥前の鍛冶か?

今後とも、資料探索に心懸けたい。

3.同田貫派について、及び加藤清正家との関係

同田貫派については、地元の「玉名市歴史博物館こころピア」が何度か企画展を開催している。『企画展 「郷土の刀剣・同田貫」』ー平成9年ーにおいて、館長:田邊哲夫氏が「ごあいさつ」の中で、次のような趣旨で同田貫派の出現の経緯を説明している。

  1. 延寿鍛冶は、菊池の西寺村に居を構え、南北朝時代、菊池氏の全盛時代を迎えると、野間口村、今村、高野瀬村、稗方村、藤田村に分かれて住む。
  2. 戦国時代には外国からも日本刀の需要が高まり、現地生産のため、海岸の玉名へ進出。この地方の海岸地方には製鉄遺跡が多く出土する。(『同田貫 Uー歴史に名を連ねる豪刀ー』平成16年に、「有明海沿岸は豊富な砂鉄に恵まれていた、玉名から荒尾にかけてそびえる小岱山の麓には古代の製鉄炉、つまりタタラの跡がいたるところにある」と記されている。
  3. 加藤清正が領主のころには稗方村同田貫から亀甲村へ、今村木下から伊倉南方村へ、さらに河内村の塩屋にも移り、それぞれ鍛冶屋町ができ、重く用いられる。
  4. 古刀期から新刀期にかけて同田貫上野介正國・木下左馬介清國が現れた。

同田貫の名称の由来には諸説があるが、地名説が正しい。『角川日本地名大辞典 43 熊本県』に、現在は玉名市にある亀甲(かめのこう)について、菊池川に注ぐ繁根木(はねぎ)川下流右岸に位置し、天正・文禄年中に菊池の刀鍛冶延寿の末流が当村に住し、「今世間に同田貫ト称スル剱刀ハ是等ノ類ヲ云」と明記されている。

同田貫が地名であるから、今村木下から伊倉南方村へ居住した「清国」は「肥州住藤原清国」と銘を切り、同田貫という切り銘はない。

同田貫派鍛冶、延寿派鍛冶など周辺の地図
南北朝時代の延寿鍛冶が海岸の方に進出。
小岱山は筒ケ岳、観音岳などからなる。製鉄遺跡が多い。
同田貫と伊倉も近く、石貫も近いが、これら鍛冶には”九州肥後”銘はない。

「清国」については、『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)に「同田貫正国の兄。初め小山左馬助国勝と称した。(中略)菊池郡今村木下(菊池市内)に居住、のち玉名郡伊倉(玉名市伊倉)に移ったので”伊倉同田貫”とも呼ぶ。ただし刀銘に「同田貫」を冠したものを見ない。島津氏が肥後を占領していたころ薩摩に連行され、現在の伊佐郡伊佐町で鍛刀したらしい。豊臣秀吉の島津征伐後は解放され、代わって加藤清正の抱え工となった。清正の片諱をもらって、清国と改めたという説があるが、伊佐時代すでに清国と称していたとすれば、この片諱説は成立しないことになる。(後略)」とある。

同田貫派の代表工「正国」も、加藤清正の肥後入国以前に「正国」銘があることで清正の片諱説は否定されている。

なお、加藤清正の片諱説について、岡田孝夫氏は『江州刀工の研究』の中の「同田貫正国と清正の関係」(初出は「刀剣と歴史」433号、昭和41年9月号)の中で、次のように論じられていて興味深い。

  1. 正国が国勝と同人とされ、また上野介が国広と称すると言うのは誤りであるのは福永酔剣氏が「刀剣美術」27号で発表されている。
  2. 正国と上野介は同人であるが、年紀作から追うと、天正8年の二月と十一月記の銘に九州肥後同田貫藤原正国と九州肥後同田貫正国があり、上野介の時代は文禄5年、慶長6年、慶長16年である。そして慶長18年には正国銘となっている。(これから加藤家入国以前に正国を名乗っており、片諱説は間違い)
  3. 現在時点(昭和41年発表)では、清正の肥後領有時代において、正国銘を見ない。
  4. そして、清正が慶長16年6月24日に死去した後に正国銘が復活している。
  5. 以上から、正国は加藤清正に抱えられてから、主君の諱にある「正」を遠慮して使用せずに「上野介」を名乗り、清正の死後、再び「正国」に戻したと考えるべきであろう。(正国は慶長18年11月に死去しているので復活してからの正国銘は少ない)

