志水仁兵衛(甚五初代)「放れ牛図」鐔
伊藤 三平

所蔵品の鑑賞のページ

はじめに

志水仁兵衛(通称:甚五初代)は迫力のある個性溢れた図を彫って印象に強く残る。刀装具の世界だけでなく、日本美術全体を見廻しても希有の個性だと思う。この強い印象だけで充分なのであるが、それでは展覧会、鑑賞会での鑑賞レベルだ。
手元に置いて鑑ていると、「何だろう?」と思わせる深い世界が広がる。今回は、私なりに踏み込んだ鑑賞結果を紹介したいのだが、非才の身で踏み込んだところで知れており、そこのところは御寛恕いただきたい。

ちなみに、下の写真は鐔立てに掛けているところである。いつも見るようなきちんとした写真ではないのも一興だろう。

縦69.0×横68.0×耳厚3.0、切羽台4.2、丸耳に近い角耳小肉 

銀は年月を経ると黒く変色するが、銀の布目象眼が前方の肩、背中、後ろの臀部、それから後脚に施されている。裏面は右下に笛を銀で象嵌しているだけである。

1.ピカソのゲルニカの牛

この鐔の存在感は強烈である。私もそう思ったが、伊藤満氏も『平田・志水』に所載し、解説で「彫刻もかなりシンプルで、牛の肉置きも低く、裏の横笛は全く誇張した所がなく自然体である。しかし牛の顔つきや迫力は並々ならぬもので、ゲルニカの時代のピカソの作品を思い起こさせる。強い中にも親しみがあり、ゆとりと言うか愛らしい所もあり、傑出している」と評している。

ピカソのゲルニカの牛と比較してみると、絵は以下のように異なるが、「似ている」と思った印象は鮮烈である。

ゲルニカ 部分『もっと知りたい ピカソ
 生涯と作品』(松田健児著)より

(1)ゲルニカの牛-擬人化と多義性-

「ゲルニカ」は、スペイン内戦にドイツが参戦し、ゲルニカの町に無差別爆撃したことに感じて、ピカソが1937年に制作した絵画である。この牛は、他の登場人物・動物が苦悶の表情を見せているのに対して、このように悠然としており、弾圧する側のファシズムの象徴ととらえる美術評論家も多い。ピカソ自身が「牛は残忍性と暗黒の象徴」と語ったとも伝えられている。一方で弾圧を受けても屈しないスペイン人の象徴とする意見もある。スペインは闘牛の国、牛はその象徴だと言うわけだ。ピカソはこの少し前の時期に、ギリシャ神話の牛頭人身のミノタウロスを多く描いている。

ピカソは絵の解釈は観る人の自由だとも語っているようだが、観る人によっても、観る人の、その時々の境遇、感情でも違ってくるものなのかもしれない。

それはさておき、このようにピカソのゲルニカの牛と似ているという印象を持ったのは、ともに観る人に強い印象を与えるからである。そして、この鐔の牛も、ゲルニカの牛と同様に多義性(一つの表現が多くの意味を持つこと)を持って、観る人に訴えかけるからである。

鐔の牛もゲルニカの牛も何となく人間的な顔になっている。鐔の牛には眉毛みたいなものも描かれている。動物の性質も含めて、動物の擬人化は太古以来、人類はやってきている。

ピカソのゲルニカと同様に、志水仁兵衛(通称初代甚五)も、製作者としては意図を持って造ったと思うが、その牛に何を観るかに自分は関与しないと達観しているのではなかろうか。

(2)ゲルニカの牛-キュビズム的表現(遠近感の無視)-

もう一つ、ピカソのゲルニカと似ていると感じた点を記しておきたい。それはピカソが考えた絵画技法のキュビズム的表現と同じような印象を抱くところがあるからだ。

普通の絵は、一点透視図法と言って、視点は一つで、そこから見た姿を描く。これで自然に見たような絵が描ける。これに対してキュビズムは、様々な角度から見た姿を、一つの絵に合成する。そして合成するに当たって、もとの形態を単純化、抽象化して組み合わせている。ゲルニカの牛はまさにそうである。「フォービズムが色彩の革命」であれば「キュビズムが形態の革命」と言われている。

