このウエブサイト上の「刀装具の鑑賞・鑑定ノート」で「柳生鐔(2010年4月25日)」と「柳生鐔と御流儀鐔(2010年11月5日)」として、本当の柳生鐔は相当に迫力があるもので、巷(ちまた)に出回っている柳生鐔の多くは後の時代に作られた御流儀鐔や後世の写し物が多いのではないかと述べてきたが、私なりに確信の持てる柳生鐔に御縁があった。2010年4月に柳生鐔の名品に感動し、2013年10月の「鐵の華」展(於刀剣博物館)で、良い柳生鐔を拝見し、こういうのなら買いたいと思った気持ちを鐔の方で汲み取ってくれたようだ。
1.これが柳生鐔
これが、柳生新陰流五世柳生厳包連也が製作を指導し、江戸時代に尾張藩士が熱望した柳生鐔の1枚である。肝っ玉が据わっている感を抱かせる豪胆さを感じる。力強く、堂々とした鐔だ。
鐔の形状も面白い。角鐔を基本にした形状で「隅切角」と呼ぶものだ。鐔の形状は、安土桃山期に解放されて様々な形状が生まれたが、幕藩体制の秩序が固まってきた寛文新刀期に、このような異形を取り入れた連也の発想に敬意を払いたい。隅を落とした長方形に、月を現す円弧を内側一杯に取り入れた図取りは新鮮だ。隅切角の形状も長辺にはわずかに膨らみを持たせ、隅切りの角度も均一でなく、堅苦しさは感じさせない。
縦73.0×横68.8×耳厚6.0、切羽台4.7 |
美術品は第一印象が大事で、この鐔の「肝っ玉が据わっている豪胆さ、力強く、堂々」という迫力は、この通りなのだが、次いで下記のような、この鐔の世界に入り込めない違和感も感じてくる。
図柄は柳生鐔の意匠の一つの「水月」とされている。図取りの発想は面白いのだが、現実にはありえない大きな月の輪と立ち上がる波の組み合わせの図柄が、観る人に戸惑いを与える。デザインは面白いものの一般受けするものでは無いだろう。
月の輪の彫りには、輪に広狭があり、どうしてなのかと思わせるし、水を波で表現しているのだろうが、この高い波は何なのだろうと考えてしまう。柳生流「水月の位」の道歌は、いくつか伝わっているが、水月とは水に映った月である。こんな荒い波では月は映らないのではなかろうか。(この図が「水月」とされていることには、以降も疑問を持ち続けており、「おわりに」の後に追記)
高い波に施している筋彫りは細かくなく、大雑把に彫って、特徴を把握しており、おおらかな感じを与えるが、絵や彫りは上手いとは思えない。
このように「なんでだろう」と何度も観ている内に気が付いた。これは「柳生新陰流を学び、悟った者だけがわかればいい」という鐔なのだ。だから、私のような兵法未熟者で、鐔に芸術性を求めるだけの人間には、この鐔と一体感を持てないような感じをいだくのだ。鐔職人が売りモノとして製作した鐔ではないから、購入する人に媚びを売ってくれないところがあるのだ。
その分、連也の「私の鐔は、これでいいんだ」という自信とか、「柳生新陰流を学び、悟った者だけがわかればいい」と言う突っぱねた精神からくる気迫が、肝っ玉の据わったような豪胆さという私の印象につながっているようだ。鐔の方からすり寄ってはくれないが、伝わってくる気迫が「柳生鐔もいいなあ」となる。
地鉄の鍛えはきめ細かく、ねっとりした感じの黒い錆で、鉛色が奥深く輝くような色で、この錆色も他に見ない独特のものである。美しい鉄の色である。
そして、透かし際(きわ)を柳生鐔の掟通りに磨って、なるめている。結果として、普通の透かしと、肉彫り透かしの間の彫りを独創している。それが図に柔らかさを出すとともに光沢の変化を醸し出す。
耳には鉄骨が4つ現れている。整った塊状鉄骨が大半で、大きめの粒状鉄骨のように重厚な輝きを放っている。
さらに、この鐔には連也の遊び心が隠されている。それは鐔表面の左下部に出た鉄骨を生かして、それを波飛沫(なみしぶき)のように見せているところだ。彫り上げた波飛沫ではなく、鉄骨を生かした波飛沫など、楽しい発想ではないか。波飛沫が一つ増えた為か、切羽台の左上の波飛沫は、円の中をくり抜いて陰の透かしにしている。ヤンヤ、ヤンヤの柳生鐔だ。
表下部 の鉄骨 利用の 波飛沫 |
切羽台 上の波 飛沫を 陰透し |
