村上如竹「八駿馬図」鐔

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この鐔は「群馬の図」としてアップしていたが、「刀装具の鑑賞」における村上如竹「八駿馬図」鐔で記したように、中国の八駿馬の図であることがわかったので訂正する。八駿馬の図の意味等は前期した鑑賞記をご覧下さい。故事についての素養が不足しています。まだまだ勉強が必要です。
以下は「群馬の図」として書いた鑑賞記のままにしています。(06.4.29追記)

来年2002年は午年である。
そこで、今回は村上如竹の「群馬の図」鐔をご紹介したい。下の写真のように、表に5匹、裏に3匹の馬がいる。

1.如竹の技法

この鐔は、如竹の様々な技法が見られる鐔であり、その意味で私の勉強のために購入したものである。
だから私の好みで購入したものと少し意味が違う。

この鐔には神谷紋洋氏が次のように箱書されている。

「如竹 花押

烏銅地 長丸形
高彫 平象嵌 片切
群馬之図
縮緬地 緋銅入り等
此作者の特色著しい

癸卯 師走」

この鐔における如竹の技法上の特色は次の通りである。

  1. 赤銅地(神谷氏は烏銅地としているが同じ)に魚子(ななこ)ではなく縮緬石目地にしている。これは革石目地ともしぼ革石目地と呼ばれ、如竹の特徴である。

  2. 如竹の特色である緋色銅で、表上段の馬を平象嵌している。緋色銅は朱銅、火色銅ともよばれている。東竜斎一派も使用するが、東竜斎一派の緋色銅より、如竹一派の方が若干沈んだ感じといわれているが、私は東竜斎一派の緋色銅を手元に持っていないので比較はできないが、先人の説を尊重したい。

  3. 如竹は高彫据紋とは別に、平象嵌が得意である。この鐔には平象嵌の良さがでている。四分一地に赤銅で平象嵌したものは墨絵象嵌などと呼ばれているが、この鐔では上述した緋色銅と、裏面右下の馬を赤銅地に四分一と金で平象嵌している。

この鐔にはない、如竹の特色は、大模様の高彫据紋である。このような据紋には鯛、蝉、蝶、勝虫などがあり、これらの眼のところに青貝嵌入などをしていて、非常に華やかなものである。

逆に、この鐔には見られるが、如竹には非常に珍しいのは、如竹の片切彫である。表と裏に一匹ずつ片切彫で表している。

この鐔のことだと思うが、若山泡沫氏が「刀剣美術」70号(昭和36年9月)で「金工村上如竹について」という論を展開されており、その中で次のように記されている。

「変作と云えば最近になって赤銅磨地(原文ママ、実際は縮緬地)で丸形両櫃の面白い鐔を見た。表が無赤(原文ママ、赤銅の誤植か?)と金色絵と四分一色絵で高彫にしたものと片切彫にしたものと緋色銅平象嵌のものと合計五匹の馬を配し裏を片切彫と金銀平象嵌と高彫で三匹馬を彫っている。これは種々の技法一枚の鐔に取り合わせたもので、彼が持ち合わせているあらゆる技法を此の鐔一枚に見せた感がある。」

2.馬八態から観た如竹の本質

今回は、能書きは後にして、この鐔に彫られている馬の姿態から観ていこう。まず表右上の2匹である。

  1. 一番目の馬は、緋色銅平象嵌である。緋色銅の馬は赤毛の馬であろうか。特徴をつかみ、少ない線で図案的に表現しており、すてきである。

  2. 二番目の馬は、赤銅高彫りである。この後ろ向きの赤銅の馬はうまい。ただ尻の肉がもう少し盛り上がっていいのではと思うが、護拳の道具でもあり、このくらいが限度なのであろうか。

  1. 三番目の馬は片切彫の立っている馬である。表下右の片切彫の馬は、この群馬の中で唯一立ち上がっている姿態である。細かくは彫っていないが、緋色銅平象嵌の馬と感じは似て、上手である。

