はじめに
直径が8p前後が普通の大きさの鐔、7.5p未満を小ぶりな鐔とすると、小ぶりな鐔は常識的な考えでは小刀(=脇差)用と想定できる。刀身の長さと、鐔の大きさのバランスから判断するからである。室町時代後期に小ぶりな鐔があれば、片手打ちスタイルの二尺前後と短寸の打刀用とも考えられる。しかし、桃山時代には金山鐔のように小ぶりな鐔を見かけ、それに対応する同図の大ぶりな鐔がないものがある。他の鐔製作集団の作品においては、小ぶりな鐔は主たる製品ではないのだが、金山鐔は小ぶりな鐔を特色としていて、堂々たるものだ。
桃山時代は豪壮な気分が溢れる時代であり、不思議と思っていたが、今回、桃山時代の絵画を観ている中で、大刀なのに小ぶりな鐔を付けている武士姿を見つけた。そして、こういうことかなと考えたことを以下の本論で展開している。確信を持てる仮説ではないが、一つの叩き台として今後も考えていきたい。
1.「花下遊楽図屏風」における出雲阿国の刀装ファッション
国立博物館所蔵の国宝「花下遊楽(かかゆうらく)図屏風」は狩野長信(狩野永徳の弟で34歳離れている)の作品で、六曲二双の屏風である。
ちなみに、今年(2015年)の3月に国立博物館で実物を拝観して、絵画・彫刻室長の田沢裕賀氏の講演で、この絵の右隻の2曲は修理中に関東大震災に遭って焼けてしまい、最近、写真から当時の色を再現したことを知る。そこに描かれている高貴な婦人は淀君ではなく、徳川秀忠夫人の江と思われると話される。狩野長信は徳川家に抱えられており、なるほどと思う。
下の写真は、左隻の三曲分だけである。
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花下遊楽図屏風 左隻の部分 『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』より |
『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』(成澤勝嗣 著)の解説は「桃山時代の女性スター・出雲阿国(いずものおくに)の艶姿(あですがた)を彷彿(ほうふつ)とさせる華やかな登場人物たち。洗い髪を鉢巻きで括り、太刀を持って男装して踊る。阿国が京都でかぶき踊りを始めたのは1603年(慶長8)のことであり、本図は、その異風な芸能が長信に強い印象を与えたことを示す」とある。
この刀を差した男装の女性を拡大して見ると、大刀の鐔が長さに比して、いずれも小型であることが理解できる。そして、鞘は鮫鞘とか朱鞘などで華やかである。
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『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』(成澤勝嗣 著)の解説は「流行のかぶき踊りを活写」として「「かぶき」は「傾奇」とも書き、常識を逸脱した行動原理の謂(いい)である。かぶき者たちが競い合った奇想のファッションは、桃山から江戸へ時代が移行する短い期間に流行を見せた」とある。
刀の部分を拡大すると、次の通りである。
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すなわち、出雲阿国の「かぶき者ファッション」を真似した武士(=かぶき者)によって、慶長10年前後に金山鐔のような小ぶりな鐔に需要が生まれたのではなかろうか。
2.かぶき者の歴史と、その刀装
かぶき者は、江戸初期に生まれるが、治安を乱す輩として、幕府によって取り締まられてきた。それらの禁令の中から、かぶき者の風俗を具体的に記して規制したものを抜き出すと次 の通りである。
江戸時代初期の寛永頃の刀に、二尺四寸を越える長大なものが多いのは、かぶき者などが跳梁し、喧嘩や辻斬りなどが多かった為と考えられる。
長い刀で、大鐔、大角鐔、朱鞘のかぶき者の出で立ちは、次のように絵に描かれている(「豊国祭図屏風」の部分)
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「豊国祭図屏風」の部分 『日本の美術 No155新刀』(小笠原信夫著)より |