私は天正8年の正国の押形は未見であるが、岡田氏の論文から同田貫派の”九州肥後”銘も、天正8年(1580)から存在し、加藤家入国(天正14年)以前から存在していることがわかる。

この論文の論旨に従うと、「では清国は、加藤清正に抱えられた時に、主君の諱の「清」に遠慮をしなかったのか?」との疑問も生まれる。岡田説が誤りか、あるいは清国は加藤家とは縁が無い鍛冶だった可能性もあり、興味は尽きない。

同田貫派の刀工は、国、信、正、賢の字のつく、「国勝」、「国廣」、「信賀」、「信次」、「正国」、「正明」、「賢宗」、「賢信」などの刀工や、通称の「源左衛門」、「兵部」、「又八」を切る刀工がおり、加藤家が入国後は抱え刀匠となり、全盛期を迎え、熊本城のお備え刀も同田貫であったとされる(『企画展 「郷土の刀剣・同田貫」』ー平成9年ーにおける解説「肥後同田貫について」(石原幸男著)より)。同田貫の刀工銘には、この外、『日本刀工辞典(古刀篇)』(藤代義雄著)に「左衛門」、「政兵衛」の通称銘も掲載されている。


4.遠山派と同田貫派の銘字の近似性

鐔工の遠山派と、刀工の同田貫派は、銘の切り方だけでなく、銘字そのもの似ている。以下に『林・神吉』(伊藤満著)に所載の遠山頼家の銘と、『日本刀工辞典(古刀篇)』(藤代義雄著)に所載の同田貫派の銘字を比較する。 

表の「九州肥後国 遠山」銘
裏に「源 頼家作」の銘(『林・神吉』より)
同田貫諸工の銘(『日本刀工辞典(古刀篇)』

遠山頼家の銘字の「九」は、同田貫政兵衛に似て、「州」「後」は左衛門の銘字と似て、「肥」は又八、左衛門の銘字と近似している。
また同田貫左衛門の「源」は、所蔵品の頼次の銘字の「源」と感じが似ている。

隣の肥前国に住した名工:初代忠吉は、初期には銘の下書きを秀岸という僧に頼んだと伝えられ、”秀岸銘”という言葉もある。遠山派と同田貫派にも、共通の下書きをお願いした人物がいても不思議は無い。

鐔工:遠山派と刀工:同田貫派は、銘字の選び方の特異さ(”九州肥後”から切る)、銘字の切り方(個銘を切らずに遠山、同田貫で終わるもの)、銘字そのものの近似性から、同時代に非常に近い関係を持って活躍したと考えたい

5.”九州肥後国”銘の考察ー当時の九州の状況ー

”九州肥後国”という銘字の冠し方が、末三池派の「典田」(天文4年=1534)、同田貫派の諸刀工(例えば正国に天正8年=1580)にあるが、それがどういうきっかけで生まれたのかについて、以下に調べた。しかし、現時点ではわからないと言うのが結論であるが、後学の為に記しておきたい。

(1)視点1:九州探題との関係?

”九州”と言う言葉として、「九州探題」が室町時代から使われていたことを知る。鎌倉時代には九州には「鎮西探題」が設置されたが、それを踏襲する形で、室町時代には「九州探題」が置かれた。室町幕府の九州における軍事的出先機関だが、建武3年(1336)の一色範氏からはじまる。14世紀後半は今川了俊が任じられて、九州平定に活躍するが、応永3年(1396)以来、足利氏の一門:渋川氏が代々世襲する。しかし、渋川氏には力が無く、中国地方の大名:大内氏が補佐する形式が続いた。天文3年(1534)に渋川義長は大内方から離れて少弐氏と組んだ為に、大内氏に討たれ、滅亡する。その後、「九州探題」の空白期間が続くが、永禄2年(1559)に大友宗麟が改めて「九州探題」に任じられた。

ここで、当時の九州について概観したい。『九州戦国史』(吉永正春 著)から、天文(1532〜1554年)の前の1500年前後の文亀から、永正、大永、享禄頃(〜1531)の九州の状況、及び天文以降天正末年までの状況を簡約する。
【北部九州】
北部九州(筑前、筑後)は、中国地方の大内氏が進出し、少弐氏(本姓は武藤氏、太宰少弐の官名を氏名に用いる)と大友氏の連合軍と争っていた。明応6年(1497)に大内義興が2万余騎の大軍をひきいて筑前を攻め、少弐氏は太宰府から追い出され肥前に移る。その後、天文3年(1534)にも大内氏に負ける。それ以降も少弐氏の有力家臣の竜造寺氏が大内方についた為に、永禄2年(1559)に少弐氏は滅ぶ。この間の少弐氏と龍造寺との激闘も凄まじい。そして佐賀の龍造寺氏が肥前をまとめるようになる。

