(無銘)西垣二代勘四郎「巴桐透かし」鐔

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はじめに

この鐔は、西垣勘四郎らしい作品である。西垣勘四郎も無銘がほとんどであり、代別は確実には決められないのが実態である。日本美術刀剣保存協会の審査でも、初二代の勘四郎と極められるものを「勘四郎」、そうとも決められないが西垣派のものを「西垣」と極めて証書を出していると聞いている。これは、これで一つの見識だと思う。
この鐔は「勘四郎」で保存の証書が付いているが、先人の諸書を参考に、自分なりに初二代の違いを勉強し、今では二代勘四郎と考えている。初代勘四郎は長生きで元禄六年(1693)に81歳で没している。初代が没した元禄六年は二代勘四郎が55歳であるから、初代晩年は西垣家の者として代作もしていたと考えるのが自然であり、ことさらに初二代を分ける必要も無いのだが。ちなみに二代勘四郎も長命で享保二年(1717)に79歳で没している。

縦76.0×横73.2×耳厚3.6、切羽台4.0
小肉角耳だが丸耳的な所も混在

1.「巴桐透かし」の各書所載品との比較

同じ「巴桐透かし」鐔の写真を『西垣』(伊藤満著)、『透鐔ー武士道の美』(笹野大行著)、『透鐔』(笹野大行著)、『肥後金工大鑑』(日本美術刀剣保存協会編)から集め、比較すると下図の通りである。
A、B、Cは初代勘四郎に極められ、Dは林又七、Eは三代勘四郎と極められている。

A.初代勘四郎
『西垣』より
縦76.7,横77.2、耳厚5.2
切羽台厚5.0、丸耳
B.初代勘四郎
『西垣』より
縦77.4,横74.9、耳厚5.5
切羽台厚5.5、丸耳
C.初代勘四郎
『透鐔ー武士道の美』より
縦76.5、横75.5、耳厚5.5
切羽台厚5.5、丸耳
D.林又七
『肥後金工大鑑』より 
縦76、横76、耳厚6、丸耳
E.三代勘四郎
『透鐔』より
縦81.3、横80.4、耳厚4.8
切羽台厚5.3、丸耳

Dが林又七という極めだが、図柄、形態はA~Cの初代勘四郎と同様である。小柄櫃が州浜形でなく尋常な丸形という違いがあるが、写真ではわからない地鉄を考慮して、この極めになっているのであろうか。ちなみに『肥後金工大鑑』は名家に伝来した名品が所載されているが、名品だけに肥後鐔第一人者の又七の作品として伝承されているのが多いと聞く。

また三代とされているEは、他の4枚と違って絵が裏側で比較しにくいが、花穂の形状が太い。また、両方の櫃孔が狭く、櫃孔の形状も下側が流れている感じで、切羽台の上部の小判の丸みが強い。笹野大行氏はこの鐔の解説では「これで雅趣・風情と時代があれば、初代勘四郎にまがうものである」と書いている。この書(『透鐔』)の西垣派の概説においては三代勘四郎の特徴として「多くは小じんまりとした、西垣の作風に忠実な好ましいものを作っている」と説明されているが、この鐔はA~Eの中では一番大きく、私にはよくわからない。

切羽台の形状で、Eと同様に肩が張っていないのがBである。Bには小柄櫃の形状(州浜形が詰まって尋常)、花桐の太さ(太め)、桐の葉の形状(小さくまとまって左に広がっていない)、巴紋(頭の丸の部分が大きい)で違いを感じる。もちろん製作年代の違いの可能性もある。

