刀装具の研究ノート

このページは伊藤が、刀装具について、本・論文を読んだり、お話を聴いたりして、研究をしたことについて記しています。



金山鐔-「町人好んで用ゆ」の根拠(2016年1月6日)

天保10年刊行の『金工鐔寄掇』(田中一賀著)に「金山透鐔 金山は山城国地名なるか姓なるか不知と言ども、世に唱えて珍重す 安永の頃 大坂の鑑定家稲葉通龍も隣国なれども不分明なるゆえ何とも論ぜず 瓢箪ずかし多し 古代は雁金兎角めりたるを上品とす 大透武用には悪るかるべし 天正の頃 世治て後の作か 錆味数百年にも及ぶ如く見ゆ 町人好んで用ゆ」とある。(『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)より引用)

ここに記載の「町人好んで用いる」の意味が長くわからなかったのであるが、先日、井原西鶴の『好色一代男』(天和二年刊)の巻七の「末社らく遊び」の章に、当時の贅を尽くした大尽の衣装・小物が紹介されていて、そこに刀剣に関しては次のように記されているのを発見した。

「町人ごしらへ七所の大脇指、すこし反らしてあゐ鮫を懸け、鉄の古鍔ちひさく柄長く、金の四目貫うつて、鼠屋が藤色の糸」とある。

現代語に意訳すると、町人用の拵は、七所(縁、柄頭、目貫、折金、栗形、裏瓦、笄を揃いの図柄で造ったもの)の大脇指(一尺八寸以上)で、少し反りがあり、藍鮫を鞘にかけ、鉄の古い鐔の小型のものをつけて、柄は長くして、金の四目貫を用いる。それに鼠屋製の藤色の下げ緒を附けている」となる。

折金とは、刀の鞘についている帯び金、あるいは返り角のことである。なお七所には、縁金、頭金、目貫、鐔、小柄、笄、鐺という異説もあると『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)には書かれている。

この元禄の少し前の時代の西鶴の文章を根拠に、田中一賀は「町人好んで用いる」と書いたのだ。鉄の古い鐔で小型のものとは、まさに金山鐔のようだ。鮫鞘は高価なもので、揃いの七所物も高価で目を惹くものだと思う。そこに古い、小型の鉄鐔を附けるのが、どういうわけか、当時の贅沢な町人のファッションだったのだ。ファッションに理由はない。

こういう流行があれば、今、残っている金山鐔と称されているものの中に元禄頃に作られたものも多いのではなかろうか。

また、笹野大行氏は、上述の田中一賀の文や、他に引用した元禄頃の『彫物目利彩金抄』や松宮観山の『刀盤図譜』などの金山鐔の項に「金山鐔が小型」という見方が無いと記しているが、田中一賀の文章が井原西鶴の文章には基づいているのであれば、その元の西鶴の記述には小型であることが明記されていることに留意したい。

また金山鐔の製産地に関して、古書には「山城国か?」とは書かれているが、美濃とか尾張などは無い。これは秋山久作以来の説である。

真鍮に関して(2)+鋳物の鐔、目貫(2015年12月23日)

「刀剣美術」707号(2015年12月発行)に「奈良町で江戸初期の刀装具工房跡発見される」(宮崎政久著)という記事が出る。内容は今年の10月に奈良町と呼ばれている旧奈良市街の南西にある柳町で、17世紀前半とみられる刀装具工房跡から多数の鐔や目貫の鋳型、さらに真鍮製造の坩堝(るつぼ)が出土した。今回の発見で、真鍮は17世紀前半に製産されていたことが確認されたことになるというものである。

また、発見された鋳型は鐔用の破片が約800点、目貫用の破片が約600点とある。この地には慶長年間には人家が無かったというが、寛永八年(1631)には21役家(役家の意味不明)があり、貞享4年(1687)刊の『奈良曝』には当時奈良には14軒の刀屋、14軒の鞘塗師、17軒のとぎ屋が記されていて、柳町には「刀屋の吉兵衛、鞘塗師の勘介、とぎ屋の木屋五兵衛」の名があるとのことである。

真鍮製産は17世紀後半以降とされていたから、今回の発見は従来の説を50年近く遡ると記されているが、下記の村上隆氏の『金・銀・銅の日本史』には「実際に日本で、亜鉛を用いて黄銅を作りだした時期はおそらく17世紀にはいってからだろう」とあり、17世紀後半とは書いていなかったと思うので、これまでの説を補強する発見と言えるだろう。

もう一つ、気になるのが、鐔の鋳型のことである。鐔、目貫の鋳型とは、鋳物の鐔、目貫を製作していたとのことであり、どんなものなのかを確認してみたい。

真鍮象眼の時代設定の謎(2015年9月8日)

先日、『金・銀・銅の日本史』(村上隆著)を読んだら、「黄銅については、まだ謎も多い。それは、この合金が日本でいつ頃から登場し、いつ頃から定着するかという点にある。亜鉛は、ありふれた金属であるように思われるが、単独で製錬するのは、なかなか難しい金属なのである。実際に日本で、亜鉛を用いて黄銅を作りだした時期はおそらく17世紀にはいってからだろうと考えている」とあった。

黄銅とは真鍮のことである。刀装具の世界では応仁鐔、平安城式真鍮象眼鐔、与四郎式真鍮象眼鐔が古いところでは知られている。

この中の応仁鐔は17世紀(慶長以降)ではなく、15世紀(それこそ「応仁の乱」の頃)とされている。もっとも応仁鐔という呼称は江戸時代にはなく、明治以降の造語のようであるが、薄い板鐔で簡素な陰透かし(古刀匠鐔のよう)で、透かしに沿って真鍮線象眼。切羽台の廻りに輪状に真鍮線象眼。それと耳までの間の地には霰(あられ)のような真鍮点象眼の作風は古そうに見える。