この絵中におけるかぶき者が、まさに禁令に違反しているかぶき者である。三尺を超える長大な刀に、大角鐔をつけ、鞘は朱鞘で、そこに「いきすぎたりや二十三、はちまんひけはとるまい」とかぶき者らしい言葉が記されている。
幕府のかぶき者禁令の内容や、上記のかぶき者の絵姿を見ると、金山鐔のような小ぶりな鐔をかぶき者が付けていたと言う仮説はおかしいことになる。
この疑問に答える為に、江戸時代のかぶき者の歴史を見てみたい。かぶき者は、江戸時代には大別すると3つの時期に生まれているのである。
(1)第一期のかぶき者<慶長十年(1605)頃>
この時期が出雲阿国の踊りが流行した頃である。かぶき者が出現した背景は、次のようにいわれている。
(2)第二期のかぶき者<寛永五、六年(1628〜1629)頃>
この時期は、元和九年(1623)、寛永三年(1626)の禁令が出た頃である。この時期のかぶき者出現の背景は、次の通りである。
(3)第三期のかぶき者=旗本奴・町奴<慶安五年=承応元年(1652)頃>
この時期の背景は、次の通り。寛永二十一年(1644=正保元年)、正保二年(1645)の禁令が出ている。
(4)各期のかぶき者と、刀装
すなわち、刀装においては、出雲阿国のかぶき者ファッション(鐔は小ぶり)が流行したのが、第一期のかぶき者ではなかろうか。
そして、第二期のかぶき者の時代に、禁令にあるような朱漆、黄漆、白檀の鞘や、大鐔、大角鐔、そして派手な下緒の刀装が流行し、大刀は二尺八、九寸以上、大脇差(二尺以上を脇差とすることもある)の差料で闊歩したのだろう。
第三期は旗本奴の白柄組ではないが、柄糸を白くするようなファッションがグループ(組)ごとに流行したのだと思う。ちなみに当時は赤柄組もあったようで、狩野探幽の弟子の久隅守景は画家ながら、赤柄組に入っていたとの伝承もある。
3.この仮説の展開と検討課題
小ぶりな鐔が好まれる刀装ファッションが流行したのは、慶長十年(1605)頃の阿国歌舞伎がきっかけではないかと論じてきた。「はじめに」でも記したが、桃山期と思われる金山鐔に、小ぶりでありながら堂々とした存在感を与える作品が現存するのが不思議だから、考えついた仮説である。仮説を補強する為には、次のような検討課題を解決する必要がある。
<検討課題1:在銘、年紀作も存在しない鐔を、室町期のもの、桃山期のものと分類できるのか>
秋山久作氏、笹野大行氏などの先人が鐔の時代を判定しているが、それは鐔の切羽台の大きさ、形状や、櫃孔の形状、加えて鉄味で判断されている。私も、これらの見方を踏襲しているが、在銘作品、年紀作や当時の鐔に関する史料が無い状況下では確実な分類とは言い切れない。さらに加えて、慶長十年頃と言い切るには無理があることは認めざるを得ない。
しかし、遺された鐔を比較していくと、私程度の鑑識力でも「こちらの方が古い」、「これと、それとではこちらが古い」と比較はできる。今は、こうして判断しているのが実状である。
<検討課題2:桃山期の小ぶりな鐔は金山鐔だけか>
桃山期の金山鐔に小ぶりなものを見かけるが、京透かし鐔にも、尾張透かし鐔にも、埋忠派鐔にも、信家鐔にも、これは小ぶりというものがある。しかし、金山鐔は「小ぶりで、角耳、厚手、意味不明の図を透かし、耳に鉄骨が出たもの」とされているように”小ぶり”なことが特徴になっている。すなわち、桃山期の鐔の中では、小ぶりな鐔の存在感が圧倒的なのが金山鐔と言うことである。小ぶりな鐔に自派の存在意義を認めているような鐔だから、出雲阿国のかぶき踊りのファッションと関係させて、私は論を展開している。
もちろん、他流派の小ぶりな鐔を付けて、阿国ファッション風と称する武士がいたとしても不思議ではない。
<検討課題3:桃山期の金山鐔に焦点を当てているが、室町期の金山鐔との関係はどう考えるのか>
検討課題1のクリアが前提になるが、室町期の作品と思われる金山鐔も存在する。同じ工房なのであろうか。また室町時代にも小ぶりな金山鐔はどう考えればいいのだろう。このことについては次のように考えている。
<検討課題4:大刀拵に小ぶりな鐔を付けるのは桃山時代の特殊なファッションか>
長い刀に小ぶりな鐔を付けるのは、桃山時代だけではない。室町時代のものと考えられる法隆寺西円堂に奉納された打刀拵(刀身は比較的長い)の中にも小ぶりな鐔(八角形の練皮鐔)はある。上杉家の有名な山鳥毛一文字の拵は、反りが高い堂々たる太刀だが、鐔そのものが無い合口打刀拵である。江戸時代でも元禄を過ぎる頃には軟弱な風潮で、鐔も小ぶりな感じになっていると思う。一方、江戸時代の剣客:柳生連也が創りだし、その門下が愛用した柳生鐔は比較的小ぶりである。
