元和・吉辰・義辰(げんな・きちじつ・よしとき)

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この短刀は、名の知られていない慶長新刀の傑作である。作者は筑前下坂派の義辰(よしとき)である。裏銘に「元和七年辛酉(かのととり)吉辰(きちじつ)」とあり、読みは異なるが名の義辰と”辰”を共通に用いている。

1.作風
(1)初見の時

刀屋さんに見せていただいた時、「いい短刀ですね~。地刃が明るくて小錵が豊富でムラ無く付いた名刀。ふくらも枯れているから左文字の一派?」、「そう見えますよね。絶対に当たらないから茎をお見せします」。

銘を拝見して、また驚く。はじめて知った刀工である。「(裏銘も拝見して)慶長新刀なんだ。凄いね。こんな刀工がいたんだ」。

ちなみに畏友のH氏は鑑定会の判者も務める目利きだが、やはり私と同様に観ている。また鑑定会で何度も賞も取っている若手研師さんは志津と入れる。かように名刀なのである。

(2)地刃の出来
刃はムラの無い小錵というか、本当に細かい錵出来で、匂口が深く、明るい。貞宗の刃を淡雪の積もれる如しとか評しているが、そんな感じの穏やかで品の良い刃である。一部は刃先まで錵付いているほどに深い。

刃文は鋩子も含めて、表裏で若干異なるが、鋩子は錵が凝固して砂流しになって裏は押形のように2筋に分かれて突き上げる。裏の刃文では、切っ先下の物打ち上部に高い山の刃文が島刃になる。全体にゆったりとのたれて、表は6つの山、裏は7つの山がある。

裏の下方には錵が凝固した湯走り(錵が凝固)があり、棟焼きに連なる。全体に地錵が凝固した棟焼きが見られる。もちろん地錵は豊富に付く。

地鉄は冴えて、透明感も感じるような鉄で、よく詰んでいる。そして物打ちあたりは地景も見える。

手元に置いて、何度も観ている内に、この短刀は以前に拝見した初代越前康継の短刀に似ていることに気が付く。地と刃は、その康継よりも明るい。下坂派の伝統を受けているが初代康継の短刀より上出来だ。
(初代康継の短刀の鑑賞記は2010年の8月24日に私のブログに掲載-

(3)姿

この短刀の姿も好きだ。左文字と同様に、ふくらは枯れていて、鋭い感じである。内反り気味にも見えるが、反りは無い。
筑前福岡藩工の短刀であり、左文字を写すように頼まれて作り上げたのであろうか。
押形は私が採ったので拙い。

2.筑前国義辰とは

『日本刀銘鑑 第三版』(石井昌国 編著)の「義辰 よしとき」の項は次のように記されている。
”「越前国住下坂義辰」「筑州住下坂義辰」「筑前国住義辰」「筑前国住義辰作」彦太夫。福井住。江戸にてもうち、のち筑前博多鍛冶町にうつる。慶安二年七月八日没。福岡市材木町安国寺に葬る。法名盛松玄永居士。寛永。筑前(備考・見出・刀歴・総覧・刀美・刀苑)「年紀」元和七、寛永三・五。<注>安国寺には信国一門の墓所がある。”

上記銘鑑記載の元和七年(1621)の年紀作とは、この短刀のことである。なお、この短刀は「林田押形」(林田等氏の押形集…刊行はされていない)に所載されている。当時は太田(?内)逸馬という人が所持していたと記してある。他に筑前の櫻井神社に黒田家が奉納した寛永3年と5年の刀の茎の押形が掲載されている。

『古今鍛冶備考』(山田浅右衛門編著 犬養木堂注記本 福永酔剣解説)の「弐 180ページ」には次のように記されている。
「義辰△一人 下坂ーと打ち越前福井後東武へ移住す、元和寛永の間筑前にても造る業物」
『日本刀銘鑑』の記述内容は、「林田押形」や『古今鍛冶備考』の記載を原典としたのであろう。

また「筑前新刀の研究(五)」(久野茂樹著 刀剣美術57号 昭和34年6月)には<筑前下坂一派>として次のような記載がある。
「続筑前風土記」に「下坂は関の兼吉が末裔と云う。長政公の時下坂兼先と云いし者を江州長浜より招き福岡に居らしむ。其の子義辰、兼先が弟辰仲も同じく来れり。辰仲が子兼先、其の子今の辰成なり。相次いで今に鍛冶たりし」
初代康継や、その父の広長とはよほど深い関係か。兼先銘で年紀のあるのは永正13年、大永6年、天文9年、天文20年、天正5年、天正8年がある。天正のを2代として美濃から江州に移るか。因州、大永の佐州、寛永頃の摂津の兼先も一門か。
広長の別名広辰の辰を名乗る。下坂八郎左衛門は筑後に移る。

3.元和7年(1621)

年紀の元和7年は、大坂夏の陣が慶長20年(元和元年)に終わり、後に元和偃武と言われる戦乱の無い時代になってから6年目である。徳川秀忠の時代で、黒田家では黒田長政(元和9年没)の時代である。黒田家は次の忠之の時代に、藩主忠之と家老栗山大膳との間で黒田騒動と呼ばれる事態を招く。

刀剣界では、初代康継が元和7年に死去し、繁慶(元和9年没)、南紀重国(元和8年没)も同時期に亡くなっている。
義辰は慶安2年(1649)に歿しており、肥前初代忠吉(忠広に改銘して寛永9年(1632)没)、用恵国包(慶安5年(1652)没)、加賀初代兼若(高平に改銘して寛永5年(1628)没)などの慶長新刀の名工とは同じ時代である。

おわりに

この短刀を拝見していると、無銘の相州伝の短刀は怖いと思う。長い刀を磨上げて無銘になったのは理に叶うが、無銘の短刀とは何なのかと不思議である。献上品だから無銘にしたという人もいるが、では備前長船景光や来國光、来國次は献上が無かったのか。相州で駐鎚した助真、國宗に在銘が多いのは何なのか。長い刀の献上品には銘を切ったというのか。

作を見れば古刀と新刀はわかるという人もいるが、ここで記したように畏友の目利きH氏や研師さんでも間違うのだ。(一見では間違うが精査すればわかるということは否定しない。鑑定会を好む愛好家は多いが、鑑定会は判者が説明できる御刀が出品されるわけであることを忘れてはいけない。目利きの人ご自身も、「わからないのはありますよ」と謙虚に述懐されている)

この短刀では、鋩子の砂流しに、錵が溢(こぼ)れるような覇気が加われば、最高の短刀である。

押形は、まだ未熟である。先日、刀屋さんに押形を観ていただき、アドバイスも受けたから、もう少し上手に書きたいと思っている。短刀は短いだけに押形作りに取りかかりやすいのだが。

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