私が公鑒兼光の脇差にしているのは、新々刀の薩摩の元平の若打ちである。
1.安永八年八月の元平
年紀は「安永八年八月日」という、八が続いて、中国人であれば年紀だけでも嬉しい刀である。末広がりの「八」の字が2つ並ぶ年紀と、元平が、この若打ち時代を経て長寿で活躍したことにちなんで「末広がり元平」である。
この脇差は、元平の36歳の若打ちである(下左図参照)。『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)に安永6年に家督を継ぐとあるので、家督をついでから2年目の作刀である。
同年紀の刀が重要刀剣に認定されている(下右図参照)。実際に拝見したことがないが、長さ70.5pとあるから『新版日本刀講座 新々刀編』に掲載されている刀であろう。この刀は次のように評されており、私の脇差と相通ずるところがある。
「地鉄小板目つみ美しく見事である。刃文荒沸深い、直ぐ刃力強く足入り金筋を交え、出来傑出する。」
”出来傑出する”とは凄い評価である。
私の所蔵刀(脇差) |
同年同月日の重要刀剣の刀 |
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『現存の優品37』より | 『新版日本刀講座 新々刀編』より |
また『日本刀工辞典』(藤代義雄、松雄著)には安永八年二月日の年紀の押形が掲載されており、そして、その解説に「若打だけに銘字も太くしっかりしている、ー中略ー作柄も晩年は一定した五ノ目乱れであるが、この若打銘のものは多様である。中には非常に優れたものを見る。」とある。
自分の脇差が”非常に優れたもの”かどうかは他人が評価することであるが、覇気があって、飽きない沸の美しさが面白く、かつ楽しい出来であることは確かである。
2.作風
この脇差は、刀剣柴田の『現存の優品37』(平成5年12月)に所載である。そこの解説から、全般的な作風を紹介したい。詳しくは別途、自分なりの言葉で紹介したい。
「鎬造り 刃長1尺7寸1分半 反り3分2厘 元幅1寸6厘 先幅7分6厘 重ね2分3厘
重ね厚めに身幅広くどっぷりとした感じで、手にとってのその重量は、最上の鉄質をあらわしている。
地鉄、小板目つんで地沸が厚くついた薩摩刀のねっとりした鍛えに、刃縁からの沸がさかんにこぼれて地にもつく。刃紋、直刃が元から先にかけてどんどん広くなり、また沸がどんどん深くなり、特に物打ち先は沸・匂いが華咲くようである。帽子、焼き深く一枚風で先き尖って返る。
元平は伯耆守正幸とともに江戸後期の薩摩を代表する刀工で、薩摩藩工であり、安永・天明年間の初期作には薩陽士または薩藩臣と頭に切っている。寛政元年に大和守を受領、長生して八十三歳で没した。
本作は三十六歳のときの作で、その端正でしっかりと彫り込まれた銘は見る人に感動をあたえる。また沸・匂い深い刃紋もよく、特に物打ちから上にかけて地にこぼれていくのは元平の焼刃の特徴である。
姿も幅広く豪壮、薩摩刀典型の脇差で、元平初期の傑作である。」
売り物であるが故の、誉め言葉の列挙である。
手に取っての重量だけで、「最上の鉄質」ときた。
刃紋については「沸がどんどん深くなり、特に物打ち先は沸・匂いが華咲くようである」と、花を咲かせている。
まんざら嘘ではない。
3.購入の経緯
この脇差を購入したのは青山氏が元気な時のことである。いつものように、刀剣柴田に出向く。
「何かある?」と聞くと「天下の刀剣柴田に来て、”何かある?”は失礼でしょう。これはどう?」と抜いて見せたのがこの刀である。
「凄いね。これは。」と絶句して、しばしじっくりと拝見する。
「でも帽子が下手だね」(刀屋さんはご存じであろうが、買う気のある人間は貶すものである。逆に買う気のない人間は誉めるもの。)
その時は「考えておく」と言って帰ったが、一晩寝ても思いは覚めず、翌日、電話して「元平、買うよ」
青山氏は、「あれ、伊藤さんは、兼光を買ってから、刀はもう買わないんじゃないの?」とからかう。
4.沸の美しさ
この刀の良さは、物打ち辺に特に強く出ている地沸である。『現存の優品37』の評では「物打ち先は沸・匂いが華咲くようである」とあったが、本当に、無数の星が輝くような感じである。輝くと言うより、無数の星が底光りしているような様子である。