  2. 四番目の馬は、金色絵高彫の後ろ向きの馬である。この馬は少し不自然である。もう片方の前脚が見えないせいでもあるが。全体の肉置きに不満が残る。

  3. 五番目の馬は四分一高彫の座っている馬である。こちらを向いている馬の首の曲線は良い。ただ金色とこの四分一の馬は、痩せている感じであるが、これは意識しているのか、肉置きのまずさなのであろうか。


  1. 六番目の馬は、鐔の裏側右上の片切彫で座っている馬である。表の片切彫とほぼ同じ調子の彫りだが、丸まって彫っているにも関わらず、少し伸びやかさが欠けて、固い感じがする。片切鏨の深さが部分的に深すぎるのかもしれない。

  1. 七番目の馬は裏右下の金と四分一による疾駆した姿の平象嵌である。馬は疾駆するものである。やっと馬の疾駆している様子が出てくる。金と四分一で平象嵌しているが、筋肉の躍動を示す筋を平象嵌しているのが効果的である。疾駆している姿態だけに、馬らしくて良い図である。毛がふさふさしているところが金で、その他は四分一で象嵌している。魅力的である。
  2. 八番目の馬は裏左下の立って正面を向いている四分一高彫の馬である。馬を少し右上から見た視点で四分一で高彫したいる。そういえば疾駆している馬以外は少し上から写生したような姿態である。如竹が実際に写生したのかもしれない。この正面の馬はあまり上手いとも思えない。

以上は私の見方であるが、皆様はどのような感想を持つのであろうか。

私は、高彫の馬は二番目の表右上の赤銅の後ろ向きの馬以外は、それほど成功していないように感じる。一方、平象嵌、片切彫は馬の特徴を少ない線でうまくつかまえており、上手いと思う。(裏右上の丸まった馬はともかくとして)

如竹はデッサン力は優れていたと思う。だけど高彫という本来の刀装金工の技は、それほど上手くはないのかもしれない。私は、如竹は、自分自身でもその短所を自覚して、高彫は、細かいところを見せるのではなく、大胆な構図、少し図案化した絵で勝負した作家だったと思っている。
平象嵌は得意であり、これは自在にあやつっている。あぶみ師出身がわかる気がする。

彫金工としては、如竹より上手な作者は多くいるが、芸術家という観点からみると、如竹は偉大だと思う。伝統を受け継いだ職人芸は工芸の良さにとどまるが、如竹には優れた芸術に不可欠な独創があり、観る人を驚かせるものを持っている。

ある刀装具の蒐集家が述べていた。「上手いだけだと結局は昆寛と夏雄に行き着いてしまう。宗a、後藤の亜流を集めていても面白くなくなった。」
この人は極論かもしれないが、言わんとするところもわかる気がする。

もっとも如竹の人気のある大胆な構図、少し図案化した絵の作品の中にも、「如竹さん、売り絵を描いたでしょう?ただ綺麗だけじゃないの?」と言えるものもある。如竹は反論する。「私は職人ですから、お客さんが求めるもの、喜ぶものを作っているだけです。」「おっしゃる通りですが、自分が作りたいものでなく、売りたいもの、売れそうなものを作ったでしょうということです。作った方は別に悪くはないです。我々の評価の方が問題なんですよ。」

この鐔は、刀剣柴田の通信販売雑誌「麗」の平成5年8月号の誌上鑑定に出されており、その折りの青山氏の解説文を一部抜粋して紹介したい。

「金工としての師伝は不明で鐙の象嵌工の出身という説もあり、いわば刀装金工として流派にとらわれない独立工の立場だったようです。そのためか技法作風に他とは違ったユニークな点が多々ありますが、それがただ単に奇をてらったものではなく豊かな創造性に裏打ちされた高度な技術のもとに生まれたものだということは、如竹の作品をいちどでも見たかたは皆おわかりになると思います。」