次ぎに、所蔵品とこれら5枚との違いを見てみたい。形状を中心とした比較だが、次のような差異がある。

  1. (大きさ)A~Eと比べると、特に横が小さめである。すなわち、より長丸形であり、一番小ぶりである。ただの長丸形ではなく、少し崩れて、下張りこころがある。
  2. (厚さ)A~Eと比べると、耳が3.6ミリ、切羽台が4ミリと一番薄い。耳の方が切羽台よりも薄い。
  3. (耳の形状)A~Eは丸耳とあるが、これは小肉のついた角耳である。薄いから判別しにくいのだが、それも、より角耳ぽいところから丸耳ぽいところまで変化に富んでいる(証書では「丸耳」と記されている。エッジを感じるところがあるから、私は角耳に小肉付きと判断する丸耳でもいいのかなとも感じる)。
  4. (櫃孔)小柄孔は赤銅で埋めているが尋常である。櫃孔の周りの垂直部分(切り立て)は面を取ってカーブをつけているが、これは写真では判明しにくいが上手(じょうて)の物はこうなっており、A~Eに違いは無いのかもしれない。笄孔は桐の花で形造り、櫃の内側にも花があり、その分、膨らんでいる。ちなみに他の絵(例えば「窓桐透かし」など)には、このように笄櫃の内側に花を付けているものが初代にも二代にもある。
  5. (切羽台)切羽台の小柄櫃側は赤銅で埋め、笄櫃側には当金(あてがね)として赤銅を入れており、本来の形状が写真ではわかりにくいが、上部は尖っておらず肩が張り気味でA、C、Dと似て、全体に長い感じの切羽台である。
  6. (巴の図)巴の頭が下の方まで来て、当然、巴の尾も下まで来て、頭への食い込みが大きい。
  7. (桐の花図)花穂も多く、その形もくねくねしている。そして花も大きい。
  8. (桐の葉図)葉先が尖るものが無く、丸まっている。葉部の面積もやや大きめである。
  9. (桐の毛彫り)クネクネが強く、葉脈の先が尖っていない。
     
  10. (全体の印象)上記した7(桐の花図)の影響だが、華やかな感じがする。

簡単に言うと、所蔵品はA~Eの鐔と比較すると、形状では「薄い」こと、耳が「小肉の付いた角耳」であることが違う。なお耳について、前述したように保存の証書では「丸耳」と記載だから、あまりこだわる必要がないかもしれない。
また図柄では「花桐が華やかで凝っている」こと、「葉・葉脈の形状が丸味が強いこと」が異なっている。

なお、所蔵品は切羽台の茎孔の周りを削いでいるが、比較したA~Eも写真ではわかりにくいが、A、C、Dは同様に削いでいるように見える。『透鐔ー武士道の美ー』(笹野大行著)には「窓桐透」鐔の解説の中で「どうしてか、西垣には、このように切羽台を鋤いたものが多い」と記されており、西垣派の一つの特徴でもある。

2.西垣勘四郎の初代と二代の違い

入手した当初は①形が”丸き下張り”で”歪みもあり”実に良い形であること、②耳が小肉角耳だが丸耳のようなところもあるなどラフで即興的で自在であること、③図柄が凝っていること(写し物は広く流通している絵をそのまま写すか、あるいは簡素化していく傾向がある)、④葉脈の形状など、丸味を強めて少し生々しい(写し物は広く流通している絵のように葉らしく尋常に写すもの)ことなどから、初代勘四郎が工夫を加えた作品と思った。