明治の金工家香取秀真は、南蛮真鍮として、南蛮貿易が盛んになってきた天文以降に輸入されたのではないかとの説を唱えていたようだ。

刀装具界では真鍮のことを宣徳金(中国の明の宣徳帝の時代(15世紀前半)にできた銅器に使われた)とも呼んでいたが、高岡銅器協同組合のサイトで確認すると、宣徳の色は黄金色ではなく、くすんだ銅の色だ。

ただ2014年4月に、奈良大学の東野教授が、平安時代後期(12世紀)の経典「紺紙金字一切経(荒川経)」に、真鍮が大量に使われていたことを発表した。こうなると、室町時代から真鍮が存在して鐔に使われてもおかしくない。(注:真鍮は紀元一世紀ごろ南コーカサス周辺で発見され、古代中国で「鍮石」や「仮鍮」と呼ばれ、日本でも正倉院宝物などにあるが、自然界に存在する真鍮を使用したと考えられてきた)

応仁鐔に在銘・年紀作があれば、刀装具の世界から、日本の金属学会に、真鍮製造の上限を提案もできるのだが、今のところは次のような問題提起をしておきたい。

<問題提起>

  1. 奈良大学の分析結果を踏まえて、室町時代には、特に刀装具に真鍮が金の代わりに使われていたとする。(従前の見方の補強・踏襲)
  2. 真鍮(銅と亜鉛の合金)ではなく、銅と錫(すず)の合金(サハリ)でも、錫が15~20%だと赤味を帯びた黄色になるという。応仁鐔などは、この合金だったのではなかろうか。平安城式真鍮象眼鐔の中に赤みの強い象眼も見る。
  3. 応仁鐔などの時代を桃山以降、あるいは香取説の天文以降と下げるべきではないか。
  4. 早い時代の真鍮は南蛮貿易(中国からの貿易も含む)による輸入品で貴重品だったと考えると、真鍮を使った応仁鐔などは輸入地(九州、堺など)の近くで作られたのではないか。

江戸時代の前期に、肥後の志水甚五(初代仁兵衛)が大胆な真鍮据紋象眼を取り入れた。肥後の西垣勘四郎が真鍮で色金鐔を作ったのは、長崎から、当時の日本では珍しい真鍮を入手できた為だったのかもしれない。

●桃山時代の小ぶりな金山鐔ー出雲阿国のファッションからか?」(2015年8月27日)

出雲阿国の一座が男装して刀を持って踊っている。その刀装における鐔が小ぶりなことを「花下遊楽図」から知る。この頃のかぶき者に小ぶりな鐔が流行し、それに合致したのが桃山期の小ぶりな金山鐔だったのではなかろうか。

小ぶりな鐔は他の鐔工集団にもあるが、金山鐔だけは「小ぶりで、角耳、厚手、意味不明の図を透かし、耳に鉄骨が出たもの」というのが特色にもなっているように、小ぶりな鐔がメインとなっている。この堂々たる存在感は何だろうというのが私の問題意識の始まりであった。

もちろん、仮説であり、今後の検討課題も列挙してある。皆様にも考えていただきたい。

桃山時代の小ぶりな金山鐔-出雲阿国のファッションからか?

後藤上代の鑑定ー後藤家以外の彫りー(2015年6月20日)

協会の審査で、ただの”後藤”となり、「後藤はわかっているが、代別を確認したくて審査に出したのに」と嘆いている刀屋さん、「”古後藤”と”無銘乗真”、”伝乗真”の明確な区別がわからん」と戸惑っている刀屋さん、「これは祐乗です。ちょっと大ぶりなだけで協会の極めは”乗真”ですが」と言うコレクター。

先日、ある人から尾張藩の石河(いしこ)家(信家のキリシタン鐔が伝来した家としても有名)に伝来した後藤家目利きの書を見せていただく。そこに後藤家上代と同じような彫りをする金工名、金工流派が次のようにリストアップされており、驚いた(私なりに簡単に現代語訳している)。

『後藤家彫亀鑑』にも、山椒与右衛門や、後藤庄兵衛などのことも出ているから、他の伝書にも掲載されているのだろう。

ある刀屋さんで大名家伝来の後藤物のセットの中に、見慣れぬ金工の作品が交じったものを拝見したことがある。私ごときには他の後藤物と区別がつかないものだが、伝来の通りのものなのだと思う。

現代には、上記の彫りを区別した本は無いし、区別できる人はいない。それぞれ無銘だから、基準となる資料も無い。こういう状況だから、”古後藤”や”伝乗真”などの極めが多くなるのだろう。
巷には蟹の彫り物もよく見かけるが、後藤乗真ではなく「蟹の彫手」の作品も多いのだろう。
ただ後藤本家の作品については前述した後藤家目利秘伝書の類で研究は進み、特に獅子、龍、桐紋などは、各代ごとの違いが明記されて、現代でも、その見所を体得した具現の氏がいる。

私自身は区別が付かないが、自分が欲しいものかどうかだけが基準だ。ただ、先人と同様に赤銅の質(=色)が決定的に大事なのかなとも思っているが、上記の「綾の小洛物」には赤銅、金性がいいとあるから、これだけでは区別できないのだろうが。

