映りの諸相
-研ぎ上がった公鑒兼光から-

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「映り」とは、刀剣愛好家ならばご存じのように「地の中に恰も息を吹きかけた如く見える匂と同質のものである。刀身を光線に透かして地の中を見ると明瞭に見える」と『日本刀の掟と特徴』(本阿弥光遜著)に説明されている通りの地鉄の働きの一種である。

研ぐ前も、この御刀における映りは鮮明であり、私が初見の時に発した言葉の一つが「見事な乱れ映りですね」であったが、研ぎ上がって、さらに色々な映りの諸相が見えるようになる。そのことを書いてみたい。
所蔵して23年目に兼光の「牡丹映り」とはこのことかと思う発見をしたが。それから10年目=所蔵してから33年に兼光の「段々の映り」は、こういうことを言うのではないかという発見をした。
この御刀の映りについては、これまでも「公鑒(こうかん)兼光」、「兼光との30年」、「第二幕、開演-研ぎ上がった公鑒兼光-」)でも触れており、繰り返しになる部分もあるが、ご了承いただきたい。それだけ、この御刀の魅力が奥深い。

1.研ぎ上がっての映り

「オーロラのようだ」と言うのが研ぎ上がって、この御刀の乱れ映りを観た時の印象だ。

藤代興里氏の差し込み研ぎ作品では映りがより鮮明に出る(もちろん刀によるが)。公鑒兼光も感度が良いから、鮮明な映りが出ると思ったので「地景の面白さを損なわずに、映りは現状(研ぐ前)と同程度に見えるように」とお願いしておいた。それでも目を惹く映りは鮮明。

表裏ともにオーロラあるいは大劇場の緞帳がたなびいているように感じる映りである。この年末から年始にかけて、何でオーロラのように感じるのかを、何度も拝見しながら考えた。

その結果、乱れ映りに濃淡がある箇所がいくつかあり、その濃い映りが鎬筋から刃先に向かって筋状に何本も出ているからだと気がついた。その部分が天空のカーテン(オーロラ)や、大劇場の緞帳が重なっているところのように見え、他の乱れ映りが一重のカーテン、緞帳としてたなびいているように感じるのだ。

乱れ映りの濃淡部分は、研ぐ前から観られたのだが、研ぐ前はそれが本来の状態なのか、識者が使う「地鉄がかぶっている」と言うように薄錆がかかった結果なのか、よく分からなかった。それが研いで明瞭になった。

”研いで明瞭になった”と書くと、研げばどの刀でも映りが明瞭になるかと幻想を抱く人が出るかもしれない。元々その御刀に備わっていた美を引き出すのが研師さんであり、刀に映りの要素が無ければ無駄なのだ。

(1)オーロラ映り

オーロラのように見える映り、緞帳が靡いているように見える映りを、「オーロラ映り」として、少し説明してみたい。もっとも刀剣界には使われていなかった言葉で、私が勝手に使っているだけだから、あなたは使ってはいけない。

この御刀には、乱れ映りを基本とした映りが、差表・差裏ともに全面に観られる。

 
 これは研ぐ前の差表のハバキ元の写真。地のやや白いボヤーとしているのが映り。地に息を
吹きかけて白くなったような状態だ。(藤代興里氏写真)

なぜ、オーロラのように見えるのかと言うと、それは上述したように、乱れ映りそのものに濃淡があり、その濃い映りが鎬筋から刃先に向かって筋状に何本も出て、その部分がカーテン、緞帳が重なっているところのように見えるからだ。加えて、乱れ映りと暗部(地)との差が研ぎによって、よりクリアになってきたことにもよる。この乱れ映りにおける濃淡が、天空でオーロラが靡いているような感じに見せている。

オーロラは天空で、下部に靡いている部分の形状・長さが常に変化するが、この御刀の濃い映り部分は先が伸びて、刃中に食い込んでいるところもあるなど、筋状に現れる濃い映りの長さは一定ではなく、変化している。

なお、備前長船兼光に観られるこのような映りについて、古人は気がついていたのではないかとも、最近思うようになる。このことは後述したい。

(2)乱れ映り

この御刀の基本的映りである「乱れ映り」から述べてみたい。

差表(当初は太刀だから、本来は差裏)も、差裏も全体の映りの基調は「乱れ映り」である。「乱れ映り」とは、映りの形状(地との境目の形)が、ある形だと明確に特定できずに、大小も様々に規則性も無い状態で連続する映りである。言葉通りに乱れている映りである。

この御刀では、差表はハバキ元の方と、物打ち上部から切っ先にかけて典型的な「乱れ映り」である。差裏は、ハバキ元を除くと平均的な「乱れ映り」だが、映りの先が尖り加減という面があり、後述する。
差裏のハバキ元の映りは「大きく乱れた映り」である。本当に乱れていて、どんな形とも言い難い。