しかし何度も観ていると、二代が自分らしさを出した作品かなと思うようになった。


この機会に、勘四郎の初代と二代の違いを『西垣』(伊藤満 著)、『透かし鐔』(小窪健一、笹野大行、益本千一郎、柴田光男著)から勉強し直した。    

初代勘四郎 二代勘四郎
「肥後金工録」
(『肥後金工
大鑑』も踏襲)
①縁頭、特に縁を「勘四郎縁」と激賞
②鐔の形はおおかた丸き下張りに造る。
③(又七とは)その櫃の式、耳の法異なれり。
④地鉄は彦三に近いが、ややサックリする。ままこれに反し
 鏡面の如きも見ゆ。
①鐔、及び縁頭等、総べて上手にて二代たるに恥じず。
美なる方にて初代より密なり。
③透物、据物、象嵌もの種々あれど初代の雅味なし。
『透かし鐔』(小
窪、笹野、益本
柴田共著)
①平田は雅趣、林は謹直、西垣は中間。
②鉄の透かし鐔は桃山期の正阿弥との有縁を物語る。
 林よりくだけた味がある。
③ねっとりした軟らかい感じの地鉄で、丸形の場合も下部
 にふくらみをつけ、あおり形とする。
④耳は小肉の丸耳、櫃孔は林より大きく雅味をもたせ、切
 羽台は少し大きめの小判形、やや形を崩して雅味を持た
 せたものもある。
⑤地造りは林より厚手。磨地、平肉は豊か。
①変わり金で「田毎の月」などの名作を残しており、透かし鐔
 は林の影響を受けて初代よりは謹直なものを造る。
初代よりは肉置きが薄くなり、地鉄を細かくし、雅味より
 精巧を狙うようになる。
③二代は優雅さの点において初代に優る
『西垣』の作風
解説
①何にもとらわれない自由な発想と柔らかい作風
②李朝の焼き物と感覚が似ている。一見、雑でそっけない
 が 味わいがある。渋いが懐の深いもの
③「暖か味、安らぎ、おおらかさ、歪んだところ。そして一つ
 一つの表情が違うところ」
④形も透かしもラフに即興的に仕事をした。仕上げも鑢が
 ある程度残ったままで焼き手をかけていて、仕上がりに鍛
 え割れがあっても気にしていない。
謹直な性格、後藤家にも学ぶ。しかし西垣流。
②初代は即興的だが、二代は焼き手の具合を計算して
 いる。
③形のデフォルメも、どちらかと言うときれいでまとまって
 いる。
④施された毛彫りも、丁寧で格調が高い
⑤初代が古田織部なら二代は小堀遠州の「綺麗錆」
リアルな葉脈、謹直な毛彫り、葉脈の毛彫りの間隔が
 荒くなる。
明るく、おおらか、堂々としている

次に、この鐔の形状の特色である「薄いこと」と「耳が小肉角耳」(前述したように証書では丸耳だから、あまりこだわることもないのだが)という造り込み上の特徴が、初代と二代でどのように変化するのかを調べた。

もちろん、ともに無銘のものであり、比較考察が難しい。『西垣』(伊藤満著)における初二代の区分は、伊藤満氏個人の眼での判別であるが、合議で決めたものと違って、同じ眼での判断ということで一助になると考える。例えば、伊藤満氏は笹野大行氏が初代と極められて『透鐔ー武士道の美ー』、『透鐔』に所載した「窓桐透」鐔を二代として掲載するなど自分なりに極め直している。

「薄い」とか「耳の形状」などで区分したのではなく、全体の作風で区分されたと思うから、逆に「薄さ」「耳の形状」の違いを調べれば、初二代の個性が現れる可能性があるわけだ。

『西垣』所載の透かし鐔(色金鐔は除く)で比較した結果は次表の通りで、「薄いこと」と「耳が小肉角耳」という特徴は、初二代ともに少ないながら、初代よりは二代の方に多いことがわかる。

初代勘四郎 二代勘四郎
耳厚が4ミリ以下
と薄いもの(耳厚
3.6、切羽台4)
45枚の内、下記の8枚であるが、板鐔を除くと3枚
(7%)しかも耳厚だけでなく、切羽台厚も所蔵品より
薄いのは1枚だけ。

No26 耳4ミリ、ただし切羽台は5ミリ
No28 耳4ミリ、ただし切羽台は4.8ミリ
No33 耳3ミリ、ただし切羽台は4.5ミリ、板鐔
No34 耳3.4ミリ、ただし切羽台は4.5ミリ、板鐔
No36 耳3ミリ、ただし切羽台は4ミリ、板鐔
No43 耳3.8ミリ、ただし切羽台は4.5ミリ、板鐔
No44 耳3.7ミリ、ただし切羽台は4.3ミリ
No45 耳2.8ミリ、ただし切羽台は3.5ミリ、板鐔
36枚の内、14枚。板鐔、板鐔風(櫃孔が大きい透かし)を
除くと6枚(約17%)、切羽台厚も所蔵品より薄いのは1枚