刀において「研げば良くなります」の売り言葉と同様に、「色上げすれば、赤銅の色は真っ黒になります」と言う人もいる。ある識者に伺うと「昔は実用の時代だから、柄糸の巻き直しと同様に、擦れたりした赤銅の色上げを行うことは常識だった。そして、色上げした時は真っ黒になる。しかし、擦れたり、時が経つと、その本性が出て赤っぽくなったり、鈍い色になるものもある。だからこそ、色上げが必要だったわけです」と教えていただく。

今は色上げなどしたら真っ黒になって、時代色が無くなる。だから、擦れたところなどは別だが、今現在の色合いが、その作品の本来の赤銅の質を表していると考えても良いことになる。そういう意味で、赤銅の質の鑑別は大事だと思う。

将来は、彫りを損なわないで、科学の力(材質の分析)によって分析が出来、鑑定できるようになることを期待したい(油彩画などは、科学的な方法で見直しが進んでいる)。

あるいは現在、東京芸大で進められている「後藤家文書」の解明が進めば、後藤家本家の極めが明確になり、後藤家作品の代別は、もう少し厳密になることも考えられる。しかし、上記の後藤家以外の彫りについては解明されないで残るだろう。

西垣勘四郎の本貫の地(2015年3月5日、3月10日追記)

西垣勘四郎の初代は「丹後国二俣村内外宮の神官の弟。細川家の豊前時代に平田彦三の門人になる」と、出身がかなり具体的に記されている。それならば裏を取ってみようと調べたのが「西垣勘四郎の本貫の地」である。

かなりのところまで裏付けは取れたが、まだわからないところもある。

尾張鐔工:二子山則亮の「則亮作事手控」に尾張鐔写しは無い(2014年12月17日)→尾張鐔の名称への疑問②

『二子山則亮考』(佐藤寒山監修 日本美術刀剣保存協会名古屋支部)と言う古書を拝読した。この本は江戸後期~幕末期に尾張で活躍した鐔工:二子山則亮の初二代の事績を調べ、作品の写真を収録・掲載したものである。そこに「則亮作事手控」という則亮の子孫の家に伝わり、門外不出だった史料が写真に撮られて掲載されている。

「則亮作事手控」は、初代則亮が天保11年春から嘉永4年までの作品の押形・原図に注文者、寸法、画題、作鐔上の注意事項、製作年月日を克明に記したものである。これを二代が受け継ぎ、二代がさらに自作を書き加えたものである。3冊に分かれている。二代がこれを受け取る時に「他へは見せない」ことを誓った文言も書かれている。

「注文覚書」と言ってもよく、その注文者の筆頭は尾張藩で「御用」と特記されている。多くは大小一揃いになっており、大小拵用の注文だったことがわかる。他に注文者として滝川、津田、大津、室賀、長坂等の名がある。尾張家の家中の者からの注文であろうか。また鳴海の酒造家で尾張俳壇の一中心であったと言う千代倉こと下郷氏の注文が初代の後期から二代にかけて相当にある。それは源氏五十四帖や下郷氏の家紋の蝶をデザインしたものなど斬新な意匠のものが多い。ちなみに則亮初二代ともに俳諧を嗜んでいたから、親交があったのだろう。

「則亮作事手控」の鐔図を見ると、親交があった画家の森高雅、渡辺清等の下絵によるものもある。また二代は独創的な画題も多い。刀工光定や道暁の鍛えによる鍛肌の作品や明珍宗邦や松雲斎瓜生恭道との合作、広房、信高の刀身彫りや小柄、目貫、縁頭等の作品もある。

同時に、初二代とも写し物も得意とし、金家、信家、山吉、法安、金山、柳生、貞広、埋忠、記内、明珍、天法、萩、伊藤、南蛮等を、更に二代は安親に到るまで巧みに写している。とくに信家、山吉、柳生等の写しは多い。この控えに「出来無類」と自讃しているのもある。

ここで金山写しがあると書いたが、これは金山によくある釣鐘透かしであるが、ただし釣鐘は枠だけであり、巷で見る釣鐘透かしとは違う。金山写しは、この1枚だけである。そして俗に言う尾張鐔を写したものは一枚も無いのである。

尾張藩士は柳生鐔への熱狂もそうだが、山吉兵の御国物を愛好している。すなわち 当時の尾張の武士は、今言われているところの尾張鐔を、御国物とは認識していなかったのだと思う。金家、信家は他国のものでも幕末期には有名な鐔だったから写しているのだろう。

この史料からも、俗に言うところの尾張鐔の名称のおかしさ(=明治期の秋山久作の造語)が理解できると思う。

柳生鐔にも図柄を収録した写本がいくつか伝わっている。私は「柳生連也仕込鍔 全」と笹野大行氏が所持されていた写本(堀井磊氏から譲られたと言う本)を拝見したが、この中に地鉄の具合によっては金山鐔と鑑定される可能性のあるものはあるが、ここにも俗に尾張鐔と見紛うようなものは無いことを付記しておきたい。

以上は尾張鐔という名称への疑問であり、現在、分類されている尾張鐔の素晴らしさを否定するものでは無いことを明記しておきたい。ではどこで作られたかについては下記の三好一門との関係?「桐・三階菱透かし」鐔を参考にしていただきたい。

肥後遠山派の活躍時代(改定版)ー同田貫派(刀)との銘振り、銘字の近似性からー(2014年8月25日→9月13日改定)

