幕末の鐔好き土佐藩士の鐔収集日記解析


伊藤 三平

刀装具の研究ノートのページ

はじめに

 高知県立歴史民俗資料館で「特別展 刀 武士(もののふ)の魂 −備前の名刀と土佐ゆかりの刀剣−」展(2012年10月)が開催された。そのカタログに「コラム 土佐藩士森四郎の鐔収集」というページがある。

 これは、高知県立歴史民俗資料館の杜山文庫にある「森正名江戸日記」という史料を元にまとめられたものである。森四郎正名は、土佐藩の浦奉行なども勤めた森勘左衛門芳材の四男である。この日記は四郎が武芸・学問修行のため、文政11年(1828)から安政4年(1857)までの期間に、5回にわたって江戸に滞在した時の記録である。古書画と鐔の収集に興味を持っていた人物であり、このカタログにおいては、鐔の収集等に関する箇所を口語訳して抜き出しており、興味深い。

 森四郎正名の父が就いていた浦奉行とは、土佐の海岸を浦戸湾を中心に東西に分け、それぞれに置かれた奉行職で、町奉行、郡奉行、山奉行、船奉行、勘定奉行などと並列する役職として半漁半農の浦人を支配していた。
 すなわち、森四郎は上士で、比較的身分の高い、裕福な武士の息子ということになる。

<この資料の興味深い点>

  1. どのような鐔を、「いつ」「どこで」「いくら」で買ったということが記されている。当時の鐔の価格などがわかる。

  2. 森四郎の好みがわかる。あるいは時代の好み、当時の土佐藩士の好みがわかる。森四郎のコレクターとしての成長ぶりも窺える。

  3. 鐔収集を一人ではなく、他の藩士と一緒に楽しんでおり、今と同じだと苦笑する。また土佐藩の刀装具の目利きである中西竹五郎に教えを乞うたことも記されている。ちなみに中西竹五郎は、同じく土佐藩出身の鐔収集の大家である秋山久作が残した逸話に登場する。中西竹五郎が鍛冶橋で通行人の差料の信家を見て、通行人の自宅を確認すると『信家鐔集』の著者中村覚太夫であることがわかる。このことを藩公に話すと、興味を持った藩公から、信家を覚太夫から所望して来いと命じられる。中村覚太夫から76枚の信家を見せられ、選ぶに選べず、結局は見かけた時の差料の信家を選び、同藩の者から、「中西も口ほどにない」と言われたエピソードである。これについては秋山久作は、確かに信家はそれぞれに捨てがたい味があり、1枚を選ぶのが難しく、今になれば、中西の気持ちもわかると述懐されている。(以上は伊藤満「信家鐔」刀和所載論文より抜粋)
     なお、今回の日記の記述を見ると、森四郎は身分的には中西竹五郎よりも上だったように感じる。

1.森四郎の鐔収集日記のまとめ

 日記を元に表に整理すると別紙の通りである。

土佐藩士森四郎の鐔収集記録」まとめ表(PDFファイル)

 なお、当時の鐔価格の現代価格への換算であるが、ここでは簡単に次のような考え方で実施していることを述べておく。

 江戸時代の貨幣制度は三貨制と言われ、西日本が銀、東日本が金、それに銭がリンクしており、わかりにくい。この詳細は別途調べているが、ここでは結論だけを述べると、江戸後期での換算は金1両=4分=16朱=銀60匁=銀600分=銭6貫文=5760文で行う。

 そして、小判1両は日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料には「江戸中期の一両(元文小判)は米価なら約4万円、大工の手間賃なら30〜40万円、蕎麦代金なら12〜13万円である。総じて江戸時代の米価は安値になっている。武家奉公人の年間給金の上限は二両二分に定められており、一両を40万円と換算すると彼らの年収は100万円となり、庶民感覚としては、このあたりと推測できる。」としている。

 これから1両40万円として、金1両(40万円)=4分(1分10万円)=16朱(1朱2.5万円)=銀60匁(銀1匁6700円)=銀600分(銀1分670円)=銭6貫文(銭1貫6.7万円)=5760文(銭1文69円)として換算する。