No135 耳3.8ミリ、ただし切羽台は2.8ミリ

No136 耳4ミリ、ただし切羽台は4.1ミリ
No139 耳3.8ミリ、ただし切羽台は4.6ミリ
No140 耳4ミリ、ただし切羽台は5.3ミリ
No141 耳4ミリ、ただし切羽台は5.2ミリ
No146 耳3.1ミリ、ただし切羽台は3.8ミリ、板鐔
No147 耳3.5ミリ、ただし切羽台は5ミリ、板鐔
No148 耳3.2ミリ、ただし切羽台は4ミリ、板鐔風
No150 耳4ミリ、ただし切羽台は3.2ミリ、板鐔
No151 耳3.8ミリ、ただし切羽台は4.9ミリ、板鐔
No152 耳3.5ミリ、ただし切羽台は4.8ミリ
No153 耳2.7ミリ、ただし切羽台は4.8ミリ、土手耳板鐔
No154 耳2.5ミリ、ただし切羽台は3.8ミリ、土手耳板鐔
No155 耳2.5ミリ、ただし切羽台は4.3ミリ、板鐔風
耳が角耳、角耳
小肉
45枚中、7枚(16%)
36枚中、9枚(25%)

次に、特徴的な毛彫の調子(葉脈の先が尖らずに丸い、そしてクネクネ)に着目した。上図のA~Dと比較すると下記の通りであり、他には見られない特徴である。(Eは写真が暗く、毛彫りは判然としないから除外)

       
所蔵品

そこで、所蔵品の毛彫の調子(葉脈の先が尖らずに丸い、そしてクネクネ)と似ているのを、「巴桐透かし」図から離れて、同種の桐図から探すと、なんと二代勘四郎の在銘作(裏に西垣勘四郎永久)として有名な作品が該当する。

左図の上右部分
の毛彫を拡大し
たのが右の写真
『西垣』より、二代勘四郎在銘作 同 拡大

こちらは無銘であるが、二代勘四郎と極められている窓桐透かし鐔(『透かし鐔』(小窪、笹野、益本、柴田 共著)より)に先が丸い毛彫りが存在する。ちなみにこの窓桐透かしの桐の葉先は尖っておらず、所蔵品と同じ感じである(窓桐透かしには初二代を問わずに葉先が丸くなるものが多い)。

左鐔の上左部分
の毛彫を拡大し
たのが右の写真



桐の葉先も丸くし
ている
『透かし鐔』所載より、二代勘四郎 同 拡大

以上から、所蔵品は二代勘四郎のものと推測する。

初代に同じ図柄があるから、二代勘四郎の個性を見るには最適な鐔だと思うようになっている。”美なる方にて初代より密なり”の表現の”美なる方”は観る人の感性でも異なるが、花桐の花穂の形状も花らしく彫ってあり、華やかな感じはする。そして”密なり”ということも理解できる。”初代よりは肉置きが薄くなり”という二代勘四郎の特徴は厚さの計測結果から理解できよう。

ただし、この鐔の絵柄からは、先人が二代勘四郎の作風としている”謹直”、”雅味より精巧”、”優雅”、”丁寧”、”綺麗錆び”などはわからないが、私が感じる”華やかさ”に”優雅”、”綺麗錆び”は包含されるのだろう。そして私は同時に”生命力”を感じることを記しておきたい。一種の”強さ”である。

『西垣』より、初代勘四郎(A) 所蔵品 二代勘四郎

4.巴紋という文様について

肥後鐔の各派は、藩主の細川家の家紋である九曜、桜、桐、引き両を鐔の文様として多く用いている。なお細川氏は足利時代から続く名門であり、分家も多い。高瀬支藩文書には熊本細川家の紋として、「細川九曜」(忠興が信長の小刀の紋を気に入り、信長より賜る)、「細川桜」、「松笠菱(細川対い松)」(桜と松は先祖の細川頼之が使って以来の紋)、「二引両」、「五七桐」(足利氏出身であり二引両と五七桐は、その顕れ)、「桔梗紋」(ガラシャ夫人が明智光秀の娘)の六つを定紋としていたとある。