肥後遠山派の活躍時代は不明だったが、”九州肥後国”という銘の切り方が同じ肥後の同田貫派と似ており、また銘字の書体そのものも似ていることから、同田貫派と同じ、天正、文禄、慶長に活躍し、加藤清正家に縁のある鐔工ではないかと推論。

桃山時代のファッションー「松皮菱文様」(2014年7月24日、2015年2月8日改定)

所蔵の金山鐔は松皮菱文様だが、この文様は当時の辻が花染めの衣類や、織部焼の文様にも好まれたことを実証し、松皮菱文様がある鐔の時代を推定した。

三好一門との関係?「桐・三階菱透かし」鐔(2014年7月7日)→尾張鐔の名称への疑問①

所蔵の尾張透かし鐔「桐・三階菱透かし」の三階菱紋と桐紋に注目して、三階菱紋は織田信長の前の天下人:三好長慶など阿波三好家の紋、桐紋は永禄4年に足利将軍から三好長慶が拝領していることなどから、三好家の注文品ではないかと推論。すると製作地は三好家の支配地の京、奈良、堺あたりではないか。

製作地に関しては、尾張、三河、岐阜出身の大名家の藩祖の拵に、尾張鐔が付けられていないことなどから、尾張鐔がこの地方で作られたとは思えないこと、また、そもそも尾張鐔と名付けられた経緯も根拠のあるものではない。

三好一族には、刀剣鑑定で名高い三好釣閑斎など趣味人も多く、優れた透かし鐔を注文してもおかしくない。

江戸時代の鐔屋での錆び付け(2013年9月14日)

江戸時代には鐔屋という鐔の売買を業とする商売があり、そこでは店独自の鐔の錆び付け方法が秘伝としてあったことを元禄時代の古書から知る。鐔の製作者が、錆び付けしているのならば、”うぶ”の錆びとして珍重するのもいいのだが、流通業者の段階で、錆び付けし直していることが書かれていると、鉄鐔の錆び色に、こだわって、それで流派を鑑定するのは難しいことになる(もちろん、素材の鉄の材質、鍛錬で、同じ錆び付け薬でも錆色が変化する可能性もあるが)。

江戸時代の元禄年間に刊行された 『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』(原本は元禄3年刊だが、私は朝倉治彦 校注で読む)は、市中にある様々な職業について、その成り立ち、所在地、業のポイント、業の歴史などを書いた本である。刀剣・刀装具に関する職業も掲載されているが、そこに鍔屋がある。次のような内容が書かれている。
<鍔屋>
鍔の寸法は3寸1分なり。今は定ることなし。面々の好きに任す。鍔の徳は軍書に見えたり。寺町二条通、大坂は堺筋、高麗橋一丁目にあり。大小の古鍔をもとめてあきなう。
又は鍔磨りに誂て作らしむ。各々家をたてて、くさらかしを秘密することなり。鉄のくさらかし。
一.たんぱん一両、 一.いわう(硫黄)一両、一.はぐろかね 一分、一.ねずみの糞一両、水にてときあわせ、赤土に、つちを合わせて、塗りて、火に焼き付ける也。その後磨り落として油を塗れば、黒色になる也。銅は、一 たんぱん一両、一 いわう(硫黄)一両、一 ねずみの糞一両 梅の酢にて合わせる也。鍔磨、大仏近辺所々に住す。
(注)『国花万葉記』には古鍔屋と新鍔屋に分けて出ている。

要は、鐔を商っている鐔屋があり、京都は寺町二条通り、大坂では堺筋、高麗橋一丁目あたりに多い。大小の古鐔を仕入れて、販売したり、新たに発注して製作して販売したりする。各鐔屋では錆び付け方法(「鉄のくさらかし」と称している)を、それぞれの家の秘密としている。その一例が次のような調合であるというような内容である。

なお『日本刀大百科事典 3』(福永酔剣 著)には「鐔屋」という項目があり、元禄から享保にかけて京都では新鐔屋と古鐔屋に分かれていたこと、江戸、大坂では分かれてはいないが、ともに具体的な店名をあげている。

錆び付けの方法については、『肥後金工大鑑』59~60頁に、一子相伝の肥後林家の秘伝を、三代藤八が藩命によって、神吉寿平忠光に与えた藤八自書の相伝の扣(ひかえ)に、「一、せんじ(何かの煎じ汁か?) 一、白えんしょう 一、ねずみくそ(鼠の糞) 一、がにみそ(蟹のはらわた) 外にあいのうるか(鮎の卵巣)」という記述がある。
また『日本刀大百科事典 3』(福永酔剣 著)では「鐔の色着け」の項目、『同 3』の「銹び付け薬」の項目に詳しい。

錆び付けは、現代のコレクターの中でも、実施する人はいるし、昔の収集の大家も実施されていたことを聞いている。私も、こすり過ぎて、光ってしまったところに、水をつけて赤錆びを発生させて、拭いこんだことはある。錆び付けは、刀における研ぎとか、拵において毎年正月に柄糸を新しくするのと、ある意味では同じかもしれないが、難しい問題を含んでいる。”うぶ”の錆びか、後の錆び(これも各時代、各業者、各個人で様々な方法で実施)かを明確に識別できなければ指摘もできない。

私が、たとえば「この信家の鉄味・錆び色は、外の信家のとは違って素晴らしい」と評したら、古の鐔屋・笹屋六兵衛が「そうでございましょう、その信家は手前どもの店で錆び着けをしなおしたものでございますから」などと言われているのかしれないと思うと、鑑賞もしにくい。難しいものだ。

幕末鐔好き土佐藩士森四郎補遺(2012年11月8日)