(3)牡丹映り

ハバキ元から少し上に「牡丹映り」がある。「牡丹映り」とは「地鉄における明確な杢目肌(=丸い肌目)を花芯と擬して、その周りの「乱れ映り」が牡丹の花弁のように見える映り」を言う。この御刀でも明確に牡丹の花に擬することができるのは一箇所だけだから、刀剣書に「兼光の牡丹映り」と記載されていても、実見している人は少ないだろう。私も、この御刀以外の兼光では観たことがない。

刀剣書の中には「牡丹映り」について、見当違いの説明をしているものも見受けるが、観たことがなければやむを得ない。碩学の福永酔剣氏の労作『日本刀大百科事典』においても<牡丹映り>の説明は「牡丹の花に似た格好の映り。大体円い形の映り。備前長船兼光の特徴。段々の映りとも」とある。
なお「段々の映り」の項を引くと、「備前兼光の映り。映りが一寸ほど間を置いて、飛び飛びにあるのをいう」とある。これは「牡丹映り」とは違うものである。映りが飛び飛びに出てるのを見て牡丹と思うだろうか。

研ぐ前の写真で「公鑒(こうかん)兼光」にアップしているものだが、「牡丹映り」がわかる写真を掲載する。映り部分は写真よりも光にかざす方が見やすいが、藤代氏の写真でも地鉄部分に白さが増してボンヤリした部分がわかるだろう。刀剣書で明確に牡丹映りを明示しているのは『日本刀の鑑賞基礎知識』(小笠原信夫著)であり、そこにおける写真による説明も併せて提示する。

   
 ハバキ元少し上の牡丹映り。下部の杢目肌が
牡丹の花芯、周りの乱れ映りが牡丹の花弁
藤代興里氏撮影。
 『日本刀の鑑賞基礎知識』小笠原信夫著より、
倫光の写真と説明は藤代興里氏

(4)互の目風の乱れ映り

ここからは、この御刀の映りを形状別に述べていく。大きくは「乱れ映り」の範疇に入る映りである。

差表の上部に、「大互の目風の映り」もある。それから普通の大きさの「互の目風の乱れ映り」だ。互の目風の映りでも、乱れているから、備前吉井派のような碁石を横から見たような整った互の目映りの連続ではない。互の目映りがあっても単発か2連発程度だ。
大互の目風の映りは差表にある。

(5)尖り心の互の目風映り

差裏の方には、互の目の頭の先が伸びた「乱れ映り」において、その先が尖り心のある映りもある。尖った先は刃中に入ろうとしている

差表の方には特に尖ってはいないが、刃先に伸びている映りがある。このような長く伸びた映りも、刃先にまっすぐに伸びるものと、刃先方向に逆足風に向かうものと、ハバキ元に京逆足風に向かうものがあるのが不思議である。
差裏の方にも、同様な映りが存在するが、刃先に伸びる映りは幅が狭く、長さも短く、小ずんだ感じもする。

(6)丁字映り(頭の先が延びた大互の目風映り)

差表上部に「丁字映り」(先が丸くて大きい)のようにも見える大互の目の頭が延びたような形状の映りがある。先が尖らず丸いまま伸びた映りである。2箇所ほど観られる。

「丁字映り」というと、刀剣博物館所蔵の重要美術品の一文字宗吉の明瞭に連続する見事な「丁字映り」を思い出すが、こちらのは単発であり、乱れ映りの乱れの形状がちょっと変化しただけのものであろう。

(7)刃に入り込む長く延びた映り=白気が濃くなる映り

(5)と(6)で述べた映りの形状は、共に先が刃の方に伸びる映りである。

刃の部分を海と比定すると、刃文は水際線に寄せる波となる。地の部分が陸の砂地となるが、映りは砂が水に濡れないで乾いている部分と言える。そして濃さが増した映りは海岸で少し小高くなった砂丘だ。

その映りで小高い砂丘がさらに刃(海)側に突き出て、刃(海)に入り込んでいるところがある。「乱れ映り」の先端の一部が、刃の方に入り込んでいるところである。映りが刃に接した部分は、刃が潤み、さらに映りが刃中に深く入ると、刃染みのようになる。それが差表の物打ち下部に出る。

「刃が染みる」と言うが、その一つの要因がこれだと思う。ちなみに、このような染みを「燃え染み」と言うのではなかろうか。『日本刀大百科事典』の「染み」の項目には「焼刃渡しのさいの火加減で出来たもので「燃え染み」と言い、地鉄が悪いわけではないから容赦してもよいとされている」に該当すると思う。「焼刃渡しのさいの火加減」というより「地鉄の感度が良く、映りが出過ぎて刃中に入り、染みる」という感じである。

上記(5)で、差裏の方にも、同様な映り(刃先に向かう)が存在するが、刃先に伸びる映りは幅が狭く、長さも短く、小ずんだ感じもすると書いたが、そういうことだから刃に入り込むほどの長さのものは少なく、差裏の方には刃の「燃え染み」箇所はない。

そして刃の方に延びている映りは、その分、力強く、少し白気が濃くなる感じである。すなわち、ここがオーロラ、緞帳の重なったように見えるところである。

(8)棒映り

これは研いで明瞭になったのだが、刃の上に、接しない程度に細い棒映り(刃に平行に直線上に出る映り)が出ている。研ぐ前は刃取りの結果かと思っていたが、映りであったのだ。