所蔵の初代勘四郎の縁頭から、勘四郎がデザインに使用した細川家の御紋を図示すると、以下の通りである。

頭の九曜紋 縁の桐紋(五三
だ)
同 桜紋 同 引両紋(片方が太い)

また細川家の「松笠菱(細川対い松)」は次のようなものである(武家の家紋_細川氏というサイトより転載させていただく)。ちなみに肥後鐔の図柄に松も多く使われているが、これも細川家の紋から来ている可能性もある。

そして、この鐔にも使われている巴紋だが、特に、西垣派に巴紋は多く、見事にデザイン化して使用している。

巴紋は細川家の夫人の紋に次のように使われていることを熊本県立美術館のホームページの所蔵品解説から知る。

「熊本県立美術館所蔵の初代藤孝(幽斎)の夫人光寿院(一五四四~一六一八)の肖像画は、三ツ巴紋を散らした白い着物に、茶色の打掛を羽織った姿で描かれている。
また、松井家初代康之の夫人自得院(一五六〇~一六四一)の肖像画は、細い縦縞の入った茶色の着物に、同じく三ツ巴紋の入った白い打掛を羽織っている。

光寿院は、将軍足利義晴の側近で幼少の藤孝を養育した沼田光兼の娘。自得院は、光寿院の兄光長の娘で、光寿院の姪にあたる。二人の着物につけられている三ツ巴紋は沼田家の家紋で、沼田家の出身であることを主張している。」

ちなみに沼田家は細川藩の重臣として、幕末まで5千石を領している家である。

なお、熊本城の宇土櫓に使われている瓦には桔梗紋、九曜紋、三つ巴紋があるそうだ。この説明には、桔梗紋は加藤清正家(蛇の目紋が有名だが)の一つの紋、九曜紋は言うまでもなく細川家の紋、そして巴紋は水の象徴(水が渦巻く様子を紋にした)として、火災から守る紋として説明されている。

このように、今の宇土櫓桔梗紋の説明は加藤清正家の一つの紋とされているが、これも細川家の六つの紋の一つの紋(ガラシャにちなんだ紋)の可能性もあるのではなかろうか(これは私の新説)。

私は、西垣家が沼田家(長岡姓も賜るとのこと)に関連していたのかなとも思っている。あるいは巴紋は神社の紋にも多いことから、元は丹後二俣村内外宮の神官の弟という西垣勘四郎の紋なのかもしれない(これは『西垣』からの引用、『肥後金工録』では丹後ではなく「丹波国内外宮の神官某の子」としている→これについて「西垣勘四郎の本貫の地」としてまとめている)。

5.この鐔を愛玩して

この鐔の形は、長丸形で、わずかに歪みがある。このあたりが西垣勘四郎の特徴であるが、堅苦しくなく、ゆとりが出ており、おだやかな感じで好ましい。

地鉄は、黒みが強い、すこしねっとり感の強い輝きのある鉄である。磨地に分類されるだろうが、春日派:林家の羊羹色に照るような地鉄ではない。しかし地鉄と言うのは不思議なもので、所蔵品の西垣勘四郎初代の「海鼠透かし鐔」の鉄(柔らかみがあり、黒く輝きが強いが、少し赤味を感じる)とも、初代勘四郎の鉄地のの地鉄(柔らかい感じの鉄で、黒い艶が美しい)とも違う感じである。保存の状態や手入れで変わるのだろう。

切羽台の小柄櫃の外側の切り立て部分は面を取って丸みがある。肥後の上手(じょうて)の鐔にある丁寧さで好ましい。切羽台の形は図と一体となって判別しにくいが、肩が張り気味で長めの小判形でしっかりしている。何となく肥後春日派二代:林重光の切羽台に似ている感じもする。時代の共通性なのかもしれない。