「第1章 これが柳生鐔」で言いたいことは尽きており、あとは「おわりに」を読んでいただければ、それで良いのだが、以下は説明的に記していく。柳生鐔に関心がある人には参考になろう。なお、柳生鐔の地鉄と図柄については私も引き続き研究中であり、断定的なことは避けたい。
(1)柳生厳包連也
柳生鐔とは、尾張藩士として柳生新陰流の道統の5世を継いだ柳生厳包(としかね)=連也(連也斎というのは間違い)が、自ら工夫して製作した鐔を言う。下絵と下地と透かしは協力者の存在があるが、最終的な磨きや、錆び付け、腐らし仕上げを連也自身が行ったと伝わっている。
柳生厳包(としかね)=連也は、柳生兵庫助利厳(柳生新陰流3世)の三男として寛永2年(1625)に生まれる。ちなみに柳生新陰流4世は尾張初代藩主徳川義直であり、連也の次の6世は二代藩主徳川光友である。
連也は12、13歳頃から剣術で頭角を現し、尾張二代藩主光友の指南役をつとめる。”尾張の麒麟児”とも称されて六百石の知行を賜るが、寛文8年(1688)44歳の時に役職を辞して二百石と小林屋敷を賜る。生涯、妻帯せずに武芸に励み、文雅の道にも精進。柳生鐔や柳生拵を考案し、焼き物(瀬戸焼物師弥之助を扶持)にも、庭造りにも造詣があったと伝わっている。元禄7年(1694)に70歳で亡くなる。
徳川光友が、連也の小林屋敷の庭を見て、「連也の物数寄には叶わぬ」と感心されたとの伝承も残っており、美意識が高かったことが伺える。ちなみに、尾張徳川家の二代光友(寛永2年(1625)~元禄13年(1700))も優れた殿様である。徳川家康の孫に当たるわけで、武芸は柳生新陰流を学び6世となる。水練も得意で、大井川も泳ぎ渡る。江戸に来ると毎度、八丁堀に飛び込み、時に立ち泳ぎでお膳を食べて観衆を喜ばせたと伝わる。また書画もよくし、後西天皇、近衛信尋と併せて三蹟と称されたとある。絵は狩野探幽、松花堂昭乗に師事した。面白いエピソードとして、専用の折りたたみ式トイレを家来が挟み箱に入れて持ち運び、便意を催すと場所を指示して組立てさせる。ことが済んだ後に自分で砂をかけたと伝わる。
(2)柳生鐔
連也による鐔の製作は、連也隠居の寛文8年(1668)頃から、延宝、天和、貞享を経て、元禄7年(1694)に亡くなるまでの27年間と推測されている。要は寛文新刀の時代である。
尾張藩では、柳生鐔の正真物となると甚だしく珍重されていた。戦前の鉄鐔鑑定の大御所:秋山久作が、尾張の愛鐔家の元で「良い金山鐔ですね」と褒めたところ、「これは金山ではなく柳生だ」と甚だ不興をかったことが伝わっている。
当地では価格も恐ろしく高値で取引され、写本にある書き込みによると、松金象嵌・竹銀象嵌の柳生鐔に「今泉源内より柳生厳周へ渡る。代金大判一枚(小判で10両が公的な換算率だが実質は7両2分換え)」とか、箱釣瓶という図柄の鐔は寛政11年に駒屋源兵衛より金12両に譲り受け秘蔵」などと書き込まれている。1両を大工の手間賃で換算すると約30万円であり、それぞれ225万円、360万円という高額である。
幕末~明治の柳生鐔研究家の今泉源内の箱書きのあるものなどは、戦前においても非常に珍重され、高額だったと伝わる。
このように人気があった為に、連也の死後に、後代の柳生家当主が主導して写し物が作られており、それらは尾張では御流儀鐔と言われ、世上に流通していた。『尾張と三河の鐔工』(岡本保和著)には二期(宝永から文化のはじめまでで柳生厳春の代)、三期(文政から嘉永にかけて厳政の代で初代則亮などに作らす)のものがあったことが誌されている。
加えて、人気があった為に、尾張地方の鐔工による写しもの、中には悪意のある写しものも生まれ、声価を落としているわけである。
(3)図柄
柳生鐔は、柳生連也が柳生流の兵法の極意にも関連していると言われる独特のデザインを生み出している。尾張藩では非常に高く評価されていたから、その図柄を収録した写本がいくつか伝わっている。写本には下方貞久本、今泉源内本、松濤庵古眠安政5年写本、名古屋市立図書館本(空襲で焼失)、渡辺陸政本、今井廉一本、小寺玉晁本、柳生清浄寺本、今井廉一本、山田庄五郎本、堀井磊本、金森一吉本などがある。それらをさらにコピーしたものもある。