この鐔は、牛の頭部は大きな角の表現、耳の表現などは立体感を持たし、前述したように擬人化した印象的な顔をまともに彫っており、前の肩・胴体よりは前面に出ていて遠近感は出ている。
しかし、他の部分、すなわち牛の前側の肩の部分、牛の中程の背と腹部、それに牛の臀部から後脚にかけての部分が、遠近感を無視して、部位ごとに彫って、それを繋いでいるように感じる。

部分ごとに見ると、胴体の背中の線ー柔らかく窪んだ線ーは力強く、牛の背中はこういうものだと思わせる。さらに印象的なのは蹄である。キチンと彫って、力強い。
鐔の右側にあたる牛の背中から尻、後ろ脚にかけては、鐔の外形に合わすかのように、わずかに内側にカーブを付けた縦の直線でためらわずに力強く彫っている。どういう視点で見たのだろうと不思議に感じる。そこに尻尾を文字通り「取って付けたような」表現で彫っているが、確かに牛の尻尾だよなと思わせる。
そして、腹の線は痩せすぎていると思ったが、先日、カンボジアの水田跡で枯れ茎や草を食んでいる牛(乾季は米を作れないから、稲の刈り取り後の枯れ茎を牛に食べさせ、その牛の糞尿が肥料になるという循環農法)を見たが、この牛のように痩せていた。野生に近い牛はこれでいいのだ。加えて、視点を左前方やや上部に取って、そこから腹部を見たら、このような形なのだろうかとも感じる。

普通の作者が、この絵を彫ったら下手だと言われるに違いない。作者志水仁兵衛(初代甚五)は、下手を迫力で誤魔化したのだろうか。
ともかく、牛の部分ごとに観て、部位ごとの特徴を掴み彫ったものを組み合わせて全体の牛を造形しているように思える。こういう意味で私はキュビズム的表現と書いている。

長く所蔵している梟の鐔も、遠近感を二の次にしているところがある。羽根を表す毛彫りの形、向きで、腹部、背部、尾羽部を表しているのだが、それを平気で一体化(平面化)して彫っている。
顔は普通に彫り、頭部の膨らみもそれなりの遠近感を持っている。また首と前面の腹の部分はわずかな鏨の窪みがあって遠近感が感じられる。しかし、首と背中側面の羽根、腹と背中側面の羽根の毛彫りはそれなりに神経を使っているが、それらを遠近感を無視して一体としている。それに、側面の羽根の部分と本来は後ろにあるべき尾羽の部分も遠近感を無視して一体(平面的)につないでいる。

(3)志水初代のキュビズム的表現誕生の秘密

私はこの鐔を何度も観ながら、志水初代のキュビズム的表現の先取りが、どうして生まれたのかを考えてきた。そして、今、何となく、こういうことではなかろうかと考えている。
それは、茎孔による場面転換である。

拵の中の鐔を考えて欲しい。茎孔に切羽が乗り、そこに縁を嵌めた柄が入る。そうすると、画面の左側と右側は分断される。こうなった時に、左側に①牛の頭部、②牛の前側肩の部分が見える。そして③牛の中程の背と腹部は切羽と縁を伴った柄で隠される。右側には④牛の臀部から後脚にかけての部分が見えることになる。

西垣勘四郎の御紋図の縁を載せたのが、下の写真である。③牛の中程の背と腹部は切羽台と柄で見えない。鐔の左側(①牛の頭部と、②牛の前側肩の部分)は一つの絵となる。そして右側(④牛の臀部から後脚に尻尾)は右側で絵になっており、全体としての違和感はない。


梟の鐔も同様だが、この鐔では茎孔に加えて櫃孔も効果的だ。縁付きの柄が茎孔と切羽台部分を覆う。すると、上左側に①梟の顔と頭部が来る。下左側の②首と前面の腹の部分はわずかな鏨の窪みがあって遠近感は心配無い。そして左側には大きな櫃孔があって腹の部分を大きく隠す。上右側の③頭部と側面の羽根との間の遠近感は、毛彫りの羽根の向きで区分できている。右側の④側面の羽根の部分と本来は後ろにあるべき尾羽の部分の遠近感は右側の櫃孔で区分されているのだ。

要は、鐔単独での鑑賞ではなく、拵の一部としての鐔を考え、その中での場面割りに応じた浮き彫りを施した結果が、鐔だけで観ると、各部の遠近感を無視したように見える斬新なキュビズム的表現を生んだと言うことだ。17世紀に、日本で、こういうことを平気でやってしまう鐔工が生まれたことを誇りに思う。同時に、このような作品を認めた肥後細川藩の武士を凄いと思う。