「沸が華咲く」という表現もいいなぁ。沸は、「錵」という漢字もあるんだ。金属の花が「錵」なんだ。刀鍛冶や研師は金属の花を咲かせる花咲爺(若い刀工、研師の皆様ごめんなさい)なのだ。
沸という漢字もいい。鉄の花、鉄でできた小惑星が沸いて出てくる感じがする。どんどん、どんどん沸いてくる。その鉄の花がまき散らす匂いが鉄の表面にくっついたのが「匂」なんだ。
この脇差の物打ち辺を見ていると、鉄はこんなにも美しいのかと陶然とする。銀より美しい。プラチナより美しい。
<「地沸微塵につく」とは?>
2010年10月に「日本刀鑑定用語の疑問−1(地沸)」をアップして、安易に、また定義を拡大解釈して地沸を使用していることに問題提起をしてきた。
素人写真ながら、元平の物打ち辺りに地沸が微塵について「沸・匂が華が咲く」あるいは「無数の星が底光りするように輝く」状況が撮れたのでアップする。このような角度からは黒く見えるのが地沸なのだ。そして角度を変えて拝見すると星になり華になる。これが美しくも楽しいのだ。
そして、これを「地沸微塵につく」と褒めるのだ。(2011.1.11)
(注)なお、この刀について、この地沸が微塵についている箇所は実は刃紋の続きで、研ぎの刃取りで、地に見えているだけではないかとのご指摘もあり、微塵の地沸問題は簡単には片付かないが、地沸が黒く見えることはご了承下さい。
刃紋は、ご覧いただいておわかりのように真改写しである。薩摩の先輩刀工である一平安代写しでもある。南紀重国の相州伝写しでもある。もちろん、この延長の本科は郷義弘ということになる。沸と冴えの虎徹も郷写しとよぶ人もあり、そうなると虎徹も先輩刀工の一人になる。
欠点は帽子である。欠点と言っても、他の人が見れば欠点ではないのかもしれない。
押形の帽子は、刀屋さんが売るために取った押形であり、整って描いてあるが、あの図は似ていない。
実際は、帽子全体がバアッと沸づいている感じである。
覇気があると評する人もいると思う。まとめることを気にしないで、焼いた元平が微笑ましい。
物打ち辺りの地鉄が星のように美しく、刃文が、直刃調で、その満々たる覇気を抑えて底光している感じであるから、帽子も、もう少し抑えた感じで沸強く、返りもメリハリをつけて欲しい。爆発しているというような強さはない。拡散している感じである。
刃は沸出来で、荒沸出来の箇所もある。焼き幅少なく焼き出して、それから先に行けば行くほど匂口が深くなっていく感じで気持ちが良い。良い刀は概して、先に行くほど働きのあるものである。
ただし、これは新刀の限界なのであろうか、刃中の沸の力強さは地沸ほどではない。刃中の沸は古刀である。でもこの脇差の沸は、下品ではない。古刀ほど、一粒ずつの沸に力強さはないが、厚くわき上がる感じで沸ずいていて良い。粕だっている沸でもない。
匂口は本当に深い。刃中の沸は深く気持ちが良い。しかし刃先にかけてだんだん薄くなると良いのだが、中には途中で堅く、肥前刀の帯のように段差が見える箇所がある。上で紹介した『新版日本刀講座 新々刀編』の安永8年8月日の刀の押形に、少し刃中で固い感じが描かれている。
また「薩摩の鼻たれ」と云われる砂流し状のものの一歩前の状態の箇所も見うけられる。
こういうムラな点は井上真改にはない点である。整った点は真改に及ばない。ただ「これも覇気」と感じさせる点が元平の魅力である。これは身贔屓であろうか。
金筋が表裏の焼き出しの上部に、それぞれ一本入っている。古刀相州伝の輝く金筋ほどではない。その他地景がチリチリとそのまま刃中に入り込み金筋状になっている箇所もある。刃中のこういうのを見つけるのも楽しい。
地景は、地沸に覆われているので見にくいが、公鑒
兼光のプラチナの銀髪線の地景ではなく、少しチリチリした地景が散見される。生きている鉄である。これまた感度の良い鉄である。
5.元平姿
姿が、俗に言う元平姿である。ごろっとして踏ん張りがあり、反りもそれなりにある姿である。『新版 日本刀講座 新々刀鑑定編』には「慶長新刀の先を少し細くして、反りを高くした感じがあり、元平以外にない姿の刀を造っている。これを薩摩姿、または元平姿と呼んでもよいほど特色がある。」とある。
先ほど紹介した『現存の優品37』の解説では「どっぷりとした感じ」と書いてある。面白い表現である。(写真も『現存の優品37』より転載)
