林重光「三つ浦図」透かし鐔
1.伊藤満氏の見解=二代重光説
この鐔について私は肥後の林三代藤八と鑑したが、『林・神吉』など肥後鐔の三部作を執筆した伊藤満氏に観てもらうと、即座に「これは林二代の重光のもの」と鑑定された。その根拠は次の4つである。
もちろん、伊藤満氏は、上記のような細かいことよりも、観た時に感じたこの鐔の作風から重光と鑑したと思う。
私は、「刀和」の「刀装具の鑑賞」の平成17年(2005)5月号に私なりの鑑賞記を記したが、その中で「ゆるんだようなところも見られるから三代であろう」としたが、このような印象こそが、二代の特徴のようだ。伊藤満氏は私が感じた印象を「即興的な作風」「おおらかでゆったり」と記している。表現こそ違うが、同じように感じるところがあるのだ。芸術の鑑賞においては、このような作品からくる印象、感想が大事なのだ。銘の細かい点などにこだわる人がいるが、私は本末転倒と思う。
なお伊藤満氏は『林・神吉』の中で二代と三代の作風の特徴を次のように記されている。
二代重光 | 三代藤八 |
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伊藤満氏の研究の深さ、肥後ものに関しての鑑識を考えれば、氏の言うとおり、この鐔は二代重光としたい。
2.同図の鐔の比較
この図柄は、肥後林派が代々製作してきた図柄である。林派(春日派)だけでなく他の肥後金工流派にもある(このページの下に西垣勘平の三つ浦透かしをアップしている)が、手元の刀装具関係の書籍から、同じ図柄の作品を抜き出すと次の通りである。
(1)国立博物館の大小鐔
下図は『東京国立博物館図版目録 鐔篇』(東京国立博物館発行)に掲載されているものである。その解説では2代重光と極められている。掲載された図版が縮小されているが、大は縦長8.0㎝、横長7.75㎝、小は縦長7.4㎝、横長7.05㎝とある。
(2)『透鐔』所載の鐔
次ぎに『透鐔』(笹野大行著)に所載されているものである。笹野氏は2代重光と極められている。縦長7.8㎝、横長7.25㎝とある。(『林・神吉』にも所載(図版66)されている。「透かしも正しいが、良く見ると網が中央に行くに従ってやや力がかかったように歪んでいる。そのせいか、このように硬く作っても、ゆとりというか柔らかさが感じられる。ー中略ー重光としては謹直な作りで、特別な注文であろう。」)
(3)尚友会図録掲載
下は「刀装具優品図鑑」(尚友会図録第13集)に掲載のものであり、3代藤八とされている。長さは、縦長7.87㎝、横長7.55㎝である。(『林・神吉』にも所載(図版117)されている。「非常に精巧な透かしで、その仕事ぶりは驚異的である。ゆったりした形、黒く艶のある鉄地、穏やかな肉置きと小判形の切羽台は、これが三代藤八の作品であることを物語っている。まったく隙がない造形ではあるが、穏やかで親しみもあり、傑出した出来映えである。」)
3.林の初代、2代、3代の区分
林の初代、2代、3代の区分について、『林・神吉』が出版されるまでは次のように言われていた。(『透鐔』や『透し鐔』、『肥後金工大鑑』、『肥後金工録』など)
初代又七 | 2代重光 | 3代藤八 | |
鉄色 | 鉄色黒き中に紫光を 帯びて深し |
これにつぐも稍上は 色の気味を免れす (意味不明) |
やや赤味を呈す如し |
切羽台 | よく整って小判型と、 やや頭のつぶれて 丈が詰まり、強く張 りこころのものがあ る |
小判型か、やや長手
縦長で、のびのびし
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初代に似て四隅がや や張り、ズングリして 鈍重の感がある。 張りごごろの切羽台 |
櫃穴 | 肩下がりの小柄櫃の 形に手くせ |
以上のように解説されているが、笹野氏は実見すると、この掟に当てはまらないものも多く、総合的に判断すべしとされている。確かに一つの参考として総合的に判断するのが正しいと思う。ただし、伝承は伝承として真実も包含されていると考え、参考に挙げておきたい。
4.比較と考察
以上の鐔を横並べして比較してみたい。
2代重光-『透鐔』(笹野大行著)より 縦7.8㎝、横7.25㎝ |
2代重光-『東京国立博物館図版目録 鐔篇』より 大は縦8.0㎝横7.75㎝、小は縦7.4㎝横7.05㎝ |