不思議なことに、土佐藩森四郎の日記のことを取り上げたら、その森四郎に触れている資料2つに立て続けに出会った。この表題をクリックしてください。

幕末の鐔好き土佐藩士の日記解析(2012年10月22日)…左記の表題をクリックしてください。

昆寛の鯨は寛政10年の作品?(2012年6月28日)

年表を読むと言うのも面白いものである。調べたいことがあり、『江戸東京年表』(吉原・大濱編)を丹念に読んでいたら、寛政十年(1798)の欄に次のような記事があるのが目にとまった。
「5.1(5月1日) 品川洲崎に鯨が上がり、3日、将軍家斉が浜御殿でこれを見物する。この夏、団扇や手拭いに鯨を描くことが流行する。」

東品川の利田(かがた)神社に鯨塚があって、この時のことを記した碑文が残っている。

鯨と言えば岩本昆寛の鐔にある。この鐔も、この騒動に関係があるのかと思い、『金工事典』をひくと、昆寛は享和元年(1801)に五十八才で逝去している。寛政十年は死の三年前で五十五才にあたるから、関係があると推測できる。
昆寛の鯨図鐔を、寛政十年の鯨フィーバーと関連させて言及しているのを、刀剣・刀装具界では私は知らないが、あれば教えていただきたい。
あとは、この鐔の銘が昆寛の五十五才の銘として是認されるかだ。(下図写真は刀剣博物館での「岩本昆寛展」での絵ハガキより)

ちなみに、享保十四年(1730)五月に長崎から象が京都を経て、江戸にやってきて江戸町民が狂奔したことがある。かの有名な安親の象の鐔は、裏面に、この時に象を見た幕府御用学者林整宇(林家3代鳳岡)の漢詩が彫られており、この時の作品と是認されている。ちなみに、この時にも象ブームが起こり、絵とか漢詩などが多くつくられたようだ。(下図写真は『鐔鑑賞事典』より。刀装具の世界では享保十五年に江戸と踏襲されているが、十三年に長崎、十四年に京都、江戸が正しい)


対象物の写生という面では、安親の象の方が上手い。当時、多くの象の絵が描かれたようだが、その中でも量感、質感も出ており、出色ではなかろうか。加えて、大きな象を鐔という円形の中にドンと据えて丸く納める意匠はすばらしい。

ただし、昆寛の写生が劣ると言っても、安親は象を目の前でじっくり写生できたであろうが、昆寛は実見できたとしても、死んだ鯨を引き上げられる時ぐらいである。海の中での様子は想像を交えて描き、彫らざるを得ない。やむをえない。

安親も昆寛も、粉本主義(お手本の写しで終始)に陥ることなく、新意を図柄に積極的に取り込もうとしており、やはり一流工だと感心する。

末備前の鐔(12年4月18日)

平成24年4月に、サントリー美術館で開催中の「毛利家の至宝」展に出向く。そこに元就が所望して、赤松政秀が備前長船五郎左衛門清光に造らせたことが切羽台に金象嵌してある鉄の透かし鐔があった。天文24年(弘治元年)の作品と解説にあった。竹を肉彫り透かしにした鐔で良い地鉄と拝見した。(もちろんガラス越しであり、銘文も全て読めたわけではない。また説明にも詳しくは記されていなかったが、識者から佐野美術館の「武士の意匠 透かし鐔 古墳時代から江戸時代まで」のカタログに掲載されていることを教えていただき、100頁にあることを確認する。年紀は金象嵌にはないようだ。毛利家の記録にあるのだろうか。ちなみに佐野のカタログから金象嵌銘を転記すると「(表)備前国住長船五郎左衛門清光作之畢依 (裏)毛利右馬頭元就所望 赤松下野守政秀作」)。

清光に鐔があると聞いたことはあったが、現物はこれだったのだ。

調べると、「備前国住長船五郎左衛門尉清光 為政秀作之 天文二十四年八月吉日」の刀が存在している。この鐔があってもおかしくはないわけだ。

室町末期の刀剣大産地は備前と美濃である。美濃には鐔として金山、近くの尾張がある。備前にはないが「備前では鐔も多く作られた」と考える方が自然ではなかろうか。(小池与四郎が備前か?)

次に肉彫り透かしのことに触れたい。この鐔、無銘ならば古正阿弥、あるいは古記内と極まるのではなかろうか。
その記内だが、ただ1枚「江州」と切られた記内がある。越前移住前であり、室町末期に遡るのではなかろうか。この鐔も花籠のような肉彫り透かしで絵風であったと記憶している。室町末期の時代は絵風の作柄なのだろうか。

美術的に鑑賞する場合は尾張、金山、京でいいのかもしれないが、本当の産地は違うのではなかろうか(奈良も仏師等がいて、このようなものの製作は得意な地域)。
また凝った絵柄だと、時代を下げるきらいもあるが、考え直した方がいいのかもしれない。

このような問題意識を感じるのが、展覧会で実際にモノを観ることの意味であり、楽しみである。

●彦三の小田原覆輪の名称見直し案(11年3月9日、11日)

彦三の小田原覆輪の名称、おかしいと思いませんか?作風と時代から「南蛮覆輪」、あるいは「南蛮風覆輪」や、形状から「星打ち出し覆輪」への変更案(PDF文書)を提起しています。