棒映りは次の応永備前の特色だが、兼光の前の景光にもあると記されている刀書もある。なるほどだ。上述した牡丹映りの説明写真の倫光の写真にも、同様な棒映りが出ている。この倫光の刃は焼きが低い互の目刃の部分であるが、公鑒兼光は刃が高いから、棒映りは、もう少し刃に接してる感じで現れている。

これは部分的に出ており、差表の3箇所ほどに断続的に出る。差裏には見られない。棒映りがある部分にも乱れ映りは鎬筋の方にあり、二重の映りになっている。

(9)切っ先の映り

この御刀は鋩子(切っ先部分の刃)の上にも乱れ映りが見える。差裏の方が暴れている。切っ先においては、焼刃(鋩子)が鮮明に出ればよく、この部分に映りなどは出す必要がないのだが、出てしまっているのだ。

切っ先にある映りのことに言及した刀剣書など無いと思うが、この見事な鋩子を拝見していると、このように感度の良い映りが出せる地鉄の鍛錬と焼き刃の火加減の延長で、兼光のロウソク鋩子と呼ばれる乱れ込んで、突き上げて先が匂いで煙るような鋩子が焼けるのかなとも思っている。
切っ先に出た乱れ映りが、鋩子の返り部分に入り込んで染みた結果がロウソク鋩子かとも思うが、そこまでは目で観た範囲では判別できない。

2.古書にある「段々の映り」か

「牡丹映り」の項で、『日本刀大百科事典』における「牡丹の花に似た格好の映り。大体円い形の映り。備前長船兼光の特徴。段々の映りとも」の解説を紹介し、同時に「段々の映り」(「備前兼光の映り。映りが一寸ほど間を置いて、飛び飛びにあるのをいう」)の解説も紹介した。

この「段々の映り」が、上述した公鑒兼光の各種映りの説明の中で触れた以下の説明に該当するものではなかろうかと思うようになった。(「段々の映り」は青江物に見る細い筋映りが2重、3重と重なる映りとは違う。「段々の映り」の説明にある「一寸(約3センチ)ほど間を置いて」の説明に、青江のこのような映りは合致しない)

研ぎが、この御刀に合わずに、映りがあまり出ない場合を考えていただきたい。この時は、濃度の濃い目の筋状の映りだけが、飛び飛びに見えるのではなかろうか。これが「段々の映り」ではなかろうか。

愛好家がよく利用して、私も重宝させていただいている『日本刀鑑定読本』(永山光幹著)には、牡丹映りを「断続してボッボッと現れるもの」と説明している。以前はただ牡丹映りを誤解していると思っていただけなのであるが、今は永山光幹氏は「兼光の段々の映り」のことを書かれているのかなと思うようになった。

おわりに


昭和58年(1983)に公鑒兼光に御縁がある。そして恥ずかしいことに「牡丹映り」を発見したのは、H氏に拭いをかけてもらった平成18年(2006)である。「それまで23年間、気がつかなかったのか」と馬鹿にされても仕方がないが、H氏だって「ここに牡丹映りが出ましたよ」とは言っていない。発見したのは所蔵者の私である。

そして、藤代興里氏に研いでいただき、改めて上記のように拝見して、今度は古書にある長船兼光の「段々の映り」とは、このようなことではないのかと思ったのが平成28年(2016)である。また10年の歳月が流れている。

この調子では、冗談ではなく、あと30年の寿命(眼の健康)が必要だ。名刀とは奥が深いものだ。そして先人は良く観ていると感心するし、その鑑識態度には頭が下がる。
それはそうだ。腰間にあって自分の命、家の存続も賭けていたのが御刀だ。御刀を尊敬して観ていたのだ。

ベテラン愛好家が鑑定会で当てっこゲームで観る時は「乱れ映り」の一言でいいのだ。刀剣女子が刀の前にたたずむのは観ているのではなく幻想を追いかけているのだ。共に御刀の鑑賞とは違うものだ。

人間でも「長所の裏に短所あり、短所の裏に長所あり」と言われるが、この御刀でも差表の物打ち下部は「染み」ているという面で観ると欠点だが、濃度の濃い映りが刃中に何本も入り込んでいる面白さと観れば長所である。
言わば「狂っている」ことを評価できるかどうかの審美眼によるのだ。今は染みているところのある差表の方が乱れ映りも暴れ、刃中の働きも多く、欠点の無い差裏ーこちらも水準を遙かに超える兼光なのだがーよりも面白いと感じる。色々と考えさせられる名刀だ。

ちなみに通常は欠点なのだが、名人にかかると、それが”狂い”になって見所になるのは、鐔工信家でもみられる。秋山久作氏は「鍛え割れ、切れ、フクレ破れのある信家には名品が多い」との言を残している。

今回は、公鑒兼光の映りに限定して書いたが、刃文でも再認識したことがあり、また稿を改めて書いてみたい。


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