私の手元にも「柳生連也仕込鍔 全」というコピーがあり、これは刀剣柴田にいた青山氏から譲ってもらったものである。巻末に、大正2年12月24日に明珍政幸氏が「御懇望により柳生厳周氏に譲る」とあり、それを林健太郎氏が大正6年に写本し、さらにそれを大正8年に秋山久作氏が写すことが識されている。福士繁雄氏の「刀装・刀装具初学教室17」(『刀剣美術』466号 平成7年11月)には、私のコピーと同じものかと思われるものの伝来が記してある。それによると、明珍政幸氏→柳生厳周氏(大正2年)→林健太郎氏(大正6年)→秋山久作氏(大正8年)→長岡恒喜氏(大正12年)→仏人アルマンプジェー氏(昭和5年)→永山香螺氏(昭和7年)と写されてきたとある。
また伊藤満氏に、笹野大行氏が堀井磊氏から譲られたと言う本(要は堀井磊本か?)も見せていただいた。この本は更に詳しく、下方貞久本からも、名古屋市立図書館本からも補足すべきところ(新たな図というのではなく、書き込みの内容)を写しているようだ。巻末には、同様な写本の経緯が書かれており、これら写本は大同小異であると言われているのも頷(うなづ)ける。
柳生鐔のデザインは、これら本に百数十枚掲載されている。この中では、三十六歌仙になぞらえた歌仙鐔三十六枚の図として、狩野探幽が下絵を描き、後藤某が彫り、江戸の古鉄五左衛門が鍛えたと伝わるものが有名だが、研究者は眉唾ものだとしている。
稲葉通邦の『柳生鐔全図』に「下絵は秦国成のよし、世に探幽下絵は誤りなり、連也探幽時代不同なり」とあることから、尾張のお抱え絵師の秦国成が下絵ではないかと推論されている。ちなみに秦国成は、後に狩野を名乗り、常信同人説もあるそうだ。
また後藤某に関して、岡本保和氏は『尾張と三河の鐔工』の中で、後藤某とは連也が三人扶持を与えていた後藤庄兵衛光輝であると推測している。瀬戸焼物師の弥之助と同様に連也自身がお抱えにしていたわけである。
飯田一雄氏は「柳生清浄寺本をめぐって-柳生鐔の作者は誰か-」(「刀剣美術」239~241昭和51年)の中で、図柄は連也が考案した要素が強いとも述べているが、私も柳生鐔の絵は独特で、プロにしては洗練されていない図柄から、アマの連也自身が案出したと考える方が自然と思っている。それを前述した絵師:秦国成に整えてもらったのではなかろうか。こう考えた方が、柳生流の極意を図案に込めたという趣旨にも合うと考える。
なお写本には、歌仙鐔以外の柳生鐔の図においても、「連也和尚から○○へ」との書き込みのある図が何枚もあり、柳生鐔の本歌は160枚くらいではないかと飯田一雄氏は前述した論文の中で述べている。
私の柳生鐔「水月」の図柄は写本では次のように写されている。これは表側ではなく、裏側である。写された図柄の鐔と、私の所蔵品は同一ではないと思うが、現存する柳生鐔の名品も、これら写本の図と同一のものはほとんどない。『透鐔』(笹野大行著)所載の柳生家から金森一吉が譲り受けたと言う由緒正しい「一本竹透かし」(「胴笹」とも言う)も、同じく所載で笹野大行氏遺愛の「波車透かし」も「丸波透かし」も写本とは差異がある。名古屋市博物館の「木井桁透かし」も写本とは異なっている。写した時の写し間違いか、写本から写本を作る時の写し間違いか、同種の鐔を何枚も造ったのかはわからない。もちろん、後世の写し物=江戸期の御流儀鐔や、二子山一派のような後世の尾張鐔工の写しや、近現代の写し物の可能性もあるだろう。
さらに言うと、これら写本に図が掲載されていないものにも、柳生鐔の名品(例えば「三日月三星」透かし)があり、私は実のところ、よくわからない。
「柳生連也仕込鍔 全」より ここには無いが、吉田庄兵衛との書き込みが、 上部に書かれている。 |
笹野大行氏所蔵本より。 吉田庄兵衛との書き込みが、上部に書かれている。 |
ちなみに「水月」図は歌仙鐔三十六枚の中にもあり、それは次のような図である。このほかにも波と月の組み合わせの図は存在する。(「水月」の名称については「おわりに」の後に追記)