 森四郎の日記が該当する文政、天保は徐々にインフレが進んだ時代である。そして安政の開港(安政5年日米通商条約)以降は、もの凄いインフレになっていく。日記は安政3年までであり、武器・武具が値上がりしていた時代ではある。

2.森四郎の好み、コレクター遍歴

 森四郎の好みであるが、日記には鐔の詳細が書かれておらず、鐔の作者等からの推測であるが無骨なものが多いと感じる。35枚の購入記録(内1枚は交換)があるが、作者のわかるものでは12枚が甲冑師系の鐔工作品や、当時の現代刀匠の鐔である。
 具体的には、其阿弥が2枚、明珍が3枚、早乙女が3枚、春田が1枚、刀匠の政長が1枚、本行が1枚、元平が1枚である。

 ただ、肥後鐔などを購入すると、「大秘蔵のものと喜ぶ」(天保元年4月、波に菊透かし鐔)、「秘蔵のもの購入」(越前記内と肥後勘平)と注記があり、本来は肥後物が好みだが、金額的なものから上記のような収集になっている可能性もある。

 また森四郎個人の好みと言うより、当時の刀装の流行(講武所風、肥後拵)を反映しているとも考えられる。

 森四郎は、当初は2〜3万円程度の鐔の収集からはじめる。ここで鐔目利きの中西竹五郎の話を聴き、勉強をする。だからと言って高いものに対象を広げたわけでもなく、同じくらいの金額のものを購入している。
 天保元年になると、10万円を超えるものも購入するようになる。一番、高価なものは平安城住長士(原文ママ)のものだが、これは平安城象嵌で在銘のものなのだろうか。

 購入する場所は、上野山下、愛宕切り通し、西久保、神田、下谷、浅草、本郷、小石川、牛込、柳原、日陰町などである。日陰町は刀屋が多いところと聞いたことがあるが、後半は日陰町が多い。

3.江戸時代後期の鐔の価格

 現代の鐔の価格と比較するには、在銘のもので判断していくしかないが、次の通りである。価格には鐔の大きさや、鐔の材質、彫りの手間、絵柄の人気などで左右されると思うが、この史料では、そこまでわからないので限界はある。

岩間政盧 銀五匁  33,500円  
高田本行 銀三匁  20,100円  
早乙女家貞と早乙女彦左衛門の鐔二枚 銀五匁  33,500円 (二枚)
明珍大隅守宗助の鐔二枚 金二朱と銭二百文  63,800円 (二枚)
平安城住長士(?吉か) 金二分 200,000円  

 平安城住長吉?はよくわからないが、他は平成24年の相場よりは安いようであるが、一方では、こんなものかなという感じは持つ。
 ここで私が設定した1両40万円の妥当性もチェック可能である。昔の刀剣書は米価を基準にした1両10万円を使用していることが多い。私は「清麿の武器講中断の理由」(『麗』1994年8月〜9月)において、大工の手間賃等から1両30万円が妥当として、清麿の武器講の価格三両は100万円弱であり、それほど安い価格ではないと論じた(武器講の百本が完遂できていれば1億円近くの大量注文である)。
 日銀資料にあった1両40万円は妥当と考えられる。

おわりに 

 このような史料が、存在しているとわかっただけでも興味深い。江戸時代の他の人物においても、このような史料が出現すると、相場や時代の嗜好などが客観的に理解できると思う。

 また森四郎の日記には師匠格の中西竹五郎とは別に、同好の士として結城、林、今森、勘解由様、小田原、大町、戸部、手嶋の土佐藩士が登場する。晩年には息子乙吉とも一緒に鐔を購入しているのはほほえましい。
 土佐藩における鐔愛好者の厚みが、明治になって秋山久作や肥後鐔の長屋重名を生んでいると思うと感慨深いものがある。

 土佐藩は刀剣においても、今村長賀、別役成義、谷干城、山岡重厚なども出現しており、現代の刀剣・刀装具愛好家は土佐には恩があることを忘れてはいけないと思う(備前刀、新刀に良いものが揃っている静嘉堂文庫の収集は土佐出身の三菱の岩崎家が今村長賀のアドバイスで集めたものである)

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