前述したように、代々世襲の九州探題:渋川氏(肥前養父郡綾部に肥前の守護館を設けていた)は大内氏の補佐を受けていたのだが、天文3年(1534)の戦いの時には少弐側に付いて滅ぼされている。

【中部九州】
肥後は阿蘇氏、菊池氏、相良氏が有力豪族だったが、菊池氏は明応2年(1493)に12歳の能運が家督を継いだ為に、動揺が起こり、明応7年(1498)に重臣隈部氏が謀反を起こす。文亀元年(1501)に宇土為光(菊池氏の一族)によって能運は守護職を追われる。しかし、為光はわずか2年で菊池の老臣や大友の兵に殺される。守護職を追われていた菊池能運も永正元年(1504)に没し、一族の政隆(14歳)が跡を継ぐが、幼少で凡庸であり、菊池三家老の城、赤星、隈部らが勢力争いを繰り広げる。

豊後は大友氏だが、内紛を大友親治が治め、家督を大友義長に文亀元年(1501)に譲り、足利将軍家から豊後、筑後、豊前の守護職と、筑前、肥前に新しく所領を得た。大友氏はこの頃から内政の充実を図る。義長は、肥後には阿蘇家(妻の実家)を通して、菊池家乗っ取りを策し、永正8年(1511)には同族詫間武包を肥後守護にする。義長の跡を継いだ大友義鑑は永正17年(1520)には詫間武包を追放して、弟の重包に菊池の名跡をつがせ義武と名乗らす。ここで菊池家の正統は絶えた。菊池義武は大友の実家に敵対するが、大永7年(1527)に負け、その後天文12年(1543)に、肥前に逃れる。大友家は天文19年(1550)に二階崩れという家督争いがあり、大友義鎮(宗麟)が家督を継ぐ。肥前に逃れた菊池義武は天文23年(1554)に大友宗麟によって滅ぼされる。

【南部九州】

薩摩では同族が激しく争い、天文6年(1537)に島津忠良、貴久親子が掌握するようになる。次の義久が元亀元年(1570)に薩摩を統一し、元亀3年(1572)には弟義弘が日向の伊東氏の軍を木崎原の戦いで破り、天正元年(1573)には大隅を統一し、天正4年(1576)には日向を領有する。この後北進していくことになる。

【天文以降の九州の状況】

この後、北部九州に勢力を持った大内氏が天文20年(1551)に家臣の陶晴賢に撃たれ、さらに毛利元就が弘治元年(1555)に厳島で陶晴賢を滅ぼし、今度は毛利氏と大友氏が戦闘を繰り広げることになる。

鉄砲伝来の年には、近年諸説が出ているが、天文12年(1543)に種子島に伝来してからの急速な普及が戦いの趨勢に大きな影響を与えたことは間違いがない。

南九州では島津氏に敗れた日向の伊東氏が大友氏を頼り、大友氏は天正6年(1578)に島津討伐に出るが、耳川の戦いで島津軍に大敗する。

肥前では龍造寺氏が勢力を伸ばし、圧迫された有馬氏が島津を頼り、天正12年(1584)に沖田畷の戦いで、島津軍は龍造寺軍を破る。肥後では天正13年(1585)には阿蘇氏が島津に滅ぼされている。

島津に圧迫された大友氏は豊臣秀吉に頼り、ここで天正14年(1586)〜天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州平定となる。

なお、 『日本刀銘鑑』で「国賀」の項に「<注>菊池郡菊池は延久二年太宰少監則隆以来菊池一族の居館をおいて栄え、延寿鍛冶は国村(永仁)以来その抱工としてよくその古伝を守ったが、天文元年(1532)大友氏により滅亡す。菊池一族との関連を持つ延寿鍛冶はこの国賀あたりで終る。」とある。天文元年(1532)滅亡説は他の資料に見ないが、延寿鍛冶は菊池氏とともに栄え、滅んでいる。

「典田」にある天文4年紀(1535)は、「九州探題」が滅んだ直後の空白期であり、興味深い。また、典田も、同田貫も菊池氏領内の鍛冶である。何か関係があるのであろうか。

(2)視点2:貿易品の銘?