「柳生連也仕込鍔 全」より 三十六歌仙にある「水月」 |
なお「水月」は、柳生流の極意の一つであり、『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)の解説の中で、「水月の位」の道歌として「立向ふ その目をすぐに ゆるむまじ これぞまことの 水月の影」が紹介されている。意味は、月が水にうつるように、相手の動きを無心にとらえよということとある。
他にも「水月」の意味として「心 水中の月に似たり 形鏡の上の影の如し」の意で、水が月の影を、鏡は身の影を映すのが速やかのように、人(敵)の心をわが心にうつして勝を制することの寓意であるとも紹介されている本もある。
道歌の意味を以上のように解釈されると「当たり前のことではないか」となる。だから本当はもう少し深い意味がありそうである。もっとも、当たり前のことと思う内容も、実際に出来るかとなると、私のような兵法不案内な者には難しい境地だ。
(4)地鉄
鉄の透かし鐔だから地鉄は大切である。この鐔の地鉄は、きめ細かく、ねっとりした感じの黒い錆におおわれ、錆色は鉛色という感じである。耳には鉄骨、それも整った塊状鉄骨が出て、粒状鉄骨のようにも見える。鐔の表側の表面にも出ており、それを波飛沫(なみしぶき)に見立てているのは第1章で説明した通りである。(後述(9)に耳でなく、地に出た鉄骨を生かした柳生鐔を紹介している。参考にして欲しい)
耳にわずかに柾目の鍛え目が見て取れる。月の円弧部分の切り立て部(鐔の透かしの側面)には、幾層もの柾目が出ている。
柳生鐔の作者については、江戸の古鉄五左衛門、当時の尾張鐔工の桜山吉、戸田彦右衛門、福井次左衛門、時計鐔の作家時悦一派、大野鐔の作家福茂・福重一派等が考えられている。
私が手に取って実見した良い柳生鐔を比較しても、地鉄は私の所蔵品のようなもの、古い時代の尾張・金山のようなもの、黒褐色の照りの強いものなど3種あり、複数の作者が想定される。加えて、鉄鐔は保存状態でも錆色は変化するし、私が以前に紹介したように、流通における再販売時に鐔屋が錆を付け直すことも行われているわけであり、地鉄での断定は難しい。
私の所蔵品のような錆色も、複数いたとされる鐔工の一人のものとなるが、古来、この錆色を本歌としてきた研究が多い。先人の研究成果を引用する。
ちなみに、『透鐔 武士道の美』(笹野大行著 1972年)では「柳生鐔において、耳に柾の鍛え目のあまり出ておらず、鉄骨の出るもので、黒みがかった鉄色で、ねっとりした鉄質のものは、大野鐔と推測している」と記されている。
しかし、大野鐔の作風に関して、笹野氏とまったく違う意見が『尾張と三河の鐔工』(岡本保和著)に記されている。「大野鐔の特徴は、ざらつき気味の地鉄と大振りの鉄骨である。透かしに肉彫りを加えた福槌に大野の在銘があり、代表的な図と言われる。金山鐔よりも耳は厚手が多い、肉彫りを加味した図(福槌、橘、桃等)と、そうでないもの(歯車透かし)がある。耳にはいずれも大小の鉄骨の働きがみられる。地鉄はざらつき気味のが多い。緻密なものは稀である」。
先人の見解が上記のように異なり、私自身は在銘の大野鐔(知多半島の大野で作られた鐔)を拝見したことがないので、結論は保留しておきたい。
「柳生清浄寺本をめぐって-柳生鐔の作者は誰か-」の中で、飯田一雄氏は、錆付けについて、柳生後代の当主が連也から継承の「仕込色付ケ薬之方」として、赤土、硫黄、たんぱん、えんしょう、鼠ふん、塩などを材料に「それらを練り合わせ、よく腐り候ほど好きよし」と自賛している史料を紹介している。
また、柳生鐔は錆付け仕上げの後、焼き手仕上げを行っているが、柳生清浄寺本中の”連也師之自筆の写”に、錆付け仕上げの後「地ヲカキニスルハ、カ子ヲ付アブル」と記されている。カキは掻きで、かき合わせることで、鍛え目や鉄骨を出すことで、カネはおはぐろの液すなわち鉄漿であるから「地に鉄骨を出すのは、おはぐろの液を付けて火にあぶる」の意と注釈している。
私はおはぐろの液をつけて炙ることで、黒く、鉛色の鉄味になったのかなと思うのだが、実証してみないと実のところはわからない。
