信家 「題目、生者必滅」 鐔

所蔵品の鑑賞のページ

これは、先年、刀装具の鑑賞でも紹介している。私の課題は、信家が無銘であった時に、その真価を見極めることができるかということである。

1.購入の経緯

母が亡くなる前に購入した経緯は、以前に記した通りである。

2.「題目、生者必滅」鐔の解説

亡くなった青山氏や、今、審査員をやられているI氏などと刀装具を集めはじめた頃、信家あたりならば、小鐔の1枚くらい将来は拾えるかもしれないねなんて話をしていたものだ。

でも売り物で見たので良いと思ったのは、この鐔ともう1枚だけ。本当に良い尾張鐔も見ないけれど、良い信家の売り物も少ない。

この鐔は、小鐔であるので、それほどの厚手ではないが、他の一般的な信家の作風と共通するように、耳の方が厚く、それが切羽台へかけて中低に落ちている。

信家木瓜といわれるほど、信家の木瓜形の造形は高名であるが、この鐔も写真でご覧の通りの木瓜形である。この木瓜形はやや細長くなっており、十字木瓜形と撫木瓜形の間のような独特の造形である。非常に魅力のある形である。
そして、左側のふくらみと右側のふくらみを比較すると、左側の方が櫃穴があるためか、肩が張っている。
上のふくらみと下のふくらみも、上の方が少しなだらかである。

その木瓜形の食い込み部分に小穴が開けられている。ある刀屋さんは亥の目の替わりではないかと述べられていた。小鐔であるので、大きな彫りはやめて小穴で代用したとの説である。私は、よくわからない。ご覧になってヒントのある方は、ご連絡いただきたい。

この信家の鉄味は、赤黒色系の紫錆である。信家の最高峰の鐔にある紫黒色系に比べれば落ちると思うが、いい艶が出ている。もちろん、その艶はテラテラのものではない。奥深いところから出てくる艶である。

この鐔は「1.購入の経緯」で述べたように、中村覚太夫の信家鐔集122図に掲載のもので、江戸時代から知られた鐔であり、これまでの所有者に丹念にぬぐいこまれてきたのであろう。私が手入れする余地はなかった。

地紋には有名な菊花とか輪違いは観られない。鉄をわかして収縮した時の模様のような放射状のものは観られるが、幕末の信家写しに観られるような下品なものではない。耳ではなく地に鉄骨のようなもの、わかして崩れたようなところが観られる。

ひげ題目の文字は闊達である。彫りも深浅にメリハリがついている。実にいい。

一方、生者必滅の文字は拙い。字の大きさも不揃いで、表の「ひげ題目」のように字そのものをデザインするようなところもなく、ごく当たり前の字形を大きさ不揃いで切っている。中には「者」のように、字そのものもゆがんだものもある。切り慣れていないのであろう。

3.信家に関する先人の評

信家は鉄鐔の王者とも言われている。この良さを伝えるにあたって、私に限らず誰でもが「観たらわかるよ」との一言で片づけたいと思っているのではないか。また、それでは身も蓋もないということは理解している。

先人も苦労している。まず先人はどう鑑賞しているかを抜き出してみる。

文芸評論の巨峰である小林秀雄は信家を蒐集している。文芸、芸術の批評を行った谷川徹三も古鐔に加えて信家の魅力を高く評価している。何が良いのだろうか?

(1)『信家小論−尚友会の刀装具優品図譜第2集より』(笹野大行 著)

信家の造形は「花も紅葉もなかりけり」(注1)でいろけも、そっけもないといえばない。。鉄地のやや角ばった丸形や木瓜形に、せいぜい遠慮気味な毛彫、耳の打ち返し、平肉の変化が景色であり、なかには無文の板鐔さえあり、まさに侘びたものである。

なお利休は「正直に慎み深く奢らぬ様を侘びという」といっている。そして、この侘びには「湯をわかして心をたぎれたぎれ」という、充実というか、激しさが秘められているわけである。

信家の良さを理解するには、この侘びに敏感でなければと思う。

信家は精良で深みのある地鉄を、やや厚手に造り込み、平肉と形に微妙な働きをみせ、たぎらせた創作意欲を慎み深い手法で作り上げている。この地味ではあるが充実した造形に、信家の人間的な個性と時代性が渾然として一つの世界を作っているわけで、力強い存在感をもって迫ってくる。

信家は 「花も紅葉もなかりけり」で絵としてみることはできないわけで、塊としてみる外ない。塊となると、ベースである地鉄、そして、平肉と形による造り込みの良し悪しがすべてであり、それらに息吹く信家の生命的なものを感じとらねばならない。