(4)この牛の意味ー本来の画題と製作時の意図

(1)章で、この鐔の牛も、擬人化し、牛を彫って、牛で無いようなものを作者は表していると書いた。

しかし、本来の画題としては、鐔の裏面には笛が象眼されているから、禅の修行の十段階を牛との関係で画いた”十牛図”における”牧童が牛に乗って笛を吹いている図”=「騎牛帰家図」の留守模様だと考える。
「騎牛帰家」とは禅において修行をして悟りを得るまでの十段階の修行の内の六段階目であり、「牛も手慣れてきた。すなわち、幸せが心の中に定着した。心の中も平穏・無事泰平の心となり、自由に繰れるようになった牛と一体になって笛を吹きながら家に帰っていく心境」を表しているようだ。桃山時代の金家にも、これを画題にした名作がある。

しかし、作者:志水仁兵衛(初代甚五)は、牛を彫っている最中に、「騎牛帰家」の意味するところの「平穏・無事泰平の心となり、自由に操れるようになった牛と一体になって笛を吹きながら家に帰る」などという心境は忘れた。忘れたと言うよりはハナから無視をしている。この牛を観ていると、無事泰平の心を持って、平穏に家に帰っていくような牛には見えない。
(注)私は、禅の修行もしてないから、十牛の段階が皆目わからない。ここまで書いてきたが、自分がわからないから志水仁兵衛(初代甚五)も無視したなどと書いたのかと自己嫌悪も生じたから、十牛図の意味を掲げる。修行には十の段階があり、それぞれの段階ごとに寓意の絵が存在する。禅がわかる人がいれば、新たな解釈を御願いしたい。
  1. 尋牛(幸せになるためには、待っていてはダメで自分から牛=幸せを尋ね、探すこと)
  2. 見跡(やっと牛の足跡を見つける。それはお経や先人の言行である。しかしそれはあくまで知識の段階、幸せへの道を知る)
  3. 見牛(木の陰に牛の半身を見つける。お経や先人の言行をたどり、おぼろげながら仏教の一端に触れ、仏教を少し知った段階、幸せというものを知る)
  4. 得牛(牛の鼻に手綱をかける。牛(幸せ)を自分の手でつかむ=その意味を自分のものにするが、牛は嫌がって逃げようとするので、離すまと努力する)
  5. 牧牛(牛が慣れて、飼い育てることに成功。幸せが心の中に入りこんだ。ただし、心の中から逃がさないようにしている段階)
  6. 騎牛帰家(牛も手慣れ、幸せが心の中に定着した。心の中も平穏。無事泰平の心となり、自由に繰れるようになった牛と一体になって笛を吹きながら家に帰っていく心境)
  7. 忘牛存人(家に帰って、あれほど求めていた牛のことすら忘れた心境。騎牛帰牛で牛と自分が一体になってのですが実は牛は外のものではなく自分の内にあるものであるということを知った段階)
  8. 人牛倶忘(幸せになることも、不幸せになることにもこだわらず、全てを受け入れる段階)
  9. 返本還源(幸せを求め旅に出、求めつくして自分のものにし、それすら忘れる世界に帰る段階)
  10. 入鄽(てん)垂手(「てん」は汚染した俗界のことで 垂手とは手を垂れることであり、汚染した世界に自ら飛び込んでいって自分以外の人々を助け導く最高の境地)

画題として「騎牛帰家」を借りているが、作者の志水仁兵衛(初代甚五)は、牛の姿に鐔工という職人としての立場を超えて、自己表現を意図した芸術家的な立場を取ったのではなかろうか。もちろん、当時の作者が芸術家ぶったということではない。あくまで鐔工として終始したであろうが、現代の私から見れば芸術家的だと思うのである。

自己表現も、作者そのものの自己が貧しいと自己満足に終わり、職人芸にも及ばないが、この牛を観ていると、作者の自由に自己責任で生き抜いていくという気概を見ることができる。

この牛図を『平田・志水』(伊藤満著)でも「放れ牛図」として掲載しているが、私も画題としては本来は正しいであろう「騎牛帰家図」と言うよりは「放れ牛図」としたい。

2.志水仁兵衛(通称初代甚五)が、ここで表現したかったこと

前章で、作者の志水仁兵衛(初代甚五)は、牛の姿に鐔工という職人としての立場を超えて、自己表現を意図したのではなかろうかと書いたが、それを探ってみたい。
もっとも、こんな私の試みを、志水仁兵衛は冷笑しているような気もするのだが。