しかし、先人の研究には以下のように良いものは赤みを帯びた褐色でねっとりしたものと述べているものもあり、また、私自身も前述したように赤味を帯びた輝く黒錆の柳生鐔の名品を拝見している。また尾張、金山のような柳生鐔も拝見している。鉄鐔鑑定の大家:秋山久作も「良い金山ですね」と述べて所蔵者の不興をかっているほどである。こういうことから、桜山吉、戸田彦右衛門、福井次左衛門、時計鐔の作家時悦一派、大野鐔の作家福茂・福重一派、江戸の古鉄五左衛門などの複数の作者が製作に携わっていたと考えたい。もっとも笹野大行氏の著述には、上記の想定されている作者の在銘品には柳生鐔に匹敵するものは無いと書かれており、改めて連也の偉大さを讃えている。やはり柳生鐔は柳生連也が大きく関与した鐔なのかもしれない。
- ●「柳生清浄寺本をめぐって-柳生鐔の作者は誰か-」飯田一雄 著「刀剣美術」239~241昭和51年
- よく精錬された褐色の鉄味がねっとりとして、地に変化があり、耳に鍛え目、処々に鉄骨が現れている。二級のものは、地鉄がややザングリしており、これは入念作ではないもの、また後代のが該当するであろう。
- ●「刀装・刀装具初学教室17」福士繁雄 著『刀剣美術』 466平成7年11月
- 小形のものが多く、そのわりに厚さがある。地金の鍛錬が勝れ、ねっとりした赤味をおびたものが多いが、やや粒子の粗いものもある。合わせ鍛えのものがほとんどで、数十枚も重なっているように見えるものもある。耳は角耳小肉で、角の肉を落としているので、透かしの線も含めて鋭角のものはめったになく、みな摩滅したように見える。耳には鍛え目の柾が現れているものが多く、それが線骨状になっているものが多い。平地は凸凹に変化したものも、瘤状を呈したものもあり、金山鐔を思わせるものがある。
- ●『鐔観照記』鳥越一太郎 著
- 柳生は連也が当時の鐔工に指図して作らせたもの。角耳小肉、多く丸形、地鉄は少し褐色を帯びた軟鉄で、相当によく錬れて強い。軽い焼き手仕上げをしたのが多い。模様はいずれも簡単で風趣に富む。形もおさまり、地鉄も相当鍛えがよく、文と形との均衡がとれている。おおまかな彫りが何となくゆったりとして感じを与えてよい。
笹野大行氏は「やや潤いのない、粒子の粗い地鉄で、耳に柾目の線状がでる。しかし、この柾目の出ない、粒子の細かいものもある」(『透鐔 武士道の美』『透鐔』)として、粒子の粗い地鉄も柳生鐔の範疇に含めているが、”潤いのない、粒子の粗い地鉄”の鋳物のような鐔まで広げると柳生鐔の真価を損なうと考える。(ただし、粒子の粗い地鉄の柳生鐔の中にも、いいのがあるという、私が信頼している識者の言もあり、これも結論は保留したい)
(5)形状
柳生鐔も形状は「丸形」が多いのだが、これは「隅切角形」と言われるもので、前代までに見ない面白い形状だ。堅苦しくもなく、迫力がある。
右上の隅切角と、左上の隅切角の角度はわずかに違う感じもするし、左右、上下の直線部分も、それぞれにわずかに膨らみを持たせて、柔らかさを出している。この左右の枠における若干の膨らみは、月の輪を入れる為の造形なのだろうか。
大半が丸形である鐔の世界で、形状に変化を出せて、観られるものにするは、優れた造形感覚が必要だ。
鐔の形は、安土桃山時代=慶長新刀の時代に大きく解放される。金家の拳形や撫角形、木瓜形などの自在な形状に、種々の折り返し耳を持つ品格を感じる造形力や、信家の多彩で魅力的な各種木瓜形は、力強さにどことなく優美さがある造形力である。また太字銘信家に見られる自然な作為の長丸形の雄大な造形力や、明寿の平象嵌の鮮やかなデザインに合致して耳までひねるが、それが不自然には見えない華麗な造形力、彦三の八木瓜や独特の覆輪による南蛮文化を感じる造形力が生まれている。
江戸時代前期にかけても、林又七に十木瓜形の御紋透かしや八木瓜形の名品や鶴丸形、遠見松透かしの変わり形などが生まれる。初代勘四郎には二引き両に桐紋を角形の鐔に透かしたものもある。菊形も肥後には多い。志水甚五のあおり形や、宮本武蔵は二つ木瓜形のなまこ透かしが存在する。