(2)『鐔小道具鑑定入門』(若山泡沫 飯田一雄著)より

金家の雅味に対して、信家の豪壮さ。

作品はその造形・地鉄の鍛え・地紋などが優れた技術をよく表現しており、戦国武将の心情と哀感を記したものが多く、吾人の共感を呼びおこすものがあります。

(3)『透かし鐔』(小窪、柴田、笹野、益本共著)

○舵に櫂図透かし鐔の説明 

身上は耳から切羽台へかけて中低に落ちている平肉の味わいと鐔の輪郭をつくっている耳の線の微妙な変化で、このため迫力が出ている。

賀茂の社頭透かし鐔の説明

図柄の構成に無理がなく、紫錆の美しい地鉄、平肉の働きもすばらしい。

(4)『刀装具の鑑賞』(尚友会編)

武張ったもので、豪放であるが雅趣があり、凛然たる品格をそなえ、勇将にふさわしい堂々たる風格が本領である。

(5)『鐔の鑑定と鑑賞』(常石英明著)

信家鐔のよさは、その技術面のよさの外に、彼の個性や信仰、あるいは当時の思想が強く表現されていて、峻烈極まりない気概と奥深い禅的な思想が内蔵されており、見る人の心をドキンと打つ驚きさえ覚える。

造形美、地紋などの技術面の外に、必ず心の奥底にひしひしとしみ込んでくる、格調の高い作柄を選ぶべきです。

(6)『日本刀講座 第6巻』 加島氏の解説

信家鐔は、拵にかけても少しのくずれもなく、よく調和性があるが、このへんにも信家鐔 の大きな魅力がひそんでいると思われる。

(7)『鐔鑑賞事典』 若山氏の解説

戦国の迫力と理想を追い、これに桃山期の装飾的表現法が巧みにからんで、信家鐔の特徴を完成している。

枯淡と優美さが渾然として融和し、武用の厳しさのなかにも品格と雅味がある。

★以上から、先人の評価、鑑賞のポイントをまとめると次の通りである。

技術面

思想面

4.伊藤なりの「信家の良さ」について

持っている鐔を全て処分して、たった1枚だけ信家(他の名鐔でも良いのですが)を持っているなんて心境に憧れる。歳を取って、子供が刀・刀装具に興味がなくなればそうしましょう。

この信家、当初購入した時は、母のこともあり、題目と生者必滅の文字に惹かれました。

でも、やはり信家なんですね、だんだん良くなってきました。今では、世の中にある鉄の小鐔の中では一番いいのではないかと思いはじめています。

まず形から行きましょう。この木瓜形は魅力的です。縦長の大らかな木瓜形で、前述したように左右の木瓜のふくらみと、上下の木瓜のふくらみの微妙の違いを見ていると、信家が造りながら、自分の感性で、微妙に調整していった美意識、センスを感じます。

木瓜形の鐔は多いようですが、意外に少ないです。今では鐔の形として当たり前の木瓜形ですが、信家の独創の一つなのではないでしょうか。そして、これが信家の魅力の一つである。そう、独創が芸術です。

そして、この鐔は大らかでありながら、締まりを感じて、何とも言えない緊張感を漂わせている。
これは何かと考えていましたが、軽く、耳を打ち返していることからも生じていると感じます。打ち返すことで、拡散するのを抑えている。

そしてその耳が出っ張っているだけに拭い込まれて、いい艶がでています。光のアクセントになっているわけです。

この高くなった耳から、平地に移るわけですが、耳から中底に落ちている平肉の調子がいいんですよ。全体に受けている感じで、相手の刃を受ける鐔の機能を自然に感じさせます。
すなわち非常に信頼感を持つ人に与えるわけです。これが多くの武将の心を捉える所以でしょう。

先人が「塊で観る」とか、「造形の良さ」「平肉の味わい」を挙げておられるが、本当に、信家は2次元の平面ではなく3次元の良さ、絵画というより彫刻、それも抽象彫刻としての深みかなと思います。

高彫りも立体的で3次元ではないかという意見もあるが、金属板の上の図だけが3次元という他の金工と、形を含めて全体が3次元というのは違う。もちろん、彫刻と言ってしまうには鐔として姿が明確すぎるきらいがあるが。

それに、この鐔の場合は、文字の彫りが更に魅力を高めている。
勢いのある「南無妙法蓮華経」のひげ題目、彫りに深浅があって、いい調子です。リズム感があります。
この文字を見ていると、信家が普段唱えていた「南無妙法蓮華経」の音の調子までわかるでしょう。「南無」と強く出て「妙法」と軽く流す。「蓮」と少し強くきて「華経〜」と伸びていく。