以下は、”九州”銘と貿易品としての日本刀に関係があるかと考えて調べたものである。

『九州戦国史』(吉永正春 著)から、倭寇の武器である日本刀のことと、貿易品としての日本刀に関する箇所を抜き書きしたい。

14世紀〜15世紀が倭寇がもっとも跳梁した時代で、中国の明では「南倭北虜」と呼んで恐れ、朝鮮の高麗も苦しむ。朝鮮は李成桂の出現で倭寇を破ることができ、李成桂は自ら朝鮮王となり李氏朝鮮が1392年に誕生する。「夫れ一国を滅ぼすはこれ倭寇、また一国を興すもこれ倭寇」という言葉が、この事情を物語っている。

倭寇の携える日本刀は「ひとたび触るれば斬人斬馬、たちまちにして首、胴を異にする」と異国人を戦慄させる。「長刀は則ち倭人の習う所なり」(武備志)、「倭寇の刀法は天下敵無し」(鄭開陽雑著)と記されているように非常に恐れていた。

朝鮮側は倭寇の被害に堪えかね、懐柔策として対馬の宗氏を仲介に幕府に交渉して、貿易の正常化をはかり、禁寇の成果を求めた。

『九州戦国史』(吉永正春 著)には、応永期の博多の豪商宗金のことが記されているが、対明貿易、対朝鮮の貿易で巨万の富を築いた商人である。応永27年(1420)から宝徳2年(1450)までの約30年間に対朝鮮貿易の記録が23回。遣明の船でも永享4年(1432)には日本側貿易団長という資格で参加している。

商人だけでなく、九州の豪族も水軍を持って、倭寇になったり、対明、対朝鮮の貿易の担い手になって富を蓄えていた。大内氏、宗像氏、大友氏、松浦氏や、豊前の門司氏、筑前の麻生氏、小弐氏、対馬の宗氏、肥後の菊池氏、薩摩の島津氏などである。
肥後の菊池氏は南北朝期に南朝方の中心として勢威を振るったが、それを支えた資金源は倭寇によるものとも言われている。

宝徳年間(1449〜1451)の遣明船貿易(勘合貿易)では、1本800匁から一貫文の日本刀が、現地では5倍の5貫文で取引されたという。勘合貿易による輸出貿易高の大半は日本刀だったようだ。また一駄10貫文の銅が50貫文、明で一斤250文の唐糸を日本にもってくると20倍の5貫文になったという。勘合貿易は一時中絶(将軍義持のとき)したが、将軍義教の永享4年(1432)に再開、その後天文16年(1547)までに18回、のべ50隻の遣明船によって継続されたが、その基地は博多であった。

「玉名市歴史博物館こころピア」が発行する資料に、「戦国時代には外国からも日本刀の需要が高まり、現地生産のため、海岸の玉名へ進出。この地方の海岸地方には製鉄遺跡が多く出土する」とか、「有明海沿岸は豊富な砂鉄に恵まれていた、玉名から荒尾にかけてそびえる小代山の麓には古代の製鉄炉、つまりタタラの跡がいたるところにある」と記されているのは上記の事情に由来する。

末備前の数打ちの刀が輸出品になったことは知られているが、地の利があり、鉄にも恵まれた九州の刀工も大いに繁昌したに違いない。

ちなみに”九州”とは中国においては、中国全土を意味したようだ。貿易品となった日本刀に”九州肥後”ブランドがあったのかなとも想像するが、裏付け資料は見つからない。

6.九州鍛冶の銘字の近似性について 

色々と調べている過程で『寒山小論文集』(佐藤寒山著)の「肥後の国勝」という小論が目にとまった。

この小論は、佐藤寒山氏が、脇差で「(指表) 肥州住藤原国勝作 (指裏) 八月吉日 新美藤藏」をご覧になってまとめたものである。

この脇差の作風は一見末相州物で、同田貫一門というより、日州古屋住実忠とか国昌、或いは国広の天正打に類似し、銘字も茎仕立ても彫物も、これら日向鍛冶に似ているとして、「以上のようなことは一つには時代の好尚にもよることであり、ことに同じ九州の地だからかも知れない。しかし私は単に時代を同じくするからとか、同地方であるからということにとどまらず、日向鍛冶と肥後の鍛冶の間には特別な関係があったのではなかろうかと思う。山一つを隔てた日向と肥後とはお互いに往来がありまた交流があり、技術の面に於いても必ずや関係が深いものがあったと思う」と結んでいる。