赤坂初代(言い伝えでは寛永年中より赤坂で仕事をし、明暦3年死去)にも、蹴鞠形の鉢の木透かしや、角形に蟷螂を透かした鐔を製作している。
慶長~寛永の時代には、かぶき者といわれる異風な風俗で闊歩した男伊達が、大きな鐔や角形の鐔をつけた長大な刀を差していたと伝わる。大名の取りつぶしも多く、それに伴う牢人が多く出て、それらの牢人は戦国の空気を吸っていた者であり、辻斬りも多い殺伐した時代でもあった。
そのような空気を鐔も刀装も反映していた。幕府はかぶき者の取締を強め、異風な風俗を禁止していく。この流れで異風な形状の鐔も規制される。こうして、鐔の形状は再びおとなしくなっていく。
そういう風潮な中で、柳生連也は、江戸時代前期の終わり頃(寛文から元禄)に、角形の隅を切って、ダイナミックな造形力を形成しており、私は高く評価している。ちなみに時代が同じ頃の作者に西垣二代勘四郎(寛永16年~享保2年)や赤坂二代(明暦より跡を継ぎ、延宝5年死去)がいる。
(6)透かし際(柳生鐔の特徴)
触ると、透かしの際(きわ)が磨られて、なるめられているのがわかる。独特の手に吸い付くような感じがするのだ。これが柳生鐔の見所の一つでもあり、『本邦装剣金工略史』(和田維四郎著)において「鋭角を存せず、皆摩擦したるが如き鈍稜を為すものなり」と表現されている特色である。今までの透かし鐔と違う感触がするのである。武用に留意した柳生連也の工夫とも伝わるが、一つの独創だと思う。肉彫り透かしと、普通の透かしの間のような感触なのだ。
(7)耳の鍛え目(柳生鐔の特徴)
柳生鐔には、耳に線状の鍛え目が見所でもある。私が観た黒褐色の三日月三つ星の名品も鍛え目が何層にも出ていた。この鐔は鍛錬が良いためか、耳には下の写真にあるだけである。ただし、月の円弧の透かしの切り立て部分には層状の鍛え目が観られる。
写真左上部に鍛え目、右に塊状鉄骨。 |
(8)茎孔の形状(柳生鐔の特徴)
柳生鐔は写本の絵もそうだが、切羽台にある茎孔が長方形に近いのが本歌という説もある。柳生家から金森一吉が譲り受けたという「一本竹透かし」は写本と同じ長方形だ。私の所蔵品も下記の写真のように長方形に近い。ただ、私が実見した良い柳生鐔には、そうでないのもあり、これも結論は保留しておきたい。
中心孔 は四角 に近い |
(9)地に出た鉄骨(2014.5.8追記)
この鐔は耳に合計4つの塊状鉄骨が出ているだけでなく、表の地にも塊状鉄骨が出ており、それを波飛沫(なみしぶき)に見立てて、それが有るために切羽台上部に彫った波飛沫を陰の透かしにしているという遊び心を第1章で説明した。
表下部 の鉄骨 利用の 波飛沫 |
切羽台 上の波 飛沫を 陰透し |
私の見解を補強する資料が『尾張と三河の鐔工』(岡本保和著)の図版にあるのに気がついた。下に掲載の「笠透図」鐔だが、この解説は「鉄味はよく、地にも耳にも流れる様な鉄骨が出て、優れた作行きを示している」とある。確かに写真を観ても、表の地に鉄骨がうねっている。私は現物を拝見していないから、この意図は想像つかないが、柳生連也が「面白い」と感じたことは間違いがないと思う(岡本氏は、この鐔も一期のもの(連也の本歌)としている)。
図は、柳生家の紋の一つ「二階笠」にちなんだものと思われ、柳生鐔写本にも所載である。これも厳密には写本の図と 小異がある。 左側の小柄櫃孔の外側は 現存する鐔は埋めている のだと思うが、形が写本は 長方形に対して、外に膨ら みがある。 上の笠の位置が写本より 右側に寄っている。 もちろん、鉄骨の有無など は、写本にはない。 |
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『尾張と三河の鐔工』より笠透図 径70.0ミリ、厚(耳、台とも)6.6ミリ |
笹野大行氏所蔵本より |
柳生鐔の本歌には、面白い趣向があるものだと、改めて感じ入る。
おわりに
細かいことも書いてきたが、第1章で述べたような印象を感じるかどうかが大事だと思う。柳生鐔の良いものは地鉄の鍛えが優れ、変な図柄だが「これでいいんだ」という迫力があるものなのだ。
