後藤光乗「三匹獅子−国盗り−」目貫


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重要刀装具に指定の無銘光乗、金無垢三匹獅子の目貫である。購入の経緯は、「刀装具の鑑定・鑑賞ノート」に記している。2000年5月に入手してから2年経つ。やっと自分なりに観た結果を皆様に公表できるようになった。

この目貫を見ていると生命力を感じる。生きる喜びと言っても良い。躍動感が溢れている。私が以下に鑑賞記を書き、その中でこの目貫の獅子それぞれの顔、姿態を観ていると、「これから国をとりに行こう!」と言う気になると記した。ある識者がアドバイスしてくれた。「良い命名ではないですか。ご自分のものでもあるんだから”国盗り”と号したらどうですか」と。(03年11月12日)

1.獅子の個性

獅子が表裏に3匹ずついるが、この獅子の顔を見て欲しい。

まず表目貫と裏目貫の真ん中の獅子である。

表目貫の中央獅子 裏目貫の中央獅子

この顔は王の顔である。「統率力」「リーダーシップ」を感じる。表目貫は、リーダーの「知性と配慮」を感じる。知力は戦いにおいては戦略として表される。戦略で間違えては、個別の戦闘の場で勝利しても”点”しか盗れない。”面”である国は盗れない。

そして国を治めるためには、知性と配慮が必要であることは異論がないであろう。

裏目貫は、リーダーの「勇猛な力強さ」を示している。武力は”国盗り”の基本である。クラウゼビッツは名著『戦争論』において次のように記している。

「兵学は生きた力、精神的な力を扱うのであって、したがってそれは決して絶対性と確実性に到達することはできない。そこには常に不確実な要素が残っている。それは大きな舞台でも同様である。一方では不確実性があり、他方では勇気と自信があり、不確実性の欠陥を埋める役を果たす。

勇気と自信が大きければそれだけ不確実性の範囲が拡大しても差し支えがない。かくて勇気と自信は戦争にとって本質的な原則である。
計画の際に考慮に入れられない無数の事情が発生してたちまち予定が狂い、当初の目的からはるかに遠いところにとどまらざるをえない。ただ鉄のように強い意思を持ったものだけがこの摩擦を克服し、障害を粉砕することができる。いずれにせよ兵学においてとりわけ重要なのは誇り高き精神が持つ、強固な意思である。」

(03年11月12日)

次は、そのリーダーである中央の獅子を見上げている獅子(表目貫では左側、裏目貫では右側、)の顔である。

表目貫の左側獅子 裏目貫の右側獅子

この獅子たちには「忠誠心」「誠実さ」「明るさ」を感じる。表目貫の方の獅子は、「忠誠」「まじめ」である。裏目貫の獅子は「忠実」、「明朗」な元気の良さがある。

きちんとした仕事をするのにはまじめさが第一である。ある会社で、「有能な社員を採用したいがどうしたら良いか」との依頼があり、それなら現在活躍している社員の採用時の資料が残っていれば調べてみましょうとアドバイスした。面接時の資料が残っていた。現在、有能店長として活躍している人の記録には「営業に向かないかもしれないがまじめそう」というような記録が残っていた。この結果を受けて、その会社はまじめさを重視して採用活動をしている。入社してから成長する人はまじめな、素直な人が多いのは、皆様も経験しているであろう。(03年11月12日)。

3匹目は、これらの2匹を振り返ってみている獅子(表目貫では右側、裏目貫では左側)である。

表目貫の右側獅子 裏目貫の左側獅子

この獅子たちは「勇気」である。表目貫の獅子見るからに果敢な性格である。頼もしいかぎりである。裏目貫の獅子の勇気は表面には出ないが、いざという時にはためらいもなく発揮される勇気である。沈着冷静にやるべきことをしてくる強さである。

表目貫は中央の獅子に「知性と配慮」を感じるから、ここには見るからに果敢な性格を感じさせる獅子を描いている。
逆に裏目貫は中央の獅子に「勇猛な力強さ」を感じるから、バランスを取るために、ここには表面には出ない勇気を持った獅子を配している。絶妙である。(03年11月12日)

光乗は、獅子が単に3匹彫っただけではない。獅子の姿態を、いくつか組み合わせているだけではない。光乗は獅子の性格・個性まで彫っている。

時は戦国の末期の頃であろう。覇権の行方も決まりつつある。百獣の王である獅子を借りて、覇権を獲得する上で大切なことを表現している。
この目貫を観ていると、「これから国をとりに行こう!」と言う気になる。司馬遼太郎は名作『国盗り物語』を書いた。この目貫を”国盗り”とでも言おうか。

獅子を彫っているものは多いが、獅子の性格まで読みとれる作品は少ない。後藤後代になると、作品は「可愛らしい」などと評される獅子も出現する。「可愛らしい」とは性格ではない。表情だけの評である。それでも獅子が可愛らしいでは仕方がない。犬でも彫れば良い。