(1)同図でも絵柄を変える鐔工

志水初代に牛の絵の鐔は多い。しかし次のように絵、牛の表情は変わる。単なる職人ならば、好評を博した図柄があれば、それを繰り返し画くものだし、変化させても、わずかなところだと思う。AとB、DとEは、それぞれ似ているが、A・Bグループ、Cグループ、D・Eグループ、Fグループと変化させているのが理解できる。(CとFは1枚だがグループとする)

A:『肥後金工大鑑』より B:『肥後金工大鑑』より
C:『平田・志水』より D:『平田・志水』より E:『平田・志水』より F:『平田・志水』より(所蔵品)

製作の時代は私にはわからないが『平田・志水』の著者の伊藤満氏は、この本に所載して下段に並べたC~Fの4枚は上記のような順で製作したと考えられ、私の所蔵品が最も晩年に近いとされている。A・BグループとCグループ以下の製作順序だが、Cの牛の背中は下段のグループに近いから、製作順はこの順でいいのかなと思うが、A・Bのグループと非常に良く似た志水五代茂永在銘の同図の鐔が『平田・志水』の325頁に所載されていると、伊藤満氏より改めて教えていただいた。私はA・Bの鐔も実見しておらず、これらが初代かどうかは今後の課題にしておきたい。いずれにしても、Aの鐔は『肥後金工録』、『刀剣金工名作集(肥後金工)』、『肥後金工大鑑』に、Bは『肥後金工大鑑』、『鐔名作集』、『鐔鑑賞事典』等の本に肥後物の代表作として先人が所載してきた名品である。

牛の絵を観ると、放れ牛でもA・B・Cの3枚は「鼻輪を通した放れ牛」である。D・E・Fの3枚は「鼻輪も通さぬ放れ牛」である。だんだんと志水初代が世間のしがらみにとらわれなくなって製作しているような感じを持つ。

(2)牛に託した志水初代の意図

「では、おまえは、この牛から何を感じるのか?」の問いに対する答だが、何度も観ているうちに、観る私の時々の心境が反映されるような感じもしている。ピカソのゲルニカの牛と同様に多義性を持っているのだ。ゲルニカの牛に関しては多くの美術評論家が、色々な解釈を行い、結局は多くの意味を持っているとしているのだ。

この牛について、私一人が観て、観て、色々と考え、迷うのも当然だと開き直りたい。

また志水仁兵衛(初代甚五)は真鍮象眼の鷹の図の鐔などもあり、強烈なイメージがあり、その残映に邪魔された面もあると感じる。素直に作品に向い会うのも簡単なようで難しいものである。これまで感じたことを列挙していきたい。



<当初の印象>
牛の表情から、決めたらテコでも動かないような頑固さを感じた。肥後の県民性を現す言葉として”肥後もっこす”(純粋で正義感が強く、一度決めたらテコでも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質)があるが、そういう男としての誇りを現したものかなと感じた。現在の熊本地方には、阿蘇の平原などで”肥後のあか牛”と呼ばれる品種の牛が飼われている。牛は熊本県民(肥後藩士)にとって馴染みのある動物だったのだと思う。ちなみに肥後鐔には、牛が彫られている名品も多い。例えば肥後春日派:林家にある「松に放れ牛」の透かし鐔や、「祭」という画題とも言われているが「牛を2匹を上下に透かしている」ものなのである。(牛の鐔は、他国にもあり、同時代以前では、結城秀康の差料(長船元重)の慶長拵の鐔が牛2匹を透かした古記内の鐔で有名である)

<次ぎの印象>
武士としての勇敢さを表しているのかとも思った。雄牛の英語Bull(ブル)は、株式相場において強気を現す用語である。このような印象は古今東西同じである。ギリシャ神話のミノタウロスも暴力的である。この鐔の牛は、実に立派な角である。強さ、武勇の象徴としてもふさわしい。