小鐔だけに、全面に「南無妙法蓮華経」のひげ題目がからみついている。先人は「遠慮気味な毛彫り」と評しているが、この鐔は遠慮はしていない。思い切り、彫っている。思い切り彫ることが、この鐔を所持する人の為になると信家は信じている。

一方、裏にある哀感を込めた「生者必滅」は、信家は使い慣れない言葉なのであろう。拙いところが、いい。変に悟りきらない方が信家らしい。
この文字ごとの切り口の調子を見ていくと、この鐔は、信家の老境の作品ではなく、壮年期の作品という気がしてくる。

銘字の違いで、年齢を見るのも鑑定家なら必要でしょうが、私のように、鑑賞の立場で時代を推定しても許されるでしょう。

次ぎに、この鐔を身につけて、戦場に行く武人のことを考えてみましょう。
この鐔を身につけた武人は、題目が導いてくれる安心の死後を信じて、どの人間に早い、遅いの違いだけで必ず訪れる死を乗りこえて戦おうという気になるのではなかろうか。

かと言って、好戦的な気分になるものではない。武の字の本来の字義は、矛を止めるから来ていると聞いたことがあるが、この鐔は、そんな気にもさせる。

観る人によっては、どんな形であれ、戦いがつきものの人生に対する諦観を思い出させるのではなかろうか。

本当にいい鐔である。

この鐔を購入した時=母の死に直面した時は、この文字の字面だけに共感しましたが、年月を経るごとに、字面の奥にある人生観のようなものにも、共感してくる。ますます愛着を増してくる鐔である。日本一の小鐔である。これが信家の魅力なのでしょう。

5.小林秀雄の信家評

小林秀雄が信家を好んだことは前にもふれたが、具体的に言及している資料を『小林秀雄 美と出会う旅』(白洲信哉著)という著作の中で見つけた。次に引用する。

「人間はどう在ろうとも、どんな処にでも、どんな形ででも、平常心を、秩序を、文化を捜さなければ生きて行けぬ。そういう止むに止まれぬ人心の動きが、兇器の一部分品を、少しずつ、少しずつ、鐔に仕立てて行くのである。やがて、専門の鐔工が現れ、そのうちに名工と言われるものが現れ、という風に鐔の姿を追って行くと、私の耳は、乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音を聞くようである。」(鐔)

鐔についても、興味を持った以上、一通り研究せねば気が済まないのが小林だ。その結果、「まだこの世界は、調べが殆どついていない、つまり穴だらけ」であることを知るのだが、「ただ鐔の姿を見て好き好きを言う世界には穴なぞ何処にもない」と、「幾百年の間、黙って見て見て見抜かれた世界」に、やきものにも通じる日本人の美意識を見いだした。

「鐔好きの間で、古いところでは信家、金家と相場が決まっているという事は、何となく面白くない事で、私も、初めは、鐔は信家、金家が気に食わなかったが、だんだん見て行くうちに、どうも致し方がないと思うようになった。花は桜に限らないという批評の力は、花は桜という平凡な文句に容易に敵し難いようなものであろうか。」(鐔)

結局、小林は信家の鐔に行き着いた。「茶碗は井戸」というのと同じ意味で「鐔は信家」であり「井戸もそうだが、信家もこれほど何でもないないものが何故、こんなに人を惹きつけるか、と質問して止まないよう」だとまで言っている。

「平和が来て、刀が腰の飾りになると、鐔は、金工家が腕を競う場所になった。そうなった鐔は、もう私の興味を惹かない。鐔の面白さは、鐔という生地の顔が化粧し始め、やがて、見事に生地を生かして見せるごく僅かの期間にある。その間の経過は、いかにも自然だが、化粧から鐔へ行く道はない。」(鐔)

どうだろう、小林秀雄も「幾百年の間、黙って見て見て見抜かれた」結果として「花は桜」「茶碗は井戸」という通り相場に、「だんだん見て行くうちに、どうも致し方がないと思うようになった」と告白している。
そして、信家の良さについて「鐔という生地の顔が化粧し始め、やがて、見事に生地を生かして見せる」と書いているように、生地をを生かして見せる良さであると結論づけている。

6.「刀和」の「刀装具の鑑賞」(05年1月号)に掲載した鑑賞記

「刀和」の「刀装具の鑑賞」(05.1)に、この信家について、また新たな視点で鑑賞した内容を記している。参考にしてください。

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