笹野先生は、「後藤の龍は名品をいくつか見ますが、獅子の良いのは少ない」と言われていたようである。確かに単なる獅子を彫っただけの作品が多い。

.初見の印象

ここまで書いたが、ここで2000年5月の初見の時の印象を記してみる。

「同じような獅子をこれまでも観てきましたが、二格程度上手(じょうて)です。言葉では限界がありますが、少し具体的に表現してみます。

今まで見た後藤の獅子と違って、迫力があります。獅子が生き生きとしています。楽しそうに群れている感じです。山谷もキチンとしてメリハリがあります。
眼に力があり、腕、脚の筋肉に躍動感があります。鼻孔にも力があり、呼吸をしている感じです。
口も、たくましく、何でも喰いそうな口をしています。
眉、巻き毛も、線を入れているというような感じではなく、キチンと彫っているという感じです。
金性も、白っぽくなく、かと言ってそれほど黄色っぽくもなく、いかにも黄金という輝きです。
裏も良く、陰陽根です。見事に叩き出しています。」

どうであろう、初見の印象で言い尽くしているような気もする。2年経って、余計なことを書いているだけのような気がして、イヤになっている。
芸術は、こういうものなのかもしれない。皆様も、対人交渉において初対面の印象が正しいことを、よく経験している。

3.光乗の作柄

この目貫は、高名なコレクターが所持していたものであり、その人は光乗という極めより、宗乗ではないかと考えられていたようである。確かに目が利くコレクターのI氏も、「あれは宗乗でしょう」と言っていた。また小道具が観える刀屋さんは「宗乗か光乗でしょう」と述べていた。

このI氏から、次のようなコメントをいただいた。

「昔、といっても、15年くらい前ですが拝見しました。その当時、三匹獅子は、笹野先生の所から有名なコレクターのSさんの所に行ったものが最高でしたが、これを某愛好家から拝見して、それにかなり近いものだという印象を持ちました。私は、これは宗乗だと思います。裏行きが古いし、なんと言っても顔つきが違うでしょう。桃山のものとは。光乗も名工ですが、室町という時代には勝てません。宗乗の方がずっと格が上です。」(02.5.15追記)

銘があるわけではないので、どれが正しいということもない。

私は光乗だと思う。何とも言えない「強さ」と「明るさ」がある。これは光乗というより、安土桃山の匂いである。

古く見えて「ごついもの」を、よく乗真と極める。この手の中に感心しないものも多い。「ごつく彫る」のが力強いのではない。強さは彫り口ではない。彫ったものが発する強さである。

4.先人の光乗評

私は、小道具の評は、まだまだ稲葉通龍を越えられないのではないかと思っている。小道具の評は「出来が良い」という抽象的な言葉で終わっているものが多い。自分の言葉で、「出来が良い」ということを、この言葉を使わずに読者に示しているのは、宮崎富次郎氏の『安親』である。

その稲葉通龍も光乗については、歯切れが悪い。((注)古書の評は『刀装小道具講座 2』、『日本装剣金工史』を参考にしたが、原典にあたっていないので確信は持てない。研究論文を書く人は、原典に当たって欲しい。各書で引用の内容が違っている)
「元祖の心持にて上品に位ある彫なり。強からず弱からず、其の様をいわば、松陰にやすらひて桜の花に向うが如く、やんごとなき上臈の柴の戸ぼそにたたずめるがごとし」

いつもは的確な評をする稲葉通龍らしくない評と思うのは私だけであろうか。光乗の作品を多く見なかったのではなかろうか。

野田敬明は『金工鑑定秘訣』の中で次のように述べている。
「光乗はすぐれたる上工。彫刻のさま祐乗の掟を守り、元祖と見まがふ物多し。小兵中背にして人品いたって良き人とみゆる。彫方すべて祐乗の風ありて、元祖よりとりしまりたる丁寧綿密な彫かたなり。」

これも、あまり面白くない評である。

加納夏雄の評として次の言葉が残っている。
「光乗の彫法は技術もっとも優絶にして、その鏨行祐乗に似て肉強く、綿密周到なる仕方なり。細かく締まりて品格あり。後藤累代中屈指の技量家にして、祐乗・即乗とならび称されて三作と仰がれたり。」

かく言う私も、この光乗(無銘極めもの)だけしか知らないから、何も言えない。
ただ、この目貫はよく観ている。そして自分なりの言葉で表現している。でも、観ているようで観てないのがこれまでだが。

後藤家は光乗に限らず、「獅子の額の八文字」とかで代別を鑑定するコツが、見所として各書に書かれている。私は、こんなのはどうでもよくなっている。良いものは良いのである。鑑定より鑑賞を楽しもうではないか。

5.裏の仕立て

目貫の裏はもちろん陰陽根である。

「見所なんて、どうでもよい」と書いたが、次の機会には皆様のお役に立つようなことを書きましょうか。(2002年5月5日記)

6.比較

刀装具の高名なコレクターのH氏より、ご所蔵の無銘光乗「三匹獅子」の小柄の写真を送っていただいた。

H氏は、金紋が光乗であると思っているが、光乗以前の作である可能性も否定できず、研究中とのこと。ただし魚子地と裏の仕立ては江戸前期の作と観せられている。

この小柄の獅子の顔と姿態を、私の目貫の顔と姿態と比較してみる。よく似ていると思うが、皆様はどう思われるであろうか。

小柄の顔 目貫の顔

H氏の方が前期作のように感じる。あるいはH氏の作の方が古いのであろうか。

いずれにしても、こうして比較すると面白いでしょう。獅子の刀装具を所蔵されている方は、これら写真とご自分のを比較してみてください。これらより良いかな。それとも劣るか。劣るのならば何が違うのか。比較ですよ。モノを観ての勉強の方法は。(02.5.15追記)


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