また図柄は独創性という視点からも高く評価できる。この「水月」図や「一本竹(胴笹)」図、「波車」図にしても、一般受けのしない独特の図柄である。絵では「バラに名品無し」というように一般受けする図柄の中には売り絵と称する画家の精神の籠もっていないものがあるが、柳生鐔の図柄などは売りモノ(=商品)としては流通させることなどハナから考えていないものだ。連也が自分が作りたいと思って作成した個性が出ている。絵の世界では、自分が描きたいものの中に自分が感じた美を塗り込めたのが名画なのだ。鐔の世界も同じだ。
そして、その図柄は上手い絵ではなく、その彫りも上手(じょうて)な透かし彫りと思えないが、骨太の感じで強く印象に残る。
図柄における波の形状・彫りは後藤家の彫り(通乗光寿「波泳ぎ龍」小柄を例示)を参考にしたのかと考えていたが、先日、国立博物館で開催の「人間国宝展」に出向くと、今の人間国宝がお手本としている古人の作品が展示されていた。その中の染織の部に”寛文小袖”として「波鴛鴦模様小袖」が展示してあった。その波の意匠と、柳生鐔における波の意匠の共通性を、寛文という時代における共通性として把握するのも面白いと考えている。
「波鴛鴦模様小袖」東京国立博物館蔵…『小袖』長崎巌著より 網のような、タケノコのようなものの下に水面があり、そこにオシドリ が泳いでいる。 タケノコのようなものや、水面から、波頭(なみがしら)が立っている。 この波頭の描き方は、柳生鐔の意匠によくある波と似ている。 同じ寛文という時代の空気なのかとも考えている。 |
柳生鐔の形状も丸形が圧倒的に多いのだが、この鐔における隅切角は面白い。前述したように鐔の形状の解放があった慶長新刀の時代から遅れた寛文新刀の時代にしては斬新だと思う。
また、透かしの際(きわ)が磨られて、なるめられており、普通の透かし鐔と肉彫り透かしの間のような感覚を与えるのは柳生鐔だけである。同じ武人の宮本武蔵は絵でも高く評価されているが、鐔では二つ木瓜形の海鼠(なまこ)透かしが有名だ。この鉄鐔も透かしの際(きわ)はなるめられていると言えないことはない。ともに武道の達人が生み出した鐔としての共通性が、透かし際をなるめていることなのは偶然であろうか。武道の達人にとって、透かし際は気になるところなのだろうかなどと思いは飛ぶ。
このような柳生鐔を観ていると、柳生鐔として尾張藩のサムライが高く評価してきたのもわかるし、先人が、鉄の透かし鐔において柳生鐔というジャンルを設けているのも理解できる。時代が同じ古赤坂鐔と同等の評価ができるものだと思う。
私の所蔵品は、柳生流を学んだ尾張藩士が連也和尚に、吉田庄兵衛殿が譲り受けている「水月」の図の鐔と同じ図柄をお願いしたのではなかろうか。承知した連也は、鐔の表面に整った塊状鉄骨が出たのを見て、遊び心を発揮して、それを波飛沫に見立てて彫り上げるように指示した。波飛沫を一つ余分にした為に、切羽台の波飛沫の中をくり抜いて陰透かしにしたのかもしれない。あなたは妄想と思うかもしれないが、想像は膨らむ。
先人の中には柳生鐔を評価しない人も多い。それは柳生鐔の二期、三期の御流儀鐔や、尾張後代の鐔工の写し物(悪意のあるものも含めて)まで幅広く柳生鐔としているからである。迫力が違うのである。図柄に抵抗感を持ったり、上手い絵、上手な透かし彫ではないことにひっかかる人もいるかもしれないが、本歌であれば、その迫力に、そのような感情は消えてしまう。
透かし鐔、鉄鐔において、地鉄が良くないものはダメである。先人が「やや潤いのない、粒子の粗い地鉄」と評しているものが柳生鐔の特徴だとは思わないで欲しい。私の妻の感想を読んで欲しい。彼女が地鉄の美しさに感じなければ「あなた、何でこんな素人っぽい、雑な鐔を買ったの?」となる。
ただし、地鉄、錆色については、前述したように、私の所蔵品のようなものだけでなく、尾張・金山の古い所と同様なもの-戦前の大家:秋山久作が金山と鑑定したほどの柳生鐔-も実見しており、やや赤味を帯びた照りの強い黒錆びの名品も拝見しており、柳生連也を取り巻く鐔工群の存在を考えざるをえないが、いずれも良い地鉄であることが前提である。