金家錆と黒楽茶碗の肌(09年9月7日、13年9月2日加筆

今年の春先、ある有名な数寄者の方から金家の鐔(この鐔は城州銘の「騎牛帰家図」だが、「目の眼」(2013年10月号)に萩原守氏の解説付きで掲載される。夏雄の手拓で知られていたが、以降、秘蔵されていて、今回、発見された)を見せていただく。金家は薄いと言われているが、確かに薄い。図は鉄の高彫り据え紋や、金、銀の象嵌などで構成し、全てがしっかりと彫っている。鐔全体の形状や、それぞれの図が、既存の金家銘のものと、それぞれ一致していてなるほどと思う。名品である。

ここで大変、勉強になったのは「これが巷間、言われている金家錆です」と教わったことだ。
拙い表現で表すと、全体に幽かな赤錆びも一緒に拭き込まれているような感じである。世に多くの金家は、この錆を落として、黒光する錆にしているわけだ。

金家錆はカラー写真でないとわからず、私の保有している本では至文堂発行の「日本の美術64 刀装具」の口絵に掲載されている重要文化財の「城州伏見住金家」の「春日野図」に地が一番似ている。高彫りの際の低いところに少し赤錆の肌も混じり、それが黒錆と混然となる様なのだ。

その方がおっしゃるには「作成当時は保存の為に漆を塗り、それが一緒に拭い込まれている内に、こういう景色になったのではなかろうか」と言うことであった。(肥後鐔もそうだが、作成当時は保存の為に漆を塗っているのは珍しいことではない)

今年は、この金家とは別に2月は例の帝国ホテルの即売会、そして最近もある方から拝見し、眼福に恵まれている。

さて金家錆のことだが、3月に拝見してから、ずーっと心に残っていたが、先週、「あっ、あれは黒楽茶碗の名品の肌だ」と気がついた。急いで『すぐわかる名品茶碗の見かた』(矢部良明著)を紐解くと、楽長次郎の黒楽茶碗「あやめ」に、この肌があった。この書における作品の解説文を引用する。

「かせ肌となった光沢を失った釉薬が掛かり、黒の地色にやつれた風情の褐色が漂うあたり、「冷・凍・寂・枯」の茶湯美学の申し子といった様子である」

この黒楽茶碗も、当初はそれなりの釉薬がかかって、光っていたと思われる。その内、以上の説明にある状態になったのではなかろうか。

いずれにしても、千利休が見いだした陶工楽長次郎の時代と、金家の時代も同じである。こういう「寂・枯」の美意識は共通ではなかろうか。
今の時代に生きている我々が、金家錆のような風情を鑑賞できないといけないと思う。錆びを落とすばかりが鑑賞ではないのだ。焼きものの世界では、この美を愛でているのだ。刀装具鑑賞界だって遅れを取ってはいけないのだ。

又七のスーパーフラットな平肉(09年9月2日)

スーパーフラットとは漫画のような絵を描く現代美術の雄ー村上隆ーが唱えた概念で、日本の伝統的な絵画から現代の漫画・アニメにまでに共通してみられる画面の平面性、装飾性、遊戯性を示すと言われている。加えて現代の日本社会の階層性の無さをあらわしているとも言われている。

ここで言うスーパーフラットは、肥後の名工林又七の鐔の平肉において、平らに見えることを言っている。このことは私の発見ではなく、『林・神吉』を著した伊藤満氏が、その著の中で次のように説明している。

私自身、最近、又七の名作を何枚か拝見して、伊藤満氏の述べていることが理解できた。確かに平肉がフラットに見えるのだ。「フラット=変化がない」「フラット=味がない」「フラット=工夫がない」が通り相場なのだが、又七の場合は「フラット=端正」「フラット=すっきり」と見えるから、私は敢えてスーパーフラットと呼んだのだ。

ちなみに、これまで諸書に記されていた又七の平肉についての説明は次の通りであるが、自分の眼で確認すると、スーパーフラットの方がわかりやすいと思うのだが。

私や、伊藤満氏が拝見していないものに、このような平肉の感じが見られるのであろうか。それとも、観る深さの問題なのであろうか。(伊藤満氏も私も平肉が無いと言っているのではない。フラットに見えると言っているのだ。)

『林・神吉』

これまで『西垣』『平田・志水』の2冊を上梓している伊藤満氏が、いよいよ肥後金工3部作の最後となる『林・神吉』を刊行された。相変わらず写真が素晴らしく、これだけを観ていても、楽しい。昨日、半日楽しんだ。
内容では、先人の研究を紹介しながらも、神吉深信を高く評価しているところなど新鮮である。長屋重名の『肥後金工録』以来、楽寿に比べて深信は確かに低く評価され過ぎていると思う。それに対して、作品を写真で提示し、またご本人も目で観て確認しながら、その評価を変えようとしている。こういう視点は大切だ。芸術は独創。評者・観者・研究者にも独創が求められるのだ。今でも、楽寿は価格が高いが、深信はそこまでは高くない。おかしな深信も多いが、鏨にだまされずに、良いものを集めたらどうか。
ただ、私は深信の作品を所有して、鑑賞しているが、職人として楽寿と遜色がない点は同意するが、芸術という面ではここまで高く評価はしない。それはパトロンの厳しい眼の不足か、時代の空気の後押しが足りないのかもしれない。なお楽寿は所有していないので何とも言えない。

神吉初代の作品、万日坊の作品などを、比定しているが、一つの視点として、評価したい。また坪井諸工の作品をアップして、当時は志水5代が高く評価されていて、そのような作風を作っていることが多いと書かれているのも、なるほどと思った。
肥後金工は無銘が多く、それを初代、2代と比定していくわけだから、異論もあるだろうが、伊藤満個人が一つの眼で代付けをしているのは、それはそれで評価すべきである。