何度も言うが、桃山時代と思われる金山鐔の「小ぶり、厚手なものの堂々とした迫力」から、これが付けられた刀装はどのようなものだったのかを探る為の小論である。
<検討課題5:出雲阿国は男装していても女性である。踊りの中で負担にならないように小ぶりな鐔を付けただけではないか>
阿国一座は、男装の麗人として人気を博した面もある。男性に比べれば非力な女性が「かぶき踊り」の中の舞台衣装の一つで使用したのが、小ぶりな鐔を付けた刀であって、実際の生き死を佩刀に託している武士が実際には付ける鐔ではなく、このような特殊な鐔が流行したとは思われないとの意見もあると思う。
このような意見は小ぶりな鐔が武用に適さないとの考えが前提だと思うが、武用と鐔の大きさは前記した上杉家の山鳥毛一文字の拵や、柳生連也の拵から関係は無いと思う。また、ファッションは形を真似るものであり、当時の人が「格好いい」と思えば、鐔を厚手にして、重量感はそのままにして小ぶりな鐔を付けることもあったのではなかろうか。
<検討課題6:桃山期の小ぶりな鐔の図柄が、出雲阿国が創造したファッションに適合しているのか>
「花下遊楽図屏風」から、出雲阿国一座の付けている鐔が小ぶりであることはわかるが、鐔の模様・デザイン・材質はわからない。ファッションであればデザインも大事であり、それが現存している桃山期の小ぶりな鐔のデザインと一致するのであろうかとの疑問もあると思う。これは私もわからない。流行というものは不思議なもので、今の渋谷の若者ファッションですら、理解ができない私は論じることはできない。
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所蔵品「松皮菱透かし」 72.8×71.1ミリ、耳厚7.3、 切羽台6.4ミリ |
<検討課題7:桃山期の一時期に流行したにしては、小ぶりな金山鐔の現存数が多過ぎるのではないか>
前述したように、第一期のかぶき者には、小ぶりな鐔が流行したかもしれないが、第二期以降は逆に大鐔、大角鐔と流行は変わっている。加えて、幕府はかぶき者の風俗を何度も取り締まっている。幕府が禁令にしていれば、当然に各藩も、その風俗を取り締まる。武士の家庭でもかぶき者の息子は不良であろう。親として息子の風俗を改めることも当然にあったと考えられる。こう考えると、現存する小ぶりな金山鐔の数が多すぎるのではないかとも感じる(もっとも、良いものは少ないが)。これについては次のように考えている。
<展開課題:出雲阿国が流行らせたファッションであれば、流行地が限られるのではないか。すなわち金山鐔の産地がわかるのでは>
出雲阿国が流行らせたファッションであれば、その流行発信地でファッション・アイテムの鐔が造られた可能性が高い。
(注)伏見城は関ヶ原の戦い時(慶長5年=1600)に籠城・奮戦した鳥居元忠らとともに焼失し、翌年から再建がはじまり、慶長7年(1602)には再建され、城下には大名屋敷も戻り、慶長8年(1603)には徳川家康が征夷大将軍の宣下を受ける。慶長10年(1605)に家康は朝鮮使節と会見して和議が成立する。阿国歌舞伎の時であり、華やかな城下だったのだと考えられる。ただし元和5年(1619)には廃城が決まる。元和9年(1623)に家光の征夷大将軍宣下が行われたのを最後として完全に廃城となり、繁栄期間は短い(秀吉時代の伏見城は天正19年(1591)から普請工事が始まっている)。
4.桃山時代の刀装にかかる鐔
桃山時代の拵における鞘は、華麗なものがある。豊臣秀吉の金蛭巻朱塗大小拵は、朱と金である。前田利家の雲龍文蒔絵朱塗大小拵も同様である。黒田孝高の金霰熨斗青漆打刀拵は金銀、青(緑)、朱、黒、茶、銹色と派手である。
一方で、前代から続く黒漆塗鞘も大きなウェイトを持っていた。徳川家康の拵がそうである。量的には黒漆塗鞘が一番多いのではなかろうか。
『打刀拵』(小笠原信夫著)に、当時の拵における鐔の様子を総括した箇所がある。要約すると次の通りである。
藩祖の拵や、寺社に伝わった拵であり、当時としては高級な拵で、鞘塗は派手、目貫などの金具は素晴らしいものがある。しかし鐔は”簡素なもの”、”鑑賞の対象として珍重するに至らない”と評されているのが実態なのである。