(私が信頼する識者は、粒子の粗い地鉄の柳生鐔にも迫力を感じるものを拝見したことがあると述べられる。また別の識者は、鉄鐔は保存状態、手入れ状態で変化するとも述べられる。江戸時代は鐔屋という商売があり、各店で独自の錆び付けもしていたことを私もこのHPで紹介している。こういう中での判断であり、鉄鐔は難しいものだ)
改めて良い柳生鐔を整理して、真価を正しく評価してあげたい。特に尾張地方に有縁の人には、昔のように御国物として熱狂して欲しいと思う。そして、私のような尾張に無縁の者も、剣術に未熟な者も、透かし鐔愛好者であれば、コレクションに加えて然るべきものである。
追記:「水月」考(2014.4.11追記)
この鑑賞記をアップした時に「おわりに」の中で、次のように記して、図柄の名称名に問題提起をしておいた。
「ちなみに、この図を「水月透かし」としてきたのは、先人の著作に、このように紹介されてきた為である。柳生流の道歌の趣旨の「水に映る月」にそぐわない気もしている。柳生の三十六歌仙図鐔の「水月」も上記に掲載したような図で、月は波の上にある。ただし柳生鐔の中には、波の中に月を彫っている図柄も存在する。別に写本の中には「月波」という名称が書き込まれている図もあるが、これも図が違う。別の名称がある可能性もあり、また別の道歌が存在する可能性もある。ご存じの方がいらっしゃれば御教示をお願いする。」
その後、再度資料を精査すると、『尾張と三河の鐔工』(岡本保和著)の図版88頁の解説に「此の図のように、月が波の中にあるのを月陰という。波の上に月があるのは水月とのこと。光友公の道歌に「雲はらう 嵐の庭の 池水に もるよりはやく うつる月影」とあるのはこの意であろうか。(後略)」という文章があるのを知る。
岡本氏は、この図を「月陰」とも呼ぶと書く。 『尾張と三河の鐔工』(岡本保和著)より。 『透鐔』(笹野大行著)にも所載。 |
ただし、 柳生鐔の図柄収録本には”月が波の中にある図”も「水月」と明記してあり、再度、図柄収録本を見直した。私が所有していた「柳生連也仕込鍔 全」よりも詳しい堀井磊本?(笹野大行氏が堀井磊氏→笹野大行氏→伊藤満氏)を精査した。
この手の図柄を抜き出すと下記の通りである。「水月」は2通りの図がある。また、その中に「吉野川」とされていた名称を「月波」に変更した書き込みのあるもあり、興味深い。
「波の上に月の図」 笹野大行氏所蔵本(堀井磊本?)より。三十六歌仙図の一枚で、 これは「柳生連也仕込鍔 全」にも掲載。 |
「波の中に月が映っている図」。これも「水月」と明記。岡本氏 は、これを「月陰」とも称すと記述。 笹野大行氏所蔵本(堀井磊本?)より。常信下画とある。 柳生巌周氏から林健太郎氏などの伝来が明記。 |
「月を大きく影に透かして、波を描く図」 笹野大行氏所蔵本(堀井磊本?)より。 吉田庄兵衛との書き込みが、上部に書かれている が、私の所蔵品と同様のもので名称は無い。 |
「月を大きく透かし、その中に波の図」 笹野大行氏所蔵本(堀井磊本?)より。ここに、「吉野川にあらず 月波なり」と修正してある。村瀬家に伝来。 |
以上から、現段階では「水月」は次のように区分されている。
「波の上に月(三日月)の図」…「水月」…三十六歌仙図にもあり、柳生流道歌「立向ふ その目をすぐに ゆるむまじ これぞまことの 水月の影」、あるいは「心 水中の月に似たり 形鏡の上の影の如し」
「波の中に月(三日月)が映っている図」…「水月」岡本氏は「月陰」…柳生流道歌「雲はらう 嵐の庭の 池水に もるよりはやく うつる月影」(「心 水中の月に似たり 形鏡の上の影の如し」は、この図の方がぴったりである)
「大きな月輪(輪郭線に広狭あり)の中に波の図」…「月波」と先人が名称を変更している。
「大きな月輪(輪郭線に広狭あり)と波の図」…私の所蔵品も該当するが、「月波」と同じとも思えるが、やはり図は違う。
今後も、折りに触れて調べていきたいが、柳生流の道歌の方から調べるのが良いとも思える。