6.地鉄の質−新々刀初期の刀工の助広・真改写しー
地鉄は大阪新刀と同じと思う。鎬地の色合いは、澄んで黒い感じである。
この若打ちの頃の鉄は大阪から仕入れた良い鉄であり、大阪新刀と変わるところがない。後年の薩摩刀の鉄とは少し違う。
前述した評でも「最上の鉄質」とあるが、鎬地を見ていると、助広、真改と同じである。
『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)に「大坂の岡野新次郎という刀屋からも注文がきている」とあるので、大阪から作刀の注文が来ると同時に、大阪の鉄問屋から地鉄の供給を受けていたのではなかろうか。
晩年作になると正幸と同じような薩摩刀らしい少し白けるような地鉄になる。晩年になると地鉄が変わったためであろうか、刃紋も正幸と同じような互の目乱れの志津風の相州伝となる。地鉄が刃紋と結びついているように感じるが、これは現代刀工にでも確認したい。
私は、次のような仮説も考えている。
この上質な鉄から、大阪新刀のような沸、匂の豊富な刃が焼けた。
初期の水心子正秀も助広写しがあったが、新々刀初期には、大阪の鉄問屋に、この上質な鉄が残っていた。そして、この鉄があったから、新々刀初期の各刀工は大阪もの写しを作り、評価を高めた。
騒然とした幕末の、刀剣需要の高まりに連れて、大阪の良質な鉄は払底する。
こうして水心子正秀は復古刀にいき、元平は薩摩刀らしい作風に転じた。
(注)これはあくまで一つの仮説である。尾崎助隆、直江助政、市毛徳隣(偏と旁が逆が正しい)、手柄山正繁など幅広く分析しないと、明確には言えない。
6.
元平の打ち盛り元平の”若打ち”を高く評価してきたが、その評価の一例として、重要刀剣の指定数(第1回〜30回)を、元平の年紀別にみてみたい。○印が1振指定されていることを示している。○の数が多いほど、指定が多いということになる。
結果は次表の通りである。なお年号は元平の年紀がある年(明和7年27歳)から没年(文政9年83歳)までとっている。
元 ( 第 1 回 昭和 33 年 〜 第 30 回 昭和 58 年 ) | 平 の 重要 刀剣 指定 数||||
和暦 | 西暦 | 年齢 | 重要 | 刀剣 指定 数|
明和 | 7 年 | 1770 | 27 | |
8 年 | 1771 | 28 | ||
安永 | 元年 | 1772 | 29 | |
2 年 | 1773 | 30 | ||
3 年 | 1774 | 31 | ||
4 年 | 1775 | 32 | ||
5 年 | 1776 | 33 | ||
6 年 | 1777 | 34 | ||
7 年 | 1778 | 35 | ||
8 年 | 1779 | 36 | ○ | |
9 年 | 1780 | 37 | ○ | |
天明 | 元年 | 1781 | 38 | ○ |
2 年 | 1782 | 39 | ○ | |
3 年 | 1783 | 40 | ○○○ | |
4 年 | 1784 | 41 | ||
5 年 | 1785 | 42 | ○○ | |
6 年 | 1786 | 43 | ○ | |
7 年 | 1787 | 44 | ○ | |
8 年 | 1788 | 45 | ○ | |
寛政 | 元年 | 1789 | 46 | |
2 年 | 1790 | 47 | ○○○ | |
3 年 | 1791 | 48 | ||
4 年 | 1792 | 49 | ○ | |
5 年 | 1793 | 50 | ○○ | |
6 年 | 1794 | 51 | ○ | |
7 年 | 1795 | 52 | ||
8 年 | 1796 | 53 | ○ | |
9 年 | 1797 | 54 | ○ | |
10 年 | 1798 | 55 | ||
11 年 | 1799 | 56 | ○ | |
12 年 | 1800 | 57 | ||
享和 | 元年 | 1801 | 58 | |
2 年 | 1802 | 59 | ||
3 年 | 1803 | 60 | ||
文化 | 元年 | 1804 | 61 | ○○ |
2 年 | 1805 | 62 | ||
3 年 | 1806 | 63 | ||
4 年 | 1807 | 64 | ||
5 年 | 1808 | 65 | ||