比較した中で抜群の気品、謹直、端正でもあり、伊藤満氏が「重光としては謹直な作りで、特別な注文であろう。」と述べている。また伊藤氏は「良く見ると網が中央に行くに従ってやや力がかかったように歪んでいる。そのせいか、このように硬く作っても、ゆとりというか柔らかさが感じられる」と観ている。 | 大は縦長の切羽台、鐔全体はやや横長の感がある。 |
2代重光-筆者蔵 縦7.9㎝、横7.4㎝ |
3代藤八-「刀装具優品図鑑」 (尚友会図録第13集)より 縦7.87㎝、横7.55㎝ |
小柄櫃の肩下がり、やや赤みも感じる強い鉄 又七に見られるスーパーフラットな平地も見られる。私は網が少し緩んだところも見られると鑑賞している。 |
4隅が張りズングリの切羽台。 耳が太い感じ。 |
写真だけでは鉄味などはわからないが、写真だけでの比較でも『透鐔』所載の鐔の気品は抜群であることが理解できよう。『林・神吉』において「重光としては謹直な作りで、特別な注文であろう。」と評されている。芸術は比較で優劣(格)が決まる。ある面、容赦のないところがある。
5.画題の「三つ浦」について
この画題は肥後では「三つ浦」とされていると、各種の刀装具の本に書いてある。そして何で「三つ浦」というのがよくわからない。肥後には「三つ浦」と言う地名はないようである。
(1)「根元三つ浦」の添銘がある西垣勘平の鐔
この鐔をホームページ上にアップした時は、「三つ浦」の模様は以下の「(2)三つ網紋」のことについて関連があるのかと取り上げた。
先日、古い「刀剣美術」を見ていたら福士繁雄氏の「刀装・刀装具初学教室(50)」(刀剣美術499号)に次のような西垣勘平の鐔が掲載されているのを見つけた。問題意識がない時には見過ごしてしまうものである。
「刀装・刀装具初学教室(50)」(刀剣美術499号) |
西垣勘平には在銘が多く、赤坂鐔における忠重に比せられる。忠重は赤坂本家の作品に比べても名作が多いが、勘平には感心するほどの作品はあまり見ない。ただ在銘品が多いので、西垣研究には役に立つ。
この鐔によって当時から、この図柄は「三ツ浦」と呼ばれていたことがわかるが、福士氏もその言われはまだ不明と述べられている。
「根元」という地名に「三ツ浦」という地区(浜)があり、そこの干網が風情があるとでもされたのであろうか。皆様も研究していただきたい。
作品は、林(春日)派と違って、編み目を少したるませている。この鐔の上方に吊すところがあり、そこから左右に垂れたような風情がある。「端正」な林派と違って、「崩し」の雅趣の西垣派らしい「三つ浦」に仕上がっている。(06.2.21追記)
(1)三つ網紋
たまたま浅草寺にでかけた。右に浅草神社があり、その神紋が「三つ網」であることを知った。次のような紋所(賽銭箱)である。
この紋のいわれは次の通りである。
推古天皇の御代の西暦628年に、この地の漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が、宮戸川(現在の隅田川)で投網をしていた。しかし、その日は魚が一匹もかからない。その代わりに漁網の中に黄金に光る仏像がかかっていた。
土地の文化人であった土師中知(はじのまつちのなかもと)に見せたところ、これぞ聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であるとわかる。土師氏の没後、舒明天皇の御代の西暦639年に、その子孫が観世音の夢告により、 「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万人に施し今日に及びしが、 その感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守すべし。 名付けて三社権現と称し、祀り奉らば、その子孫土地と共に繁栄せしむべし」という告示があり、そうして三社権現社(さんじゃごんげんしゃ)が創建された。
その後、慶安2(1649)年に3代将軍・家光の寄進で権現造りの現社殿が新築され三社祭が盛んになり、明治の神仏分離で現在の社名に改変される。すなわち浅草神社の祭神は三社権現(土師中知命・檜前浜成命・檜前武成命)と恵比須神と東照大権現(=徳川家康、浅草東照宮焼失のため合祀)で、神紋は上記の謂れを表す「三つ網」と言うことである。
肥後の「三つ浦」の図案と、「三つ綱」紋の図柄は、上記のように異なるが、関連があるのかなとも考えている。
こんなことをウエブ上にアップすると、多くの人から批判が出て、「三つ浦」の云われがわかることを期待している。