新刀初期の作風変化における美術的視点

ー相州伝作風復活、梨子地肌誕生の背景ー
伊藤 三平

日本刀の研究ノートのページ

はじめに

日本刀の世界では、慶長を境に、その前を古刀、以降を新刀に区分している。その区分は的確だとして、今に至るまで踏襲されている。刀剣界では鑑定会という勉強の場があり、そこにおいても古刀を新刀に、逆に新刀を古刀に観ると「時代違い」と厳しく返答される。
それでは、慶長期の新刀の作風と、その前の時代である末古刀期の作風との大きな変化は何に影響を受けたのであろうか。私は、より美術的な視点から問題提起をしてみたい。

1.末古刀期と、新刀初期(慶長新刀)の作風の違い

末古刀時代は、例外はあるが、概して地鉄は堅く、潤いに乏しい感じで、刃は匂口の締まった刃紋、あるいは沈み心の刃紋で全国的に共通している。藤代義雄氏が『日本刀研究の新道』の中で「戦時の刀剣は、実用に集中せられる時に用いる単一性によって作風は単純類型化する」と唱える通りである。ただし刃紋の形状は流派によって、また刀工によっては前代とは違う「三本杉」「兼房乱」「蟹の爪」などの独特なものが生まれている。

それが新刀初期になると、湾れ調の刃紋で沸出来で匂深く、そこに砂流しなどの変化の目立つ刃紋や、匂口の明るい刃紋に変化してくる。地鉄においても、細かい沸が全面に出た明るく潤いのある作品も生まれてくる。

同時に、造り込みでは、南北朝時代の大切先、長大で幅広な刀を磨上げた体配が好まれるようになった。新古境の刀工にも長さにおいて豪壮な体配があるが、それとは切先、身幅、姿が違う。

当時の現代刀工(慶長新刀の諸工)の作風変化に先立つのか、あるいは追随したのかは定かではないが、古刀の鑑賞においても、沸出来で変化の目立つ正宗を代表する相州伝刀工が高く賞美されるようになった。
いずれも南北朝時代にかかる刀工である。

一人の刀工における古刀から新刀の変化が顕著にわかるのが、堀川国広である。「古屋打」「天正打」が古刀期の作風、慶長4年以降の京堀川定住期以降の「慶長打」から新刀の作風と変化しており、作刀そのものの魅力も相俟って、新刀の祖と称されている。
埋忠明寿も新刀の祖の一人だが、作刀の数は少ない。「城州埋忠作」の銘が天正・文禄期において短刀・槍で存在するが、刀では「山城国西陣住人 埋忠明寿」銘の慶長3年紀が現存する初期の年紀である。この刀に関して「この作は太刀銘であるが、体配は打刀のもので、前時代にはみられない独創的な斬新さで、鍛えのこまやかさと湾れ調の刃文に新刀の特色をよく表しており…」(『日本の美術 新刀』小笠原信夫編)と評されており、新刀らしいものであることが理解できる。

2.新刀の作風変化が生じた背景−先人の説の紹介−

作風が、このように変化した背景については、先人もいくつかの説を唱えているが、「桃山時代の豪壮の空気を反映して」とか「平和な時代となって」と大雑把に片付けていることが多い。
私が当たった資料の範囲では、小笠原信夫氏が『日本刀の歴史と鑑賞』、『日本の美術 新刀』において、新刀出現の背景と作風が変化した理由について、深く考察されている。小笠原氏の仮説と問題提起は次の通りである。

<作風の変化の理由>

<新刀出現の背景>

なお、『日本刀大百科事典』(福永酔剣著)の「新刀」の項には、作風が変化した理由について、次のような説を紹介している。鉄の造り方に、よしんば違いはあっても、作風にどのように影響するのかはわからないが、否定するにも傍証となる資料はないので、全て列挙しておく。

3.絵画の作風と新刀の作風

桃山文化は黄金の文化、豪快な文化、南蛮の影響も入る文化と言うのは教科書で習っている。それが刀装における金梨子地、朱塗、金蛭巻、金蒔絵、金霰鮫、研出鮫などの華やかさに関連づけられると言うのは、小笠原信夫氏の述べられている通りである。

ただ、「黄金の文化」、「刀の外装の華やかさ」だけからでは、刀という鉄素材の中での作風の変化はまだ説明できない。沸出来で匂深く、変化の目立つ刃紋や、匂口の明るい刃紋は確かに華やかだが、末古刀時代の蟹の爪、兼房乱などの刃紋も派手といえば派手である。

私は、俵屋宗達の絵画を眺めている内に、宗達の作風と、慶長新刀の作風に共通性があるのではと感じた。以下、そのことを説明していきたい。

まず、匂口の締まった、いわば線で表現される刃紋から、沸出来の変化の目立つ刃紋、すなわち刃紋の線が太くなった作風変化に対する仮説である。

●俵屋宗達の没骨法とたらしこみと相州伝刃紋との共通性

俵屋宗達は、建仁寺の「風神雷神図屏風」や、本阿弥光悦との合作などでも名高い画家であるが、生没年はわかっていない。活躍の時期が明確にわかるのは慶長7年(1602)に福島正則の依頼によって、厳島神社の平家納経を補修したことである。そして寛永7年(1630)には町絵師とは異例の法橋の位が与えられている。すなわち慶長新刀の初期の活躍刀工と同じ時代である。

琳派を開いた尾形光琳が俵屋宗達と本阿弥光悦に私淑しており、琳派の祖としても評価されている。

もとは扇の絵を描くのを家業としていたようで、デザイン感覚は優れている。そして画法としては、日本画ではじめて没骨(もっこつ)法や「たらしこみ」という技法を取り入れたことで名高い。