6 年 | 1809 | 66 | ||
7 年 | 1810 | 67 | ○ | |
8 年 | 1811 | 68 | ||
9 年 | 1812 | 69 | ||
10 年 | 1813 | 70 | ||
11 年 | 1814 | 71 | ||
12 年 | 1815 | 72 | ○○ | |
13 年 | 1816 | 73 | ||
14 年 | 1817 | 74 | ||
文政 | 元年 | 1818 | 75 | |
2 年 | 1819 | 76 | ||
3 年 | 1820 | 77 | ||
4 年 | 1821 | 78 | ||
5 年 | 1822 | 79 | ||
6 年 | 1823 | 80 | ||
7 年 | 1824 | 81 | ||
8 年 | 1825 | 82 | ||
9 年 | 1826 | 83 | ○ |
評価されている傑作は、元平の場合は40歳から50歳の前半に多いことが理解できよう。
このうち、40歳の天明3年2月日の一振は『鑑刀日々抄(続3)』の487ページに次のように紹介されている。
「薩摩新刀はこの工に限らず相州上工の作をねらっているが、この作は姿も地刃も同作にあり勝ちの仰々しさがなく、いかにも正宗を偲ばせるものがあって屈指の佳作である。ー中略ー年紀にみる天明三年は彼が三十九歳にあたり、まさしく壮年の作である。数多い同作の中から択ばれて重刀に認定されているが、いかにもと首肯される。」
私が元平の若打ちを評価するのは、彼が試行錯誤をして、先人の名作を写していた努力が見られることによる。それだけに失敗も多いのかもしれない。
昭和55年頃だと思う。東京の普段はほとんど出向かない刀剣店で虎徹写しの元平の若打ちを見せられたことがある。寸詰まり(2尺1寸程度)の刀であったが、虎徹の明るく冴える刃を写していた。魅力のあるものであった。あの刀はどうなっているであろうか。忘れられない一振である。
元平の大成期の、いかにも薩摩刀らしい出来を好む人も多いと思う。それはそれでよいと思う。元平自身も試行錯誤の結果、あの作風を作ったのだと思う。(2002年8月5日)
7.伯耆守正幸との比較
今、元平の重要刀剣の指定数(第1回〜30回)を調査したが、それでは同時代に同じ薩摩の地で活躍した伯耆守正幸(3代正良)はどうであろうか?
元平と同様に年紀別に重要刀剣指定数(第1回〜30回)を調査した。○印が1振指定されていることを示している。○の数が多いほど、指定が多いということになる。
30回までの指定数では、元平が28振に対して、正幸が21振である。私は薩摩刀らしい出来では、元平と正幸に優劣はまったくないと思っている。違いは元平の若打ちの方に、時々、非常に面白い、優れたものが存在することにある。
伯耆 幸 の 重要 刀剣 指定 数 ( 第 1 回 昭和 33 年 〜 第 30 回 昭和 58 年 ) | 守 正|||||
和暦 | 西暦 | 年齢 | 重要 | 刀剣 指定 数||
宝暦 | 14 年 | 1764 | 32 | 年 あり | 紀 銘|
明和 | 2 年 | 1765 | 33 | ||
3 年 | 1766 | 34 | |||
4 年 | 1767 | 35 | |||
5 年 | 1768 | 36 | |||
6 年 | 1769 | 37 | |||
7 年 | 1770 | 38 | ○ | ||
8 年 | 1771 | 39 | |||
安永 | 元年 | 1772 | 40 | ||
2 年 | 1773 | 41 | |||
3 年 | 1774 | 42 | |||
4 年 | 1775 | 43 | |||
5 年 | 1776 | 44 | ○○ | ||
6 年 | 1777 | 45 | |||
7 年 | 1778 | 46 | |||
8 年 | 1779 | 47 | |||
9 年 | 1780 | 48 | ○ | ||
天明 | 元年 | 1781 | 49 | ||
2 年 | 1782 | 50 | |||
3 年 | 1783 | 51 | ○ | ||
4 年 | 1784 | 52 | |||
5 年 | 1785 | 53 | ○ | ||
6 年 | 1786 | 54 | ○ | ||