同書に他にも掲載されている藩祖の拵も、天下人の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の協力者だから、当然に尾張、三河、美濃、近江などの出身者の拵が多い。それなのに尾張透かし鐔、金山鐔が使用されているうぶの天正拵、桃山拵(慶長拵)は、ほとんどないのである。
このような桃山時代の刀装ファッションの中に、出雲阿国の小ぶりな鐔の刀装ファッションが入る余地はあるのであろうか。
おわりに
絵画の中の姿から論を進める方法には、文字通り「絵空事」(えそらごと)に留意する必要がある。しかし、今は「洛中洛外図屏風」から京都の聚楽第の姿などを復元するようなことも行われており、絵画も一つの史料とされている。特に他に手がかりのない状況ではやむをえないし、一つの方法だと思う。(文書史料に偏重するのも問題でもある。権力者によって歴史は改竄されるし、都合の悪い史料は棄却されることも多い)
国立博物館所蔵の「花下遊楽図屏風」を、間近で拝見した時には気が付かなかったが、『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』(成澤勝嗣 著)で、阿国などの男装の踊り子の拡大写真を見て、所持する大刀の鐔が小ぶりなことから、この論を考えたわけである。鐔の図柄までわかると、良いのだが、そこまでは判然とはしない。今度、国立博物館で展示があれば、確認してみたい。
もちろん、他の絵画史料にもあたる必要があるが、それは今後の課題としておきたい。
今回は、第3章に、今後の検討課題をまとめたが、一筋縄で解決できるものではない。この他にも異論・反論はあると思う。そういうことが出る方が刀装具の研究も進むだろう。
第3章で展開課題として挙げたが、時代背景が出雲阿国のかぶき踊りとわかれば、出雲阿国はどこで踊って人気を得たのかを調べ、それなら、その近くの場所でファッションに合致した鐔も造られたのではないかとなって、金山鐔の産地解明の手がかりにもなる可能性もあるのだ。
私がもう一つ考えているのは、ある剣術の流派が、このような小ぶりで厚めの鐔を推奨したのではないかと言うことである。柳生連也が作った柳生鐔は、時代が少し下がるが、小ぶりなものも多い。
小ぶりな鐔に関しては、私の場合、肥後の志水初代の鐔のことが頭からはなれない。
ともかく、刀装具の世界は在銘品が少なく、刀剣よりも研究が進んでいない。尾張透かし鐔、金山鐔が尾張・美濃地方、古美濃の鐔はもちろん美濃。山吉兵は明らかに尾張。法安も元は尾張。天下を獲った武将を輩出したからと言って、こんなに尾張・美濃地方に偏ることがおかしい。
拵はファッションだから、時代の流行に合わせて改変されるが、4章で記したように江戸時代の各藩の藩祖(尾張、三河、美濃、近江出身者が多い)の差料として大事にされた”うぶ”の天正拵、桃山拵(慶長拵)にも、尾張透かし鐔、金山鐔が使用されているのは、ほとんどないのである。
(注)”ほとんどない”と記したのは、『打刀拵』に所載以外のものもある可能性もあるし、車透かし鐔や明智拵の鐔を尾張透かし鐔と判定する人もいるからである。
ちなみに、私は尾張鐔の製産地については「三好一門との関係?ー「桐・三階菱透かし」鐔」で問題提起をして、刀剣鑑定にも造詣が深い三好長閑斎もいる阿波三好氏が畿内を制覇した時代に堺、奈良、京などの畿内で製作されたのではと論じている。
刀剣において、美濃の末関の作刀数に備前の末備前の作刀数はひけは取らないだあろう。末関の刀剣産地の近くに尾張透かし鐔、金山鐔などの産地を想定するのであれば、末備前の近くにも、同等の産地があったのではなかろうか(末備前の刀工清光在銘と言う肉彫り透かし鐔はある)。刀は室町時代後期になると、奥州、関東、越後・北陸、近畿、中国、四国、九州など全国で製作されている。鉄鐔など、どこでも出来たわけである。これらが古刀匠鐔、古甲冑師鐔の可能性もあるが、透かし鐔だって出来ない訳はない。
鐔はファッションの一つだから、江戸時代の赤坂鐔のように、江戸土産として、慶長時代にも購入された可能性はある。慶長時代に武士が出府する中心地は大坂、伏見、京や堺などであろう。
今後とも、色々と調べていきたい。