『平田・志水』の上梓が縁で、平田家の家系図を発見され、それを、この書で紹介している。新資料の発掘という研究面からも価値ある書物である。価格は4万円と高いが、前書に比べ、頁数、写真数も大きく増えている。ホームページから申し込んで購入すると3.5万円とのことです。

『平田・志水』

著者伊藤満氏が『西垣』に次いで平田彦三代々と志水甚五代々と門人、及び三角についての著作を上梓された。(詳細は著者ホームページをご覧下さい)

前作同様に写真がすばらしい。拡大してみてもドットにならないから、三角の精密な目貫などが、改めて鑑賞できた。このことだけでも大変に価値があります。

平田彦三の作品はもう一つ次元の違う格の高さを感じます。南蛮文化の影響という人もいれば近代的精神を感じるという人もいるでしょうが、根は同じ印象から生まれている評でしょう。従来の日本の文化とは異質な精神を宿した芸術作品と思います。

また志水の代別も、今に残る志水家の文書などを紹介されて、明確にしています。志水では特に3代目の作品(従来は2代とされていたものも含めて再編成)のすばらしさを再認識いたしました。肥後で名人と呼ばれていただけのことはあります。

無銘の作品の代別は難しく、著者の代別に異論を持つ人もいると思いますが、著者は「芸術は個性」の信念の元で、実際に自分が観た上での見識で個性を識別して選定しています。私は一理あると感じます。

残念なのは『西垣』と同じ説明文が散見されることです。ともに肥後金工であり、そのことを書けば同じになると言うことだと思うが、作者は当初からシリーズを意図して出版をしているのであれば、次作では再考をお願いしたい。

彦三は写真を観ているだけでわくわくします。

秋田の正阿弥伝兵衛の金銀杢目金(07年1月18日改定)

07年1月17日の日経新聞の裏面文化欄に工芸家の林美光氏が正阿弥伝兵衛が編み出したと言う金銀杢目金(きんぎんもくめがね)の技法の復活に取り組み、再現したとの記事が出ている。
金、銀、黒銅(刀剣界でいう赤銅)、銅の4種類の金属は、それぞれ融点が違う為に溶融は難しかったとのこと。

正阿弥伝兵衛と言うと「グリ彫り」が有名だが、これまでの刀剣界では金銀杢目金のことについて触れられていたと言う記憶はない。

グリ彫りを、金銀杢目金に施すと、面白い効果が生まれると思う。他にどのような彫りで効果を高めているのだろう。一度、この地金による作品を拝見したいものだ。ご存知の方がいれば教えていただきたい。
芸術は独創を尊ぶ。正阿弥伝兵衛は今でも高く評価されているが、金銀杢目金の独創の評価も加えて評価していきたい。

『西垣』

肥後金工に詳しい伊藤満氏が、このたび『西垣』を上梓された。氏は肥後金工作品の収集で有名であり、重要文化財をはじめとして名品を収集されている。その研究の第一弾としての成果である。

本の紹介はホームページに詳しいが、肥後金工の中で、作風が一番曖昧になっている西垣派についての研究であり、氏の意欲が感じられる。
2代勘四郎の田毎の月の名品から、巷(ちまた)で見かける無銘西垣まで、極めて幅広く鑑定されていた西垣派を整理したもので、今後の指針になる。
鷹が猿をつかまえている図を色金で据え紋象嵌した有名な鐔があるが、これまでは甚吾と考えられていたのを西垣と極めるなど、なるほどと思われる内容である。

本は写真の印刷品質、紙の質まで吟味されていて、肥後金工に興味を持っている人には参考になる。

「京金工」「京金具師」の極めへの疑問

日本美術刀剣保存協会の刀装小道具の審査において、「京金工」「京金具師」という極めがつくことがある。
これは具体的にはどの金工流派なのであろうか。

「京正阿弥」「京透かし」「平安城」「埋忠」という極めを見たことがあるから、これら以外の金工などであろう。
京都には、「後藤」家も廉乗の時代まではいた。後藤家支流で、昔は「脇後藤」と呼び、現在は「京後藤」とも言われている派がある。これらも、この極めがつくから「京金工」「京金具師」ではない。他に京都には「一宮」派、「大月」派、「鉄元堂」派、「一乗」派などがある。でも、「一宮」、「大月」、「鉄元堂」「一乗」の各派は特色があり、それなりに極まると思う。あと、後藤に似た山崎一賀や、大月派の祖の市川彦助などがある。このような後藤の下職的な金工を「京金工」「京金具師」と言っているのであろうか。

そして極めた作品を見ると、「京金工」の方が「京金具師」より上位と思われるがどうなっているのであろうか。
昔はこのような極めはなかった。刀装具関係の本にも、このような極めは載っていないと思う。このように極めたくなる気持ちもわかるから、「京金工」「京金具師」を否定するものではないが、どのような金工を指すのかを、具体的に示すべきではなかろうか。
「京金工」では上記の全ての流派を含んだ京都に住した金工という言葉となる。「京金具師」にいたっては太刀金具師で京都に居た職人や、仏具でも造っていた職人まで含むのか、皆目わからない。