7 年 | 1787 | 55 | |||
8 年 | 1788 | 56 | |||
寛政 | 元年 | 1789 | 57 | ○ | |
2 年 | 1790 | 58 | |||
3 年 | 1791 | 59 | ○ | ||
4 年 | 1792 | 60 | |||
5 年 | 1793 | 61 | ○○ | ||
6 年 | 1794 | 62 | |||
7 年 | 1795 | 63 | |||
8 年 | 1796 | 64 | |||
9 年 | 1797 | 65 | |||
10 年 | 1798 | 66 | |||
11 年 | 1799 | 67 | |||
12 年 | 1800 | 68 | ○○ | ||
享和 | 元年 | 1801 | 69 | ||
2 年 | 1802 | 70 | |||
3 年 | 1803 | 71 | ○ | ||
文化 | 元年 | 1804 | 72 | ○○ | |
2 年 | 1805 | 73 | ○○ | ||
3 年 | 1806 | 74 | ○ | ||
4 年 | 1807 | 75 | ○ | ||
5 年 | 1808 | 76 | |||
6 年 | 1809 | 77 | ○ | ||
7 年 | 1810 | 78 | |||
8 年 | 1811 | 79 | |||
9 年 | 1812 | 80 | |||
10 年 | 1813 | 81 | |||
11 年 | 1814 | 82 | |||
12 年 | 1815 | 83 | |||
13 年 | 1816 | 84 | |||
14 年 | 1817 | 85 | |||
文政 | 元年 | 1818 | 86 | ||
2 年 | 1819 | 87 | 没 |
正幸の重要刀剣指定は、44歳から61歳に満遍なく存在し、同時に68歳から77歳にも一つのピークがある点にある。
元平との違いや、元平の”若打ち”の特殊性が、ご理解いただけたと思う。(02.8.15記)
8.薩摩刀の思い出
私は薩摩刀にはご縁がある。就職して、自分のお金ではじめて買った刀が薩摩の伯耆守正幸であった。
銀座の骨董品店に、相撲取りが持つような1尺3寸5分ほどの平造りの豪刀が、110万円で出ていた。刀身は古研ぎの為に、少し黄ばみが出ていた。身幅は元で1寸以上あり、身幅も1センチ近い豪快な脇差である。
銘もきちんとしており、表銘の「伯耆守平朝臣正幸」のほかに、裏銘も「文化三年寅二月」「七十一三歳造」とあった。すなわち七十四歳の時の作刀である。
特別貴重刀剣の証書がついており、寒山先生の鞘書もあった。白鞘も丁寧な角口がついているものであった。刀屋さんでもない骨董屋であったので心配であったが、間違いがないと判断して購入した。
しばらく観ていたが、いかんせん研ぎが悪い。そこで藤代興里先生のところに持ち込み研ぎをお願いした。
典型的な薩摩新々刀であった。沸が荒く、薩摩の鼻垂れもあり、豪快、健全で自慢できるものであったが、例の兼光を購入する時に、刀剣柴田に持ち込んで処分した。130万円で買ってくれた。研ぎ代も含めても買った値段以上で処分できたわけであり、十分であろう。
刀剣柴田でいくらで販売したかは定かではないが、200万円近くで販売したのではなかろうか。身幅が広く、重ねも厚い、このような豪刀はすぐ売れると言っていたが、雑誌に掲載する前にお客さんがついたようである。
その後、この脇差は見ないから、買われた方が大事にされているのであろう。これほどに豪快な脇差は、その後も見たことがないから、得難い刀であったことは間違いがない。
こういう経験があるから、自分は薩摩刀には恵まれているという気がしている。何かご縁があるのだろう。
なお、この骨董屋さんからは、もう一振購入した。それは「筑前国福岡住是次」の脇差である。これは1尺8寸ほどの細身であるが、少し逆ががる丁字刃も混じた乱れ刃で、板目流れるというより柾鍛えであったと記憶している。これはよく見ると匂切れがあったが、同じく兼光の購入の時に買った値段と同じ80万円で売却した。甲種特別貴重刀剣の証書がついていた。
この骨董屋さんからは以上の2振の購入であったが、いずれも損はしなかったことになる。今でも、このお店があるかは確認していない。(02.11.14)