青山氏も「創造性」に触れているが、如竹の良さはここにあると思う。もっとも、この鐔は技法を駆使した意欲的な作品だと思うが、全体の印象は成功していないと思う。これは座っている馬を中心にしたことがあるのかもしれない。馬は疾駆しているところの方が絵にしやすい。次いで立っている姿であろう。座った馬は、誰が描いても難しいのであろうか。

<参考>如竹の高彫りの素晴らしさー刀装具のH氏より−

この内容をご覧になった刀装具研究・蒐集家のH氏より、如竹はいつもの大胆な高彫り作品以外にも非常に上手な作品があると、次のようなメールをいただいた。

「わたしも如竹の作品は大好きです。尋甫、昆寛、如竹の傑作は同列に並ぶものと思っています。
如竹の平象嵌はとても素晴らしく、他の追随をゆるさないものだと思います。
高彫りも、尚友会図録第9集13ページに所載されている「白魚の小柄」、「鮫の小柄」、「猫の小柄」、「渡り蟹の小柄」(いずれも赤銅魚子地、高彫り据紋象嵌色絵、裏哺金)の彫りは、いつもの大々とした高彫りではなくて、じつに濃やかで本質をとらえた絶品だと思っています。これらの小柄を手にとって見たときは身体中に電流が走ったような衝撃をおぼえ、ぞくぞくするような快感に酔いました。」

刀装具のH氏は、私などとは違って観ている刀装具の数、研究の深さ、眼の高さが違う。皆様はH氏の意見の方をご参考にしてください。

H氏に伺うと、これらの高彫には、いずれも見事な平象嵌が施されているそうである。

それにしてもH氏が挙げられた名品は、いずれも赤銅魚子地、裏哺金である。こういうことから「如竹が特に気を入れて作った作品は裏の仕立ても哺金にして丁寧である」という仮説も持っていると、何かの折りに参考になるのではないか。ちなみにH氏は「如竹の名品は縮緬石目地ではなく、魚子ではないか」という仮説を持って研究されているようである。

もっとも、このようなことだけを断片的に覚えて、気を取られると逆に偽物にひっかかったり、名品を逃すこともあるのが、この世界なのである。(2001.12.30追記)

3.如竹の平象嵌

如竹というと勝虫(蜻蛉)や蝶々、恵比寿の留守模様の鯛などを、大きく据紋し、眼に青貝を入れたような鐔が人気が高く、代表作となっている。これはこれで魅力がある。

これともう一つ、平象嵌がいいのである。数寄者は昔から高く評価しており、前述した論の中で若山泡沫氏も次のように記している。

「最も熟練を要し、長い工期を必要とする平象嵌の評価があまりに低い事は遺憾であるが、彼及び其の門葉の離れ縁や鐔に見る平象嵌の技術は見事である。直線と曲線で、或る時は幾何学的に、或る時は写生的に生動する風物を象嵌している。しかも加賀象嵌鐔 と同様に地金と紋様の境界線に何等の後補を施さないで平象嵌する技術は到底凡工の企て及ぶものではない。」(「刀剣美術」70号「金工村上如竹について」)

「元来が象嵌師であるにもかかわらず、世間で云うほどに平象嵌の作品は現存していない。しかし現存品は優作ばかりで如竹の平象嵌に凡作は無い。」(「刀剣美術」70号「金工村上如竹について」)

『愛玩名品集』(柴田美術刀剣店図書部編)の中で川口陟氏が「平象嵌の色々」という論を寄稿されている。そこで次のような平象嵌作者をリストアップして寸評を加えている。

  1. 仙台の渋谷、草刈一流
  2. 江戸の吉岡因幡、村上如竹、江戸肥後一流
  3. 加賀の水野、勝木、桑村等
  4. 名古屋の加藤有定、光善寺犬助
  5. 京都の埋忠一派
  6. 阿波の正阿彌、野村一派
  7. 伊予の正阿彌一派
  8. 肥後の林、西垣一派
  9. 庄内の鷲田一派(これは伊藤が追記)