『鐔・刀装具100選』を読んで

鐔、刀装具は刀と違って初見のものが少ない。それだけ、鐔・刀装具の方が現存している名品は少ないのかもしれない。あるいは錆びてしまう刀と違って、保管しておいても問題がないから、退蔵されているのが多いのかもしれない。
『鐔・刀装具100選』は親戚からもらった本であるが、ロンドンのビクトリア・アルバート博物館や、ジュネーブのバウァー・コレクション美術館のものなど初めて拝見するものが掲載されていて、興味深い。
幕末、明治の金工(義則、義胤、勝義)や、地方金工(長州、薩摩、出羽、伊予、会津)の優れた作品が掲載されている。いつも観る長州鐔や、藻柄子とはまったく違います。
また、資料的に貴重な鎌倉鐔の「和州」在銘品や与四郎象眼鐔の「備前岡山住人」在銘品が掲載されている。

なお、この本に、筆者所蔵の神吉深信と、大小で作られていたと思えるような鐔が掲載されているのに、驚きました。比較しています。

『薩摩拵』を読んで

懇意の浮世絵商のお店に伺ったら、「当店のお客様がこんな本を書かれ、伊藤さんも刀がお好きだから読んでください」と『薩摩拵』をいただいた。著者の調所氏も浮世絵にご趣味があるようだ。

薩摩拵を「上級武士一般仕様」「東郷示現流仕様」「薬丸自顕流仕様」と分類されているのは面白い着眼である。拵を剣道の流儀に関連づけるということに着目している人はいたであろうが、具体的かつ実証的に仮説を提示されたのは貴重である。研究を評価したい。

肥後拵にしても、肥後の居合いの流儀と関連づけた話を聞いたことがあるが、この本のように、その流儀を伝えている武道家に確認し、そこに伝わる拵と突き合わせた研究はないのではなかろうか。

刀装具の畏友のI氏が、鮫皮のかわりに牛皮を巻いた脇差用の薩摩拵をお持ちなのである。私の末広がり元平の拵用に譲って欲しいと何度か話をしたが、I氏も拵がお好きで、いまだに無視されている。

●「光悦村の金工」の内藤直子氏の論文について(03年12月20日)

刀剣美術の平成15年11月号、12月号に「光悦村の金工-「光悦町古図」中に見る「埋忠」と「躰阿弥」」という論文が掲載された。
大阪歴史博物館の学芸員である内藤直子氏が執筆したものである。

光悦村の古地図中に、光悦の屋敷の前の「むめただ道安」の屋敷があることに着目し、従来は「むめたに」と読まれてきたが、これが埋忠であろうと推論している。

明寿は刀銘には西陣住とあるが、鐔造りの創作活動は、ここ鷹峯で行われたのではないかと、作風の共通性にふれながら論をすすめている。
そして、この中で明寿の葡萄文鐔を葡萄ではなく、光悦のモチーフに多い蔦ではないかと推論されている。

「躰阿弥」は錺金具師であるが、この屋敷も光悦村にある。八坂神社の刀装具を紹介しながら躰阿弥工房に論究している。

非常におもしろい論文である。

疑問が解消した顕乗岩恵比寿の足(2001年3月15日)
後藤顕乗在銘の岩恵比寿の小柄がある。有名な品である。

(出所:『後藤家十七代の刀装具』より)

見ていただいてもわかるように、岩で釣りをしている恵比寿さんの足が、どうみても逆さまに付いている。私は、これが気になって仕方がなかった。いろいろな人に聞いても、その点のおかしさを指摘する人はいなかった。

この理由が、やっとわかりました。
『古美術閑話』(常石英明著)に七福神のことに触れている箇所があり、そこに次の一節があります。
「この神様(伊藤注 恵比寿さんのこと)は、30歳になるまでは病弱で、足が立たず、その後も一切の世の栄枯盛衰や得失から離脱して清廉潔白で、人々を善導して下さる神様で、大国主命の御子の事代主命と同一の神です。」

改めて『広辞苑』をひくと、ここにも「三歳まで足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常なさまの形容に用い」とありました。

顕乗の彫は、これを表現したのでしょう。
識者にとっては、こんなことは常識だから、わざわざ教えてくれなかったのかもしれませんが、何事も教えてくれる人がいないと疑問を解消するのに苦労します。

山崎一賀(2000年9月25日)
山崎一賀の福神が集っている図の三所物を拝見しました。
画題が画題であり、楽しそうな彫りで名品でした。
人物はいつもの一賀らしく、少しもっこりした人物で、表情もいいです。徳乗風と言われていますが、徳乗よりもずんぐりしている感じです。
もっとも一賀にしても、徳乗にしても、私は、それほど数を拝見していないので、偉そうには言えません。

波の感じ、少しくだけた鶴の感じ(躍動感はあります)、全体に賑やか過ぎる感じが、後藤と違うところかもしれませんが、違うから劣っているということではなく、本当に名品です。某大名家の伝来という話もあるそうです。

山崎一賀については、弁慶牛若図、住吉祭り図、田植え図などを実物、あるいは写真で拝見してますが、人物の彫りが多いような気がします。人物が得意だったからと思います。
いずれにしても拝見したものは、皆、ずんぐりした人物を中心に賑やかに丁寧に彫っている作風でした。

なお山崎一賀については、畏友のI氏が、今度東京都支部で講演するとお話されています。期待しています。古書には五代ありとあるそうですが、自身銘で作品を発表しているのは一人か二人ではないでしょうか。

大森派と石黒派(2000年1月11日)

通乗の本花押と略体花押(99年12月16日)

古代の拵(99年6月21日)
先日、東京支部の会で、鞘師の高山氏の講義があったが、昔の常識と異なるお話が多々あり、研究が進んできていることを感じる。馬の皮のなめし方の違いとか焼き落としと拵の関係など面白い。


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