<しばらく経ってからの印象>
この牛は、同じ放れ牛でも、鼻輪も綱もつけられていない「放れ牛」だ。飼い主から離れて、自分達で餌を取って、生き抜いている牛だ。扶持はもらっているが、精神的は自由に生き抜いている志水仁兵衛(初代甚五)の象徴とも感じる。
後の世だが、長州藩の高杉晋作は吉田松陰から「鼻輪も通さぬ放れ牛(束縛されない人)」と表現されたと言う。奇兵隊創出から小倉城を攻略するまでたった3年間の革命家の人生。伊藤博文は高杉晋作を称して「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するもの莫し」と表現している。
同じ放れ牛でも、鼻輪の有無で、吉田松陰のような人物になると特性の違いを見抜くのだ。

<1年ほど前に考えたこと>
私は、丑年の生まれである。志水仁兵衛(初代甚五)も、これだけ牛を彫り上げており、丑年なのかもしれないとも感じている。ちなみに彼が取り上げている図柄はかなり限定されている。多く現存しているのは牛の他には鷹、梟、雨龍、鯉などである。これらの図柄は初代の好みだと思う。ここから志水初代の意図を探ったが、鷹は鳥類の代表、昼の食物連鎖の頂点だ。梟は鳥類における夜の植物連鎖の頂点だ。牛は動物の代表、鯉は魚類の代表、雨龍は想像上の生き物だが、龍は皇帝のシンボルだ。これぐらいしか思いつかなかった。

<最近の印象>
以上のように、感想は今でも観るたびに変わるが、最近は、この鐔の牛から、孤高の人:志水仁兵衛という感じを強く抱いている。これは梟の鐔でも同種の感じを抱くようになってきている。孤高の人が持つ厳しさ、至った境地の高さを感じている。自分の作品の境地と、当時の鐔を求める需要家層とのギャップによる孤独感、寂寥感もあるのかもしれない。

<カンボジアに行ってからの印象>
野牛も含めて人類は太古から牡牛を描いてきた。スペインのアルタミラの洞窟にも描かれている。ピカソが好んで画いたギリシャ神話における牛頭人身のミノタウロスのことに触れたが、今回出向いたカンボジアにも、ヒンドゥ教のシバ神の像に、ナンディンと言う雄牛神の像がシバ神の乗り物として彫られていた。日本でも虚空蔵菩薩と一緒に牛が描かれ、彫られることが多い。また菅原道真を祭る天神様にも牛の像があることが多い。

志水仁兵衛(初代甚五)はスケールが大きく、以上のような世界共通の心性まで表現しているのかなとも感じてしまう。

志水初代は凄いと感心していても世間は冷淡だが、写楽がデフォルメしてかえって、その人物を浮き立たせたことの凄さを、世界に発信したドイツ人ユリウス・クルトのような人物があらわれれば、志水仁兵衛(初代甚五)は、日本だけでなく世界的に評価されるのではなかろうか。

ちなみに、『平田・志水』の著者伊藤満氏は、「強い中にも親しみがあり、ゆとりと言うか愛らしい所もあり、傑出している」と、この鐔から”親しみ”、”ゆとり”、”愛らしさ”を感じておられる。観る人に様々な感想を抱かせる分、深いのだ。

3.当時の肥後藩の文化レベル

私は、現代に生きていて、ピカソの絵も、最近の抽象画も知っているが、志水仁兵衛(初代甚五)と同時代に生きていた時に、この作品を買えたろうかと自問すると、恐ろしく感じる。

他に鐔が無ければ別だが、当時の肥後藩には林又七で代表される春日派:林家の精巧、端正な透かし鐔や、西垣勘四郎のデザイン感覚が優れ、少し暖かみのある透かし鐔、それに味のある赤楽茶碗のような平田彦三の色金鐔があったのだ。

戦国期、慶長期とは違うのだ。かぶき者は取り締まられてきた寛永、寛文、元禄の江戸時代前期である。格式の縛りも多くなっている時代だ。息子が、この鐔を買ってきたら、一言あるかもしれない。

その中における志水仁兵衛のこの作風である。印象派のわかりやすい絵画でも、発表された当時は世間に受け入れられなかった。もちろんキュビズムもそうである。今、盛んに発表されている現代絵画、例えば村上隆、奈良美智の作品のように欧米で高評価されているものでも、漫画のようであり、私にはまだ理解できない。

昭和39年に『肥後金工大鑑』が発刊された時には、志水仁兵衛(初代甚五)の作品の短評は「いわゆるおとぼけが面白い」という評まであり、概して「面白い」と評されている。