この中で如竹について「如竹は青貝入りを以て有名であるが、平象嵌の(原文ママ、「に」と思う)なかなか傑作がある」と述べている。

象嵌そのものは後藤家にも町彫りにもあるが、平象嵌だけで作品を構築している作家は少ない。上記のほかでは後藤一乗の一派にもある。平象嵌は、どうしても平面的であり、しかも絵と違って、彫金では多くの色を使えないということがら、どうしても絵というより、模様、図案的になる。

埋忠明寿は図案的と言っても、それはそれで名品であるが、明寿のあとに、平象嵌を絵に近づけようと努力したのが村上如竹ではなかろうか。

色数が使えないという短所を、墨絵象嵌ということでも工夫している。緋色銅を考えたのも平象眼における色数増加の狙いなのかもしれない。

(注)改めて平象嵌作者の作品を見ると、鉄地に金の象嵌をした肥後一派以外は、結構色々な色金を使っていることに気がついた。配合を変化させて色々な色を出しているようだ。図録などで確認しただけでは埋忠一派、加賀象嵌、鷲田光中、仙台清定などきれいである。

如竹の平象嵌の傑作で、皆様の目にもとまる作品として、土手耳にした真鍮地の秋草図の平象嵌鐔を挙げておきたい。(『刀装小道具講座3江戸金工編<上>』163ページ参照)

このほか『鐔』(小笠原信夫著)の45ページ、52ページにカラーで掲載されている。

4.如竹の片切り彫り

私は2.馬八態から観た如竹の本質」の6番目の片切彫の馬の鑑賞として「丸まって彫っているにも関わらず、少し伸びやかさが欠けて、固い感じがする。片切鏨の深さが部分的に深すぎるのかもしれない。」と記したが、平象嵌が得意なだけに、地を彫り込むタガネが深く入るのかもしれないなと思い至った。

平象嵌の技法について、『刀装小道具講座3江戸金工編<上>』153ページに次のような一節がある。(アンダ−ライン筆者)

「鏨を深くアリ形に彫込んで、丹念に各種の図様を象嵌入しており」

平象嵌における深くと片切彫における深さは違うと言われれば、それまでだが、一つの仮説として提示しておきたい。皆様の中で如竹の片切彫をお持ちの方がいれば、ご連絡いただきたい。(2001.12.30追記)

5.如竹についての先人の評

『装剣奇賞』で稲葉通竜は「これを評せば竹の外直にして中虚く一点の障なきが如く、工ずして自然の工あり、笹葉の悁々として清風を含み見るものをして涼からしむるの奇致ありと」と評している。文学的過ぎてよくわからないが、見る人に清涼感をかもしだすのであろうか。ちなみに悁々とは「@うれえるさま、Aいかる」とあった。

(注)上記の『装剣奇賞』からの引用文は「刀剣美術」70号「金工村上如竹についてから引用したが、『日本装剣金工史』(桑原羊次郎著)では「工して自然の工あり。葉の涓々として清風を含み、見るものをしてからしむるの奇致あり。」(アンダーライン筆者)となっている。こうなると原文に当たらないといけない。
ちなみに涓々とは「水がちょろちょろと流れるさま」とある。このように原典に当たらないで孫引き、孫引きをくりかえしていると、とんでもないことになりかねないという一つの証左である。(02.1.3追記)

『刀装小道具講座3江戸金工編<上>』で若山泡沫氏は、「堅実清澄な作風」と述べている。

『鐔鑑賞事典』(監修 佐藤寒山、編集代表 若山泡沫)の中では次のような評が見られる

私は清澄とか言う感想はよくわからない。また「動きがなく、図案的である」という印象は私も持っているが、私は別にこの評を批判の言葉として持っているわけではない。(02.1.2追記)

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