没骨法とは、輪郭を描かず、初めから画面に形と色を同時にあらわすという技法である。要は線で表現するのではなく、面で表現する方法である。

刀で言えば、締まった匂口が線での刃紋の表現である。そして没骨法が、匂口の深い沸での刃紋の表現である。

また「たらしこみ」とは、先に塗った墨がまだ乾かぬ内に濃度の異なる墨を部分的に加え、両者が混ざりあって複雑な濃淡の墨面を造りだす手法である。生乾きの墨に別の濃さの墨がまじる「にじみ」による効果を狙う画法である。沸出来の刀による変化(島刃、砂流し、雪のむら消え)と同じ効果ではなかろうか。

具体的に宗達の絵から説明したい。

風神雷神図屏風(部分)−建仁寺…『もっと知りたい俵屋宗達』(村重寧著)より 牛図(部分)ー頂妙寺『もっと知りたい俵屋宗達』(村重寧著)より 四季草花下絵和歌色紙帖の「稲田図」ーベルリン東洋美術館…『俵屋宗達』(新潮日本美術文庫)より
雷神の雲は、墨に銀泥を混ぜ、たらしこみ。
沸出来の乱れ刃みたい
牛の尻などは没骨法、牛の身体の墨の濃淡はたらしこみ。足の付け根などの白い線は、墨を残す「彫り塗り」、線ではなく面での表現と変化 書は光悦。群青に銀泥で水流、その描き方など相州伝の刃紋のよう

時代が、襖絵、屏風、扇絵、色紙、巻物などの絵に、俵屋宗達の技法(没骨法、たらしこみ)をもてはやした時代に、刀剣の世界では、匂口の深い沸出来の刃紋で、しかも、そこに島刃、砂流し、雪のむら消えなどの変化が観られる相州伝をもてはやしたのではなかろうか。

逆に刀剣を愛好する武将・武士の好みの変化が俵屋宗達の画風に変化を与えた可能性もあると思う。今では刀剣は絵画などに比べればマイナーな存在だが、当時は刀剣が武士の表道具だったのだ。そこでの変化が本阿弥光悦や埋忠家を通して、俵屋宗達の作風に変化を与えたと考えるのも楽しい。

本阿弥光悦はご存知、研師の名門である。そして光悦がつくった光悦村において、光悦の屋敷の前に「むめたに道安」の屋敷がある。この”むめたに”は埋忠のこととではないかと内藤直子氏(「光悦村の金工−「光悦町古図」(刀剣美術平成15年11月号、12月号)が指摘している。埋忠家はハバキから鐔の制作、刀身彫刻や刀装全般をプロデュースをしていた家である。

俵屋宗達の画風→慶長新刀の作風か、慶長新刀の作風→俵屋宗達の画風かはわからないが、俵屋宗達は刀剣関係者とは近いところにいたと考えられる。

(注)内藤直子氏の当該論文については私のHP上の「刀装具の研究ノート」の「「光悦村の金工」の内藤直子氏の論文について」で概要を紹介している。なお埋忠明寿は元和4年に61歳であり、寛永8年に74歳で没したと伝えられる。また慶長13年の銘には西陣住人とある。通称を彦次郎、初銘を重吉、あるいは宗吉と称したと伝わっており、明寿と道安とは直接に結びつかないと考えられるが、埋忠一族の一人ではなかろうか。

●俵屋宗達の金泥、銀泥と梨子地肌

次に刃紋ではなく、慶長新刀の明るい地肌に関して述べてみたい。慶長新刀で、埋忠明寿にも師事した名工に肥前国忠吉がいる(師事の内容については、刀造りは明寿よりも上手であり、そのことではなく組織作りを学んだとか、鍋島藩による箔付けとの説もある)。この肥前刀は、相州伝ではなく、山城の来派の作風を慶長時代に蘇らせたと高く評価されている。

肥前刀の地肌は梨子地肌とも呼ばれていて美しい。これは俵屋宗達も用いた金泥、銀泥に砂子を用いた画風と同じ感覚だと感じる。下図の扇面に施された金梨子地をご覧いただきたい。

金泥・銀泥とは金銀を溶いた泥状の絵の具であり、箔を膠(ゼラチンを成分とした接着剤)で溶いて用いたものである。金泥・銀泥で画かれた画面は、金や銀の細かい粒が光りによって浮き立つ豪華なものなのである。

扇面散貼付屏風より「蕨図」ー出光美術館…
『俵屋宗達』(新潮日本美術文庫)
扇の真ん中の金泥に砂子を用いた地は梨子地肌

おわりに 

刀剣商は、日本画、茶道具などを扱う美術商から異質というか、一段低く見られていると聞いたことがある。人間的にはそんなことはないと思っているが、刀剣のみに偏っていて、日本の美術全般に対する造詣が、今一つのために共通の会話に乗れないのではなかろうか。

これは刀剣商に限らず、愛好家にも言えると思う。もちろん私だって偉そうには言えない。ただ、刀剣・刀装具以外に浮世絵を趣味にしたりしているから、少しは広いとは思う。また私は不肖の息子だが、家は茶道に縁があり、母も茶道を教えており、家にはそれなりの焼き物もいくつもある。

私は刀剣・刀装具の世界では、趣味の団体にも所属しておらず、幅広いおつきあいはしていないが、親しくしている人は、中国磁器、日本の焼き物、音楽、硯、アフリカ美術、日本画、洋画などの趣味を合わせて持っている人である。このような人と会話する方が刀剣・刀装具だけの人より楽しいと感じる。

今回の小論は、美術全体の動向から刀剣の作風を見たもので、そのような視点からの論として、あなたにも考えていただければ幸いである。
日本美術における刀剣・刀装具の奥の深さ、素晴らしさを発信していこうではありませんか。
 

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