今でも「面白い」と評する愛好家もいるだろう。美術に対する感想などは人様々でいいと思うが、私などは「面白い」なんて軽い感想は出ない。

当時の肥後藩の文化風土=茶道文化を尊敬するし、改めて高く評価すべきと考えたい。今の型にはまった茶道文化ではなく、桃山期の自由な茶道文化(織部の歪みなどの美、朝鮮の雑器からの美など色々と趣向して新たな美を発見)である。

それを理解し、志水仁兵衛の才能を発見し、伸ばした師匠の平田彦三、パトロンの細川三斎、松井康之(三斎と共に戦った細川家の重臣、八代城主、茶道も高く評価されている)、松井興長(次の八代藩主、長岡佐渡守)の藩主クラスや、今は名の知れていない当時の肥後藩士に敬意を払いたい。

4.この鐔の伝来

この鐔は、伊藤満氏が所有されていて、自著『平田・志水』に所載されているのだから、伝来が明確であれば、そこに記しているはずだと思われるだろうが、次の事情があって記されていない。

この鐔は、細川本家にあったものである。現在の当主:細川護熙氏は国会議員や熊本県知事、そして日本新党を設立して内閣総理大臣まで務められている。ご承知のように選挙や新党設立にはお金がかかる。そこで何度かに分けて、家伝来の品物を売りに出されている。もちろん家伝の美術品の売却は内々にされていた。

この「放れ牛図」鐔は、その流れの中で外に出されたもので、千葉の館山の別荘にあったものと聞いている。こういう事情だから、伊藤満氏が購入される時も、買った相手からは出所は明示されず、『平田・志水』を上梓した時には記載が無かったというわけである。この本の上梓後に、買った相手から真相を明かされたというわけだ。なお、伊藤満氏はこの鐔とは別の時期に、同様の経緯で肥後拵も購入されているが、それも出所は同じ細川本家ということだ。

私が存知あげている有名なコレクターの元で、私の鐔とは別の時期のようだが、やはり内々に細川家から出たという肥後鐔の良いもの(これは昔から有名で「金工名作集」に所載)を拝見したことがある。この方も、入手した際に業界の権威のある方から、細川家から出たことは内密にと言われていたようだ。

おわりに

どうも志水仁兵衛(初代甚五)の、この手の鉄鐔に私は惹かれるようだ。梟図鐔に続いての2枚目である。しかし「わかった」と言えない鑑賞レベルは今でも続く。鐔掛けで語り続けてくれるのだが、当方の感度が高くなく、もどかしい思いもある。




寝床から眺めて、小柄櫃孔、茎孔、笄櫃孔が「四角、三角、五角形」だなんていう愚にも付かない発見をして喜んだりしていてはいかんと思うのだが、いかんともしがたい。

ハナから無視した「騎牛帰家」の意味するところの「平穏・無事泰平の心となり、自由に操れるようになった牛と一体になって笛を吹きながら家に帰る」という心境もあるのかなとも感じる。

志水仁兵衛の作品に籠めた思い、意図がわからないだけではない。まだまだ不思議なことがある。

何で牛の顔を鐔の左側の下に持ってきているのかと言うことも不思議である。拵に組み込んだ時に、他人から良く見えるのは鐔の右側である。また上部も目立つと思うが、この鐔の右側、上部は素っ気がない。「他人に見せる」という意識そのものが無いのだろうか。

遠近感無視のキュビズムについて、切羽台、櫃孔を利用しての場面転換ではないかと考察したが、そうであるならば切羽台にまで牛の角を掛けなくてもいいのではないか、牛の腹をもう少し膨らませてもいいのではないかと思う。梟の鐔にしても、止まっている松の枝をもう少し下げてもいいのではと思う。不思議な鐔工である。

また、何で志水仁兵衛(通称初代甚五)の鐔は小振りなものが多いのだろうか。

すこし前の桃山時代の名鐔工:金家は、見事な遠近感表現で絵風鐔に新境地を開いた。そこに志水初代の遠近感の無視(語弊があるのを承知で使っているが)の表現である。日本文化と言うか日本人の美意識は奥が深くて、素晴らしいと思う。

今は、欧米の人にも志水初代の作品は垂涎ものと聞くが、世界共通の美の要素(驚き、目の覚醒)を持っていると思う。

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