図柄の「巴桐透かし」は初代の勘四郎がデザインしたわけだが、考えてみると、一連の西垣派の透かし鐔の図柄を考案した初代勘四郎のデザイン力は大したものである。よく、このような図案が思い浮かぶものだと感心する。二代勘四郎は初代が考案したデザインを元に新味を出しているが、初代よりも賑やかで華やかな感じがある。

『西垣』より、初代勘四郎(A) 所蔵品 二代勘四郎

観ていると、左上の巴の頭が、花を伸ばそうとする桐を抑え付けようとしているが、桐はそれに負けずに伸び伸びと花芽を伸ばしているように感じる。二代勘四郎にとっては巴紋は父の存在、西垣家の伝統の重みかもしれない。でも、そんな重圧に負けておらずに、むしろ、思う存分に花芽を伸ばしているのは二代勘四郎そのものではなかろうか。これは元禄という時代の嗜好にも合致して華やかで喜ばれたと思う。同時に、思う存分に花芽を伸ばすところが、私が二代勘四郎作品から感じる”強さ”の一つの現れではなかろうか。

上の写真比較を観ていただきたい。巴紋だけでも、次のような工夫がある。巴を初代勘四郎よりも、わずかではあるが下左の方(小柄櫃の上)まで持ってきて、重さを軽くした感がある。それから、巴の頭と尾の間隔だ。初代よりも広くしていることが理解できる。角度が広がった分、明るい感じになっている。これが二代勘四郎のセンスであり、時代の力なのだと思う。

巴の大きな曲線、花桐の小さい花芽、これらの曲線が作る丸みが面白いから、桐の葉先も丸くしてしまった(葉先の丸いのは「巴桐透かし」では珍しいが「窓桐透かし」では初代も二代でも行っている)ようだ。それに合わせて葉脈の毛彫も丸みを帯びさせた。こんな意図かはわからないが、毛彫のクネクネの彫りは、少し生々しい感じである。この鐔から”強さ”を感じるのだが、その一因が、生々しい生命力なのであろうか。

この毛彫りに似ている作品を調べ、上述しているが、たった一枚しかない西垣勘四郎永久在銘に共通しているのは興味深い。すなわち二代勘四郎の作風が、よく現れた作品だと思う。

おわりに

この鐔は私がネット上で見つけて購入したものである。もちろん店を張っている刀屋さんのサイトであり、素人から購入したものではない。協会の審査で「勘四郎」になっているが、ネットの写真では毛彫が先が丸く、クネクネ感が強いこと、透かしの葉先が丸いことに違和感を感じた。ただし、櫃孔も赤銅で埋めてあり、また笄櫃の当金も赤銅で丁寧であり、大事にされてきたものだと思った。

そこで、購入して、手元で研究しようと考えた次第である。

本文でも書いたが、当初は初代だと思った。写し物は、それらしく真似をすればいいわけだから、花桐を多く茂らすような危険は犯さないものだ。また毛彫りも普通に行えばいいだけだ。このような冒険を冒せるのは初代だからだと思ったのだ。

上述したように、手元に置いて勉強している内に二代だと思うようになる。西垣は二代でも重要美術品の田毎の月図鐔があるように作位に初代との遜色はない。無銘だと初代が一番上手で、代が下がると技量が低下すると考える人が多いが、同時代の刀工における津田越前守助広、井上真改のように二代が初代を凌駕することもあるのである。林二代重光も素晴らしい作品がある。

西垣勘四郎二代の作風として、先人の評に私の印象を付け加えると、上の本文中にも触れているが、一種の強さを感じられる点もあることを記しておきたい。”二代目”、”後藤家に学ぶ”などから来る先入観とは別の何かである。

また、初代勘四郎のデザイン力を、改めて凄いと感じた。二代は、これを基礎にしているのだ。そして、そのデザインの多くを、細川家の家紋を元に組み立てているのも面白い。巴紋についても、私なりに考えたが、今後の研究に期待したい。

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