私が同田貫と遠山の銘字の近似性を指摘したが、同田貫と日向鍛冶との関係や、九州鍛冶全体、あるいは時代の共通性も加味する必要があると言うことは参考になる。

7.銘の書体の時代推移から分析する遠山派の時代

時代による銘字の変遷のことは藤代興里氏にも示唆を受ける。この遠山派と同田貫派の銘字を、九州の他派の銘字でも検証しようかと考えたが、九州鍛冶は年号を切らずに月日のみの裏銘が多く、難しい。

そこで、相州鍛冶における”州”の字で、時代による書風を検証してみた。備前鍛冶の備州銘は数打ち作に多く、銘字も乱暴である。美濃鍛冶は2字銘が多く、濃州銘も少なく、年紀作も少ない。そこで相州鍛冶とした。同じ相州で調べれば、地域による差が出ずに時代の差が際立つと考えた。

『日本刀工辞典 古刀篇』(藤代義雄 著)から、室町期の年紀があって、「相州」銘を持つ押形から、「州」の字を抜粋して、年代順に並べてみた。具体的には、相州広正の初二代と、相州広次、それに相州綱広の初代〜三代で比較している。結果は下表のように興味深い。

隣に、近い年代の九州鍛冶の「州」の字を並べている。

  
末相州の鍛冶 九州の鍛冶
刀工 「州」銘字 年紀 刀工 「州」銘字 年紀
広正初代 宝徳3年
1451
三池助長 正長2年
1429
広正初代 長禄3年
1459
     
広正2代 明応頃
1492〜
1500
     
広次2代 永正頃
1504〜
1520
     
綱広初代 天文4年
1535
典田 天文4年
1535
綱広2代 天文17年
1548
日向実忠 永禄12年
1569
綱広3代 文禄頃
1592〜
1595
高田統景 文禄4年
1595
綱広3代 慶長10年
1605
     

同田貫と、遠山の「州」の字は第4章に掲示の押形から抜粋すると次の通りである。末相州刀工の天文の後半、永禄、元亀、天正、文禄、慶長と似ていると言える。

遠山頼家 同田貫左衛門 同田貫上野介 同田貫又八 同田貫政兵衛

なお、前掲した「九州肥後国典田」の押形における「州」の字は、天文末年〜文禄頃に似ている。典田の押形を識者にお見せしたところ、「天文初年よりも時代は若いのではないか」と言われたが、それも一理あると思う。 

8.地鉄の又七との共通性

私の所蔵品「遠山 源」の地鉄は、「遠山頼次「無文碁石形」板鐔」で記したように、美しい光沢を放ちながら、底に赤味が感じられる黒色で、照り映えも含めて「肥後の羊羹色」と称される地鉄である。林又七の一つのタイプの地鉄と同様である。鉄が緻密(「堅く、締まった感じ」とも評されている)な為か、錆が朽ち込まず、美しいものである。戦前の数寄者が「遠山又七」と賞美していたのも理解できる。

ちなみに 林又七の家も、当初は加藤清正家に仕えていたことが各種史料に掲載されている。

前述したが、「玉名市歴史博物館こころピア」が発行する資料に記されているように、有明海沿岸は豊富な砂鉄に恵まれており、玉名から荒尾にかけてそびえる小岱山の麓には古代の製鉄炉、つまりタタラの跡がいたるところにある状況だったのだ。その中で良質な鉄も製産されたではなかろうか。

以下の論は、まったく私の想像で根拠がないことを承知でお読み下さい。

の良くない鉄は、中国・朝鮮への輸出用の刀剣に使われ、質の良いものは別途保管され、同田貫の鍛冶の注文打ちや、加藤家の鉄砲鍛冶や遠山派の鐔に使われ、それが林家(春日派)の鐔に引き継がれたのではなかろうか。

そして、有明海沿岸で採れる良質な鉄は、江戸時代になると、「肥後の羊羹色」と賞され肥後鐔に使われると同時に、肥前刀の美しい地鉄(小糠肌を生み出す地鉄)にも使われたのではなかろうか。

9.現時点の仮説と今後の研究課題 

以上の論をまとめると次のようになる。

【仮説:1】
鐔工:遠山派は、銘を”九州肥後国”と地方名・国名から大仰に切る。これは同じ肥後の刀工:同田貫派や、天文頃に住した刀工:三池派の末裔の典田と共通する。また銘字そのものは同田貫派と非常に良く似ている。同時代の肥前の初代忠吉初期銘に秀岸という僧に銘字の下書きを頼んだと伝わる秀岸銘なるものがあるが、同田貫派と遠山派に共通する銘の下書きをした人物まで伺える。以上から鐔工:遠山派には年紀作が発見されていないが、刀工:同田貫派と同じ時代(天正末年、文禄、慶長)に、近い関係で活躍したと考えたい。ちなみに、銘字の書風も、同時代の全国の鍛冶(具体的に検証したのは相州鍛冶だが)と共通するものがある。

