大森英秀「張果老」縁頭


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横谷派の流れをくむ大森派五代目の英秀の作品である。「刀装具の研究ノート」の「大森派と石黒派」に記している。

1.作品の解説

図は中国唐代の仙人の張果老である。作品を見る前に、張果老の説明をしておきたい。

日本に七福神があるが、日本と同様の福神として中国には八仙人がある。張果老は、その一人である。

張果老は唐代の人で、常に白驢(白いロバ)に乗っていた。その白驢は、一日に数万里を歩くことができた。そして白驢は、不必要な時は、折り畳んで紙くらいの厚さにして、衣裳箱に入れることもできたと言われている。乗るときには水を吹きかけるとすぐに白驢になったという。

頭は、張果老が、白驢を折り畳んだところである。白驢は、六角形の薄い紙状のものになっている。その幻影のような不思議さを、金の細かい切り紙象眼、そして梨子地象眼で煙を表すようにしている。毛彫りも加えている。
白驢が畳まれた六角形は、この写真では目につくが、ちょっと観るとほとんどわからない。というのは、四分一地にほとんど同じような材質(少し黒みがある金属)で平象眼しているためである。

張果老の顔は素銅にして赤ら顔になっている。そして赤銅で特異な髪の毛、眉毛、髭を高彫りしている。おもしろい頭の格好である。
眼光は金で縁取り、赤銅を入れて、炯々としている。ただ者ではない。

瓢は、金で、ふくらみを上手に表現している。それを金のヒモで肩にかけている。ヒモの緊張感は瓢の重さを的確に表している。

衣類の襞は、素肌の肉体を想像できるように、身体を覆っている。衣類の象眼も襞に従って丁寧であり、動きがある。

縁の表側は、姿を変えた張果老が向こう側を向いて、顔を上に向けている。
瓢から水を出し、白驢に姿を変えようとしている。髪飾り(髪を結ぶ布?)は金で巻かれている。そして髪の毛は銀で白髪を表している。髪の毛のふくらみと、それに施された毛彫りも見事である。

縁の瓢は金だが、槌目を打ち出している。瓢の水は細かい点彫りで表現している。

衣類は赤銅で、ここに細かい線象眼で、衣類の模様を織りなしている。金糸と銀糸による象眼である。

縁(表側)

縁の裏側は、水をかけられて変じた白驢が元気に彫られている。白いロバなのに、赤銅で彫られている。仙人の白驢であり、ロバも姿を変えるのかもしれない。足は短いが、肉取りの見事な白驢である。この立体感、躍動感は何ともいえない。

松は四分一の高彫りで、立派である。老大木の松皮肌を達者に彫っている。金の象眼は苔を表しているのであろうか。松葉の中心に金を入れて、アクセントを入れている。

縁(裏側)

2.曲線の良さ

私は、前にも石黒と大森で述べたように、大森派の良さは曲線の良さにあると思う。もちろん、絵であるから、すべて曲線で描くことはない。逆に、すべて直線で描くこともない。

私が言わんとするのは、大森英秀は、曲線を使った絵取りと、曲線になる高彫りの肉取りに魅力があると思う。
彼の作品は、曲線の中に躍動感が出ていると感じる。英秀は”大森波”と賞せられる波の彫りでも名高い。その躍動感を皆が感じているからに違いない。

曲線は柔らかさを表現するのに適している。しかし英秀の曲線は柔らかくても軟弱ではない、強さがある。一流工の証である。

3.大森英秀の象眼

大森英秀の弟子に、細かい象眼で濃密丹念に彫った遅塚久則がいる。この英秀の作品を観ると、遅塚久則の技術の系譜は、すべて英秀から出ていることが、よく理解できる。

人物の着物の襞にあわせた象眼も自然で丁寧である。金と銀を主体にした合金を織り交ぜて変化をつけている。

何より驚くのは、頭(かしら)地の象眼である。大森英秀の得意の金梨子地象眼を彷彿とさせる。

4.先人の英秀評

「刀装具の研究ノート」の「大森派と石黒派」も参考にしていただきたい。

稲葉通龍は次のように述べている。

「世に大森一流と称するは此人より盛なり。其彫琢岩をつんざく勢ありて、しかも甚だ奇麗なり。四分一に浪などの深彫至って見事に、又梨子地の深牡丹の類は、真似のならぬほどの妙あり、宗aの一輪牡丹を擬して創意せられしものと見えたり。武者物殊に妙なり。」(桑原羊次郎著『日本装剣金工史』より引用)

その桑原羊次郎は『日本装剣金工史』の中で次のように述べている。

「彼の波頭をほり抜きたる高浪と云ひ、梨子地目の独創と云ひ、何れも英秀の如何に新意新図に富みたるかを見るべく、普通一般の模様にせよ、英秀の下図は必ずどこかに新意のひそむありて、通常凡工の所謂依様胡蘆(いようころ…手本の通りに行って工夫が無いこと)を書く輩とは其撰を異にせり。」

キーワードは「勢い」、「奇麗」、「創意(独創、新意新図)」である。

英秀の作品を細かく鑑賞したのは、自分の手元に置いて観ているこの縁頭だけであるが、私の感想も、先人の評と一致する。

「勢い」を私は、「曲線は柔らかくても軟弱ではない、強さがある」と表現した。
「奇麗」については、象眼の巧みさを褒めている。
「創意(独創、新意新図)」については、他に張果老の図をあまり知らないので、コメントできないが、頭(かしら)の張果老の風貌は特異で、非常にすぐれている。

先人の評に加えて、私は「曲線のうまさ」を付け加えておきたい。いつも感じるが、観た時の第一印象は正しい。「大森派と石黒派」の中で、石黒派と比較して、次のような評を述べている。何度も観ているが眼は進歩しない。第一印象で言い尽くしているようである。

大森英秀の良さは、くねくねした曲線(カーブ)、ふくらみ(肉置き)の表現にあると思う。一方、石黒政常には、すっきりした線を基本にした表現の冴えがある。(”すっきりした線”=直線というように誤解しないでください。絵だから曲線が基本なのですが、それが”すっきり”という意味なのです)

大森派の豊麗、濃密に対して、石黒派の華麗、精妙という感じである。

梅と桜と強いて比喩すると、大森派は梅花の美しさに加えて、梅の香りまで醸し出すような彫りに対して、石黒派は絢爛たる桜花、散ることを常に意識させる緊張感のある彫りである。

5.風貌=面魂

第一印象で言い尽くしているというのも寂しい限りである。そこで、別の視点から鑑賞してみたい。

浮世絵に「大首絵」というジャンルがある。
刀装具は、小さいものであり、写楽などの迫力のある大首絵はのぞめないが、この英秀の頭(かしら)の張果老の風貌は、刀装具の世界では優れていると思う。(如竹の縁頭に三国志の人物を大きく彫った名作がある)

優れている風貌は、人物の精神、性格までわかるものである。

この張果老は、世間を睥睨している面魂である。だけど世の中を馬鹿にしているわけではない。世事に媚びない精神を表現しているとでも言おうか。

その炯々と光る眼は、怖い眼ではないが、侮りがたい人物であることを示している。緊張しているわけではない。精神は伸びやかであるのに、このスキのなさである。
一緒に走行してくれた白驢をいたわる愛情があふれているからであろうか。

髭と頭髪は数百歳とは思えぬほど、黒く、バリバリしている。張果老には、こんな物語もあるそうである。

唐の玄宗皇帝が、張果老に、白髪で歯もぬけているのを指摘すると、抜けば治るかもしれないといって即座に髪と歯を抜いたそうである。血で付近が真赤になったと言われている。そして、しばらくして、玄宗皇帝の御前に現れた時は、黒い髪と白い歯となっていたとのことである。


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