【今後の検討課題】
肥後の刀工:典田や同田貫派諸工や鐔工:遠山派が”九州”という地方名を、肥後の上に冠した理由は不明である。天文4年紀の九州肥後典田が存在するので、天文3年に滅んだ九州探題:渋川氏に関係があるのだろうか。あるいは、当時盛んであった中国、朝鮮への輸出用刀剣のブランドとして使われたのであろうか。天文4年紀の典田を発見するまでは、九州地生えの大名ではなく、天下統一を果たした豊臣の大名:加藤清正家の好みかとも思ったが、ともかく不思議な銘振りである。

【仮説:2】
「肥後の羊羹色」と称される精良な地鉄は、林又七(慶長18年生まれ)に先行する遠山派から存在する。林家の祖は加藤家に鉄砲鍛冶として仕えていたから、遠山家からの伝承というよりも、加藤家の鉄砲鍛冶も使用していた鉄、あるいは同田貫派刀工が注文打ちに使用した鉄、そして後には肥前刀の小糠肌を生み出した鉄と共通する可能性もある。製鉄産地であった有明海沿岸地方における最上位の鉄の存在もあるのではなかろうか(肥後の鉄色=錆色については錆薬の調合などが語られていたが、鉄そのものの違いもあるのではなかろうか)

おわりに

鐔の愛好家、肥後鐔の愛好家でも、遠山の鐔をご覧になった人は少ないと思う。まして、所有されている人はほとんどいないと思う。だから、遠山鐔の時代などどうでもいいと思う人が大半だと思います。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。視野を広げると面白いヒントがあるということを理解していただければ、うれしいです。

遠山派の鐔は『林・神吉』(伊藤満 著)と『肥後金工大鑑』において写真を見ることができます。

この小論で、遠山派の製作 時代を天正・文禄・慶長と推定しましたが、上記本に掲載の遠山派の鐔には、このような時代とは見えずに、江戸時代中期頃に下がるのではと思えるものも存在します。現物を拝見しておらず写真だけですが、「地鉄堅き故にその作幾分若く見ゆもあるべし」(『肥後金工録』)と言う点を考慮しても、不思議に思います。
代下がりが存在するのでしょうか。

遠山派には、まだ釈然としない要素が存在することも記しておきます。

遠山派の製作時代を推定する中で、同田貫派刀工のことも調べましたが、突っ込んで調べると、また新しいこともわかりそうな気がします。識者に伺うと同田貫にも地鉄の良いものもあるそうです。ご興味のある方の研究を期待しております。

地鉄の件では、有明海沿岸地方が鉄の産地であることを初めて知りました。そして、室町期の対明・対朝鮮貿易の輸出品が日本刀であることを再認識いたしました。この中で有明海沿岸では、肥前刀の地鉄も含めて、最上級の鉄が存在したのではと思うようになりました。肥前刀の中には美しい小糠肌以上に強く美しい地鉄のものを見かけます。「肥後鐔の羊羹色」の見事な錆は、錆び薬の調合によって生まれると思ってましたが、錆び薬は、江戸期の鐔屋でも同様な調合であり、最近では地鉄そのものが違うのだと思うようになっています。今後の研究課題としていきます。

銘字の書体における時代の変遷は、私も調べてみて、興味深かったです。今後、地域における差異(備前、美濃、山城等)なども調べると、面白いと考えます。また時代を更に広げて南北朝、鎌倉、一方では江戸時代で見るのも意味があるし、字も「州」だけでなく「国」「住」「年」などでも検証するのも楽しそうです。

なお、肥後藩士、すなわち細川家家中については「肥後細川藩拾遺」というサイトに詳しい。そこに遠山を名乗る藩士を検索できます。しかし、その藩士の家と鐔工:遠山家との関係は不明です。肥後藩の史料は豊富であり、その中には「細川家家臣になった旧加藤家臣」というリストもありますが、そこには遠山家は見いだせません。武士と職人は違うものですが、姓に「源」を名乗り、名字として「遠山」を切っており、通字として「頼」を使用している。何か関係がわかる可能性もあります。これは別途調査していきたい。

(注)同田貫の小山(おやま)姓の武家も細川藩士の中にいますが、これも刀工との関係は不明。

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